※ 他国併合の可否:斉が燕との戦いに勝った。そこで斉の宣王は孟子にたずねた。
「燕の併合については賛否両論があります。大国同士の戦いでわずか五十日の
うちに敵を打ち破ったのですから、わたしはこの勝利には人力以外の力がはた
らいたのだと思っています。もし併合しなければ、それこそ天罰を受けるとい
うものです。併合すべきだと思いますが、いかがでしょう」
「燕の人民が歓迎するなら、併合してよろしいでしょう。古くは武王にそのよ
うな例があります。しかし燕の人民が歓迎しないようなら、おやめなさい。古
くは文王の例があります。このたびの戦いで、燕の人民が食べ物、飲み物を用
意して、あなたの軍隊をねぎらったのは、ほかビもない、水火の苦しみから救
われたいと願ったからです。あなたがそれを裏切って、さらに暴政を重ねれば、
燕の人民はあなたに背を向けるでしょう。
〈文王 武王の例〉 文王が天下の三分の二を掌握しながら、殷王朝を討たず、
民心の帰服を待ち、その子の武王の代になって、殷を征伐して民衆の期待にこ
たえた。
<食べ物、飲み物を用意して……〉「筑食壷漿して王師を迎う」軍隊の到着を大
歓迎すること。ふつう、外部から侵入して来た軍隊は、民衆の最も嫌がるもの
であるが、それが、圧政令を打倒し、仁政を行なうものである烏合は、飲食物
まで用意して迎えるのである。簞は竹製のまるい飯入れ、食は飯、梁は飲み物。
【解説】 前315年、燕では、国王の噲が位を宰相の子之に譲ったことから、
人民の不満を招き、内乱が起こった。隣接する斉の宣王はそれにつけこんで攻
略し、楽勝した。『史記』によれば、燕の人民に抗戦の意がなく城門も開けた
ままであったという。相談をもちかけられた孟子は条件つきで併合に賛成する。
しかし宣王はその条件を無視して占領政策を行なったため、次章のような事態
がおこる。
【イエローストーンのマグマ 予想以上に速く溜まる】
● 超巨大火山のマグマ、休眠から数十年で巨大噴火も
10月16日、今はおとなしい米イエローストーン国立公園のスーパーボルケーノ(超巨大火山)だ
が、これまで考えられていたよりも急速にマグマが溜まり、噴火に発展する可能性があることが、新
たな研究で判明したという(「イエローストーンの調査で判明、予想以上に速く溜まる可能性」ナシ
ョナルジオグラフィック日本語版、2017.10.16)。それによると、このスーパーボルケーノが直近で
超巨大噴火を起こしたのは約63万年前、米アリゾナ州立大学の研究チームは、この噴火で吐き出さ
れた火山灰の化石に含まれる鉱物を分析し、マグマ溜まりに2度にわたってマグマが流れ込んだ結果
火山が目を覚まし、噴火に至ったと考える。
ところが、 しかも、不安なことに、鉱物の温度と組成の重大な変化は一連の変化は何世紀もかけて
起きるものだと考えられてきたが、不幸なことにわずか数十年の間に起きていることがわかったとい
う(わたしたちは、こういうことはしばしば体験していることではあるが)。例えば、2013年の研究
では、スーパーボルケーノの地下にあるマグマ溜まりはそれまでの推測より約2.5倍大きことや、マ
グマ溜まりが超巨大噴火が起きるたび、空っぽになるため、マグマが再び溜まるまでには長い時間を
要すると思われていたが、今回のアリゾナ州立大学の研究では、マグマ溜まりは急速に満たされ、地
質学的に一瞬と言えるほどの短期間で、スーパーボルケーノが再び噴火する可能性があると推測して
いる。
Oct. 12, 2017
ただし、イエローストーンは、さまざまなセンサーや衛星が常に変化を注視しているが、ただちに超
巨大火山が脅威をもたらすようには見えないといわれているが、今回調査研究担当者は、静かな火山
がれほど短期間で、いつ噴火してもおかしくない状態まで変化する――化石化した火山灰堆積物はこ
れまでも広く調べられており、このスーパーボルケーノは過去2百万年ほどの間に、少なくとも2回、
同等の超巨大噴火を起こしちる。幸い、南北アメリカ大陸に人類がやって来てからは、スーパーボル
ケーノがほぼ休止しているが、周期的に小規模な噴火や地震が起き、カルデラが溶岩や火山灰で満た
されることはあるが、それでも最後に起きたのは約7万年前のこと――というのはショッキングな事
実だという。さらに、2011年には、マグマ溜まりを覆っている地面が約7年ごとに最大25センチ隆
起すると報告。イエローストーン国立公園の火山活動を研究するユタ大学の研究者は、これは驚くべ
き隆起で、範囲がとても広く、そのスピードも異常な速さだと報告している。
2012年には、別の研究チームが、過去に起きた超巨大噴火の少なくとも1つは、実際には2度の噴火
だったかもしれないと報告。この研究結果は、大規模な噴火がそれまで考えられていたより頻繁に起
きていた可能性を示唆する。
● 千年から数千年度に1度の地殻変動期?!
