● 戦後70年 「人命は鴻毛より軽し」を問う
■イスラム過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」は15日、リビアの海岸でキリ
スト教の一派であるコプト教徒のエジプト人約20人の首をはねて殺害したとするビデオを公開。
ISISの宣伝部門「アルハヤト・メディア」が約5分間のビデオを流し、オレンジ色の服を着
て後ろ手に縛られた犠牲者ひとりひとりの背後に、黒装束の過激派メンバーらが立っている。ビ
デオには英語を話す覆面の人物が登場し、米軍が殺害した国際テロ組織アルカイダの指導者オサ
マ・ビンラディン容疑者の名を挙げて「お前たちがビンラディン師の遺体を隠した海に、お前た
ちの血を混ぜることを神に誓う」と宣言。合図とともに犠牲者全員が倒され、首を切られる場面
を収録(「コプト教徒を『集団処刑』ISISが動画公開」CNN,2015.02.16)。■これに対し、
エジプト軍は16日、リビアにあるイスラム過激派組織「イスラム国」の拠点を空爆。ISの分
派組織「ISトリポリ州」がエジプト人のキリスト教徒21人を殺害したのに対する報復措置。
ISによる大量虐殺は、シリアやイラクに続いて、リビアでもISの脅威が拡大していることを
実証した格好で、周辺国からはリビアへの国際的な介入を求める声が強まっているという(「エ
ジプト:リビアのISに報復空爆」毎日新聞, 2015.02.16)。■これに対し、リビア東部クバで
20日、ガソリンスタンドなどを狙った爆発があり、AP通信によると、少なくとも45人が死
亡した。東部を統治する「トブルク政府」側のサレハ暫定議会議長の自宅前でも爆発があった。
クバの東約35キロのデルナでは16日、エジプト軍と「トブルク政府」が共同で、イスラム過
激派組織「イスラム国」(IS)の分派への空爆を実施しており、ロイター通信によると、IS
の分派組織が「デルナの流血に報復するため、数十人を死傷させた」との犯行声明を出したとい
う(<リビア>爆発、45人死亡…IS分派が犯行声明」毎日新聞 2015.02.20)。■そうか思え
ば。過激派組織「イスラム国」が、トルコ国内にある欧米諸国などの在外公館をテロ攻撃する可
能性があるとの報道が、トルコの主要紙で相次いでいる。「イスラム国」には、米軍主導の空爆
の参加国に報復する意図があるとみられているという(「イスラム国」トルコでテロ計画か主要
紙が相次ぎ報道」朝日新聞デジタル 2015.02.21)。■それでは終わらないようで、中国で新疆ウ
イグル自治区のイスラム教徒ウイグル族による不法出国が相次いでいる。多くは東南アジアに向
かい、一部は歴史的につながりの深いトルコに逃れているという。中国当局はウイグル独立派組
織がシリアなどの過激派組織への参加を扇動していると主張するが、宗教的な抑圧から逃れよう
と脱出を図った人も多いとみられているという(「脱出相次ぐウイグル族 強まるイスラム教抑
圧」毎日新聞 2015.02.22)。
「パンドラの箱」をあけてしまって、千年戦争だけが残った感がするとは、このブログで掲載し
たことではあるが、コブト教徒惨殺のニュースに接し「人命は鴻毛より軽し」という言葉が浮か
んだ。このフレーズの原文は、人の死というものは,泰山より重い時もあれば,鴻毛よりも軽い
時もあって,その趣(趨)は様々であるというような意味。これが軍人や任侠の世界では「義は
泰山より重く,命は鴻毛より軽い」とされ、後に、毛沢東もその語録で,この言葉を引用する。
人固有一死。或重於太山、或軽於鴻毛。用之所趨異也。
司馬遷『報任少卿書』
日本では、明治年間の1882年に作られた軍人勅諭の一節にあり、「只々一途に己か本分の忠節を
守り,義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ。其操を破りて不覚を取り汚名を受く
るなかれ。」とある。イスラムでは「ジハード(聖戦)訓」と言うことになるのだろうか、しか
