襄公21年(‐553)~定公4年( -506) / 中原休戦の時代
※ われ聞きてこれを薬とせん:鄭の国では、人々が村の学校に集まって政治談義
をたたかわす習慣があった。然明(ぜんめい)いう役人が上卿の子産に、この
風潮を絶つため学校を廃止すべきであると進言した。「いや、そんな必要はな
い。かれらは朝夕の仕事を終えてから(当時は朝と夕方と二回出勤制)学校に
集めてまって、われわれの政治を批判している。わたしはがれらの意見を参考
にし、評判のよい政策はどしどし実行し、評判のわるい政策は改めるように心
掛けている。かれらは、いわばわたしの恩師なのだ。学校廃止などとんでもな
い。”誠実でさえあれば、人の怨みを貿うことはない”という言葉がある。弾
圧によって人の怨みを防ぐことはできないのだ。むろん弾圧によってかれらの
言論を無理やり封じることはできよう。しかしそれは川の流れをせき止めるよ
うなものだ。やがて水は瑕を切ってあふれ出し、大洪水となり、数えきれぬ死
傷者を出すにちがいない。こうなったら手のほどこしようがなくなる。それよ
りは、少しずつ放水して水路に導くに越したことはない。人民の言論もこれと
同じこと、弾圧するより、聞くべきは問いて、こちらの葉とした方がよいのだ」
然明は感服したかももちで、
「いまにしてわかりました。あなたこそ真の政治家と呼ぶにふさわしいお方で
す。目が醒めた思いです。いまのお考えが実行されたとしたら、あなたは二人
や三人の臣下だけでなく、全人民の信頼を得ろことができましょう」。のちに
孔子は、子産の言葉を伝え聞いて言った。「この言葉を聴いた以上、誰が子産
のことを不仁(いつくしみのないこと)と評しても、わたしはそれを信じない」
※ 子産が民主的な考えをもち、一般世論を尊重したことはこれでわかる。しかし、
その対象はむろん士以上に限られ、下層の庶民は含まれない。予産は孔子に深
い影響をあたえた(半奴隷社会?)。『史記』(鄭世家)によれば、孔子は鄭
を訪れたとき、子産と兄弟のように交わったという。『論語』の中でも、孔子
は三たび子産を評て、つねに絶賛を借しまず、『憲問』では「恵大なり」とい
っている。
※ 当用漢字以外はATOKの手書き入力で百%ヒットするが、それが一苦労で壁
壁、拡大させ再確認しているありさまである。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第51章 今が時だ
「簡単なことだ。あたしを殺せばよろしい」と騎士団長は言った。
「あなたを殺す?」と私は言った。
「あの『騎士団長殺し』の画面にならって、諸君があたしをあやめればよろしい」
「ぼくが剣であなたを刺し殺す。そういうことですか?」
「そうだ。うまい具合にあたしは剣を帯びている。前にも言ったように切れば血の出る本物の剣
だ。大きなサイズの刺ではあらないが、あたしたって決して大きなサイズではないし、それでじ
ゆうぷん用は足りよう」
私はベッドの足元に立って、騎士団長の姿をまっすぐ見ていた。何かを言おうとしたが、口に
すべき言葉が見当たらなかった。ただ黙ってそこに立ちすくんでいた。雨田典彦もベッドに横に
なったまま身動きひとつせず、騎士団長の方に顔を向けていた。しかし彼の眼に騎士団長の姿が
映っているのかどうか、そこまではわからなかった。騎士団長は自分の姿が見える相手を選ぶこ
とができる。
私はようやく口を開いて質問した。「つまりその剣を使って、ぼくがあなたを刺し殺すことに
よって、それで秋川まりえの居場所がわかるのですか?」
「いや、正確に述べるなら、そうではあらない。諸君がここであたしを殺す。あたしを抹殺する。
そのことによって引き起こされる一連のリアクションが、諸君を結果的にその少女の居場所に導
くであろうということだ」
私はその意味するところを理解しようと努めた。
「でもどんな連鎖かはわかりませんが、そううまく見込み通りにものごとが連鎖してくれるもの
でしょうか? ぼくがあなたを殺しても、いろんなことは予定通り連ばないかもしれません。だ
としたら、あなたの死は無駄死にになってしまう」
騎士団長は片方の眉をぐいと上げて私の顔を見た。その眉の上げ方は映画『ポイント・ブラン
ク』のリー・マーヴィンの眉の上げ方によく似ていた。とてもクールだ。まさか騎士団長が『ポ
