彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる "招き猫と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「ひ
こにゃん」
【ウイルス解体新書 100】
序 章 ウイルスとは何か
第1章 ウイルス現象学
第7節 新型コロナウイルス
7-1 新型コロナウイルスのライフサイクル
7-2 変異ウイルス
7-2-1 感染・伝播性の増加や抗原性の変化が懸念される新型
コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新規変異株について (第9報)
第9節 感染予防・検査・治療
9-1 検査方法・装置設備
9-1-1 新型コロナウイルス感染症に関する検査
1.新型コロナウイルス抗体の種類と量を30分で測定
第10節 ウイルスとともに生きる
10-1 バイオハザード対策の発展史
10-2 高度隔離施設の現場へ
10-3 病原体の管理基準
10-4 根絶の時代から共生時代
第2章 COVID-19パンデミックとは何だったのか
第1節 各国の動向と対策の特徴
1.米国
1-1 COVID-19委員会の創設を提案
第2節 謎のCOVID-19起源
2-1 消えぬ武漢研究所人為的発生説
第3節 新型コロナウイルスで分かったこと
3-1 人体の免疫システムからの逃避機構
3-2-1
3-3 ファクターX”は日本人の免疫細胞か
第4節 いつまで続く「コロナ禍」は?!
4-1 適切な専門家に聞く「新型コロナ」の読み解き方
4-1-2 人工ウイルス説はなぜ登場し、そして否定できるのか
4-1-3 SARS-CoV-2とはどんなウイルスなのか
終 章 ウイルス感染症と戦略『後手の先』
第7章 里死病がヨーロッパの租税を変えた
この闘いに、朕は自ら出陣するつもりだ。
広すぎる宮廷やむやみな大盤振る舞いのせいで
少しばかり手元が苦しくなってきているから
やむを得ず、王領の土地を耕させることとしよう。
その収入で当座の必要を賄おう。
ウィリアム・シェイクスピア、
『リチャードニ世』(第一幕第四場)
Source Wikipedia
このとき、国王の----あるいはその側近たちの----計略は実行に移さ
れた。「国王につきしたがう者たちのなかにケント出身の従者かおり、
平民どもの頭であるという噂のウォルターがどの男であるかを教えて
はしいといった。その顔を見た従者は、あの男はケントの各地を荒ら
している泥棒で、強盗であると大声でいった」「ある年代記」によれ
ば、「この言葉に、ワットは剣を取ってその従者に斬りかかった」が、
国王の前でそのような不穏当な振舞いに出たことは、武装してその場
にいたロンドン市長にとって、タイラーを力ずくで拘束する口実にな
った。タイラーはとらえられまいとして戦ったが、市長は「彼の首に
深い切傷を、つぎに頭に大きな切傷をつけた」。その後、「国王の側
近の一人が剣を抜くと、ワットの体を二度、あるいは三度刺し貫き、
致命傷を負わせた」。
タイラーは「自分の敵を取ってくれと叫び」、馬で部下たちのもと
に戻ろうとしたが、ほんの数歩進んだところで地面に落ちた。彼の部
下たちは弓を引いた----これが彼らの最後のチャンスだった----が、
何かどうなっているのかよくわからず、矢を放つのをためらった。若
い国王はたいへんな冷静沈着ぶりを見せ、馬にまたがって彼らの前に
進み出ると、すべての要求に応じることを大声で告げ、彼のあとにつ
いて城門外のクラーケンウェルフィールズまで来れば、そこで特許状
を授けてやるといった。ここで、反乱者たちは過ちを犯した。国王の
言葉を信じてしまったのである。
タイラーの死によって反乱車は勢いを失った。タイラーの吋は杭に
取りつけられ、市内を引き回されたあと、ロンドン橋の上に晒された。
農民一揆は鎮圧された。
その後、反乱分子狩りが始まった。イングランド軍はハートフォ-
ドシャー、エセックス、ケントの全域をくまなく捜索した。兵士たち
が近づいてきたとき、反乱者たちは国王からの赦免状を掲げてみせた
が、無慈悲に斬り殺された。特許状は事実上の死刑宣告となった。国
