襄公21年(‐553)~定公4年( -506) / 中原休戦の時代
※ ゆるやかな政治、きびしい政治:昭公20年、いよいよ肩いが重くなったとき、
子産は子大叔(したいしゅく)を呼んで言った。「わたしのあとを継いで国政
をあずかる人物は、あなたをおいてほかにいな話を聞いてほしい。わたしは、
政治には二つの方法があると思う。一つはゆるやかな政治、一つはきびしい政
治だ。ゆるやかな政治で人民を服従させることは、よほどの有徳者でないとむ
ずかしい。だから、一般にきびしい政治をとった方がよいのだ。この二つは、
たとえて見れば火と水のようなものだ。火の性質ははげしく、見るからに恐ろ
しいから、人々はこわがって近よろうとしない。だから、かえって火によって
死ぬものは少ない。ところが、水の性質はいたって弱々しいので、人々は水を
恐れない。そのためにかえって、水によって死ぬ者が多い。ゆるやかな政治は、
水のようなもの、一見やさしそうだが、じつは非常にむずかしい」
子産は数カ月にして亡くなり、子大叔があとを引きついだ。かれは、きびしく
人民を抑えることをためらい、寛容を旨として政治を行なった。たちまち盗賊
がはびこった。盗賊たちは萑苻の沢に巣食い、追いはぎ強盗を働いた。子大叔
は、「最初から、子産の忠告にしたがっていたら、こんなことにはならなかっ
たろう」 と、ようやく自分のあやまちに気づき、歩兵をくり出して萑苻(か
んほ)の盗賊を一掃した。その後、しばらくは盗賊たちは賠りをひそめた。
孔子は子産の政治方針を批評した。「これでなくてはいけない。人民というも
のは、為政者が手綱をゆるめれば、つけあがりがちなものだ。そうなれば、為
政者にはきびしさが必要とされる。だが、それも長く続けば、人民は耐えられ
なくなる。そこでまた、手綱をゆるめる必要ができるのだ。
このように、剛柔あい補って、はじめて政治は中庸を得る。
”民草は疲れたり 今しばし休ません
中国を恵みなば 四方の民安らかん”
と、詩(大雅、民労)にもあるが、これは寛大な政治で人民をいたわるさま
をうたったものである。また、
”偽りと悪に親しまず 良心なき人を慎しませ 法を無みする仇をふせげ”
ともいうが、これはきびしい政治で人民をしたがわせることをいう言葉だ。
また、
”遠きをやわらげ 近きをおさめ王室の地位を定めよ”
これは、和によって、人民を安定させることをいうのである。
さらに、和については、詩(商頌、長発)に、
”強いず急がず 剛からず柔からず、和の政により 百の幸集まらん”
とあるが、これこそ和のきわみである」
子産が亡くなったとき、孔子は涙を流し、「かれは、古人にしか求めることの
できぬ仁愛をそなえていた」と、嘆じた。
【ZW倶楽部とRE100倶楽部の提携 11】
● 飲食店などの排水から回収し油脂改質した発電燃料
9月8日、NEDOと(株)ティービーエムは、飲食店や食品工場における排水浄化の過程で分離回収
される油脂を原料とした発電用燃料の製造に日本で初めて成功し、この燃料を利用し発電する100KV
A規模の発電機を搭載した国内最大級のバイオマス発電車を開発したことを公表(上写真)。それに
よると、同月10日、入間市主催の「第23回いるま太鼓セッション」において、(株)松屋フーズの協
力のもと、同社の入間店ほか埼玉県内98店舗から回収された動物性油脂を原料に発電用燃料を製造し、
同イベントに電力供給を行う実証試験を行う。飲食店や商業施設、食品工場などの排水は、下水道法
や水質汚濁防止法で規定する排水基準以下の濃度で排水することが定められている。そのため事実上
/下水道や公共用水域へ汚水や油脂が直接流出することを防ぐグリース阻集器(グリース・トラップ)