イント・ブランク』を見たとは思えなかったが。
彼は言った。「たしかに諸君の言うとおりだ。現実的にそんなにうまくものごとが連鎖すると
は限らないかもしれない。あたしの言っておるのはあくまで予測・推論に過ぎないかもしれない。
かもしれないが多すぎるかもしれない。しかしはっきり言って、このほかに方法はひとつもあら
ないのだ。贅沢を言っている余地はあらないのだよ」
「あなたを殺したとして、それはぼくにとってのあなたが死ぬということなのですか? あなた
はぼくの前から永久に消滅してしまうということなのですか?」
「そのとおり。諸君にとってのあたしというイデアはそこで息を引き取る。それはイデアにとっ
ては無数分の一の死だ。とはいえ、それがひとつの独立した死であることに違いはない」
「ひとつのイデアを殺して、それによって世界が変わってしまったりはしないのですか?」
「そりゃ、変わることだろうぜ」と騎士団長は言った。そしてまた片方の眉をリー・マーブィン
風にぐいと持ち上げた。「だってそうじゃあらないかね? ひとつのイデアを抹殺しておきなが
ら、なにの変化もあらない世界があるとしたら、そんな世界にいったいどれはどの意味があるだ
ろうか? そんなイデアにどれはどの意味があるだろうか?」
「それによって世界が何らかの変更を受けることになったとしても、それでもやはりぼくはあな
たを殺すべきだと、あなたは思うのですね」
「諸君はあたしをあの穴から出した。そして今、諸君はあたしを殺さなくてはならない。そうし
なければ環(わ)は閉じない。聞かれた環はとこかで閉じられなくてはならない。ほかに選択肢
はあらないのだ」
私はベッドに横になった雨田典彦に目をやった。彼の視線は、椅子に腰掛けた騎士団長の方に
まっすぐ向けられているようだった。
「雨田さんには、そこにいるあなたの姿が見えているのですか?」
「ああ、次第に見えてきたはずだ」と騎士団長は言った。「あたしらの声もおいおい耳に届くよ
うになってきたことだろう。そしてほどなくその意味するところも把握できてくるはずだ。彼に
残された最後の体力と知力を懸命に集結してな」
「彼はあの『騎士団長殺し』という線の中で、何を描こうとしたのでしょう?」
「それはあたしにではなく、まずご本人に直接尋ねてみればよかろう」と騎士団長は言った。
「せっかく作者を前にしているのだから」
私はさっきまで座っていた椅子に戻った。そしてベッドに横たわった男と頭をつきあわせるよ
うにして語りかけた。
「雨田さん、ぼくは屋根裏であなたが隠していた絵を見つけました。きっと隠しておられたので
しょう。あの厳重な包装から見て、あなたはどうやらあの絵を誰にも見せたくなかったようだ。
でもぼくはその絵を開いてしまいました。あなたは不快に思われるかもしれませんが、好奇心が
抑えきれなかったのです。そして『騎士団長殺し』が素晴らしい絵であることを発見してからは、
その絵から目が離せなくなってしまいました。実に見事な絵です。あなたの代表作のひとつにな
るはずのものです。そして今のところ、その絵の存在はぼくしか知りません。政彦くんにも見せ
ていません。ほかには秋川まりえという十三歳の女の子だけがその絵を目にしました。そして彼
女は昨日から行方がわからなくなっています」
騎士団長がそこで手を上げて、私を制した。「そのへんで休憩をとった方がいい。今の彼の限
定された頭脳には、一度に多くのことは入らない」
私は口をつぐみ、しばらく雨田典彦の様子をうかがった。私の目にしたことがどれくらい彼の
意識に入っていけたのか、私には判断できなかった。彼の頭には相変わらずどのような表情も浮
かんでいなかった。しかし目の奥を覗き込むと、そこに前と同じ光源が見えた。深い泉の底に落
ちた小さな鋭い刃物のような煌めきだ。
私はゆっくりと言葉を句切りながら続けた。「問題は、あなたが何のためにあの絵を描いたの
かということです。あの絵は、あなたがこれまでに描いてきた一連の日本画とは題材も構図も画
風も、大きく違っています。そしてあの絵には何かしら深い個人的なメッセージが込められてい
るように思えます。あの絵はいったい何を意味しているのですか? 誰が誰を殺しているのです
か? 騎士団長とはいったい誰なのですか? 殺人者であるドン・ジョバンニは誰なのですか?
