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小さな巨人Ⅳ

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                     告子(こくし)篇    /    孟子    

                                   

            ※ 性善説と本性論 あるとき公都子が疑問を出した。「先生、
             告子は『人間の本性は善でも不善でもない』と主張していま
             す。ところが別の一派は、『人間の本性は善にも不善にもな
             りうるものだ。それはたとえば、文王、武王といった聖王の
             治下では、人民は善に同化したが、無道な幽王、肩王の治下
             では、人民も暴虐化したことからも明らかだ』と説き、さら
             に別の派は、『本性の善不言は、人によって生まれつき決定
             している。それはたとえば、聖王堯のもとに悪臣象が いたし、
             悪逆な鼓膄(こそう)が聖人舜を生んだ。また暴君紂の叔父
             や臣下に、賢者叔子啓や王子比干がいた。このことからも明
             らかだ』と諭じています。ところで先生は、『本性は善であ
             る』と断じておられます。とすれば、かれらの論はみな間違
             いなのでしょうか」
 
             孟子は笞えた。

             「人間は天与の情に順えばだれでも善を行なうことができる。
             これがわたしの性善説だ。あるいは悪を行なう者がいるかも
             しれんが、それは天与の資穴が劣っているということ.では
             ない。かわいそうだと思う心、悪を恥じる心、誼りあいの心、
             善悪を判断する心、これはどんな人間にも備わっている。そ
             して、かわいそうだと思う心は仁に、悪を恥じる心は義に、
             誼りあいの心は礼に、善悪を判断する心は皆につながる。

             この仁義礼皆は外から付与されたものではなく、本来的に我
             身に僅わっているものだ。だがこの固有の心も、これを探究
             しなければ無きにひとしい。それは、『つかまえていれば居
             るけれども、うっかりすると居なくなる』といわれるとおり
             だ。本米谷でありながら、はじめは二倍、五倍、そしてつい
             には無限の悪へと向かって行くものがあるが、それは天与の
             回遊をまっすぐに仲ばすことができなかったものである。

             詩経にも、『天は楽長を生みたもう 天の生みみ かの美し
             き徳を好む』とうたっている。これについて、孔子はこう批
             評している。『この詩の作者こそ、遊冶の本質をわきまえた
             人物だ』このように『、すべての事物に存在の法則があり、
             人員はこの法則にのっとっているのであるから、一定不変の
             法則を好ひものなのだ」

   
高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』   

    第3章 奇跡の終焉と「狂乱物価」の正体

   第3節 固定相場を維持するには膨大なドル買いが必要になる

  今、述べてきたように、固定相場制についての最大の誤解は、相場を決めれば自動的に相場が維持
 されると思っている人が多いことです。何度もいいますが、固定相場制とは、「為替介入をしない制
 度」ではなく、「常に為替介入をする制度」です。

  1ドル=360円という数字を決めただけでは相場は維持できません。実際には、相場を維持する
 ために猛烈な介入が必要になります。
  円安気味になりそうになったら、円を買い込んで1ドル=360円が保たれるようにします。円高
 に振れそうなときには、ドルを買いまくって1ドル=360円を維持します。介入をし続けることで
 維持されるのが固定相場制です。

  詳しい仕組みを説明しますと、相場を維持する責任を負っているのは大蔵省(当時)です,大蔵省
 は特別会計で外貨を買うために、為券(外国為替資金証券)という政府短期証券を発行します。為券
 を発行して資金を調達して、その資金で外債を買って、為替相場を維持します。
  為券は大蔵省の発行する国債ですが、市中に為券を出してお金を調達すると、国債増発と同じで金
 利が高くなってしまうことかあります。実体経済に影響が出てしまうといけないので、為券は日銀が
 すべて大蔵省から買い取っていました。