の設置が義務付けられている。グリース阻集器で集められる排水油脂(トラップグリース)の賦存量
は、全国で年間31万トンと推定される。排水油脂は、主に動物性油脂から構成されるが、水分含有
率や酸価が高く不純物も多いため、燃料として使うことが困難で未利用資源となっており、これまで
は、産業廃棄物として焼却処分されていた。
今回、排水から分離回収した動物性油脂を精製改質する技術を開発し、化学薬品を一切使わず、副産
物も出さずに発電用燃料に活用することに成功。合わせて、同燃料を利用して発電する100kVA規模
の発電機を搭載した「バイオマス発電車」を開発した。実証実験では、松屋フーズの協力のもと、同
社の入間店ほか埼玉県内98店舗から回収された動物性油脂から製造した発電用燃料を用いて、イベン
ト内の店舗に設置した調理機器や電灯、熱中症対策となるクールスポットを作るミスト発生装置など
に電力を供給している。
滋賀に住み住民運動を担っていたころ、廃食油を回収し苛性ソーダーを加え石鹸(せっけん)をつくる運動や
廃食油にメバイオマスメタノールを加えバイオディーゼル燃料をつくる運動などが展開されていた。そのころか
ら考えると、ブログの1つのテーマである「オールバイオマス事業」のひとつのプロトタイプであり、『菜の花エコ
革命』(藤井絢子著/創森社)のように菜の花の原料から植物油を圧搾採取、また、その他の部位からメター
ノール/エタノールを製造し、この油とアルコールから食用油とディーゼル油をつくりだすという究極の事業の
プロトタイプができあがる、あたは、「経済的合目」を果たせば完成する。
【オール地熱システム構想】
● オール地熱発電システムで完結 Ⅱ
再生可能エネルギーが注目されるなか、世界第3位の資源ポテンシャルを持ちながら、いまだ利用率の
低い地熱発電が見直されている(下表)。資源エネルギー庁の資源・燃料部政策課では、石油天然ガス・
金属鉱物資源機構と連携し、地熱発電を推進することを公表した(2015.07)、2030年度時点で再生可
能エネルギーのうち約5%を見込む。割合としては小さいが、この数字は2013年度時点で約50万kW
の設備容量に対し、割合の約150万kWまで増やす。ブログ「オール地熱発電システムで完結」(2017.
03.27)で掲載しているが、その特徴は、①二酸化炭素排出量がほぼゼロであり、環境適合性に優れて
いること、②他の再生可能エネルギーと比べて、発電コストが低く、季候や天候に左右される太陽光や
風力に比べ、設備利用率が約80%と格段に高いベースロード電源であること、③日本は世界第3位(
2,347万kW)の地熱資源を有していること、④発電後の熱水利用(例:ハウス栽培や養殖事業)など多段階
利用が可能であるというメリットがある(環境ビジネス 2017 AU)。
しかし、いざ建設しようとなるとデメリットも大きい。そこで、事業リスクと必要な資金量に合わせ
た支援が必要となる。地熱発電の導入拡大を図る上では、①掘削成功率の低さと開発コストの高さ、②
リードタイムの長さなどが課題となっている。また、③地域に対する丁寧な説明も重要となる。これ
らの課題に対応するため、資源エネルギー庁では開発フェーズに応じ、補助・出資・債務保証による
支援を政府は行っている。地熱開発のプロセスは、①地表調査・掘削調査、②探査事業、③環境アセス
メント、④開発事業といったフェーズに分かれる。初期~中期のプロセスでは、「資源量調査事業」
としての補助金や「探査出資」としての出資で、最終段階のプロセスでは「開発債務保証」という形
で支援を実施する。「地下に資源があるかどうかを調査・探査する初期~中期の段階は事業リスクが