そして左の端っこで地下から顔を出している顔の長い、髭だらけの奇妙な男はいったい何ものな
のですか?」
Julie Mehretu (born 1970 in Addis Abeba)
騎士団長が再び手を上げて私を制した。私は口を閉ざした。
「質問はそのへんにしておきなさい」と彼は言った。「その質問がこの人の意識に染みこむまで
には、まだしばらく時間がかかろう」
「彼は質問に答えてくれるのですか? そんな力がまだ残されているでしょうか?」
騎士団長は首を振った。「いや、おそらく答えは戻ってはくるまい。それはどの余力はこの人
にはもうあらない」
「じやあ、なぜそんな質問をさせたのですか?」
「諸君が口にしたのは質問ではあらない。諸君はただ彼に教えたのだよ。諸君が『騎士団長殺
し』という絵画を屋根裏で見つけ出して、その存在を明らかにしたのだという事実を。それが第
一段階だ。そこから始めなくてはならない」
「第二段階とは何ですか?」
「もちろん諸君があたしを殺すのだ。それが第二段階だ」
「第三段階はあるのですか?」
「あるべきだよ、もちろん」
「それはいったいどんなことですか?」
「諸君にはまだそれがわからないのかね?」
「わかりませんね」
騎士団長は言った。「われらはあの絵画の寓意の核心をここに再現し、〈顔なが〉を引っ張り出
すのだよ。ここに、この部屋に連れ出すのだ。そしてそうすることによって、諸君は秋川まりえ
を取り戻す」
私はしばらくのあいだ言葉を失っていた。自分かいったいどんな世界に足を踏み入れてしまっ
たのか、私にはもはや見当がつかなくなっていた。
「それはもちろん簡単なことではあらない」と騎士団長は重々しい声で言った。「しかしなさね
ばならないことだ。そのために、あたしは断固として殺されなくてはならないのだ」
雨田典彦の意識に私の与えた情報が行き渡るのを待った。それには時間がかかった。そのあい
だに解消しておかなくてはならないいくつかの疑問が私にはあった。
「なぜ雨田典彦はその事件について、戦争が終わったあとも、長い歳月にわたって深い沈黙を貫
いていたのですか? もう彼の発言を阻止するものもいなくなったというのに?」
Gestapo torture
騎士団長は言った。「彼の恋人はナチの手で無惨に殺害された。拷問でゆっくり時間をかけて
殺されたのだ。仲間たちもすべて抹殺された。彼らの試みはまったくの無為のうちに終わってし
まった。彼だけが政治的配慮によってかろうじて生き残った。そのことは深い心の傷になった。
また彼自身も逮捕され、ニケ月ばかりゲシュタポに勾留され、手ひどい拷問を受けた。拷問は死
なない程度に、また身体に傷跡を残さないように注意深く、しかし徹底して暴力的におこなわれ
た。神経が壊れてしまうくらいのサディスティックな拷問だった。そして実際にその結果、彼の
中で何かが死んでしまったのだろう。そのあと彼は、事件については沈黙を守るようにしっかり
因果を含められ、目本に強制送還された」
「そしてその少し前に雨田典彦の弟は、おそらくは戦争体験のトラウマから、若くして自らの命
を絶っていた。南京攻略戦のあと、帰国して除隊になってすぐに。そうですね?」
「そうだ。そのようにして雨田典彦は歴史の激しい渦の中で、かけがえのない人々を続けざまに
失ってしまった。また自らも心の傷を負った。そこで彼が抱え込んだ怒りや哀しみは、ずいぶん
根深いものであっただろう。何をしたところで、世界の大きな流れに逆らうことができないとい
う無力感・絶望感。そしてまたそこには、自分だけが生き残ったという精神的な負い目もあった。
だからこそ彼は、もう目を塞ぐものがいなくなったにもかかわらず、ウィーンでの出来事につい
てはひとことも話るうとはしなかったのだ。いや、話ることができなかったのだ」
私は雨田典彦の顔を見た。しかしその顔にはまだどのような表情も浮かんでいなかった。我々
の会話が彼の耳に届いているのかどうかも、私にはわからなかった。