し、個人的には、寧ろ「厭戦感」として使っているのだ。ベトナム戦争、イイ戦争、湾岸戦争、
アフガニスタン戦争となにひとつ成果を挙げることができなかった?歴代の米国の巨砲外交戦後
史の「徒花」の句でもあろうか。個人的には、いい加減に国際的な国家の軍事部門の「戦略思考」
(=軍事的ゼロサム思考)を終焉させ、日本の戦争責任問題にけじめをつけなければと考える。
つまりは、それ程までの核エネルギーに象徴される様な巨大な生産力をもつに至った人類の欲望
の「制御」の確立と国際的な合意形成の必要性への問い直しが、"人命は鴻毛より軽し"だったと。
● 琉球布紀行
● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅴ
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 農業問題
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第8章 超資本主義論
2 世界認識の臨界へ
高次化する資本主義
〈エコロジー〉を問う
――すこし話題を変えます。70年代から80年代にかけて、都市化という問題、日本全国
が都市になっていくような拡張現象があったとおもうんです。それにたいして一種の反動と
いうか、自然を守れという地球環境保護のような主張が起こったとおもうんです。
80年代は市民運動レベルからファッションとしてのエコロジーまでそうした主張が多様
に出てきたとおもうんです。この問題についてはどうお考えですか。
吉本 農村が都市化し、都市が高度化していく、つまり高度情報化していく、その流れには、
自然史の延長としての文明史の必然だという部分があります。この部分は制度や権力で止め
ようとおもって法律をこしらえても、いくらか遅くなるか促進されるか反動が起こったり、
という程度のものだとおもいます。
そうすると、都市は高度化し、文明はもっと高度化しということは、基本的なところでは
不可避だとおもいます。何かできるのかといえば人工都市はできるんです。人工都市の中で
自然と産業、つまり先ほどいいましたことから出てくる第一次産業、第二次産業、第三次産
業、あるいは第四次産業、その産業の割合と、天然自然の割合とが理想的であるような人工
都市をつくるという考え方です。だから都市のなかに農村をつくったり、公園をつくったり、
森林をつくったり河川をつくったりという、それ以外の方法はありえないでしょう。
たぶん高度化した都市から順々に人工都市をつくらざるをえなくなっていくだろうとおも
います。つまり、一般的にエコロジストなどが都市は高度になって廃墟化していくといって
いる。その廃墟化といっているものこそは、人工都市をつくるべきいちばんのポイントなん
です。それから、もうひとつつくれるところがあるんです。それは、ぼくがよくいっている
アフリカ的段階です。つまり草原・森林というのが依然として健在で、田畑、つまり開墾し
たりしてないところがあるんです。開墾したらそれはアジア型の社会になってしまうんです
が、開墾されてない多くの森林や草原があるということは、自然と産業と理想の割り振りで
人工都市をつくれる可能性があるということです。じっさいにその実力や権力がある人たち
がつくるかどうかはまったく別の問題です。たぶんつくらないとおもいます。放っておけば
アジア的な社会になっていくとおもいます。だけど、やる気と見識があればほんとうはつく
れるんです。
つくれるところはふたつです。アフリカ的段階と、それからとても高度になった資本主義
社会の段階とです。それがぼくの根本的な考え方です。
それではなぜエコロジーの思想、環境保護の思想というのが世界的な規模で、しかも保守
的であると進歩的であるとを問わず出てきたか。要するに危機感があるからです。つまり産
業の高次化ということが未知の体験で、まだ適応するほど慣れていないからです。意識が遅
れているからつまり慣れていないです。そうすると、どうしても、農村があって、製造工業