王はしかるべき手続きなしに反乱者を処測した者たちを赦免してやっ
た。村人たちに対しては反乱に加わるよう促した人物の名前を告げさ
えすれば、お咎めなしとした。お前を挙げられた者はことごとく処刑
された。「汝らは農奴であり、今後もそれは変わらぬ」と国王はいっ
た。彼のした約束は長いこと忘れられていた。
ボールはコヴェントリーにいたところを見つかり、裁判にかけられ
た。堂々とした態度でこれに臨んだ披は、「受け入れがたい」信念に
ついてはいっさい謝罪せず、死刑を宣告された。ロンドン司教は、ボ
ールには反逆の非を悔い、魂の救済にあずかってもらいたいと考え、
処刑を先延ばしにした。ところが、ボールは悔いるどころではなかっ
た。七月十五日、フォビングで最初の暴動が発生してから六週間と少
したったころに、ジョン・ボールは首つり・内臓を抉り・四つ裂きの
刑に処された。
反乱者たちにしてみれば、農民一揆は失敗に終わった。だが、その
影響はたいへん大ききかった。議会は賃金上昇を制限することを断念
した。領主は金銭と引き換えに、農奴に自由を与えるようになった。
農奴の賦役を条件とする土地保有は、契約による土地賃借へと変化し
ていった。その後の三○○年間、イングランドでは人頭税が徴収され
ることはなかった。議会は、百年戦争の費用をつくるために税を引き
上げるよりも、軍事行動を減らすことを選んだ----その結果、イング
ランドは.百年戦争に敗北を喫した。以降、一○○年以上あとのヘン
リー七世の治世まで、海外での軍事行動の費用をつくるための増税に
は積極的ではなかった。
イングランド人の人頭税への反感はけっして消えなかった。六〇〇
年後、増税に反対する人びとはその反感を利用し、戦後のイギリス位
相としてもっとも有名な人物、マーガレットーサッチャーを失脚させ
ようとした。
via theguardian.com, 2017.07.19
農民一揆がサツチヤーを打倒
マ-ガレット・サッチャーは十六年近く前からイギリスの地方税の改
革を考えていた。現行の制度は時代に合っていないと感じており、地
方議会、とりわけ不必要な計画に大金を費やしていた都市のそれに、
ある程度の責任を持たせたいと思っていた。「不必要な計画」という
点に関しては、たしかにそのとおりだった。当時は「いかれた左派」
の時代だった。ロンドンのハックニー区は、フランス、西ドイツ、イ
スラエルとの姉妹都市提携を解消し、新たにソ連、束ドイツ、ニカラ
グアと姉妹都市になった。ランベス区は、差別的であるという理由で、
議会の作成する文書に「家族」という原語を使用することを禁止した。
ケニントン区の、インナーロンドン地方教育局の迷宮するある学校は、
授業の一環として生徒たちに異議申し立ての手紙を書かせていた。そ
の一方、この学校で使われていた教師向け教材の一冊「アウシユヴイ
ッツ----かつての人種差別主義」は、サッチャー政権の労働祖合法を
ヒトラー政権のそれになぞらえる内容だった。
一九九〇年に入ると、サッチャーは地域社会税を導入した。これは、
地方自治体に対して成人住民が納める定額税たった----つまり、すべ
ての成人住民が一定の分損を支払った(学生および失業者は80%の
控除を受けられた)、自治体によってサービスが異なるのと同様に、
税額もまた異なった。サッチャーの考えでは、それで各地方自治体の
公金支出に関する透明性も説明責任も大きく高まるはずだった とこ
ろが、これが思わぬ当惑を招いてしまった。
地域社会税の導入により、各地方自治体の説明責任は過度に高まった。
っている自治体では住民に大きなツケが回ってきた。定額税の不公平
感に対し、そこからしこから怒りの声が上がりはしめた。『ガーディ
アン』紙はこう一喝した。「これまでの財産税として一万ニ五五ポン
ドを納めていたウエストミンスター公爵は、新たに導入された人頭税
でいくら支払うのか二四一七ポンドを納めていったウエストミンスタ
ー公爵は、新たに導入された人頭税でいくら支払うのか。四一七ポン
ドである。彼のもとで働く家政婦も、専属運転手もまったく同じ金額
を支払うのだ」