私は言った。「そして雨田さんはある時点で――どの時点かはわかりませんが――『騎士団長
殺し』という作品を描いた。目ではもはや語ることのできないものごとを、寓意として絵の形に
した。それが彼にできることのすべてだった。とても優れた、力のこもった作品です」
「そして彼は、自分か実際には成し遂げることができなかったことを、その絵の中でかたちを変
えて、いねば偽装的に実現させた。本当には起こらなかったが、起こるべきであった出来事とし
て」
「しかし彼は結局、その描き上げた結を世間には公開することなく、厳重に包装して屋根裏に隠
してしまった」と私は言った。「そのようにかたちを大きく変えた寓意圃であっても、それは彼
にとっていまだにあまりに生々しい出来事であったから。そういうことですか?」
「そのとおりだ。それは彼の生きた魂から純粋に抽出されたものだった。そしてある日、その結
を諸君が発見した」
「つまりぼくがその作品を白日の下に晒したことが、すべてのものごとの始まりになっていると
いうことなのですか? それが環を開いたということなのですか?」
騎士団長は何も言わず、両手の手のひらを広げて上に向けた。
雨田典彦の顔に目に見えて赤みが差してきたのは、少しあとのことだった。私と騎士団長は彼
の表情の変化を注意深く見守っていた。顔に血色が戻るのに呼応するように、その眼球の奥深く
に潜んでいた神秘的な小さな光が、少しずつ表面に浮かびあがってきた。長く深海で作業をして
いた潜水夫が、水圧にあわせて身体を調整しながら、時間をかけて水面に浮上してくるように。
そしてそれまで眼球にかかっていた淡いヴェールが次第に薄れ、やがては両方の目がしっかりと
見聞かれた。私の前にいるのはもう死を目前にした、衰えひからびた老人ではなかった。その目
には一瞬でも長くこの世界に留まろうとする意志が座っていた。
「彼は余力を集結しているのだ」と騎士団長が私に言った。「少しでも多くの意識を取豊根そう
と努めている。しかしながら意識が戻れば、同時に肉体的な苦痛も戻ってくる。彼の身体は肉体
的苦痛を消すための特殊な物質を分泌している。そういう作用があればこそ、それほど激しい苦
痛を感じることもなく、人は静かに息を引きとることができる。しかし意識が戻れば、それと共
に苦痛も戻る。それでもなお彼は意識を取り戻そうと懸命に努めている。たとえ厳しい肉体の苦
痛を引き受けたとしても、彼には今ここでなさなくてはならないことがあるからだ」
騎士団長の言葉を裏付けるように、雨田典彦の顔には次第に苦悶の表情が広がっていった。自
分の身体が老いに冒され蝕まれ、まもなくその機能を停止しようとしていることを彼は今あらた
めて感じとっている。それは何をしたところで回避しようのないことなのだ。彼の生命システム
はほどなく時間切れを迎えようとしている。そんな姿を目にしているのは痛々しかった。余計な
ことはせず、意識を混濁させたまま、苦痛もなく安らかに息を引きとらせてあげるべきだったの
かもしれない。
「しかしそれは雨田典彦自身が避んだことなのだ」と騎士団長は私の心を読んだように言った。
「気の毒だがやかを得ないことだ」
「政彦はまだここに戻ってこないのですか?」と私は騎士団長に尋ねた。
騎士団長は小さく首を振った。「まだ当分は戻ってこないよ。仕事の大事な電話が入っておる
のだ。話はかなり長くなるはずだ」
今では雨田典彦の両目は大きく見聞かれていた。皺だらけの眼高の奥に引っ込んでいるように
見えた目は、まるで人が窓から身を乗り出すように、前にせり出していた。その呼吸はずっと粗
く、深くなっていた。息が喉を出入りするときのざらざらという音が耳に届くほどだった。そし
てその視線は揺らぐことなく、まっすぐ騎士団長の上に往がれていた。間違いない。彼には騎士
団長の姿が見えているのだ。そして彼の顔が浮かべているのは紛れもない驚愕の表情だった。彼