  固定為替相場維持のために、日銀は大蔵省に指示されるままに、円を発行し続けます。日銀からお
 金が出ていく形になりますので、その分だけインフレ気味になる現象が起こりました,
  日銀の独立性などまったくありません。大蔵省が「為替介入する」といったら、インフレになろう
 がどうなろうが、日銀は円を刷らなければいけなかったのです。「国際金融のトリレンマ」で説明し
 たように、固定相場を維持するために、独立した金融政策が犠牲になっていたということです。
 
  1985年のプラザ合意までは、実は、実質的な「固定相場制」だった 固定相場を続けている限
 り、独立した金融政策を打つことはできません。固定相場制から変動相場制に移行することで、初め
 て日銀は独立した金融政策をとることができるようになります。

  では、いつから変動相場制に移行したのでしょうか。

  社会の教科書では1973年2月から変動相場制に移行したとされています。しかし、国民には知
 らされていない裏があります。
  制度上は1973年に変動相場制になったのですが、実際には猛烈な為替介入が続いていました。
 「ダーティ・フロート」という裏の介入が続いていたのです。もちろん国民にはわかりにくい形にさ
 れていました。
 「ダーティ・フロート」を完全にやめて、変動相場制に移行したのが1985年の 『フラザ合意」
 です。Iドル=360円時代は、360円から上下への変動をまったく許さない為替介入をし、19
 73年2月からプラザ合意までは、上下への変動をある程度許す為替介入をしていました。プラザ合
 意以降は「クリーン・フロート」にして為替介入をやめました,
  日本が固定相場制から、為替介入しない変動相場制に移行したのは、「1973年2月」ではなく、
 「1985年9月」のプラザ合意です。ここを見誤ると、1973年から1985年までの日本経済
 を正しく理解できなくなります。

  為替介入をやめて変動相場制にすると、為替は計算上の均衡レートとほぼ一致した数値になります。
 岡引のグラフをもう一度見て下さい。グラフの2つの折れ線が急激に近づいていくのは、1985年
 以降です。それまでは両者には開きがあります。これは介入を続けていたことを意味しています。
 整理しますと、

  ≒フラザ合意まで → 固定相場制(1972~1985年は実質的固定相場)
  ≒フラザ合意以降 → 変動相場制

 となります。

 「国際金融のトリレンマ」に則していえば、1985年までは固定相場制だったため独立した金融政
 策をとることができず、1985年に変勤相場制になってようやく独立した金融政策をとれるように
 なりました。



  第4節 「マンデル・フレミング」を知れば、財政と金融のどちらが効果的かわかる

  マクロ経済学には「マンデル・フレミング効果」というものがあります。1999年にノーベル経
 済学賞を受賞したコロンビア大学のロバート・マンデル教授と経済学者のジョン・マーカス・フレミ
 ング氏による理論です,単純化していいますと、表1のようになります, マクロ経済政策には、た
 った2つの政策しかおりません。1つは税金をとって公共投資をする「財政政策」、もう1つは「金
 融政策」です。

 「金融」というと、日本では金融機関と混同されてしまうことかあるのですが、ここでいう金融は「
 マネタリー」のことです。
  英語では、金融政策の場合には「マネタリー(manetary」が使われ、金融機関の場合は「フアイナ
  ンシヤル(nnancial)」が使われます。日本語ではどちらも「金融」ですが、両者はまったく別の概念
  です。金融政策は「マネタリー」の意味だと考えて下さい。

  話を戻しますと、マンデル・フレミング効果は、「固定相場制のときには、財政政策が効いて、金
 融政策は効かない。変動相場制のときには、財政政策があまり効かなくて、金融政策が効く」という
 ものです。ただし、変動相場制でも、十分に金融緩和されていれば、財政政策も効きます。
  プラザ合意までは、実質的に固定相場制ですから、金融政策は効かず、財政政策が効く状態でした。
  そういう意味では、田中政権時代(1972年7月~1974年12月)の「日本列島改造諭」に
 よる公共投資は間違った政策ではありませんでした。固定相場制のときには、財政政策は効き目があ
 ります。

