47 臥薪嘗胆 / 沢水困(たくすいこん)
※ 困という字は、かこいの中にある木で、伸びようとして妨げられ、
苦しみ悩む状態を示している。卦の形も、満々と水をたたえるほず
の沼沢(兌)が、涸れはてている(坎=水が下にある)姿をあらわし
ている。また、三つある剛爻(一)がみな陰爻(--)におおわれて
苦しんでいる譬えである。つまぬ連中に妨げられて思うにまかせぬ、
資金難に見舞われる、何を言っても信じてもらえぬなど八方塞がり
の時である。しかし試練の時にこそ人間の真価がわかる。越王勾践
が、自分は呉王の家来になり、妻は呉王の婢になるという逆境にあ
りながら、臥薪嘗胆して志を果たした故事を思うべきである。
1.もし表面が曇っているようであれば
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は挟い谷間の入り口近くの山の上に往んでいた。夏
には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた。海から南西の
風が吹いてくるせいだ。その風が運んできた湿った雲が谷間に入って、山の斜面を上がっていく
ときに雨を降らせるのだ。家はちょうどその境界線あたりに建っていたので、家の表側は晴れて
いるのに、裏庭では強い雨が降っているということもしばしばあった。最初のうちはずいぶん不
思議な気がしたが、やがて慣れてむしろ当たり前のことになってしまった。
まわりの山には低く切れ切れに雲がかかった。風が吹くとそんな雲の切れ端が、過去から迷い
込んできた魂のように、失われた記憶を求めてふらふらと山肌を漂った。細かい雪のように見え
る真っ白な雨が、音もなく風に舞うこともあった。だいたいいつも風が吹いているせいで、エア
コンがなくてもほぼ快適に夏を過ごすことができた。
家は小さくて古かったが、庭はずいぶん広かった。放っておくと庭には線の雑草が高く繁り、
そこに隠れるように猫の一家が往み着いたが、庭師がやってきて草を刈ると、どこかに移動して
いった。たぶん居心地が悪かったのだろう。三匹の子供たちを抱えた縞柄の雌猫だった。きつい
顔をして、生きていくのがやっとというように痩せていた。
家は山のてっぺんに建っており、南西向きのテラスに出ると、雑木林の間に海が少しばかり見
えた。見えるのは洗面器に張った水くらいのサイズの海だ。巨大な太平洋のちっぽけなかけらだ。
知り合いの不動産業者によれば、たとえそれくらいの大きさでも海が見えるのと見えないのと
では、土地の価値がかなり追ってくるということだったが、私としては海が見えても見えなくて
もどうでもよかった。遠くから見るとその海の断片は、くすんだ色合いの鉛の塊みたいにしか見
えなかった。なぜそれほど人々が海を見たがるのか、私には理解できなかった。私はむしろまわ
りの山の様子を眺めている方が好きだった。谷間の向かい側に見える山は季節によって、天候に
よって、生き生きと表情を変えていく。その日々の変化を心にとめるだけで飽きなかった。
その当時、私と妻は結婚生活をいったん解消しており、正式な離婚届に署名捺印もしたのだが、
そのあといろいろあって、結局もう一度結婚生活をやり直すことになった。
どのような意味合いにおいてもわかりやすくないし、原因と結果との結びつきが当事者にさえ
うまく把握できないその経緯をあえてひとことで表現するなら、「元の鞘に収まった」というあ
まりにありきたりの表現に行き着くわけだが、その二度の結婚生活(言うなれば前期と後期)の
あいだには、九ケ月あまりの歳月が、まるで切り立った地峡に掘られた運河のように、ぽっかり
と深く口を開けている。
九ケ月あまり――それが別離の期間として長かったのか、それとも短かったのか、自分ではう
もし表面が曇っているようであればまく判断できない。あとになって振り返ると、それは永遠に
近い時間だったようにも思えるし、逆に意外にあっという間に過ぎてしまったようにも思える。
印象は日によって変わる。よく写真に写された物休のわきに、実寸をわかりやすくするために煙
草の箱が置いてあったりするが、私の記憶の映像のわきに置かれた煙草の箱は、そのときの気分
次第で好き勝手に伸び縮みするみたいだ。私の記憶の枠の内側ではどうやら、事物や事象が休み
なく動き変化しているのと同じように、あるいはそれに対抗するかのように、一定不変であるべ
き物差しもまた動き変化しているらしい。
といっても、すべての私の記憶がそのように出鱈目に移勤し、勝手に伸び縮みしているわけで
はない。私の人生は基本的には、穏やかで整合的でおおむね理屈の通ったものとして機能してき