は自分の目が見ているものをまだ信じられずにいるのだ。おそらく自分か結に描いた想像士の人
物の姿が、実際に目の前に出現したという事実が、うまく呑み込めないのだろう。
俄然!面白くなり、濃い展開となる。個人的にはかなり疲れた感が残る。
この項つづく
第1章 「奇跡の成長」の出発点見るウソの数々
第5節 政府の「成長戦略」に期待するのも、間違った認識から
政府の産業政策や、政府金融の重要性を強調したい人たちにとっては、戦後から高度
成長期にかけての時代は、まさに伝説的で英雄的な時代であるべき期間です。現在も、
永田町や霞が間では「成長戦略」という言葉がさかんに使われ、政府が主導して産業を
育てるべきという意見が数多く出されますが、こういう意見を持っている人は、おそら
く「戦後、通産省が導いた経済成長の夢を再び」と考えているのでしょう。
たしかに、政府が主導して産業が育つケースもあります。産業政策が間違いなく効く
のは、産業のゆりかご期から幼少期です。
明治初期の日本の産業は、ョチョチ歩きの状態でしたから、政府が主導して産業を育
てていきました。また、よく、満洲国での急速な産業発展が、戦後の経済政策のモデル
になったなどともいわれますが、それは、当時の満洲国が未開の荒野だったから可能な
ことでした。発展途上国でも、「開発独裁」と呼ばれるような上からの産業政策が効果
を発揮する段階が、問速いなくあります。
日本の場合、明治の中期以降は、官営事業の払い下げなども行われて、徐々に民間中
心に移っていきました。大正時代、昭和初期を経て、第二次世界大戦前には日本にはか
なりの産業が育っていました。少なくともョチョチ歩きの状態はとっくに脱していまし
た。
それどころか、戦前の日本の産業界は、今のアメリカに匹敵するくらいのむき出しの
「資本主義」であり、民間企業が非常に大きな力を特っていました。当時の財閥をイ
メージしてもらえば、よくわかるはずです,
しかし、その後、第二次世界大戦という総力戦を戦うための戦時体制に入って、民間
主導の産業が変質していきました。政府主導による軍事転換が行われ、民生品をつくっ
ていた工場の多くも軍用品をつくるようになりました。政府が主導する統制経済は、戦
時中の特別な体制です。
日本は戦前からすでに産業のインフラが整っており、かなり高度な産業が発展してい
ました。第二次世界大戦に敗れて国土が荒廃したとはいえ、もともと産業基盤はあり、
資本主義の仕組みに十分に慣れ親しみ、高い技能を特つ人が数多くいたわけですから、
それを復活させれば再び成長します。
戦前から日本はすでに「大人の経済」の段階に達していましたから、「ヨチヨチ歩き」
にしか効かない産業政策を通産省が主導したり、政策金融で特定産業を伸ばしたりする
必要などなかったのです。
繰り返し指摘しますが、「傾斜生産方式」や「通産省の業界指導」がほとんど役に立
たなかったことは、今や多くのまともなエコノミストの共通認識です。
実は私は、大蔵官僚だった時代に公正取引委員会(公取)で働いたことかありまし
た。そのとき、通産省の業界指導がまったく効果がなかったことが、痛いほどよくわか
りました。1980年代後半のことです。
通産省の業界指導というのは、早い話が、事実上のカルテルです。1960年代、1
970年代を通じて通産省はずっと業界指導をしてきたわけですが、はっきりいえば、
うまくいったものは1つもありませんでした。私が公取にいた時期に、カルテルによっ
て競争力を落としてしまった企業が、カルテルをやめたくて公取に相談に来たのです。
通産省の業界指導のなれの果てのようなものです。
1960年代、1970年代の日本の産業界は「日本株式会社」といわれていて、通
産省の下で一糸乱れぬ形で株式会社的に運営されてきたとされていました。ところが、
企業の人たちに聞くと「業界指導なんて、まったくうまくいかなかった」と口をそろえ
ていうのです。商社の人に聞いても、「我々は指導なんて受けていませんよ。勝手に海