高くなるが、必要な資金量はそれほど大きくなく、補助金・出資といった形を取っています。対して、
最終段階のプロセスでは事業リスク開発債務保証は低いが、必要な資金量が大きいため、債務保証の
方が重要となる。因みに、2018年度の地熱開発関連の概算要求は合計で205.4債円。内訳は、「初期調
査に対する支援」93億円、「技術開発」」6億円、「地域理解の促進」5億円、「探査事業に対する出資
」15億円、「開発債務保証」66.4債円である。
● ホンダ 太陽光からの充電システムと新型EVを発表
9月12日、ホンダは)、「フランクフルトモーターショー2017(IAA 2017)」において、電気自動
車(EV)を含む新しいエネルギー管理システム(EMS)「Honda Power Manager Concept」を発表。E
Vをスマート電力網に組み込むことで、系統電力や太陽光発電システム、家庭や職場、EVとの間で効
率的な電力の充放電を行う。 また系統電力から供給、または、太陽光パネルにより発電された電力
を建物に供給し、EVを充電するのに利用できる。一方、EVがプラグインされている間、EVの電力を
家庭で利用したり系統電力に戻し、系統電力の安定化にも寄与する。ホンダの英国現地法人Honda
Motor Europe社は、フランス政府が主導する、IoT技術や再生可能エネルギーの利用を促進する「SMI
LE(SMart Ideas to Link Energies)」プロジェクトに参加し、仏西部で2020年までに展開される実証実
験にPower Managerユニットを提供。 同時にホンダは、新EVコンセプトモデル「Honda Urban EV Co-
ncept」を発表した。同社が販売する小型車「フィット(欧州名:Jazz)」より全長が100mm短いコン
パクトカーで、同コンセプトモデルをベースとした量産EVを2019年に欧州で発売する予定。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第51章 今が時だ
「いや、そうではあらない」と騎士団長は私の心を読んで言った。「雨田典彦が今目にしている
のは、諸君が目にしているあたしの姿とはまた連ったものだ」
「ぼくが目にしているあなたの姿とは連った姿を、彼は目にしている?」
「私は要するにイデアなのだ。場合により、見る人により、あたしの姿は自在に変化する」
「雨田さんの目には、あなたはどのように映っているのですか?」
「それはあたしにもわがらん。あたしはいうなれば、人の心を映し出す鏡に過ぎないのだから」
「でもぼくの前に出てきたときには、あなたは意図してその姿を選んだのでしょう。その騎士団
長の姿を。そうじやないのですか?」
「正確に申せば、あたしがその姿を選んだというわけでもあらないのだ。そこでは原因と結果と
が錯綜している。あたしが騎士団長の姿をとったことによって、一連のものごとは動きを開始し
たわけだが、同時にまたあたしが騎士団長の姿をとったことは、一連のものごとの必然の帰結で
もある。諸君の住んでおる世界の時間性に沿って話をするとなかなかにむずかしいことになるが、
ひとことで言ってしまうなら、それはあらかじめ決定されていたことなのだ」
「イデアが心を反映する鏡だとすると、雨田さんはそこに自分が見たいものを見ているというこ
となのですか?」
「見なくてはならないものを見ているのだ」と騎士団長は言い換えた。「あるいはそれを目にす
ることによって、彼は身を切るほどの苦痛を感じているかもしれない。しかし彼はそれを見なく
てはならないのだ。人生の終わりにあたって」
