♚ 仁者に敵なし:恵王が言った。「ご承知のとおり、むかし
わが回は天下最強を跡っていました。ところがわたしの代
になって、東では斉に敗れて太子を亡くし、西では泰に
七百里の領土を奪われた。そのうえ南でも楚に敗戦の侮辱
をうけた。無念やるかたありません。死者の霊を慰めるた
めにも、ぜひこの恥はすすぎたい。いったい、どうすれば
よろしいか」
孟子は答えた。
「百里四方の領土しか持だない君主でも、りっぱに天下の
王者になることができます。そのためには、仁政を施すこ
とです。むやみに刑罰を課さず、租税を幌くし、人民が安
心して仕事に励めるようにしてやるのです。若者には仕事
のあい間に孝悌忠信の道徳を学ばせ、父兄によく仕え、目
上を敬うように指導するならば、たとい秦・楚の軍備がい
かに強大でも、いざとなれば人民は竹槍を作ってでも敵に
ぷつかっていきます。
敵国では人民を徴用にかりたて、そのため人民は働く暇を
奪われて親を養えないでいます。親は飢えと寒さに苦しみ、
家族は離散の状態にある。人民をこれほどの苦しみに追い
やっている相手の国へ、あなたが征伐の軍をくり出せば、
だれも人手向かう者はないはずです。"仁者に敵なし"とは
このことです。どうか碩信をもって実行してください」
〈晋〉春秋時代の大国で、文公のとき覇者となったが、の
ちのも韓・魏・趙の分立によって滅亡した。ここで梁の恵
王が自国を晋と称しているのは、われこそ晋の正続を承け
継ぐものと自負し、再び天下に号令しようとの心があるか
らである。
〈里〉周代の度量衡では、一里は約405メートル。
【解説】攻めても攻められても民衆の支持を得ているほう
に軍配があがる。領土の大小、武器の優劣は決定的要因で
はない。
【Renewables 2017:太陽光発電急伸 22年再エネ世界エネルギーの1/3】
10月4日、国際エネルギー機関(IEA)は、太陽光発電の急伸により再生可能エネルギー費をリードし、
2022年には再生可能エネルギーが世界のエネルギー1/3を占めることになるとの見通しを公表。そ
れによると、強力な太陽光発電市場を背景に、再生可能エネルギーは2016年に世界の新発電容量のほ
ぼ3分の2を占め、過去最高の記録となる165ギガワット(GW)であった。これは、主にコスト削減
と政策支援により、中国および世界各地での太陽光発電の普及が好調に推移したことを受けたことによる
とのこと。
昨年、世界の新太陽光発電容量は50%増加し74ギガワットを超える。このうち、中国はこの拡大のほ
ぼ半分を占める。太陽光発電の追加は他のどの燃料よりも速く増加し、石炭の純成長を上回っている。こ
の展開に伴い、キロワット時に最低3セント(3・2円)の記録的な応札価格を記録。インド、アラブ首
長国連邦、メキシコ、チリなど、さまざまな場所で太陽光と風力の低公表価格が記録されていく。これら
の太陽光発電および風力購入契約の契約価格は、新しく建設されたガス/石炭発電所の発電コストに匹敵
もしくはそれ以下を達成し、2022年までに再生可能エネルギーの新しい時代を迎える見込みである。
昨年度実績は、IEAの電力予測のベースとなり、2022年まで引き続き堅調に推移し、再生可能電力容
量は920ギガワット(GW)以上に拡大し、43%の増加すると予測する。今年の再生可能な予測では、
主に中国とインドにおける太陽光発電の上方修正により昨年よりさらに12%高くなる見通し。
太陽光発電は新しい時代に突入し、今後5年間、太陽光発電は、風力と水力をはるかに上回る再生可能エ
ネルギーの年間最大発電容量を記録することになるだろう。これは昨年の報告書と比較し、3分の1以上
に見直しとなる。この背景には、政策変更による継続的技術革新とコストの削減、さらに中国のかつてな
いほどの市場拡大にとるものだと推進する。
Oct. 3, 2017