  ただ、為替相場の維持のために大量のマネーが市場に出回っており、インフレ気味になっていまし
 た。そこに財政政策の効き目が加わったため、効きすぎてしまった面があります,政策手段そのもの
 は間違っていなかったのですが、インフレ状態のところに火に油を注いでしまった形となり、結果的
 に急激な物価上昇を生み出しました。

  The Works of Robert

    第5節 石油ショックで急激なインフレが起こった」はウソ

  戦後経済を見るときに、日本人が一番誤解している点は、「石油ショックで急激なインフレが起こ
 った」というものです。これは事実とはまったく追っています。
  第一次石油ショックは、1973年10月に、中東アラブ諸国とイスラエルの間で第四次中東戦争が
 勃発したことから始まっています。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエル寄りの欧米
 や日本向けの輸出を制限して、さらにペルシア湾岸産油国が段階的に原油価格を4倍に引き土げまし
 た。この原油価格の高騰は世界経済に影響を与え、日本経済にも大きな打撃を与えました。

 

   石油ショックが起こると、洗剤やトイレットペーパーなどの買い占め騒ぎが各地で起きた(写真:朝日
 新聞社/時事通信フォト)。この第一次石油ショックをきっかけに激しいインフレが起こり、狂乱物価
 が生じたと考えている人がたくさんいます。
  しかし、インフレの真の原因は石油ショックではありませんでした。主たる要因はマネーの過剰流
 動性であり、第四次中東戦争勃発以前からインフレは始まっていました。

  マネーが過剰になった理由は、為替相場です。1973年2月に制度上は変動相場制に移行してお
 り、市場に為替相場を完全に委ねてしまうと、急激に円高に振れるリスクを抱えていました。
  圀1のグラフを見ていただくとわかるように、1973年ごろの均衡レートは140円程度です,
 308円の固定相場から一気に140円に近づいてしまったら、日本の輸出企業はバタバタと倒産し
 てしまいます。これを防ぐために、大蔵省は裏の「ダーティ・フロート」で猛烈な為替介入を行いま
 した。前述したように外債を買うために為券を発行して、日銀に引き取らせる手法で、市場に大量の
 マネーが供給されることになりました。


  マネタリーベースが大きく増えたためにインフレが生じたのです,
  総務省統計局の消費者物価指数(総合、前年同月比の推移)を見ると、1972年10月時点では、
 物価上昇率は5・7%でしたが、翌1973年1月に6・7%となり、変動相場制に移行した同年2
 月には、7・O%になっています。石油ショックが起こったのは10月ですが、それ以前にすでに
 物価は急激に上がり始めていたのです。

  マネーが増えていたところに、石油ショックが起こって追い打ちをかけたため、翌1974年には
 各月の物価上昇率がいずれも20%を超えるインフレ状態となりました。
  もし、石油ショックが主たる要因だとするならば、石油ショックが起こる以前に物価が急上昇して
 いた理由の説明がつきません。やはり、インフレを生んだのはマネーが過剰になっていたことが最大
 の要因なのです。

  事実上の固定相場制を続けようとしたことで、マネーをコントロールすることができなくなり、意
 図せぬインフレが起こったと考えるとわかりやすいでしょう。1973年以降の物価高騰は、石油シ
 ョックという外的要因によるものではなく、貨幣的な現象です。
  過剰流動性の素地がない状態なら、石油価格の高騰は物価にそれほど大きな影響を及ぼさなかった
 でしょう。
  マネーがあふれているところに石油ショックが「火に油を注いでしまった」というのが正しい認識
 です。


                                        この項つづく

      
     No.148 

【サーモタイル篇:最新光レクテナ技術Ⅱ】 

 ● 28.3THzにおけるAl2O3系MIM受動レクテナによる光整流 

【材料と方法】

1.シミュレーション

IR波を照射するイルミネーションアンテナは、金属/誘電体界面にプラズモン振動を発生させる。以前の研
究では、異なる幾何学的形状を持つアンテナを比較蝶ネクタイ型アンテナは、他のものと比較してより高
い電界増強性を生かし簡素な製作と統合を考慮し設計する。新しいスタックアップに関するシミュレーシ
ョン操作を繰り返しパラメータの最適化を行い最大電界強化を得た。