を主体とする都市があってという、ほんとうはエコロジスト、自然保護、環境保護を主張す
る人たちの産業のイメージあるいは社会のイメージはそれになってしまうんです。現在はも
うそうじゃないんだ、世界の先進的な地域では第三次産業が主体になっているんだというイ
メージがないんです。だから、農村や製造業が少なくなって流通業やサービス業が多くなっ
ていくという、これがものすごく手がかりや枠組が不明で危機感を誘発するわけです。これ
が終末感がまんえんする所以です。エコロジーの思想が世界じゅうでまんえんし、進歩的な
やつも保守的なやつもエコロジーの思想を宗数的なまで至上のところにおしあげている根本
理由だとおもってます。
それでは、どうしてそんなことになってしまうのかということですが、それは、つくりだ
すものが目に見える物ではない産業、つまり三次産業以上にたいして、どう適応していいか
わからないことがひとつ、もうひとつは、人間というものの可変性といいますか、可塑性と
いいましょうか、それを全然考えに入れてないからです。つまり人間の意識は高次化する社
会に遅れたり進んだりはするけれども、適応し、働きかけるものです。いつでも人間という
のは環境に受け身でないんですね。文明、文化がそれを証明しているように、ここに欠陥が
あるとなれば、それにたいして修正しようともしますし、適応しようともします。人間の身
体もまた適応しようとします。
だから、人間というのは産業のそれぞれの段階で、それぞれ適応しながら自分の意識も発
達させていくわけです。そのことが人類がいままで滅びないでやってきた理由です。
エコロジストや環境保護を主張する人たちは、いや、そうはいってももうこれ以上産業が
高次になるとなどといいますが、それは嘘なんです。そうだとしたら、かつて縄文時代みた
いに狩猟や自然採取の社会から、農耕みたいに自然を耕して収穫してというふうになるとき
だってやはり大変革ですから、それにたいして適応できない縄文人ももちろんいたわけです
が、そういう大変革のところでたいてい滅んでしまっているわけでしょう。そういうのを歴
史の折り目にくぐり抜けてきているということは何かといったら、それに対して適応してい
く能力があるからです。そのことを勘定に入れないで、エコロジストがいうように、今度だ
け適応できないなどということを考える根拠はまったくないとおもいます。
ぼくは、そういう外在的なことでは人類という種は滅びないとおもっています。それは生
物学者はよく知っているけれども、人間という種が滅びるときは内在的に滅びるんです。種
というのは永久的じゃないですから、どんな動物の種も、どんな植物の種も、それ自体の内
在的な理由で永久ではないんです。そういう滅び方しかしないとぼくはおもっています。地
球環境がだめだったらどこかへ行きますし、そんなことは別にどうということはないので、
そういう滅び方はしない。人類はそういう滅び方はなんとかかんとか切り抜けてきているわ
けです。それはぜんぜん嘘だ、虚偽の主張だとおもっています。
保守的であろうと進歩的であろうと、環境保護みたいなことをいうと、水戸黄門の印龍み
たいなオールマイティで、これで済んでしまう。とんでもない話だとおもうんです。
環境保護の問題に対しては、イデオロギー、緑の思想とかエコロジーの思想とかを入れな
いことです。これは純技術的な問題として、国際的に技術的な専門家の機関を設けて個々の
地域にいる関心の深い人たちはモニターの役割をすればいいとおもいます。
イデオロギストが科学技術的に解決する技術的方策をもたないで運動体として指導する形
はいちばんだめなことだとおもいます。公害やウイルスは人やイデオロギーを区別するわけ
じゃないですから。そんなものは引っ込んじゃったほうがいい。これは科学技術的な問題で
す。
よほど反動的な政府ができて、もうこれ以上都市を膨張させたら、法律上死刑に処すると
いう制度をつくったら、文明は少しは遅くなりますが、もともと文明の中核には自然史の延
長たというところがありますから、文明をとめることはできません。
