第15章 大 人 物
昔の真にすぐれた人物は、微妙深遠で、副り知れない器量をそなえていた。だから説明のしよう
もないのだが、強いて形容するなら、こんな按配になる。
まず、万事に情宜である。あたかも冬のさなかに川を渡るがごとくである。
次に、消極的である。あたかも強国に囲まれて孤立した弱国のごとくである。
しかも、星座である。あたかも招かれた賓客のごとくである。
物事に執着せぬこと、氷の溶け行くさまにも似る。
飾り気のないことは、手を加えぬ原木さながらである。
無心なことは、広々とした谷そのものである。
そして、捉え所のないことは、濁った水を見る感がある。
これは実に底知れぬ深さを待つ人物である。濁りを濁りのままに受容して、濁りそのものの静止
を待ち、しだいに清く澄ませて行く。これをなしうる者が、いったいどこにあろう。休止を休止
のままに受容して、休止みずからの動きを待ち、しだいに生々発展へと導く。これをなしうる者
が、いったいどこにあろう。
このように、「道」を体得した人は、完全になろうと努めずに、おのずと完全になる。みすぼら
しさに甘んじて、立派になろうと努めないのは、そのためである。
〈真にすぐれた人物〉原文「善く士たる者」。「士」とは、君主を補佐する政治家、知識階級。
微妙玄通 理想の政治家像。自然の理法を体得した人間は、意欲的な明快さはどことして見当た
らず、一見デクノポウ然たる姿である。
【身体競技科学と肉体革命:最新機能的電気刺激技術】
紀元前,頭痛や痛風などの治療に用いられた電気刺激装置は,シビレエイなど自然界のものであ
った.17866年,Galvani の電気刺激による筋収縮の発見,1793年、Voltaによる電池の発
明などで,人工的な電気刺激装置が開発され,1831年には,Faradayによる誘導電流発生装置
の発明で麻痺筋の電気療法が行われるようになる.20世紀半ばに、真空管やトランジスタの発
明により、電流の強さや波形を自由に設定が可能となる。最近では,エレクトロニクス,コンピ
ュータ技術の進歩により,多チャンネルで複雑な刺激の出力(ポリリズムなど)が可能になると
共に,素子のチップ化で装置の小型化・軽量化が進み,体内に埋め込める刺激装置も開発され、
また電気刺激の周波数や波形、パルス幅などと痛みや筋収縮のの研究が進み,苦痛の少ない電気
刺激が可能となる。
リハビリテーション医療現場ても電気刺激の応用範囲は広く、❶ 治療的電気刺激(Therapeutic
Electrical Stimulation;TES),❷機能的電気刺激(Functional Electrical Stimulation;FES),❸筋力
増強(Electrical Muscle Stimulation;EMS),❹疼痛の抑制(Transcutaneous Electrical Nerve Stimulat-
ion;TENS)などに応用,対象疾患も,脳卒中や脊髄損傷,術後の安静時の筋力維持,除痛などが
あり,多岐にわたる.特にEMSは,最近,小型で操作性の良い電気刺激装置が開発され,医療分
野のみならず一般家庭においても,健康機器,あるいは在宅用リハビリテーション機器として急
速に普及.「電気刺激による筋力増強」をうたったEMSベルトは,2001年秋頃よりテレビシ
ョッピングや通販など各方面で宣伝され,人気商品になる。しかし、流行に伴い出現した類似商
品のなかには,熱傷や強い痛みなどの症状を生じさせるものもあり,国内あるいは中国産などの
発展途上国の医学的裏付けのない商品の危険性が指摘されている。
【関連特許事例】
特開2017-205488 筋肉電気刺激プロコルを確立するためのプロセス... JP 2017-205488 A 2017.11.24
【概要】電気刺激の使用は、医療およびスポーツの実践における身体調整の有用な治療源および
補助源として定着している。異なる刺激パラメータは、異なる病因による痛覚過敏、正常筋およ
び除神経筋の筋肥大、筋抵抗および筋力の増加、筋緩和および筋弛緩の制御など、異なる生物学
的効果を生む。身体活動の能力について、関与する筋肉組織は、運動の強度および持続時間に直
接比例するようなやり方で、徐々にその機能を失う。従って、筋肉のエネルギー貯蔵の枯渇、乳