私はもう一度雨田典彦の顔に目を向けた。そして驚愕の念に混じってそこに浮かんでいるのが、
激しい嫌悪の情であることに気づいた。そして耐えがたいまでの苦痛。それは意識と共に戻って
きた肉体の苦痛だけではない。そこにあるのはおそらく、彼自身の精神の深い苦悶なのだ。
騎士団長は言った。「彼はこのあたしの姿を見定めるためにハ最後の力を振り絞って意識を取
り戻したのだ。激しい苦痛をものともせず。彼はもう一度二十代の青年に戻ろうとしているの
だ」
雨田典彦の顔面は今ではそっくり真っ赤に染まっていた。熱い血流が戻ってきたのだ。乾いた
薄い唇が細かく震え、息づかいは激しい喘ぎに変わって私は心を決めかねたまま、騎士団長と雨
田典彦の顔とを交互に見ていた。私にかろうじてわかるのは、雨田典彦が何かをきわめて強く求
めており、騎士団長の決意がきわめて固いということだけだった。その二人のあいだで、私一人
だけが心を決められずにいるのだ。
私の耳はみみずくの羽音を聞き、真夜中の鈴の音を聞いた。
すべてがどこかで結びついている。
「そう、すべてはとこかで結びついておるのだ」と騎士団長は私の心を読んで言った。「その結
びつきから諸君は逃げ切ることはできない。さあ、断固としてあたしを殺すのだ。良心の呵責を
感じる必要はあらない。雨田典彦はそれを求めている。諸君がそうすることによって、雨田典彦
は救われる。彼にとって起こるべきであったことがらを、今ここに起こさせるのだ。今が時だ。
諸君だけが彼の人生を最後に救済することができるのだ」
私は席を立って、騎士団長の座っている椅子の方に歩いて行った。そして彼の抜いた剣を手に
取った。何か正しいことなのか、何か正しくないことなのか、その判断が私にはもうつかなくな
っていた。空間と時間を欠いた世界では、前後や上下の感覚さえ存在しないのだ。私という人間
がもう私ではなくなってしまったような感覚がそこにはあった。私と私自身とが乖離しているの
だ。
実際に手にしてみると、その剣の握りの部分は私の于には小さすぎることがわかった。小さな
人が手に取るようにできたミニチュアの剣なのだ。いくら刃先が鋭いとはいえ、そんな短い柄を
握って騎士団長を刺殺することはほとんど不可能だった。その事実は私を少しほっとさせた。
「この剣はぼくには少し小さすぎる。うまく彼うことができません」と私は騎士団長に言った。
「そうか」と騎士団長は言って小さくため息をついた。「仕方あるまい。画面の再現からはまた
少し遠くなるが、別のものを使うことにしよう」
「別のもの?」
騎士団長は部屋の隅にある小さなタンスを指さした。「そのいちばん上の抽斗を開けてみなさ
い」
私は整理ダンスの前に行っていちばん上の抽斗を開けた。
「その中に魚をおろすための包丁が一本入っているはずだ」と騎士団長は言った。
抽斗を開けると、きれいに畳まれた何枚かのフェイス・タオルの上に、たしかに出刃包丁が置
かれていた。それは雨田政彦が鯛を調理するためにうちに持参した包丁だった。その二十センチ
ほどの長さのがっしりとした刃は、鋭く入念に研ぎ上げられている。政彦は昔から道具にこだわ
る男だった。当然ながら手入れもいい。
「さあ、それを使ってあたしをぐさりと刺し殺すのだ」と騎士団長は言った。「剣でも包丁でも、
なんだってかまわない。あの『騎士団長殺し』の中にあったのと同じ場面をここに再現するのだ。
急ぐことが肝要だ。あまり時間はあらない」
包丁を手に持つと、それは石でできたもののようにずしりと重かった。窓から差し込む明るい
陽光を受けて、刃先が白く冷ややかに光った。雨田政彦の持参した包丁はうちの台所から要を消
して、この部屋の抽斗の中で、拡がやってくるのを待ち受けていたのだ。そして政彦は(結果的