【蓄電池篇:恐るべしわずか6分で超急速充電】
10月3日、東芝は、チウムイオン電池の負極材として一般的に使用される黒鉛と比較して、2倍の容量
を持つチタンニオブ系酸化物を負極材に用いた、次世代リチウムイオン電池(次世代SCiBTM )の試作に
成功したことを公表している。次世代SCiBTMは 高エネルギー密度でかつ超急速充電が可能であり、電気
自動車(EV)用途に適し搭載すると、6分間の超急速充電で、従来のリチウムイオン電池を搭載したコン
パクトEVと比較し走行距離を3倍の320キロメートル延ばすことができる(下図)。今後、電池のエネ
ルギー密度のさらなる向上による走行距離の伸長を進め、2019年度の製品化を目指す。
Oct. 2 ,2017
❏ 光触媒で海水から水素燃料を取り出す
9月28日、米南フロリダ中央大学の研究グループが、非貴金属系光触媒で海水から水素生成することに
したことを公表している(上図クリック)。それによれば、酸化チタン(TiO2)ベース硫化モリブデン
(MoS2)ヘテロ構造型非金属プラズモニック光触媒での高効率な水素(H2)生成にできる。大面積型酸
化チタン( TiO2)に硫化モリブデン(MoS2)ナノ空洞アレイ積層は、陽極酸化・物理蒸着・化学蒸着プロセスで作
製する。 紫外可視(UV-Vis)波長から近赤外(NIR)波長および有限要素周波数領域シミュレーション(論理的シミ
ュレーション)の広いスペクトル応答は、このヘテロ構造型光触媒が水素イオン還元活性の増強を低い触媒負荷
量で高い水素収率が達成できることを示唆するのである。これにより、電荷移動経路を効果的に制御する
共形塗布硫化モリブデン(MoS2)を介したプラズモン共鳴に相関する空間的に均一なヘテロ構造は、独
自の太陽エネルギー吸収と光触媒による水素(H2)製造に重要であることがわかる。この研究成果から、
資源が豊富な非金属土類型光触媒活性が、プラズモン効果で増強され、化学燃料への太陽エネルギー変換
に優れた触媒剤であることを証明している(詳細、下表クリック)。
Sep.28, 2017
※ 参考特許
・特表2015-531731 水素生産のための金属硫化物をベースとする組成物光触媒イエフペ エネルジ ヌヴェル 他
2015年11月05日
・特開2015-142882 水素生成触媒久保田 博 2015年08月06日
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第56章 埋めなくてはならない空白がいくつかありそうです
わけのわからないことはいくつもあった。しかしそのとき私の頭をいちばん悩ませていたのは、
どうしてこの穴の中に一条の光も差し込んでこないのだろうということだった。きっと誰かが穴
の入り口を何かでぴたりと塞いでしまったのだ。でもいったい誰が何のためにそんなことをしな
くてはならなかったのか?
その誰かが(誰であれ)、蓋の上に大きな重い石をいくつも積み重ねて、もともとそうであっ
たような石塚にして、この穴を厳重に封印してしまったのではないことを私は祈った。もしそう
であれば、私がこの暗闇から抜け出せる可能性はゼロになってしまう。
ふと思いついて、懐中電灯の明かりをつけ、腕時計を見た。時計の針は四時三十二分を指して
いた。秒針はちゃんと時計回りに時を刻んでいた。時間は確かに経過しているようだ。少なくと
もここは時間というものが存在し、一定の方向に規則正しく流れている世界なのだ。
でもそもそも時間とはなんだ? 私はそう自分に間いかけた。私たちは便宜的に時計の針で時
間の経過を計っている。しかし本当にそれは適切なことなのだろうか? 実際に時間はそのよう
に規則正しく一定方向に流れているのだろうか? 私たちはそのことについいて、なにか大きな
思違いをしているのではあるまいか?