在任期間一〇年を経て、サッチャーは支持者のあいだでさえも人気を
落としつつあったが、大勢いたイデオロギー上の敵が、ここでとうと
う彼女を打倒する手段を手に入れた。まもなく彼らは、農民一気のひ
きがねになった-三八一年の税にちなみ、彼女が導入した地域社会税
を人頭税と呼ぶようになった。サッチャーはそのイメージを払拭しよ
うとしたが、この名称は定着してしまった。一三八一年のときと同様
に、大規模な納税拒が運動----「支払えない、支払わない」----が起
こり、人びとの反抗を煽った。暴動や抗議活動が発生した。人びとは
あらゆる方法を用いて納税を避けた。彼らは有権者登録をしていなか
ったので、地方議会のほうでは誰がどの家に住んでいるのかを知りよ
うがなかった。店子、とりわけ学生は、賃貸期問が終わると税を滞納
したままさっさと引っ越してしまった。地方議会は徴税架務に四苦八
苦し、納税義務を怠る人びとがどんどん増加すると、対処しきれなく
なった。反対勢力は、法的措置を滞らせるために責任命令に異議を唱
え、不履行による法廷審問に応じなかったため、裁判費用がかさんで
いった。支払い請求が増えはしめた。それに加え、議会には人びとに
納税を強制することができないとわかったため、納税しない人がます
ます増えていった。少なくとも五人に一人は支払わなかった。サッチ
ャーは半年もたたないうちに辞任した。
定額の人頭税を徴収するのは筒肝であるように思えるが、中央集権的
に徴収する、もしくは源泉徴収するのでなければ、納税を強制するの
は不旺能だった。地ぶ自治体の無計画な支出によってもたらされる痛
みをじかに感じるようになった住民たちは、実際に血税を湯水のよう
に使っている者たちに対応を求めるよりも、むしろこの新税導入の指
導に批判の矛先を向けた。サッチャーはその代償を自分のキャリアで
支払った。
Source; Ludlow Castle
ヘンリー七世の商才と封建制の終焉
イングランドでは、農民一揆のあとも封建制は続いた。社会に定着し
ている支配制度というのは、一夜にして廃れることがないのである。
封建制がようやく崩壊に至ったのは、その一〇〇年後、ヘンリー七世
国王が税制度改革を行なってからのことだ。
かつて、戦争したがらない支配者をいただく王家の価値に関してなん
らかの教訓をもたらした事例があるとすれば、それはヘンリー七世の
治世のことだろう。ヘンリーは一四八五年から一五○九年まで王座に
あったが、その二四年間に外国と小競り合いをしたのは一度きりだっ
た。彼は、戦争のかわりに他の王室との婚姻や同盟を積極的に行なっ
た。また、巧妙なやり方で貴族階級から税金を取り、彼らを法律によ
って抑えこんだので、封建領主の権力、ひいては封建制そのものが事
実上の終焉を迎えることになった。さらに、王権の支配と商人階級の
自由が確立され、ヂューダー朝イングランドの領土拡大期の土台が形
成された。ヘンリーの治世に、イングランドは週百年ぶりに黒字を計
上している。
ヘンリー七世は即位した一四八五年にボズワースの戦いに勝利し、ば
ら戦争はこれをもって終結した。ヘンリーはただちに敵側の貴族たち
を赦免し、対ひしていたヨーク家のエリザベスと結婚すると、ヨーク
家の白ばらとランカスター家の赤ばらを組み合わせたデューダー・ロ
ーズのもとに両家を統合した。そして両家の領地、さらにはその土地
をも支配することとなった。地方領主の力を弱め、王権の支配を打ち
立てることを固く決意していたヘンリー七世は、富の獲得によってそ
の目的を達成した。おもな収入源は、税、罰金、それに赦免状だった。
ヘンリーは.一種の相続税を設定し、相続人のいない土地は国王に帰
属するものとした。それから、反逆罪によって投獄された者について、
裁判せずに処罰できることを規定した法律を、自分に都合よく利用し
た。この坂入目の罰を、死刑----もしくは国王による所有地没収とし
たのである。人口が減少していたため、多くの荘園が荒廃していたが、
ヘンリ-は土地の有効利用に応じた税のような仕組みみを設け、土地
を荒廃させた地主に訓令を科した。その一方、国王の領地と新たな没
収地をできるだけ活用し、それらから得られる収益を最大にするよう