世界資本主義と〈国家〉
――国家による支配が問題になっているのが現在のソ連・東欧圏の問題なわけですが198
0年代はまた歴史の中で、国家と大衆の本質的な問題を露出させた十年だったとおもいます。
1980年代の初めにポ土フンドで反体制運動が起こって、その流れは最終的に1989年
の一連のソ連東欧圏の民主化運動につながっていったわけですが、そうした社会主義圏の国
家の問題についてはどうお考えになっているのでしょうか。その問題は先はどの歴史の自然
過程、人類の無意識ということに関わってくるとおもいますが。
吉本 人類が無意識のうちに最上とおもいながら選択していったら、現状はこうなったとい
う意味では、歴史の無意識の最先端はEC(欧州共同体)だとおもいます。欧州共同体がど
こまで国家を超えて、どこの部分では国家に固執していくかということをみるのがいちばん
の目安です。それから人類の意識的な問題、つまり国家について意識的な問題というのはど
うなるかということがあるわけですが、その前に、先ほどいいましたように、人類の歴史を
意識化しようとするやり方は現在のボーランドの「連帯」の動きを最先端として、現在のソ
ビエト、東欧諸国、中国いわゆる社会主義国家圈の問題として現われています。つまり人類
の歴史を意識化しようとしてなお固家を存続しておいた、その矛盾がいま露呈してきている
のだとおもいます。
ポーランドの「連帯」はずっと共産党の国家権力と対決してきたのが以前の状態です。現
在の状態は大きく変わって、「連帯」系の知識人が半分国家権力の中に入っていったという
ことです。
これが他の東欧圏に比べていちばん進んだ形です。
そうすると、ここで何か問題なのかといえばそれは大衆の問題です。以前の「連帯」とい
う労働運動の組織(これは大衆の祖織的な主体ですが)と国家権力との対決の状態のなかで
何か問題だったかというと、大衆の組織である「連帯」の労働運動の水準で自分たちがデモ
をして政府を倒して、国家を掌握するんだと考えていくらやっても、原理的にそれではだめ
なんだ、という理解の仕方をもっていました。これは『超西欧的まで』のなかに「ポーラン
ドヘの寄与」という題でいったところです。
それはなぜかといったら、「連帯」はもともと労働組合の連合で、労働組合組織として自
立性自主性をもたせよという要求をもとに結集した組織です。労働組合の外部の社会にたい
してどんな位置づけをもつか、また国家の機構にたいしてどんな関連をもつか、一般大衆と
「連帯」とのあいだにどんな関連をつけるか、などという問題に対して、「連帯」は何も考
えていなかったし位置づけもなくて、ただ共産党国家権力から相対的に自立した労働組合で
あることだけを要求してきたのです。これでは「連帯」が国家を担当するという課題はどこ
からもでてくるはずがない。
「連帯」が国家に到達するには、中間にいくつか段階が考えられなければならないはずだと
いうのがぽくの理解の仕方でした。
だから、「連帯」がいかに情況がよくなって強くなっても、その組織原理が労働者の内側
からの自主的な組織というところにあるだけなら、国家としかに対抗したり、国家を掌握し
たりはできません。「連帯」が一般市民社会に出たとき、どんな振る舞い方ができるかとい
うシステムの構えがあらかじめあれば、国家にじかに近づくことができるし、影響を与えら
れるけれど、そういうものがなければ、じかに国家にかわったりできないわけです。「連帯」
はいまは、情勢が進展して、国家権力の中に半数は入っているわけです。これがうまくやっ
ていくには、経済政策とかいろいろいわれていますが、そんなことはどこの内閣だって、ど
この政府だってやる課題で、どうということもないでしょう。それよりも原理的に、「連帯」
という組織と国家との中間に、国家にじかに働きかけたり、あるいは国家がじかに働きかけ
たりできるシステムや、システム的な思考が理論的につくれてなくてはならないはずです。
資本主義国の一般の政府と同じにしか振る舞えなければ、ポシャるだけのことのようにお