私は懐中電灯のスイッチを切り、再び訪れた完全な暗闇の中で長いため息をついた。時間につ
いて考えるのはもうやめよう。空間について考えるのもやめよう。そんなことについて考えを巡
らせたところで、どこにも辿り着けない。神経を無益に擦り減らすだけだ。何かもっと具体的な、
目で見え、手で触ることのできるものごとについて考えなくてはならない。
だから私はユズのことを考えた。そう、彼女は目で見え、手で触ることのできるものごとのひ
とつだ(もしそのような機会が与えられればだが)。そして彼女は今、妊娠している。来年の一
月には子供が私ではないとこかの男を父親とする子供が生まれることになる。遠く離れた場所で、
私とは闇係のないものごとが着々と進展している。私とは繋がりのない新しい生命がひとつ、こ
の世界に登場しようとしている。そしてそのことについて彼女は私に何も要求してはいない。で
はなぜ彼女はその相手の男と結婚しようとしないのだろう? その理由がわからない。
彼女がもしシングル・マザーになるつもりなら、今勤めている建築事務所はおそらく退職しな
くてはならないだろう。小さな個人事務所だし、出産する女性に長い産休を与えるほどの余裕は
ないはずだ。
でも納得のいく答えは、どれだけ考えても引き出せなかった。私は暗闇の中でただ途方に暮れ
るだけだった。そして暗闇は、私の感じている無力感を更に増幅させた。
もしこの穴の底から出ることができたなら、思い切ってユズに会いにいこう。彼女がほかに恋
人を作り、唐突に私から去っていったことで、私はもちろん心に傷を負ったし、それなりに怒り
を感じたと思う(そこに怒りがあることを自分で認められるまでにずいぷん時間はかかったが)。
でもいつまでもそんな気持ちを抱えたまま生きていくわけにはいかない。コズに会って、きちん
と向き合って話をしよう。そして彼女が今何を考えているのか、何を求めているのかを本人に確
かめなくてはならない。まだ手遅れにならないうちに……。私はそう心を決めた。心を決めてし
まうと、いくらか気持ちが楽になった。もし彼女が私と友だちになりたいというのなら、なって
もいい。それもまったく不可能ではないかもしれない。地上に出ることさえできたなら、そこに
何かしらの道理のようなものがみつけられるかもしれない。
それから私は眠りについた。横穴に入るときに革ジャンパーを説いで置いてきたせいで(私の
あの革ジャンパーは、これからいったいどこでどのような運命を辿ることになるのだろう?)、
身体はだんだん寒さを感じるようになってきた。半袖のTシャツの上に薄いセーターを着ている
だけだし、セーターは決い横穴を這って通り抜けてきたせいで、見る影もなくぼろぼろになって
いる。そして私はメタファーの世界から現実の世界に戻ってきた。言い換えるなら、まっとうな
時間と気温を持つ世界に復帰したということだ。それでも寒さよりは、眠さの方が勝っていた。
私は地面に座り込んで、硬い石壁に背中をもたせかけた姿勢のまま、知らないうちに眠りについ
た。それは夢もなく箱晦もない、どこまでも純粋な眠りだった。アイルランド沖の海底深く沈ん
だスペインの黄金のように、誰の手も遠く及ばない孤独な眠りだった。
目を覚ましたとき、私はやはり暗闇の中にいた。顔の前に指を上げても、何も見えないような
深い暗闇だ。真っ暗なせいで、眠りと覚醒の境目がうまく見定められなかった。どこからが眠り
の世界なのか、どこからが覚醒の世界なのか、白分かそのどちら側にいるのか、あるいはどちら
側にもいないのか、うまく判断がつかなかった。私は記憶の袋をどこかから引きずり出し、まる
で金貨を数えるみたいに、いくつかのものごとを順ぐりに思い出していった。飼っていた黒猫の
ことを思い出し、プジョー205のことを思い出し、免色の白い屋敷のことを思い出し、『薔薇
の騎士』のレコードのことを思い出し、ペンギンのフィギュアのことを思い出した。私はそれら
すべてをひとつひとつ明瞭に思い出すことができた。大丈夫、私の心はまだ二重メタファーに食