た。ただこの九ケ月ほどに限っていえば、それはどうにも説明のつかない混乱状態に陥っていた
ということだ。その期間は私にとってあらゆる意昧合いにおいて例外的な、普通ではない期間だ
った。そこでの私は、静かな海の真ん中を泳いでいる最中に、出し抜けに正体不明の大禍に巻き
込まれた泳ぎ手のようなものだった。
この時期のできごとを思い返すとき(そう、私は今から何年か前に起こった一連の出来事の記
憶を辿りながら、この文章を書き記している)、ものごとの軽重や遠近や繋がり具合が往々にし
て揺らぎ、不破かなものになってしまうのも、またほんの少し目を離した隙に論理の順序が素早
く入れ替わってしまうのも、おそらくはそのせいだ。それでも私は全力を尽くし、能力の許す限
り系統的に論理的に話を連めたいと考えている。あるいは所詮は無駄な試みなのかもしれないが
自分なりにこしらえた仮設的な物差しに懸命にしがみついていたいと私は思う。無力な泳ぎ手が
たまたま流れてきた本ぎれにしがみつくみたいに。
その家に越して最初にやったのは、安価な中古車を手に入れることだった。それまで乗ってい
た車は、少し前に乗りつぶして廃車処分にしていたので、新たに車を購入する必要があった。地
方都市では、とりわけ山の上に一人で往んでいるような場合には、日々の買い物をするのに車は
必需品になる。小田原市郊外のトヨタの中古車センターに行って、格安のカローラ・ワゴンを見
つけた。セールスマンはパウダーブルーと言ったが、病気をしてやつれた人の頻のような色合い
の車たった。走行距離はまだ三万六千キロだが、過去に事故歴があるということで大幅な値引き
があった。試乗してみたが、ブレーキとタイヤには問題はなさそうだった。高速道路を頻繁に利
用することもないだろうから、それでじゆうぷんだった。
家を貸してくれたのは、雨田政彦。彼とは美大でクラスが同じだった。私より二歳年上だが、
私にとって数少ない気が合う友人の一人であり、大学を出てからもときどき頻を合わせていた。
彼は卒業後は画作をあきらめて広告代理店に就職し、グラフィック・デザインの仕事をしていた。
私が妻と別れて一人で家を出て、とりあえず行き場がないことを知り、父親の持ち家が空いてい
るんだが、留守番みたいなかたちで住んでみないかと声をかけてくれたのだ。彼の父親は雨田典
彦という高名な日本画家で、小田原郊外の山中にアトリエを兼ねた家を持ち、夫人を亡くしてか
ら十年ばかり、そこで気楽な一人暮らしを続けていた。しかし最近になって認知症が進行してい
ることが判明し、伊豆高原にある高級養護施設に入ることになり、その家は数ケ月前から空き家
になっていた。
「なにしろ山のてっぺんにぽつんと建っていて、便利な場所とはとても言えないけど、静かなこ
とにかけては百パーセント保証するよ。絵を描くにはまさに理想的な環境だ。気を散らすような
ものもまったくないし」と雨田は言った。
家賃はほとんど名目だけのものだった。
「誰も住んでいないと家が荒れるし、空き巣や火事のことも心配たしな。誰かが定住してくれて
いるだけで、こちらも安心できるんだ。でもまったくただというのでは、おまえも気分的に落ち
着かないだろう。そのかおりこちらの都合で、短い通告で出てもらうことになるかもしれない」
私に異存はなかった。もともと小型車の荷台に積み込める程度の荷物しか所有していない。引
っ越してくれといわれれば、翌日にでも引っ越せる。
私がその家にやってきたのは五月の連休明けだった。家はコテージと呼べそうなこぢんまりと
した洋風の平屋建てだったが、一人暮らしには十分な広さがあった。小高い山の上にあり、まわ
りを雑木林に囲まれていて、正確にどこまでが敷地なのか、雨田もよく知らなかった。庭には大
きな松の木が生えていて、大い枝を四方に伸ばしていた。ところどころに庭石が置かれ、灯龍の
脇には立派な芭蕉の木が生えていた。
雨田が言ったように、静かなことは間違いなく静かだった。しかし今から振り連ってみれば、
気を散らすものがまったくなかったとはとても言えない。
妻と別れてその谷間に往んでいる八ケ月ほどのあいだに、私は二人の女性と肉体の関係を持っ
た。どちらも人妻だった。一人は年下で一人は年上だった。どちらも私か敢えていた絵画教室の
生徒だった。
私は機会をつかまえて、彼女たちに声をかけて誘い(普通の状況であればまずやらないことだ。
私は人見知りをする性格で、そういうことにもともと馴れていない)、彼女たちはその誘いをこ
とわらなかった。なぜかはわからないが、そのときの私には、彼女たちをベッドに誘うことはと
ても簡単で、理にかなったことのように思えた。白分か教えている相手を性的に誘惑することに