外に進出しただけです」といっていました。
通産省のやっていたことは、新たな産業を育てることではなく、石炭産業のような斜
陽産業に横から口出しすることがメインでした。あるいは第2章で詳しく紹介します
が、業界の人だちとつきあって、「今後、この分野が成長する」ということがわかった
ら、それが伸びた理由を後づけして、あたかも通産省のおかげであったかのように誇っ
ていただけでした。そのような話を、私は公取時代に、様々な企業の方々から間いたも
のです。
もちろん公取に持ってこられた話ですから、そのような意見はある程度、割り引いて
考えるべきでしょう。しかし、世間の人が思っている「通産省の指導で日本の産業が発
展した」というのは、まったくの間違いだということです。
戦後の日本企業は、一部の許認可企業を除いて、通産省の指導などまったく関係なく
成長を遂げています。むしろ通産省を当てにしなかった企業が戦後の日本産業を発展さ
せています。「通産省の指導で戦後日本の産業が発展した」という事実と反する認識を
持っていると、現在の経済政策に対する認識でも、あまりにも筋の悪い間違いを犯しか
ねません。
繰り返しますが、現実には、幼稚産業国家以外では政府が主導する「成長戦略」は、
ほとんど効果かあません。現在の日本は幼稚産業国家ではなく、高度に産業の発遂し
た一流国です。政府に「成長戦略」を求めるより、民間企業が自分たちでやってしまっ
たほうが、産業界も個々の企業も成長します。
第6節 戦後の「預金封鎖+財産税」は財政再建には意味がなかった
終戦翌年の1946年2月に預金封鎖が行われました。預金封鎖とは、銀行預金など
の金融資産の引き出しを制限することです。当時の預金封鎖は、猛烈なインフレ対策と
して強制的に貨幣の流通速度を下げるためといわれていました。
しかし、本当の目的は債務償還のために富裕層に財産税を課すことでした。これにつ
いては、NHKのテレビ番組(2015年2月16日放送 「ニュースウォッチ9」の
特集「”預金封鎖”もうひとつのねらい」)でも報道されていました。
同番組では、当時の渋沢敬三蔵相の証言記録が紹介されていました。財産税は、国民
が持つ10円超の預金や不動産に最高90%の課税をし、敗戦による国の借金を国民に負
わせる異例の措置とされていました。
つまり、敗戦直後の預金封鎖は、インフレ抑制よりも財政再建が真の目的であったと
いうわけです。
私は、報道された「預金封鎖十財産税」の事実について知っていました。大蔵官僚
だった若いときに、戦後の財政史をよく調べたものですが、「昭和財政史-終戦から講
和まで」(全20巻、大蔵省財政史室編)という資料にうまくまとめられていました。必
要があれば、その原資料も保存文庫という資料室で調べることができました。NHKで
報道されたような手書きの印刷物を私も見たことがあります。
戦後の財政史を勉強した人ならば、預金封鎖が財産税のためであったことは以前から
知っています。と同時に、当時の猛烈なインフレのために、財産税はあまり意味がな
かったこともわかっています。『昭和財政史-終戦から講和まで』にも、そう書かれて
いたと記憶しています。
財産税による増収は、1946年以降の数年間で400億円ほどでした。しかし、イ
ンフレ率が高かったため、増収分か目減りしてしまって、ほとんど意味がなくなってい
たのです。
1946~1949年のインフレ率を東京小売物価指数で見ると、514%(194
6年)、169%(1947)、193%(1948年)、633%(1949)と
なっています。インフレの結果、自然に名目上の歳大熊が増えていき、一般会計歳入の
名目値は、1189億円(1946年)、2145億円(1947年)、5080億円
1948年)、7586億円(1949年)となりました。財産税による増収分の40
0億円がかすんでしまうくらい1949増え方です,