べられてしまってはいない。ただ深い暗闇の中に置かれているせいで、眠りと覚醒の区別がつき
にくくなっているだけのことだ。
私は懐中電灯を手に取り、スイッチを入れて明かりを片手で覆い、指の隙間からこぼれる光で
腕時計の文字盤を見た。針は一時十八分を指していた。この前見たときにはそれは四時三十二分
を指していた。ということは私はここで、このぎこちない姿勢のまま九時間も眠ったということ
なのだろうか? それは考えがたいことだった。もしそうであれば、身体はもっと痛みを訴えて
いるはずだ。それよりはむしろ、知らないあいだに時間が三時間ばかり逆戻りをしたという方が
理にかなっているように思えた。でも確かなことはわからない。ずっと濃密な暗黒の中に身を置
いているせいで、時間の感覚がすっかり狂ってしまったのかもしれない。
いずれにせよ、寒さは前より痛切になっていた。そして尿意も感じるようになった。我慢でき
ないほどの尿意だ。しかたなく、私は穴の隅に行って地面に放尿した。長い放尿だったが、尿は
すぐに地面に吸収されていった。微かなアンモニアの匂いがしたが、それもすぐに消えてしまっ
た。そして尿意が解消してしまうと、そのあとをすぐに空腹感が埋めた。私の身体はゆっくりと、
しかし着実に現実の世界に適合しつつあるようだった。あのメタファーの川で飲んだ水の作用が、
身体から抜け落ちつつあるのかもしれない。
一刻も早くここから抜け出さなくてはならない。私はあら ためてそれを痛感した。それがで
きなければ、遠からずこの穴の座で餓死してしまうことになるだろう。もし水分と栄養が供給で
きなければ、生身の人間は生命を維持することができない。それがこの現実の世界のもっとも基
本的なルールのひとつだ。ここには水もなければ食べ物もない。あるのは空気だけだ(蓋はぴた
りと塞がれてはいたがどこかから微かに空気が入りこんでくる感触はあった)。空気も愛も理想
もたいへん重要なものだが、それだけでは生きていけない。
私は地面から立ち上がり、つるつるの石壁をなんとかよじ登れないものかとひと通り試してみ
た。しかし予想した通り、所詮は無駄な努力だった。壁の高さは三メートルより少し低いくらい
だが、何の突起もない垂直の壁をよじ登ることは、特殊な能力を具えていない人間にはまず不可
能だ。それにもしよじ登れたとしても、穴には蓋がかぷさっている。その蓋を押し開けるには、
しっかりとした手がかりか足場が必要になる。
私はあきらめて再び地面に座り込んだ。あと私にできることは、ひとつしか残されてなかった。
鈴を鳴らすことだ。騎士団長がやったように。しかし騎士団長と私とのあいだにはひとつ大きな
相違がある。それは騎士団長はイデアであり、私は生身の人間だということだ。イデアは何も食
べなくても空腹を感じないが、私は感じる。イデアは餓死しないが、私は比較的簡単に餓死する
ことができる。騎士団長は百年でも飽きずに鈴を鳴らし続けることができるが(彼は時間の観念
を持たない)、私が水もなく食べ物もなく鈴を鳴らし続けられる期間はせいぜい三日か四目とい
うところだろう。そのあとはもう、軽い鈴を振る力さえ残されてはいないはずだ。
それでも私は暗闇の中で鈴を振り続けた。それ以外に私にできることは何もなかったからだ。
もちろん声を限りに助けを求めることはできる。でも穴の外は人気のない雑木林の中だ。雨田家
の私有地である雑木林の中には、よほどのことがない限り人は足を踏み入れない。それに加えて、
今ではその穴の入り口は何かでぴたりと密閉されている。どれだけ大声で叫んだところで、声は
誰の耳にも届かないだろう。声が榎れ、喉の渇きが増すだけだ。それなら鈴を振っている方がま
だましだ。
そしてまた、この鈴はどうやら普通ではない音の響かせ方をするようだった。おそらく特殊な
機能を具えた鈴なのだろう。物理的には決して大きな音がするわけではない。しかし私は遠く離
れたうちのベッドの中から、深夜にこの鈴の音をはっきり耳にすることができた。そしてこの鈴