酸の蓄積および収縮が起こる。7-10Hzの電気刺激の印加は、筋肉の毛細血管拡張を促進し、
潰瘍の血流を増加する。より低い周波数は、緩和効果を有し、エンドルフィンの放出を促進する。
特別食と関連する電気刺激は、エネルギー収入を増加して、筋肉のグリコーゲン保存の復位を加
速する。神経系によるアクティブな筋肉回復の概念は、高強度の運動能力の期間に続く軽い運動
から成る。電気刺激は、血流の増加および筋群の回復を示している。電気刺激はまた、持続した
血管拡張と筋収縮自体の両方によるグルコースの捕獲が増加することも証明されている。大まか
に言えば、電気刺激機器は、2つの大きなグループに分けられる:1つは、電気回路網で電力供
給される、ベンチ型機器であり、もう1つは、電池で電力供給される、携帯型機器である。ベン
チ型機器を使用する場合、ユーザが電気機器を使用できる場所まで移動する必要がある。反対に、
携帯型機器の場合、装置を治療の適用場所まで移動させることができ、従って、野外の刺激、例
えば、スポーツ練習場での刺激が可能になる。
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このように、室内ウォーキングもそこそこ起動に乗りつつ、筋肉強化を考え出したわけで、手軽
に室内でできるのであればと下調べm購買準備をすすめる。
● 読書日誌:カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』 No.13
第3章
「今日、村人が一人、息を切らして、肩に怪我をして帰ってきたんですって。なんとか落ち着か
せて事情を聞き出したところ、その人は兄さんと十二歳の甥と三人で釣りに行っていた人で、川
沿いのいつもの場所で釣りをしていたら、二匹の鬼が襲ってきたんですって。しかも普通の鬼じ
ゃなかったみたい。大きくて、動きが速くて、これまでに見たどんな鬼よりずる賢かったそうで
すよ。だから、村の人たちは、それはただの鬼じゃなくて、『悪鬼』だろうって言っています。
で、二匹の悪鬼はその場でこの人の兄さんを殺して、じたばたもがく甥の少年をさらっていった
そうですよ。怪我をしたご本人も川沿いの道を長いこと追いかけられたらしくて、うなり声がす
ぐ後ろまで迫ってきて、くさい息が首筋にかかるほどだったんですって。でも、まあ、危なくは
あったけど、なんとか逃げおおせてね……ほら、アクセル、あそこにいるあの人じやないかしら。
腕に添え本をして、遠国から来た男と話している人。で、自分は怪我をした身だけど甥のためな
らって、この村の選りすぐりの力自慢十二人を、襲われた場所まで案内して行ったんですって。
すると、土手の近くに焚き火の煙が見えたから、男たちが武器を携えてそっと忍び寄ってみると、
いきなり濯本の茂みが二つに分かれて……そう、その二匹の悪鬼が待ち伏せしていたんですって
。薬師が言うには、逃げようと思う間もなく三人が殺されたそうですよ。あとの男たちはなんと
か無傷で逃げ帰ったということだけど、いまベッドの中でうんうんうなって震えているらしいわ。
これから出撃するあの人たちに幸運を祈ることもできないほど、まいってしまっているみたい。
それにしても、これから暗くなるし、霧も濃くなっていくのに、昼日中に十二人の男でできなか
ったことを、あれだけの人数でできるのかしら......」
「その十二歳の子はまだ生きているんだろうか」
「わからない。でも、とにかく探しに川まで行くそうですよ。じつはね、最初の捜索隊がほうほ
うの体で逃げ戻ったあと、長老たちがいくら説得しても、二回目の捜索隊に志願する男は一人も
いなかったみたい。でも、運というものなのかしら。突然、遠くの国から見知らぬ男が来て、馬
が脚を痛めたので一晩の宿をお願いしたいと言ったんですって。さらわれた少年やその家族とは
赤の他人なのに、村の助けになるのならぜひ、って名乗りをあげてくれたそうよ。少年の叔父さ
ん二人が同行するらしいけど、でも、見て、アクセル。あの様子だと、戦士の助けになるより足
手まといになるんじやないかしら。二人とも怖くて震えあがっているじやありませんか」
「確かにな。それでも勇敢な二人ではあるよ、お姫様。みながこんなに怖気づいてるなかで行く