に)父親のためにその刃先を研ぎ上げたのだ。拡はどうやらその運命から逃れることができない
ようだった。
私はまだ心を決めかねたまま、それでも椅子に腰掛けた騎士団長の背後にまわり、包丁をしっ
かりと右手に握り直した。雨田典彦はベッドに横になったまま目を大きく見開き、こちらを見つ
めていた。歴史的な大事件をまさに目の前にしている人のように。口が開けられ、その奥に黄ば
んだ歯と、白みを帯びた舌が見えた。その舌は何かの言葉を形作るうとするように、ゆっくりと
した動きを見せていた。しかし世界がその言葉を耳にすることはないだろう。
「諸君はけっして暴力的な人間ではあらない」と騎士団長は私に言い聞かせるように言った。
「そのことはよくよく知っておるよ。諸君のひととなりは、人を刺し殺すようにつくられてはあ
らない。しかし人には、大切なものを救うために、あるいは大きな目的のために、意に染まない
ことをなさなくてはならない場合がある。そして今がまさにそれだ。さあ、あたしを殺すのだ。
あたしはこのとおり小さな身休だし、抵抗もしない。ただのイデアだ。ただその刃先を心臓に突
き立てればよろしい。簡単なことだ」
騎士団長は小さな指先で自分の心臓の位置を示した。心臓のことを考えると、妹の心臓のこと
を思い出さないわけにはいかなかった。妹が大学病院で心臓手術を受けたときのことを私はよく
覚えていた。それがどれほど困難で微妙な手術であったかを。問題を抱えたひとつの心臓を救う
のは至難の業なのだ。何人もの専門医と大量の血液が必要とされる。しかしそれを破壊するのは
簡単なことだ。
騎士団長は言った。「ああ、そんなことを考えてもしかたあるまいぜ。秋川まりえを取り戻す
には、諸君はどうしてもそれをしなくてはならないのだ。たとえやりたくないことであっても。
わたしの言うことを信じるのだ。心を捨て、意識を閉ざすのだ。しかし目を閉じてはならない。
しっかりと見ているのだよ」
私はその包丁を騎士団長の背後から振りかざした。しかしそれを振り下ろすことはどうしても
できなかった。たとえイデアにとってそれが無数分の一の死に過ぎなくても、私が私の目の前に
あるひとつの生命を抹殺するということに変わりはない。それは雨田継彦が南京で、若い将校か
ら命じられた殺人行為と同じことではないのか?
「同じではあらない」と騎士団長は言った。「この場合は、あたしがそれを求めているのだ。自
分自身が殺されることを、あたしが求めているのだ。それは再生のための死なのだ。さあ、心を
決めて環を閉じるのだ」
私は目をつより、宮城県のラブホテルで女の首を続めたときのことを思い出した。もちろんそ
れはただの真似事だった。女に求められ、殺さない程度にその首を柔らかく絞めた。しかし結局
私はその行為を、女が求めるほど長く続けることができなかった。もしそれ以上続けていたら、
私は実際にその女を殺してしまっていたかもしれない。私がそのときラブホテルのベッドの上で、
自分のうちに一瞬見いだしたのは、これまで覚えたこともないような深い怒りの感情だった。そ
れは血の通った泥のように、私の胸の中で大きく黒々と渦巻き、そして本物の死に紛れもなく近
接していた。
おまえどこで何をしていたかおれにはちやんとわかっているぞとその男は言った。「さあ、そ
の包丁を振り下ろすのだ」と騎士団長は言った。「諸君にはそれができるはずだ。諸君が殺すの
はあたしではない。諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。邪悪なる父を殺し、その血を大地に
吸わせるのだ」
邪悪なる父?
私にとって邪悪なる父とはいったい何だろう?