1.1 隙間のある蝶ネクタイ型アンテナ

有限のギャップ(50nm)をもつAuアームとTiアームからなるボウタイアンテナを図2(a)に示す。28.3テ
ラヘルツで最高の電界増強のためにアンテナジオメトリを最適化するために、この設計の最適値の決定に
アームの長さ、先端角、ギャップおよび金属の厚さの主要パラメータを調査する。電磁ソルバー(CST
Microwave Studio)での電場増強を図2(b)に図示。図2(b)から明らかなように、先端部では表面プラ
ズモン波の群速度と位相速度がゼロになるため、アンテナアームの鋭い先端とギャップに電界が増強され、
高度にローカライズされた領域につながる。

材料の電気的特性はより高い周波数で変化し、典型的にはDrudeモデルがシミュレータで使用するが、電子
-電子相互作用ならびに電子-イオン相互作用は無視する。したがって、実験的に得られたAuとTiの周波
数依存性の材料特性をCSTに挿入。蝶ネクタイアンテナは、アームの長さと弓の角度により定義、アンテ
ナの物理的長さは、動作波長に比例するので、図2(c)の図示示ように アームの長さの変化に伴って動
作周波数が大きく変化する。図2(d~e)から、曲がり角度と金属厚さはフィールドエンハンスメントに
大きな影響を及ぼさないが、60°の曲がり角度と80nmの金属厚さを選択。アンテナ先端の電界強度はアー
ム間の隙間が小さいほど大きくなる。図2(f)から明らかなように、より小さいギャップサイズについて
はより高い電界増強があり、ギャップサイズの増加と共に減少する。最適化された蝶ネクタイ型アンテナ
は、アームの長さが2.7μm、曲がり角度が60°、金属の厚さが80nmである。アームと上記の寸法との間に、
1nmのギャップがあると、蝶ネクタイ型アンテナ先端で8桁の電界増強が得られる。

1.2 オーバーラップアンテナシミュレーション 

図3(a)に図示すように、最後の設計ではアンテナアームの重なりによって蝶ネクタイ型アンテナ中央に
MIMダイオードが必要となるため、図3(a)に示すように、レクテナの重なり合った構成でシミュレーシ
ョンの実行も重要となる。この研究では、電磁気シミュレーションから得られた最適化されたアンテナ寸
法を使用、が、非常に薄い絶縁体層(Al 2 O 3)が2つの重なり合ったアンテナアーム先端の間に挟まれる。
その間の絶縁層として空気を用いた場合、アンテナアームが重なるとアンテナのピーク電界強度がより大
きな波長側にシフトする。図3(b)に示す重ね合わせアンテナピーク強度シフトは、低誘電率誘電体の導
入により補償される。計算されたアンテナ効率と抵抗値を図3(c)参照。シミュレーションでは、特定ス
タックで、約111%の放射効率と約55Ωのアンテナ抵抗(RA)を得た。


図3

                                         この項つづく 

    

❦ なぜ、かまぼこ屋がエネルギーのことを考えたのか ❦ No.4

    ● かまぼこ屋だからこそできること  

  前後しますが、ここで自己紹介をさせてください。私は江戸のころよりかまぽこ屋 を家業とする
 家の次男として、神奈川県の小田原で生を享けました。自分の仕事のことを真剣に考え始めた大学生
 のころ、思い出したのは、幼いころ、父から聞かされていた父の夢の話でした。父は鈴本家の4人姉
 妹の長女である私の母のところへ婿養子に来ました。いま思えば、もともとのかまけこ屋でなかった
 からなのかもしれませんが、身のまわりから世界の動きまで視野を広く持って、かまぼこの使命や現
 在ふ本来の見通しを客観的に考えることができた人でした。そんな父から、よくこう聞かされていま
 した。「悌介、かまぼこって面白いぞ。魚の味も形も全く変えてしまう。この知恵を使えば世界中で
 捨てられている魚を使って、その国の人の口にあう新しいかまぼこができる。その技術とは実は魚の
 タンパク質の加工技術なのです。ですから、かまぽことはアミノ酸の固まりで、とてもシンプル&ヘ
 ルシーな食品です。まさに日本の伝統食であると同時に、これからの世界の食生活にも貢献できる未
 来食でもあると自負しております。ですから、このかまぼこというユニークな食べ物をより多くの人
 びとに広めたいと思うようになりました。 