が鳴らされているおいたは、あのやかましい秋の虫たちもぴたりと鳴くのをやめていた。まるで
鳴くことを堅く禁じられているみたいに。
だから私は石壁にもたれて鈴を鳴らし続けた。軽く手首を左右に勤かし、できる限り心を空っ
ぽにして鈴を鳴らした。ひとしきり鈴を鳴らし、しばらく休みを取り、それからまた鳴らした。
騎士団長がかつてそうしていたのと同じように。無心になるのは決してむずかしいことではなか
った。鈴の音に耳を澄ませているとごく自然に、とりたてて何かを考える必要もないのだという
心持ちになった。光の中で鳴らす鈴の音と、暗黒の中で鳴らす鈴の音とは、まったく遠ったもの
として聞こえた。たぶん実際にまったく遠ったものなのだろう。そして私はその鈴を振っている
あいだ、出口のない深い暗闇の中に一人ぼっちで閉じ込められていながら、さして恐怖を感じる
こともなく、不安を感じることもなかった。寒さや空腹感さえ忘れてしまいそうになった。論理
の筋道を探し求める必要性もほとんど感じなくなった。言うまでもなく、それは私にとってはず
いぶんありかたいことだった。
鈴を鳴らすのに疲れると、石壁にもたれたまま浅い眠りに落ちた。目が覚めるたびに私は明か
りをつけて時計の時刻をチェックした。そしてそのたびに、時計の針が指している時刻がでたら
めなものであることを知った。もちろんでたらめなのは時計ではなく、私の方かもしれない。た
ぶんそうなのだろう。でもそれももうどちらでもいいことだった。私は聞の中で手首を振って無
心に鈴を鳴らし、疲れると深い眠りに落ち、目覚めるとまた鈴を鳴らした。その際限ない繰り返
したった。繰り返しの中で意識はどんどん希薄になっていった。
穴の底にはどんな音も届かなかった。鳥の声も、風の音も一切聞こえなかった。なぜだろう?
なぜ何も聞こえないのだろう? ここは現実の世界であるはずだ。腹も減れば尿意も催す現実の
世界に私は戻ってきたのだ。そして現実の世界はもっといろんな音で満ちているはずなのに。
どれはどの時間が経過したのか、私には見当もつかない。私はもう時計を見ることをすっかり
やめてしまっていた。時間と私は互いに、うまく接点を見つけることができなくなっているよう
だった。そして日にちと曜日は、時刻なんかより更に理解を超えたものになっていた。そこには
昼もなければ夜もなかったからだ。そうするうちに私は暗闇の中で、自分の肉体のありかさえよ
く理解できないようになっていった。私は時間ばかりではなく、私白身との接点さえうまく見つ
けられないようになったみたいだった。そしてそのことが何を意味するのか、私には理解できな
かった。というか、理解しようという気持ちさえ消え失せていた。仕方がないから、私はただ鈴
を鳴らし続けた。手首の感覚がほとんどなくなってしまうまで。
永遠のように思える時間が経過したあと(あるいは海岸の彼のようにさんざん寄せたり引いた
りしたあと)、そして空腹感が耐え難いほどのものになってきた頃、ようやく頭上から何かの物
音が聞こえてきた。誰かが世界の端っこを持ち上げて剥がそうとしているみたいな音だった。し
かしそれは私の耳にはとても現実の音には聞こえなかった。だって世界の端っこを剥がすことな
んて誰にもできないのだから。もし実際に世界を剥がしてしまったら、いったいそのあとに何か
やって来るのだろう? 新しい世界が到来するのだろうか、あるいはただ果てしない無が押し寄
せてくるだけなのか? でもそれもべつにどちらでもよかった。どちらにしたところで、たぷん
だいたい同じようなものだ。
私は暗闇の中で静かに目を閉じて、世界が剥がされ終わるのを待った。しかし世界はなかなか
剥がされず、音だけが私の頭上で次第に大きなものになっていた。それはどうやら現実の物音の
ようだった。現実の物体が何かしらの作用を受けて、物理的に立てている物音だ。私は思い切っ
て目を開け、頭上を見上げた。そして懐中電灯の明かりを天井にあてた。何か行われているのか
はわからないが、誰かがこの穴の上で、大きな音を立てているようだった。わけのわからないざ