「諸君にとっての邪悪なる父とは誰か?」と騎士団長は私の心を読んで言った。「その男を諸君
はさきほど見かけたはずだ。そうじやないかね?」
私をこれ以上絵にするんじやないとその男は言った。そして暗い鏡の中から私に向かってまっ
すぐ指をつきつけていた。その指先はまるで刃物の切っ先のように、私の胸に鋭く突き刺さった。
その痛みと共に、私は反射的に心を閉ざした。そしてしっかりと目を見開き、すべての思いを
払いのけ、(あの『騎士団長殺し』のドン・ジョバンニがそうしていたように)すべての感情を
奥に押し隠し、表情をそっくり消し去り、包丁を一気に振り下ろした。その鋭い刃先は騎士団長
が指さしている小ぶりな心臓をまっすぐに刺し突いた。生きている肉体の具えた強い手応えがあ
った。騎士団長自身は抵抗のそぷりをみじんも示さなかった。小さな両手の指が空をつかもうと
もがいていたが、それ以外にはどのような勤きも見せなかった。しかし彼の宿った身体は、すべ
ての筋肉の力を振り絞って、切迫した死から逃れようと努めた。騎士団長はイデアだが、その肉
体はイデアではない。それはあくまでイデアが借用している肉体であり、その肉体にはおとなし
く死を受容するつもりはなかった。肉体には肉体の論理がある。私はその抵抗を力尽くで押さえ
つけ、相手の息の根を完全に止めてしまわなくてはならない。騎士団長は「あたしを殺しなさ
い」と言った。しかし現実に私か殺しているのは、ほかの誰かの肉体なのだ。
すべてを放り出し、このままこの部屋から逃げ出してしまいたかった。しかし私の耳には騎士
団長の言葉がまだ響いていた。「秋川まりえを取り戻すには、諸君はどうしてもそれをしなくて
はならないのだ。たとえやりたくないことであっても」
だから私は包丁の刃を騎士団長の心臓により深くのめり込ませた。ものごとを中途半端にやめ
るわけにはいかない。刃先は彼の細い身体を突き抜け、背後にまで突き出た。彼の白い衣服は真
っ赤に染まっていた。包丁の柄を握った私の両手も鮮血に染まっていた。しかし『騎士団長殺
し』の両面にあったように勢いよく血が噴き出すということはなかった。これは幻なんだと私は
考えようと努めた。私か殺しているのはただの幻に過ぎないのだ、これはあくまで象徴的な行為
なのだ。
でもそれがただの幻ではないことは、私にはわかっていた。それはあるいは象徴的行為である
かもしれない。しかし私が殺しているのは決して幻なんかではなかった。私が殺しているのは紛
れもないひとつの生身の肉体なのだ。雨田典彦の筆によって生み出された、僅か体長六十センチ
の小さな架空の身体だったが、その生命力は思いのほか強かった。私が手にした包丁の刃先は、
その皮膚を突き破り、何本かの肋骨を砕き、小さな心臓を貫き、背後の椅子の背にまで達してい
た。それが幻であるわけがない。
雨田典彦はこれまで以上にかっと大きく目を見開いて、そこにある光景を直視していた。私が
騎士団長を刺し殺している光景を。いや、そうじゃない、今ここで私に殺されようとしている相
手は、彼にとっては騎士団長ではない。彼が目にしているのはいったい誰なのだろう? 彼がウ
ィーンで暗殺しようと計画していたナチの高官なのか。南京城内で弟に日本刀を渡し、三人の中
国人捕虜の首を斬らせた若い少尉なのか。それとも彼らすべてを生み出したもっと根源的な、邪
悪なる何かなのか。もちろん私にはそれはわからない。彼の顔から感情らしきものを読み取るこ
とはできなかった。そのあいだずっと、雨田典彦の口が閉じられることはなかった。何か勤くこ
ともなかった。ただそのもつれた舌だけが、何かの言葉をかたち作ろうと空しい努力を続けてい
た。
やがてある時点で騎士団長の首と腕から力がすっと抜けた。身体全休が急速に張りを失い、糸
を切られた操り人形のようにずるずると下に崩れ落ちようとした。それでも私は彼の心臓に、な
おも包丁を深く突き立てていた。部屋の中のすべてが動くことなくその構図を維持していた。そ
れが長い時間続いた。
まず最初に動きを見せたのは雨田典彦たった。騎士団長が意識を失ってぐったりとしてからほ