んだから。どうも、歓待してもらうには悪い夜を選んでしまったな。いまもどこかですすり泣き
が聞こえるし、夜が明けるまでにはもっと大量に聞こえるかもしれないぞ」
アクセルの言葉がなんとなくわかったようで、薬師がまたサクソン語で何か言い、ベアトリスが
通訳した。「すぐに長屋に行きなさいって。朝まで姿を見せないほうがいいって言っていますよ。
こんな夜だから、村の中をぶらついていたら、どんな扱いを受けるかわからないからって」
「わたしも同じ考えだよ、お姫様。この親切な方の言うとおりにしよう。ただ、お姫様は遠を
覚えているかな」
突然、群衆がどっと沸き立った。声はしだいに歓声に変わり、人だかりがぎくしやくと形を変え
て、やがて一本の行列になった。進む行列の中心に、戦士とその同行者がいる。声援が起こり、
名前の連呼が始まり、薬師ら、物陰にいた見物人もその連呼に加わった。行列はアクセルらのい
る方向に進んでくる。簿火の明かりからは遠ざかったが、数本の松明が行列とともに移動してい
て、歩く人々の顔をときどき浮かび上がらせる。恐怖にひきつった顔があり、興奮した顔がある。
だが、そのなかで戦士の顔だけは、いつ松明に照らされても静かな表情を保ち、周りから投げか
けられる激励の言葉に応えて、右にうなずき、左に笑いかけていた。手はまた剣の柄の上にある。
行列はアクセルとベアトリスの前を過ぎ、小屋の並びの間に消えていった。それからもしばらく、
くぐもった名前の連呼が響きつづけた。
アクセルとベアトリスはしばらく勣かずにいた。その場の雰囲気に呑まれていたのかもしれない。
やがてベアトリスが、長屋までの道順を薬師に尋ねはじめたが、アクセルには、二人の女の話し
合いがどこかとんでもない目的地に飛んでいっているように思えてしかたがなかった。二人は、
村の向こうにある丘の方角を身振りや手振りで指し示しながら話していた。
Old English
ようやく今晩泊まる場所に向かって歩きはじめたのは、村中がすっかり静まってからだ。暗闇の
なかで道を見つけるのは、ますます難しくなっていた。曲がり角に松明が置かれていることもあ
ったが、その光は二人の影を踊らせるばかりで、道探しをよけいに混乱させた。二人は、いま、
行列が去った方向とは逆に進んでいる。通り過ぎる家々は暗く、人のいる気配すらなかった。
「ゆっくりだ、お姫様」とアクセルがそっと言った。「この道でひどく転んでも、誰も助けにき
てくれそうにないからな」
「アクセル、また道に迷ったみたい。最後の曲がり角まで戻りましょう。今度は大丈夫だと思う
から」
やがて道はまっすぐになり、気がつくと、ニ人は丘の中腹から見たあの柵「-村を囲んでいる柵」
に沿って歩いていた。頭上高く柵が突き立ち、その尖った先端が夜空より一段と黒く見える。進
んでいくにつれ、どこか上のほうからつぶやきに似た声が聞こえてきた。どうやら、ここには自
分たち二人以外にも誰かがいる、とアクセルは思った。そういう目で探ると、衝の上のほうに一
定間隔で黒い影がとりついているのが見えた。あれはきっと見張りだ。衝の上から外を警戒して
いるのだろう。ベアトリスにも教えようとしたが、その暇もなく、背後から足音が近づいてきた。
二人は少し足を速めた。だが、もう松明が近くまで来ていて、さらに前方でも人影が揺れている。
たまたま反対方向から来る村人たちと出会ったのかもしれないとも思ったが、どうやらそうでは
ない。アクセルとベアトリスは完全に取り囲まれていた。年齢も体格もさまざまなサクソン人が
朧を持ち、鍬や鎌を持って、二人の周りにひしめいていた。
しかも人数はどんどん増えつづけている。いくつかの方向から同時に声がかかり、二人に向けて
松明が突き出された。顔に炎の熱を感じ、アクセルはベアトリスをかばいながら、どれがリ-ダ
ーだろうと目をこらしたが、それらしい人物は見当たらなかった。むしろどの顔もひきつってい
て、パニック状態を思わせた。ここで不用意な動きをしたら、ほんとうに危ない…… 一人、と
りわけ剣呑な目つきをし、震える手でナイフを振り上げている若者がいた。アクセルはベアトリ
スをその若者から遠ざけ、何か言葉をかけようとした。相手にわかるサクソン語がいいだろう。
必死で適切な言葉を探したが、何も思いつかず、しかたなく、興奮した馬を鎖めるときのかけ声