もいます。それが考えられてなければ、歴史を意識的に変えようとする大衆の政府の先端的
な問題を解いたことにならないでしょう。中間のそういうシステムがどうつくれるかという
課題がポーランドの問題、つまり歴史を意識的に変えようとする考え方のいちばん先端的な
問題だとおもいます。
ところで今度はあとのほうの社会主義圈の問題、これはふたつみればいい。ひとつはロシ
アつまりソビエトをみればいい。もうひとつは東欧諸国をみればいいとおもいます。
ソビエトの問題は何かといったら、ソビエト社会主義共和国連邦政府、つまりソピエトの
中央政府、ゴルバチョフ政府と、各共和国の権力の不均衡ということがひとつの大きな問題
です。つまり、いまの連邦政府がもっている権力は大量に共和国に委譲するとおもいます。
委譲しなければ収まらない、それの問題だとおもいます。連邦政府が自分のもっている連邦
国家権力を各共和国の国家権力にどれだけ委譲できるか、あるいはバルト三国のような完全
に権力を委譲せよという要求に、どこまで応じられるか、どこで弾圧するかという問題です。
バルト三国みたいなのは独立までいってしまうかもしれませんし、それ以前で、大部分の
権力は共和国に委譲され、少数の権力だけを連邦政府がもって、ここで均衡と妥協が成り立
つかもしれません。ソ連の場合にはこれをよくみていればいいとおもいます。
それから、もうひとつは土地所有の問題、あるいは農業の私有地の問題です。現在、土地
所有はソビエトでは許されていない。わずかに私有地が許されているのは全土地の3%ぐら
いです。
3%の耕作地は私有地として許されて、そこで収穫した穀物や野菜は、自分で売って収入
を得ていいことになっていますが、あとはコルホーズやソフホーズで、要するに国家の給料
をもらっている官吏と同じようになっています。
そこで問題なのは、土地の私有が3%しか許されていない。ところがジャガイモにいたっ
てはソ連の全農産物の60%は3%の私有地でつくっている。大体ならして20%から60
%の農産物はたった3%の私有地でつくられています。こんなバカな土地制度が許されてい
いはずはないので、これはいまゴルバチョフ政府が土地保有法改定の法案を出しています。
永代貸与を認める――つまり実質上は私有地ですがIIという改正案を出していますが、そ
れは当然なんです。ロシアはあんな広い土地があって、それで他から農産物を買っているわ
けですから、まったくだめな土地制度でやはりそこの問題なんです。農地および土地所有法
ですが、これをどこまで許すことで妥協するか。全部100%許すというのなら、それは資
本主義ですね。そこまでいくかもしれませんし、その前で、20%許すとか50%許すとか
いうところで止まるかもしれません。ソビエトの場合はそれをよくみていればいいとおもい
ます。
あとは、東欧諸国は大なり小なり共産党一党支配が止んで、民主社会主義といいましょう
か独裁じゃなくて民主的な、つまり複数政党を許す社会主義のどのへんまでで止まるか。そ
れともそれはだめだというところで資本主義と同じ、つまり先進資本主義はたぶんいま国家
管理は大体30%から40%だとおもうんです。アメリカなどは40%ぐらいは国家管理だ
とおもいます。
だからそこらへんまでいってしまうか、それとも50%以上60%までの国家管理で、あ
とは複数政党の権利を認めてというところで止まるか、それをみていればいいとおもいます。
これが国家の問題の現状です。国家を意識的に変えようという制度が、いちように失敗し
てきた現状です。それなら、どこが意識的に国家を変えるポイントは何なのかといえば、3
つあるとおもうんです。
ひとつ、簡単なことなんですが、複数政党制を認めるか認めないかでやっているけれども、
そんなことはどうでもいい。ということは、複数政党制というのはどこまで資本主義原理を
導入するかということとイコールです。つまり、資本主義というのは、国家の政府は少なく
ともシステム上は100%、民衆が選挙をして選んだ奴がまた選んで、また選んで、そして