  大字卒業を前に、私は次男坊という気安さもあり、それに挑戦してみたいという思いが募ってきま
 した。日本には戻らないと自分なりの固い決心の下、24浚でアメリカに渡りました。結果的には10年
 間あちらで仕事をすることになりました、
  まずはメキシコ湾で、それまで使い道のなかった原料である魚の調査にとりかかりました。州でい
 うとアラバマやミシシッピを沿岸に持つメキシコ湾はエビ漁が盛んなところですが、底引き船でエビ
 と一緒に獲れる魚はアメリカでは人気がなく利用されていませんでした。実にもったいない話です。
 それをかまぼこの原料にできないかという調査からスタートしました。

  振り返ってみれば、実に難題であったわけですが、大学を卒業したばかりの私は理想に燃えて取り
 組みました。ロスアンジェルスの日系二世の方が経営するかまぼこ屋さんとアラバマのエビの加工屋
 さんをパー・‐トナーにして現地に小さなすり身工場をつくりました。ところが、途中でその焦が穫
 れなくなってしまったためプロジェクトそのものは頓挫してしまいました。 しかし、若さゆえでし
 ょうか、落ち込むこともなく、「だったら、アメリカ人にかまぽこを食べさせようI」という方向に
 舵を切り直し、アメリカ人向けに、かに風味のかまぼこの製造販売をすることになり、会社を立ち上
 げ、工場をロスアンジェルスに建て、その会社の経営に携わることになりました。

  実は渡米して8年目に父が59歳で病気で急逝するという予期せぬ事態が起こり、私は帰国する決心
 をしました。いろいろ考え悩んだ末、会社設立当初から熱心にアプローチしてきた大手上場の食品コ
 ングロマリットの会社に自分の会社を売却することにしました。そして、一緒にがんばってきてくれ
 た社員の行く末を見極めたいと思い、売却後も残って約1年間その会社で働きました。昨日までは会
 社のオーナー経営者、今日からは大企業の事業部長という経験も貴重なものでした。アメリカの株式
 会社がどういう理屈で勤いているのか、それをよく理解し体感できました。
  その間、ほんとうにさまざまなビジネス上の経験をさせてもらいましたが、同時にビジネス以外で
 も学んだことが多々ありました。

  それは自分が日本人であるという当たり前のことと、自分がほんとうに日本のこと、特に日本の伝
 統文化といわれる分野のことを知らないという事実でした。たとえば、茶道において、なんで茶碗を
 まわすのかと聞かれるわけです。恥ずかしいことにすぐに笞えられない白分かいました。日本にいれ
 ばだれも聞かないようなことを、長く外国にいると予想もしないところであれこれ質問攻めに遭いま
 す。日本にいるときは当たり前のように行なわれていて、わかっているつもりでいたことが、まった
 く通らないわけです。

  そんな反省に立って、改めて日本という国を外から眺めてみると、その歴史と文化の深さと幅広さ
 に気づきました。外国からの文化を受け入れ、しかし、鵜呑みにすることなく、それまでの文化と上
 手に調合しながら昇華させていく。そのことを積み重ねてできあがってきた何とも垂層的な歴史、そ
 して、加えてそれが全国単一ではなく、各地でさまざまなバリエーションをもって進化していく。そ
 んな縦横に厚みのある歴史と文化が見えてきました。

              この項つづく

  

 


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