で相手をなだめようとした。
「やめて、アクセル。子守唄を歌ってあげても感謝はされませんよ」とベアトリスがささやいた。
そして、自分からサクソン語で男たちに話しかけたが、状況は少しもよくならない。あちこちで
怒鳴り合いが始まり、一匹の犬が紐を引きちぎらんばかりにして男たちの足元を抜け二人に吠え
かかった。
だが、突然、男たちの体から力みが抜けていくように見えた。高ぶった声も静まり、残るは、少
し離れたところから聞こえてくる怒りの声一つだけになった。その声がしだいに近づいてくる。
男たちが二つに分かれ、その間を通って、ずんぐりした一人の老人が現れた。体に歪みがある。
太い杖に頼りながら、光で照らされた場に進み出てきた。
かなりの高齢者だ。背中はさほど曲がっていないが、首と頭が肩から異常な角度で突き出してい
る。だが、その権威のほどは疑いようがなく、その場の全員がしゅんとした。犬さえも吠えるの
をやめて、影の中にこそこそと消えていった。老人は何を怒っているのだろう………村人が来客
を乱暴に扱ったことも理由の一つには違いない。だが、それがごく小さな一つにすぎないことは、
限られたサクソン語しか知らないアクセルにもわかる。老人の怒りは、男たちが見張りの役目を
改り出したことに向けられていた。松明の先に照らし出された顔はどれも恐れ入っていた。だが、
同時に混乱し、釈然としないふうでもあった。老人の怒りがさらに募り、声が一段と激しくなっ
たとき、男たちはようやく何かを思い出したようで、一人また一人と夜の聞の中に戻っていった。
最後の一人が去り、梯子をよじ登る足音が聞こえてきても、体の歪んだ老人は男たちの背中に向
かって叱責の言葉を投げつづけていた。
ようやく、老人がアクセルとベアトリスに向き直った。すぐに二人の言葉に切り替えて、しやべ
りはじめた。誼りはない。
「まったく、なぜ忘れられるのか。自分たちに勇気がなくてできないことを、戦士と仲間二人が
やってくれようと出ていったばかりだというのに。こうも簡単に忘れるのは恥ずかしいからか、
ただ怖いからなのか」
「とても怖いんですよ、アイバー」とベアトリスが言った。「蜘蛛が一匹落ちてきただけで、つ
かみ合いを始めるほどに怖いんでしょう。ありかたい一団を出迎えによこしてくださったこと」
「謝るよ、ベアトリスさん。あなたにもだ、ご主人。いつもはあんな歓迎のしかたをしないんだ
が、ご覧のとおり、今夜はみんな怖がっている。お二人は生憎な夜にお抱えになった」
「長屋へ向かう途中に迷ってしまって一とベアトリスが言った。「方向を教えてくださいな、ア
イバー。恩に着ます。あの出迎えのあとで、夫もわたしも早く屋内で休みたいですから」
「長屋ではちゃんと歓迎されることを約束したいところだがな、お二人さん。だが、今晩だけは
わが隣人たちがどんな振舞いをするか、わしにもわからん。だから、あんたとご主人はわしの家
に来てくださらんか。わしと同じ屋根の下に泊まってもらえれば安心できる。邪魔されずに休め
ることは保証するよ」
「ご親切、感謝します、長老」とアクセルが割って入った。「妻にもわたしにも休息が必要なの
で」
「では、ついてきなさい。わしのすぐ後につづき、着くまではなるべく声を静かにな」
二人はアイバーの後ろから暗闇の中を行き、一軒の家にたどり着いた。造りはほかの家と同様だ
が、大きくて、一戸だけ離れて立っている。低いアーチから中に入ると、木を燃やした煙が濃く
漂っていて、一瞬、胸が締めつけられるような感じがしたが、同時に心地よさと緩かさも感じら
れた。部屋の中央で火がくすぶっていて、その周りに絨風や勤物の毛皮が敷かれ、オークやトネ
リコで作った家具も並んでいる。アクセルは二人の荷物から毛布を引っ張り出しにかかり、ベア
トリスは感謝と安堵の表情で揺り椅子に腰をおろした。だが、アイバーは戸口のわきに立ったま
ま、何かをじっと考え込んでいた。
「さきほどのお二人への村人の態度は、思い出すだけで恥ずかしい。この身が震える」と言った。
「いや、もうお考えにならずに、長老」とアクセルが言った。「長老には、十分すぎるほど親切
にしていただきました。それに、今夜は、じつに勇敢な男たちが危険な任務に赴くところも拝見