ついて、やましさをほとんど感じなかった。彼女だちと肉体関係を持つことは、道路でたまたま
すれ違った人に時刻を尋ねるのと同じくらい普通のことのように思えたのだ。
最初に関係を待ったのは、二十代後半の背の高い、黒目の大きな女性だった。乳房は小さく、
腰は細かった。顔が広く、髪がまっすぐで美しく、体つきに比べて耳が大きかった。一般的な美
人とはいえないかもしれないが、画家ならちょっと絵に描いてみたくなるような、特徴のある興
味深い顔立ちをしていた(実際に私は画家であり、実際に何度か校女をスケッチしてみたことが
ある)。子供はいない。夫は私立高校の歴史の教師で、家では妻を殴った。学校で暴力を振るう
ことができず、そのぷんの鬱屈を家で晴らしているようだった。でもさすがに顔は段らなかった。
彼女を裸にすると、身体のあちこちにアザや傷跡があることがわかった。彼女はそれを見られる
のを嫌がって、服を説いで抱き合うときにはいつも部屋の照明を真っ暗にした。
彼女はセックスにほとんど興味を待っていなかった。いつも性器の湿り気が足りず、挿入しよ
うとすると痛みを訴えた。時間をかけて丁寧に前戯をし、潤滑ゼリーを使っても効果はなかった。
痛みは激しく、なかなか収まらなかった。痛みのためにときどき大きな声を上げた。
それでも彼女は私とセックスをしたがった。少なくともそうすることを嫌がらなかった。どう
してだろう? あるいは彼女は痛みを求めていたのかもしれない。あるいは快感のなさを求めて
いたのかもしれない。あるいは彼女は何らかのかたちで自分か罰されることを求めていたのかも
しれない。人は自らの人生に実にいろんなものを求めるものだから。でも彼女がそこに求めてい
ないものがひとつだけあった。それは親密さだ。
彼女は私の家に来ることを、あるいは私が彼女の家に行くことをいやがったので、我々はいつ
も私の車で、少し離れた海岸沿いにあるカップル用のホテルまで行って、そこでセックスをした。
ファミリー・レストランの広い駐車場で待ち合わせをし、だいたい午後の一時過ぎにホテルに入
り、三時前に出てきた。そういうとき彼女はいつも大きなサングラスをかけていた。曇っていて
も雨が降っていても。でもあるとき彼女は待ち合わせの場所にやってこなかった。教室にも顔を
見せなくなった。それが彼女との短い、ほとんど盛り上がりのない情事の終わりだった。彼女と
性的な交渉を待ったのは、全部で四回か五回だったと思う。’
村上春樹 『騎士団長殺し』Ⅰ部 顕れるイデア編
「家の表側は晴れているのに、裏庭では強い雨が降っているということもしばしばあった」「人は自
らの人生に実にいろんなものを求めるものだから。でも彼女がそこに求めていないものがひとつだけ
あった。それは親密さだ」という箇所が今夜の特徴ある残像である。前者は、「生きることの陰影」
の隠喩、後者は「性的関係」の不可避性の暗示であろう。
【鍵語】顔のない男
● 今夜の一曲
チャイコフスキー: ピアノ三重奏曲 Piano Trio「偉大な芸術家の思いで」, in a, Op.50
チャイコフスキーのピアノ三重奏曲イ短調作品50は、1881年から1882年にかけて作曲された。旧友ニ
コライ・ルビンシテインへの追悼音楽であるため、全般的に悲痛で荘重な調子が支配的である。作品
に付された献辞にちなんで『偉大な芸術家の思い出に』(いだいなげいじゅつかのおもいでに)とい
う副題ないしは通称で知られている。楽器編成は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ。本作品、とりわ
け第2楽章は、ピアノに高度な演奏技巧が要求され、ピアノを用いるあらゆるチャイコフスキー作品
のなかで、おそらく最も演奏が至難である。50分近い演奏時間にもかかわらず、息を呑むような抒情
美や、壮大かつ決然たる終曲によって今なお人気が高い。それでは、ゆるり堪能することに。
● 今夜の一枚
ジュブリルタンで、昼を済ませ、伊吹山が綺麗ので写真を撮るということで、絶景アングルスポット
があるので、開出今の湖岸に案内する。天気はいいのだが霞んでいるため惜しい。そこは編集でなん
とかする。ところが、吹きつける強風でさすがに薄着では寒い。急いで車に乗り込む。ムッシュ・ス
カタンもたまには実力を発揮するのねと同乗する彼女が言うので、マダム・スカタン、今後は、わた
しのことを、ジョージ・スカタン、否、ジョージと呼んでくれないかと返事する。そんな会話を交わ
し帰宅する。
※ 定義:ジョージ・スカタンとは、常時失敗をしでかすジャージをこよなく愛用する日本の年金受
給高齢男性(単数形/複数形)をさす。