どなく、その老人もまた精神を集中する力を使い果たしたようだった。まるで「見るべきものは
見届けた」と言わんばかりに、彼は一度大きく息を吐き出し、それから目を閉じた。まるで鎧戸
をおろすみたいにゆっくりと重々しく。口だけがまだ聞かれていたが、もうそこにもったりとし
た舌は見えなかった。黄ばんだ歯が空き家の垣根のように不揃いに並んでいるだけだ。顔はもう
苦悶の表情は浮かべてはいなかった。激しい苦痛は去ったのだ。その顔に浮かんでいるのは、安
らかに落ち着いた表情だった。彼は昏睡という平穏な世界に、意識もなく苦痛もない世界に、再
び戻り着くことができたようだ。私は彼のためにそのことを喜ばしく思った。
私はそこでようやく手に込めた力を抜き、騎士団長の身体から包丁を抜いた。その間いた傷口
から血液が勢いよく噴き出した。『騎士団長殺し』の両面に描かれているのと同じように。包丁
を抜くと、騎士団長は支えを失ったように、そのまま椅子の中に力なく崩れ落ちた。目はかっと
大きく見開かれ、口は苦痛に激しく歪んでいた。両手の小さな十本の指は虚空に突き出されてい
た。その生命は完全に失われ、血液が彼の足下に赤黒い溜まりをつくっていった。小柄な身体の
わりに流れ出た血の量は驚くほど多かった。
そのようにして騎士団長は 騎士団長の姿をとったイデアは――遂に落命した。雨田具彦は
深い昏睡の中に戻っていった。今この部屋に残された意識あるものといえば、血に濡れた雨田政
彦の出刃包丁を右手にしっかりと握りしめ、騎士団長の脇に立ちすくんでいるこの私だけだった。
私の耳に届くのは、私自身の荒く急いた息づかいだけであるべきだった。しかしそうではなかっ
た。私の耳はそこに何かしら別の不穏な動きを聞きつけていた。それは音と気配との中間にある
ものだった。耳を澄ませるのだ、と騎士団長は言った。私は言われたとおり耳を澄ませた。
何かがこの部屋の中にいる。何かがそこで動いている。私は血に濡れた鋭い刃物を手にしたま
ま姿勢を変えることなく、目だけをそっと動かして、その音のする方を見た。そして部屋の奥の
隅にいるものの姿を目の端に認めた。
顔なががそこにいた。
私は騎士団長を刺殺することによって、顔ながをこの世界に引きずり出したのだ。
『騎士団長殺し』が「邪悪なる父」にすりかわり、雨田典彦は「何かの言葉」をかたちづくり終えた
(?)その後、穏やかに他界し、騎士団長の”死”は「顔なが」をこの世に引きずり出す、この51
章(節?)の展開に息を呑み、読み終えしばらく無言で考え込む。
この項つづく
❏ 荒木一郎 空に星があるように
「空に星があるように」(そらにほしがあるように)は、荒木一郎が自ら作詞作曲した1966年のヒッ
ト曲。荒木にとってのデビューシングルで、B面は「夕焼けの丘」。1966年9月5日発売。荒木自身が
パーソナリティを務めた東海ラジオの番組『星に唄おう』のテーマ曲に起用されたことにより、当曲
が全国的に知られるきっかけとなった(なお『星に唄おう』は東海ラジオにとって開局以来初となる
NRN全国ネット番組でもあった。提供は森永乳業で、首都圏はニッポン放送、関西は朝日放送にネッ
ト)。高校の合同同窓会の案内状が届く。フォークソングバンド(トリオ)仲間のリーダ役の木沢義
明氏が亡くなられたことを知る。もう一人の田邊進氏とは音信不通状態にある。荒木一郎の曲が好き
だった同期の入社の野村和夫氏も40半ばで夭折しているから追憶の詰まった一曲である。
● 今夜の寸評:巨体化の試練
大相撲が休場者が相次ぎ盛り上がらないと彼女が言う。そういえばテレビ観戦もしていない。解説者
によると体格が大きいからどうしても大きい衝撃に耐えられず怪我が絶えないという(世界一過酷な
商業スポーツだ)。プロ野球にしろ、水泳選手にしろその傾向は皆同じように思える。そういえば、
最強力士と期待した逸ノ城は大きすぎて取り口にキレがなく色褪せている。日馬冨士のそれは気合い
が空回りし勝機に見放されている。いまさらだが、”柔よく剛を制す”はこのまま死語となるのだろ
うか。ビジネスとしての大相撲も試練の秋である。