できました。この村を覆う恐怖は、わたしたちにもよく理解できます。普段と違う行動をとる者
が出てきても不思議ではありません」
「外から来たあなた方でさえ今回の難儀を覚えているというのに、あのばかどもがもう忘れてい
るというのはなぜなのか。何かあっても持ち場を離れるな。村全体の安全がかかっているんだぞ。
そう噛んで含めるように言い聞かせておいたんだ。さらに、わが村の英雄たちが悪鬼どもに追わ
れて門まで逃げ帰ったときは、すぐに助けに出られるように、とも言っておいた。なのに、どう
だ。見かけない人間が二人、目の下を通り過ぎた。とたんに命令を忘れ、その理由も忘れて、狂
った簑のように二人に襲いかかる。そんな奇妙な物忘れがここではしょっちゅう起こる。これほ
ど頻繁でなかったら、わしの感覚のほうがおかしいのか疑うところだ」
「わたしたちの住んでいるところでも同じですよ、長老」とアクセルが言った。「わたしと妻も、
村人の間にそんな物忘れが起こるのを何度も見ています」
「ほう、それはおもしろいことを間いた、ご主人。わしはまた、その種の病はこのあたりだけの
ことかと思っておった。それに、こんな疑問もある。周りのみなが忘れても、わしだけが覚えて
いることがあるのはなぜだろうか。わしが老いているからか。それともサクソン人の中で暮らす
唯一のブリトン人だからか」
「わたしのところでも同じですよ、長老。わたしたちはこの奇妙な物忘れを一霧』と呼んでいま
す。わたしたちニ人も霧の影響を免れませんが、それでも若い者たちよりはずいぶんましなよう
です、その理由は何だとお思いですか、長老」
「いろんな説明を耳にしたが、ほとんどはサクソンの迷信だ。だが、この前の冬に一人の旅人が
通りかかって、その問題について一つの説を披露していった。あれ以来、その説についてよく考
える。考えれば考えるほど、正しいようにも思えてくる。おや、これはどうしたことだ……」杖
を手に、戸口に立ったままだったアイバーが、体の歪みにもかかわらず敏捷な動きで振り返った。
「話の途中だが、お許し願いたい、お二人さん。勇敢な三人がもう戻ってきたのかもしれない。
お二人は当面ここにいて、顔を出さないほうがよかろう」
アイバーが出ていった。アクセルとベアトリスはしばらく黙ったまま、それぞれの椅子の中で目
を閉じ、休める幸運に感謝した。やがてベアトリスがそっと言った。
「アイバーは何を言おうとしたのだと思います、あなた」
「何のことかな、お姫様」
「霧とその発生原因のことを話していたでしょう?」
「聞いたという噂話の一つだ。もちろん、もっと詳しく話してもらおう。なかなか敬服すべき老
人だ。ずっとサクソン人の間で暮らしてきたのかい?」
「奥さんがサクソン人だったんですって。ずっと昔のことで、その奥さんがどうなったかは間い
ていませんけど。ね、アクセル、霧の原因がわかったらすばらしいと思わない?」
「もちろんだよ。ただ、わかってどうなる、とも思う」
「なぜそんな言い方をするの、アクセル。よくそんな心ないことが言えますね」
「どうした、お姫様」アクセルは椅子に起き直り、妻を見やった。「わたしはただ、霧の原因が
わかっても、霧が消えてくれるわけではないと言っただけだよ。この村でも、わたしたちの村で
もな」
「霧を解明できるかもしれないのよ、アクセル。大きな変化が起こるかもしれないのに、そんな
大切なことをつまらないことみたいに……」
「ごめんよ、お姫様。そんなつもりじゃなかった。ただ、ほかのことで頭がいっぱいで……」
カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』
この項つづく
【社会政策トレッキング:バラマキは正しい経済政策である Ⅵ】
第1章 所得配分と貧困の現実――生活の安心は企業でなく国家がまもるべし
国家が国民の生活を守る以前の時代
昔の日本は平等だったのか
日本人は、日本社会は近年になって格差が拡大したと感じていたが、それでもOECDのなかで
はぞ等なほうの国だと信じていた。ところが、前述のOECDのレポートは、日本は国際的に見
て格差が大きい国だと指摘したので、大きな反響を呼んだわけである。
このレポートは相対的貧困率という指標で格差を日九たわけだが、ジニ係数で昆た格差について