尽力した。
百年戦争とばら戦争ののち、諸侯は力を弱めており、ほとんど抵抗を
示さなかった。彼らのさらなる弱体化を図ったヘンリーは、彼らに税
金を課したうえ、私設車の所有を禁じた。私設車を失った彼らには、
十分の一税の徴収もままならなかった。一方、羊毛取引が活発化したこ
ことで、一人の農奴が一つの区画に責任を持つイングランドの封建的
な制度、開放耕地制度が廃れたかわり、ヒツジを放牧する囲い地がそ
こかしこにつくられた。農奴の役割は少なくなり、その人数も減る一
方だったので、地方領主は十分の税を取れなくなっていった。イング
ランドは土地を基盤にする経済から金銭を基盤にする経済へと移行し
ていった。ヘンリーは力をつけつつあった商人階級と手を組むことに
した。
交易のさらなる拡大をもくろんだヘンリーは、ブルゴーニュ公フイリ
ップ四世と通商条約を紡んだ。これをインテルクルスス・マグヌス、
すなわち二人条約」と呼ぶ。それから、羊毛、皮革、織物、ワインに
関税をかけた。国内の織物産業の発展を促すため、未処理の羊毛には
高い輸出税をかけた----多くの場合、その税率は七〇%にのばった。
ヘンリーは海車と商船団を組織した。後者は、イングランドの小規模
な海軍を袖ったほか、交易活動を政府の管理ドに置くことを可能にし
た。
百年戦争でフランスの大砲がもたらした甚大な被害を目の当たりにし
ていたヘンリーは、スコットランドの侵入を防ぐため、国内での砲弾
の製造に乗り出した。一四九六年に国内初の溶鉱炉が建設されると、
イングランドでは鉄鋼業が発展していった。ヘンリーは経済改革を実
施し、王室の経費は国家の収入から分離されることになった。被は新
貨幣を発行し、標準通貨を設定した。また、重量の基本単位を定めた。
さらに、司法制度改革を実施し、貧しい大びとを不正から守る法律や、
不正を行なった陪審を罰する法律を制定した。国民は、貴族の気まぐ
れではなく、法体系によって裁かれるようになった。ヘンリーのさま
ざまな功績は、その商才から生まれていた。彼は、経済の変化や新技
術の登場に抵抗するよりも、それらを促進することを選んだ。戦争を
遂行するよりも、回避することを考えた。そうして途方もない財を築
いたのである。かくして封建制は廃れていった。
ところが、その息子のヘンリー八世は、戴冠式の二日後、父親が導入
した税の徴収の責任者である二人を逮捕してしまった。サー・リチャ
ード・エンプソンとエドマンド・ダドリーは大逆罪に問われ、死刑に
処された。
この項つづく
【概説】
貨幣、帳簿、市場……資本主義の基幹エンジンたる仕組みの歴史を紐
解く。そしてケインズ、ハイエク、フリードマンの思想へ。ほころび
始めたグローバル資本主義の未来を見据えながら、その本質に迫る。
【目次】
第3章 君臨する経済学(間宮陽介『市場社会の思想史』一三三六
夜 ジョン・メイナード・ケインズ『貨幣論』一三七二夜 ほか)
第4章 グローバル資本主義の蛇行(マンフレッド・スティーガー『
グローバリゼーション』一三五八夜;スーザン・ストレンジ『マッド
・マネー』一三五二夜 ほか)
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資本主義と自由⑯
風蕭々と碧い時代
曲名: ヘンリー世君 I'm Henery the Eighth, I Am (1965年)
唄 : ハーマンズ・ハーミッツ; Herman's Hermits
作詞&作曲:Frend Murray・R.P.Weston
I'm 'Enery the Eighth, I am,
'Enery the Eighth I am, I am!
I got married to the widow next door,
She's been married seven times before
And every one was an 'Enery
She wouldn't have a Willie nor a Sam
I'm her eighth old man named 'Enery
'Enery the Eighth, I am!
今夜の寸評:沸騰する欲望と対峙する知恵