あざあという耳障りな音を。
それが私に害を及ぼそうとしている音なのか、それとも私のためになる音なのか、判断がつか
なかった。いずれにせよ私としては、穴の底にそのまま座り込んで、鈴を鳴らしながら成り行き
を見守るしかなかった。やがて蓋として使われている厚板の隙間から、光線が細長い一枚の平面
となって、穴の中に差し込んだ。それはギロチンの鋭く広い刃が巨大なゼリーを切るみたいに、
暗闇を縦に割って、一瞬にして穴の底まで達した。その刃の先はちょうど私の足首の上にあった。
私は鈴を地面に置き、目を痛めないように両手で顔を覆った。
それから穴を塞いでいた蓋の一枚がどかされ、より多くの陽光が穴の底にもたらされたようだ
った。両目を閉じ、手のひらで顔をぴたりと覆っていても、目の前の暗闇が白く明るくなるのが
感知できた。それに続いて、新たな空気が頭上からゆっくり降りてきた。ひやりとした新鮮な空
気だった。空気には冬の初めの匂いがした。懐かしい匂いだ。子供の頃、その年鍛初にマフラー
を首に巻いた朝の感触が脳裏に蘇ってきた。柔らかなウールの肌触り。
誰かが穴の上から私の名前を呼んだ。それはおそらく私の名前だ。自分に名前があったことを
私はようやく思い出した。考えてみれば私はもう長いあいだ、名前が何の意味をも持だない世界
に滞在していたのだ。
その誰かの声が、免色渉の声であることに思い当たるまでにしばらく時間がかかった。私はそ
の声にこたえるように大きな声をあげた。しかしそれは言葉にはなっていなかった。私は自分か
まだ生きていることを示すために、意味もなくただ大きな叫び声を上げただけだ。自分の声がう
まくここの空気を言わせることができるかどうか、あまり自信はなかったが、その声は私の耳に
もちやんと届いた。仮想的動物の奇妙な荒々しい雄叫びとして。
「大丈夫ですか?」と免色は私に呼びかけた。
「免色さん?」と私は尋ねた。
「そうです。免色です」と免色は言った。「怪我はありませんか?」
「怪我はないと思います」と私は言った。声がようやく落ち着いてきた。「たぶん」と私は付け
加えた。
「いつからそこにいるのですか?」
「わかりません。気がついたときにはここにいたのです」
「梯子を下ろせば、そこから上まで登ってくることはできますか?」
「できると思います」と私は言った。たぶん。
「ちょっと待っていてください。今そこに梯子を下ろします」
彼がどこかから梯子を持ってくるあいだに、私は徐々に目を陽光に馴らしていった。すっかり
目を開けることはまだできなかったが、両手で顔を覆う必要はなくなった。ありかたいことにそ
れほど強い陽光ではなかった。昼間であることは確かだが、たぶん空は曇っているのだろう。あ
るいは夕暮れが近いのかもしれない。やがて金属の梯子が下ろされる音がした。
「もう少し時間をください」と私は言った。「目がまだ光にそれほど馴れていないので、痛めな
いようにしないと」
「もちろんです。ゆっくり時間をかけてください」と免色は言った。
「でもどうしてここがこんなに暗くなっていたんだろう? 一筋の光も差し込んでこなかった」
「私が二日前に、この蓋の上にビニールシートをぴったりかぶせておいたのです。誰かが蓋をど
かせたような形跡があったので、うちから厚いビニールシートを持ってきて、金属の杭を地面に
打って紐で縛り、簡単に蓋を外すことができないようにしておきました。どこかの子供がおやま
って中に落ちたりしたら危険ですから。そのときにはもちろん、穴の中に誰もはいっていないこ
とをしっかり確認しました。どう見てもまったくの無人でした」
なるほどと私は納得した。蓋の上に免色がビニールシートをかぷせたのだ。だから穴の底は真
っ暗になったのだ。話の筋は通っている。
「その後シートがはがされた形跡はありません。私がかぷせたときのままです。とすると、あな
たはいったいどうやってその中に入れたのだろう? わけがわからない」と免色は言った。
「ぼくにもわけはわかりません」と私は言った。「気がついたときには、ここにいたのです」