は1970年からのデータがある。ジニ係数とは、所得格差.の度合いを示す係数で、所得が完
全に平等に分配されていればゼロ、完全に一人の人に分配されていれば一となる係数である。ジ
ニ係数では、相対的貧困率とは異なって、豊かな人が多くても、貧しい人が多くても格差は大き
くなる。
データを整理すると、下表I‐2のようになる。まず晨近年のジニ係数を見ると日本は22か国
中7番目(平等なほうからは16番目)に格差の大きい国となる.格差の大きい国は、もっとも
不平等なアメリカを筆頭に、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、ニュージーランド、イギリス、
日本の順となる。
ここで、日本の格差が拡大したのは、厚生労働省「国民生活基礎調査」を用いたからだという指
摘もある。この調査は、福祉事務所を通じて行われるので、所得の低いサンプルがより集まりや
すい。そのことが、不平等度を拡大するのだというのである。
データの出所である論文(MichaeI F6rster and MarcoMira d'Ercole/‘lncome Distribution and Poverty in
OECD Ciuntries in the Second Half of the 1990s,” OECD) Social, Employment and Migration Working
PaPer 22, March 2005)によると、他の国は通常の家計調査を用いているので、日本も総務省「家
計調査」または同「全国消費実態調査」を用いるべきだと思われる。
実際、「国民生活基礎調査」は2005年に初めて国際比較に使用され、その前には「全国消費
実態調査」が使われていた。2000年代(2000~09年)の中ごろでは、全国消費実態調
査を用いるとジニ係数は0・314ではなくて0・273となり、22か国中平等なほうから数
えて、16位ではなくて11位になる。
その前の時代を見ると、日本のジニ係数は、1970年代央0・276で8か国中5位(平等な
ほうから数えて)、80年代央は0・278で19か国中11位、90年代央は0295で19
か国中の11位となる。すなわち、過去に遡って見ても、日本は先進国のなかで格差の小さい国
とはならず、平均的な格差のある国にしかならない。日本は先進国のなかで格差の小さい国であ
ったことはなく、昔から、先進国のなかでは中位の格差の国だったのである。
戦前の格差はどうだったのか
さらに過去に遡ると何か言えるだろうか。戦前の格差がどのような状況であったのかを調べこと
は容易ではないが、南亮進『日本の経済発展と所得分布』(岩波書店、1996年)、ジェフリ
ー・G・ウィリアムソン『不平等、貧困と歴史』(安場保吉・水原正亨訳、ミネルヅァ書房、2
003年)によると、図1‐4のようになっている。これによれば、日本のジニ係数は0・5前
後とイギリスなみであり、しかも格差が継続的に拡大していたことがわかる。階級社会ではない
アメリカの格差が、イギリスよりも大きかったこともわかる。南北戦争1861~65年)直後
の1870年であれば解放されたばかりの奴隷が貧しく、それゆえ格差が大きいと解釈できるが、
自由人成年男子だけで比べても格差が大きかったのである。アメリカを除くと、戦前の先進国の
ジニ係数は0・5前後で、それが戦後低下し、現在、格差が拡大して、戦前期の状況に戻ってい
るということかもしれない。
このメッセージは、トマ・ピケティ『21世紀の資本』(山形浩生・守岡桜・森本正史訳、みすず
書房、2014年)と同じである。ピケティは、上位一%富裕層の全所得に占める比率の上昇で
格差の拡大を示している。アメリカ、イギリス、カナダの格差は戦前に戻るような勢いとなって
いるが、欧州大陸のフランス、ドイツ、スウェーデンでは、その程度はずっと小さい(ピケティ
前掲書、図9‐2、図9‐3)。
日本は格差の小さい国だ(あるいは、国だった)という日本人の思い込みは、戦前の格差の大き
い社会から格差の少ない国に変化したこと、アメリカという格差の大きな国との接触が多いこと
から生まれた神話なのかもしれない。
原田 泰著 『ベーシック・インカム 国家は貧困問題を解決できるか』
この項つづく