多数派の政党が政権をとる、となっているわけだから、複数政党制をとっているということ
は資本主義をそれだけの部分とっているというだけのことで、言い換えにすぎないです。そ
こで歴史の新しさが出てくるわけでも何でもない。それは資本主義に部分的に戻ったという
意味しかないので、社会民主主義と呼ぼうが呼ぶまいが資本主義はそういうものでしかない
ので、意識的に国家の歴史を変えるという考え方が国家に対してどのようにあれすればいい
かとまったくかかわりありません。しかしこの課題は未知ですが、原則はいくつかに還元さ
れます。
ひとつは、国家が軍隊を持たないことです。軍隊をもっても、社会管理とか市民が管理す
る軍隊しかもたないということ、それがポイントです。つまり国軍をもたない。中央の国家
政府が「おい、戦争しよう」といったら軍隊が動いてしまうような、そういう軍隊をもたな
い。市民や一般大衆が管理している、つまり一般大衆の賛成が得られなかったら軍隊を動か
せない。そういう軍隊にすること、つまり国軍を持たないということというのがひとつの大
きな条件です。
それからもうひとつは、経済の問題です。いまの社会主義国は100%生産手段を国有化
してきました。ところで国有化すること、あるいは社会所有にすることが、つまり公有化す
ることが、一般大衆の利益になる限りでだけ公有化を行ない、個々の一般大衆の利益になら
ないものは全部私有化するということです。そうしたほうが一般大衆にとって利益なんだと
いう生産手段だけを国有化すること、それが原則です。
それからもうひとつ第三の原則は、これも簡単なことですが、一般大衆の直接無記名投票
で国家がリコールできるということです。
この3点ができたら歴史を意識的に変えようとする理念は原理的に成り立つことになりま
す。
逆にいえばこの3つが実際にできていないかぎり、社会主義でも何でもないわけです。と
いうことは昨年来の中国、東欧、ソ連の激動をみて、社会主義は終わったという見解も、現
在までの体制をソフトにしただけで人間の顔をした社会民主主義に変えるんだなどという見
解も馬鹿げているということです。ソ連や東欧の体制は社会主義であったこともないし、ゴ
ルバチョフ体制が社会主義になったわけでもありません。
いま申しましたようにこの3つの原則ができてなかったら、主観的にある政党がいくら社
会主義だと名乗ろうとべつに社会主義ではありません。このことははっきりしていることだ
し、またはっきりさせておくことが大切です。よくみててごらんなさい。その3つがポーラ
ンドでまっ先にできたら、それが社会主義です。歴史を意識化できるかどうかのポイントは
ここですから、よくみていればすぐに誰にでもわかります。これだけですね。これでいいと
ぼくはおもっています。
現在当面しているソ連、東欧、東独問題は何なんだ、国家がどうなれば歴史は意識的に変
えられたと結論できるのか、そして意識的に歴史を変えようとする理念がだめなら、歴史は
無意識のうちに変わる以外にないとかいうことを判断したことになります。欧州共同体をよ
くみててごらんなさい。これのやり方のよさと悪さは、逆に歴史の無意識の問題になります。
中国はそういう原則に照らして、いまの状態だったらたぶん十年とか二十年とか民衆の解
放は遅れるとおもいます。
――資本主義圈でいえば、国家管理がたとえば40%だということはあるかもしれないので
すが、管理の構造が変わって非常にソフトな管理が進んでいくようなことがあるのではない
でしょうか。ヨーロッパ共同体というのも、国家の解体という事もあるけれども、逆に新た
な、見えない、管理の強化みたいなことも出てくるんじゃないか、それが資本主義の停滞と
いう問題を生むこともあるのじゃないかとおもうんですが……。
吉本 あるとおもいます。つまり、ぼくは前からそうおもっていたけれども、結局だんだん
社会主義国家圏と先進資本主義国家圈とが同じイメージのところへいくだろうから、同じ問
題として理解して、ほとんどいいとおもいます。まだまだそうはいかないですが、いまに東