つまり、この間の猛烈なインフレによって、実質的には財産税の税収は大した金熊に
はならなかったということです。預金封鎖は二年間ほど行われましたが、財産税による
徴収よりインフレによる増収のほうが大きかったわけです。
戦後、日本政府は、「預金封鎖と財産税という手段を使ってでも、財政再建をしなけ
ればならない」と考えたわけですが、しかし、説明したように戦後の「預金封鎖十財産
税」は意図通りの成功を収めませんでした。インフレによって税収が増えただけです。
インフレによる実質的な資産の目減りを、経済学では「インフレ税」といいます。税
法による課税ではありませんが、インフレが実質的に税と同じ役割を果たす、という意
味です。インフレは、政府の債務の実質的な削減にもなるのです。
戦後の史実から出てくる教訓としては、精緻な税制を構築するより、インフレ税のほ
うが効果かおるということです。
もちろんインフレが行き過ぎて「ハイパーインフレ」になってしまったら国民生活を
混乱させますので、それは抑えなくてはなりません。戦後のインフレの原因は、生産設
備や原材料の不足による供給不足ですから、それらを増やす政策を打てばインフレ率は
収まっていきます。預金封鎖による資産課税というおかしな政策を行う必要はなかった
のです。
資産課税で需要を抑えようとしたのですが、その結果として、生産も伸びなくなりま
した。本来は、供給サイドに目を向けて、供給を増やす政策を打つべきだったのです。
May 1, 1946
第7節 GHQの改革がなくても、日本は戦前から「資本主義」大国だった
社会の教科書などでは、戦後、アメリカ軍の占領政策によって「経済の民主化」が行
われたことの意義が、ことさらに強調されています。その結果でしょうか。戦後の日本
経済は、アメリカの占領政策によって資本主義が根付いて、経済が生まれ変わったかの
ように誤解している人がいます。
しかし、日本はアメリカの占領政策を待つまでもなく、もともと資本主義の精神が根
付いていた国です。資本主義の土壌があったうえに、アメリカの占領政策が加わったこ
とで、戦後の経済発展の基盤が整ったと見るべきです。
先述のように、明治維新の当初は日本には産業が育っていませんでしたので、官営で
産業振興が図られましたが、産業が育ってくるにつれて、官営事業は民間に払い下げら
れ、民間中心の産業形態へと移っていきました。
大正時代には、第一次世界大戦による好景気で成金が出現するなど、むき出しの資本
主義経済が進んでいきました。金融の自由化も進んでいて、間接金融よりも直接金融が
主体でした。企業は株式公開で市場から資金調達していましたので、銀行など当てにし
ていませんでした。今の日本よりも、もっと資本主義的な経済の仕組みだったのです。
わかりやすくいうと、現在のアメリカのような状態です。当時は、経済的な規制はほ
とんどなく、日本は貧富の格差も非常に大きい国でした。
ところが、戦争の足音が近づいてきて国の仕組みが変わっていきました。戦時体制に
移行し、経済は統制経済に変わっていきます。民間企業は統制されて面白くなかったと
思いますが、戦争中だったので我慢したのです。
そうやって押さえつけていた統制を、終戦後にGHQが1つずつ剥がしていきました。
統制経済の日本をGHQが「民主化」したというのは、あまりにも近複眼的な見方で
す。戦前からの流れを追っていけば、日本にはもともと資本主義の考え方が根付いてい
たものが、たまたま戦争によって統制経済になっていただけであり、敗戦によって統制
経済から元の資本主義経済に戻されたと見るのが素直な見方です。
第8節 農地改革は購買力を増やしたのではなく、共産化を防いだ
戦後の改革の1つに農地改革があります。社会の教科書では、「農民層の窮乏が日本
の対外侵略の重要な動機になった」とGHOぶ考えて改革を求めたことになっています,
当時の日本では、農業従事者は全就業者の五割を占めていました。農地の半分近くは
小作地であったため、大地主から国が強制的に買い上げて小作人に安く売り渡しました。
この農地改革は1946年から950年にかけて段階的に実施されます。その結果、
小作農の比率は、1946年11月には45・9%でしたが、1950年8月には9・
8%にまで減少しました。元農林水産省(農水省)の官僚だったアナリストの山下一仁
氏の研究によれば、当初、GHOは農地改革には関心を持っておらず、日本側の提案で
農地改革が進められたそうです。
農地改革を進めたのは、第一次吉田政権(1946年5月~1947年5月)で農林
相を務め、片山政権(1947年6月~1948年3月)で経済安定本部総務長官だっ
た和田博雄です。和田は、東京帝国大学法学部を1925年に卒業して、農林省に入省。
一時、企両院調査官を務めた人物で、戦後、経済安定本部総務長官を退任したあとは、
社会党(左派社会党)の代議士になっています。
そのような人物ですから、もともと国家統制への関心は高く、戦前の第二次近衛内閣
時代には、企両院調査官として「経済新体制確立要綱」1940年10月)を策定する
中心メンバーとなりました。企両院は、戦争遂行のために経済統制を進める役所ですが、
彼らの「経済新体制確立要綱」安太はあまりに国家社会主義的な内容で、自由主義経
済を標傍する小林一三をはじめとする財界人たちは「赤化思想の産物」と猛反発。その
結果、和田たちは治安維持法違反容疑で逮捕されます(企両院事件。なお和田らは敗戦
後の1945年9月に無罪判決となる)。
そんな和田たちが推進した農地改革によって、農民層の購買力が増えたと主張する人
もいますが、農地改革は経済的には大した効果はありませんでした。晨大の効果は、地
主層が増えて共炭化を防ぐことができたことです。
戦後の日本は、資本主義になるか社会主義になるかの瀬戸際のところにいました。実
際、社会党の片山政権が誕生していたわけですから、社会主義化しても不思議ではあり
ませんでした。戦争の状況次第では、アメリカとソビエト連邦(ソ連)によって分割統
治されて、東西ドイツや南北朝鮮のようになっていてもおかしくはなかったのですが、
アメリカが占領することになり、冷戦が激化するとGHQは社会主義を嫌うようになっ
たために社会主義体制を食い止めることができました,それでもソ連からの社会主義化
の圧力は受けていました。
農地改革を進めたことで、農民たちは格安の値段で土地を買って地主になり、経済的
にも余裕が生まれました。和田自身は左派社会党の議員になるような人物ですから、心
の底では、日本が社会主義化することを望んでいたのかもしれませんが、しかし結果と
しては、自作農(地主層)を増やしたことが社会主義化を防ぐ一因となったと見ていい
でしょう。もともと資本主義的な考え方が根付いていた日本では、自作農となった農民
は、むしろ自民党の根強い支持者層になっていったからです。
まあ、GHQが行った「農地解放」は、明治新政府が西欧を模倣した「地租改革」を第一革命だとす
れば第二の革命だと考えているわたし(たち)は社会主義と資本主義の考え方に差異があるものの大
略同意できるものである。
この項つづく
● 今夜の一曲
『恋人達のペイヴメント』(こいびとたちのペイヴメント)は、1984年10月17日に発売されたALFEE
19枚目のシングル。アルフィーのシングルの中で初めてオリコンチャート1位を獲得した作品。「
メリーアン」でブレイクして以降、初の高見沢俊彦によるリードボーカル曲で、高音ボーカルで歌わ
れている。
あゝ街の灯が冷たい風ににじむ
長い髪 盤君のシルエット・・・立ちつくす街角
もう泣かないで顔をあげてごらん
あどけない微笑を僕にあずけてほしい
世界中に誓えるのさ
愛しているのは 目の前の君だと
さあそばにあいで本枯しの舗道 ペイヴメント
唄 :THE ALFEE
作 詞:高見沢 俊彦
作 曲:高見沢 俊彦