欧がもう少し動きますし、資本主義ももしかするともう少し干渉しないとだめなのかもしれ
ないし、その前に、先はどのECみたいに、国家がどんどん緩くなっていっちやうことで管
理が止まっていったり少なくなっていくかもしれない。それはわかりません。国家というの
が強化される一方だったら、たぶん管理は強化される一方になって、社会主義が55%管理
までいったら、資本主義は45%までいくみたいになってしまうとおもいます。だけれども、
一方では欧州共同体みたいに、産業が高次化すれば国家は部分的に解体に向かいますから、
そういう動きももう一方にあります。それは均衡の問題になるような気がします。
ぽくがいま得ているイメージの骨組みはそこらへんです。それ以上のことはほんとうにわ
かりませんから、もっと突っ込んだらまた『ハイ・イメージ論』で、もう一度やってやろう
とおもっています。まだわからないものだから放り出したり、いいかげんなことでやめたり、
また別なことをやりだしたりしています。またやってみようとおもってます。
世界認識の現在
――最後に、これはいままでの話と直接は関わってこないかもしれないのですが、吉本さん
の思想の方法、世界の認識の方法についてうかがいたいとおもいます。世界というのは最終
的に明証的に解読しえるんだという思想と究極的に解読しえない「未知」が存在するとする
思想があるわけですが、古本さんの思想は〈明証〉と〈未知〉をどのように位置づけている
のでしょうか。あるいは、「自立」というイメージ、それに対する余剰ともいうべき人間の
「弱さ」とか「過ち」はどのように理解されるでしょう。その問題はもちろん「大衆の原像」
という思想にも関わっているのでしょうが。
吉本 ぼくはこうおもうんです。いま自分の歩き方を考えてみると、戦争中から戦争が終わ
ったときにかけて、大転換期を体験しました。それは目に見える動乱と混乱でした。現在は
目に見えない大混乱と大転換の時期だとおもいます。
これはまったくだめで間違ったな、という体験をしたのは、第二次大戦の終わり、つまり
太平洋戦争の敗戦とその直後のところでした、これは徹底的にだめだったなとおもったのは
世界把握の方法を自分はまったく持ってなかったということでした。つまり主観的あるいは
内面的だった文学青年にすぎなかったなということです。世界という外在をつかむことに関
心も少なかったけれど、そのつかみ方すらわからなかった。だからうまく外側から権力者や
同伴者のいうことに乗せられたとおもいます。
現在、ぽくは世界的な規模で、敗戦にぶつかっているんだとみなすのが世界把握としては
いちばん考えやすいし、正確だとおもっています。内面さえ深めてゆけば人間はいいんだと
いう考えはまったくだめだったというのが、戦後にいちばん考えたところです。現在までの
ところ半分は正確に世界をつかんできたとおもっています。そして半分はやっぱり、これは
ちょっとまいったな、よほど徹底して考えないと、現在のこの転換期の世界はうまく把めな
い。そんな問題が世界的な規模で目の前におかれているというのがぼくの現状理解の仕方で
す。
――長時間、ありがとうございました。
第一部 吉本隆明の経済学
ここで、吉本のエコロジーに対する思いと別に、地球環境の劣化―「不都合な真実」が静かに進
行しているようにみえる。1990年代初期にカナダのブリティッシュコロンビア大学のウィリアム・
リースとマティス・ワケナゲルが「収奪された環境収容力(Appropriated Carrying Capacity, ACC)」
提唱する。この用語が難解であったため、「人間活動が地球環境を踏みつけにした足跡」という
比喩に基づき、1992年に「エコロジカル・フットプリント)」と言う用語に変更された。が、その
後事態は悪化の一途を辿っているかのうようだ。つまり、環境リスク(あるいは、カーボンリス
ク)本位制時代に1999年の夏に突入したと――そうわたし(たち)は世界認識しているのだ(詳
しくは、このブログのカテゴリー「地球温暖化」を検索のこと)。
(この項続く)