ノストロダムスの”グランドクロス”の――微弱電波と共鳴する携帯電話のチタバリ共振回路のよう
な――地殻変動期に入っているのではと老婆心ではないがと心配する。例えば、イエローストーンで
は昨年6月のマグニチュード4.5の地震と群発地震の発生、15日のカムチャッカのシベルチ山の
噴火、アラスカのボゴスロフ山の噴火がつづき、 イタリアのフレグレイ平野、メキシコのミチョア
カン・グアナファト、 日本の姶良カルデラ、エルサルバドルのドルイロパンゴ山、イタリアのヴェス
ヴィオ山、台湾の大屯(タトゥン)火山、エチオピアのコルベッティ・カルデラ、 エル・サルバドル
のコアテペケ・カルデラ、フィリピンのタール火山、グアテマラのサンタマリア火山、シチリアのエ
トナ山、インドネシアのアグン山、アイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル、そして北朝鮮の白
頭山などなどの噴火が心配されている。
それでは、予防策はないのかというとNASAではイエローストーンのマグマ溜まり周辺に大量の水
を高圧抽水し、350℃程度になった蒸気として戻しゆっくりと冷却させるという極めてリスキーな
プラットフォーム(政策/戦略)を計画(予算3千億円)しているという。それじゃ、日米でで噴火
防止/地熱発電事業として乗り出したらどうかと考える。火の国日本の世界最強の技術を提供し「東
日本地震」の友達作戦の返礼として参画してみるのも面白い。
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第58章 火星の美しい運河の話を聞いているみたいだ
「社会倫理なんかどうたっていい」と政彦は言った。「でも、ひとつだけ教えてくれないか?」
「どんなことだろう?」
「土曜日の午後、どうやってあの伊豆高原の施設から抜け出したんだ? あそこはとても出入り
の警戒が厳しいんだ。入居者には有名人が少なくないから、個人情報の流出にはずいぶん気を追
っている。入り目には受付があるし、セキュリティー会社の警備員が二十四時開門を見張ってい
るし、監視カメラも作勤している。でもおまえは真っ昼間に、誰にも目撃されないまま、監視力
メラにもぜんぜん写らないまま、あそこから忽然と消えてしまった。どうしてだ?」
「ひとつ抜け道があるんだ」と私は言った。
「抜け道?」
「誰にも見られないで出て行ける通路だよ」
「しかし、どうしてそんなものがあることがおまえにわかったんだ? あそこに行ったのは初め
てだったんだろう?」
「君のお父さんが教えてくれたんだ。示唆してくれたというべきか。あくまで間接的にだけどね」
「親父が?」と政彦は言った。「言ってることの意味がわがらんな。親父の頭は今ではほとんど
茹でたカリフラワーと変わりないんだぜ」
「それもうまく説明できないことのひとつだよ」
「しょうがないな」と政彦はため息をついて言った。「相手が普通の人間なら『おい、からかう
な』と腹を立てるところだが、まあおまえだからあきらめるしかないみたいだ。所詮は油絵を描
いて一生を送るようなやくざな、的外れな人間だ」
「ありがとう」と私は礼を言った。「ところでお父さんの具合はどうなんだ?」
「土曜日、電話を終えて部屋に戻ってきたら、おまえの姿はとこにもないし、父親は眠り込んだ
きり目を覚ます気配もないし、呼吸もすっかり弱くなっているし、おれもさすがにパニクったぜ。
いったい何か起こったんだろうってな。おまえが何かしたとは思わないが、そう思われても仕方
ないところだぞ」
「申し訳なかったと思う」と私は言った。それは本当の気持ちだった。しかしそれと同時に騎士
団長の刺殺死体や、床の血の海があとに残されていなかったことについて、私はほっとしないわ
けにはいかなかった。
「申し訳なかったと思うのが当たり前だ。で、おれは近くにあるペンションに部屋をとって付き
添っていたんだが、呼吸も安定して、なんとか小康状態を取几戻したようだから、翌日の午後東
京仁戻ってきた。仕事も溜まっているしな。週末にはまた付き添いに行くと思うけど」
「大変だな、君も」
「しょうがないさ。前にも言ったけど、人が一人死んでいくというのは大がかりな作業なんだ。
いちばん大変なのはなんといっても本人なんだし、文句は言えない」
「何か手伝えることがあるといいんだが」と私は言った。
「手伝えることなんてもう何もないさ」と政彦は言った。「ただ余計な面倒を増やさないでいて
くれるとありかたいかもしれない……ああ、それはそうと、東京に帰る途中でおまえのことが心
配でそちらに寄ってみたんだが、そのときに例のメンシキさんが訪ねてきたぜ。素敵な銀色のジ
ャガーに乗た白髪のハンサムな紳士だ」
「うん、そのあとで免色さんには会ったよ。君がうちにいて、話をしたと彼も言っていた」
「少し玄関で話をしただけだが、なかなか興味深い人物のようだ」
「とても興味深い人物だよ」と私は控えめに訂正した。
「何をしている人なんだ?」
「何もしてない。お金が余るほどあるから、べつに働く必要がないんだ。インターネットで株や
為替の取引をやっているみたいだけど、それはあくまで趣味というか、実益を兼ねた暇つぷしな
んだそうだ」
「それは素敵な話だな」と政彦は感心したように言った。
「なんだか、火星の美しい運河の話を聞いているみたいだ。そこでは火星人たちが黄金の擢を使
って、船先の尖った細長い舟を漕いでいるんだ。耳の穴から蜂蜜煙草を吸いながら。聞いている
だけで心が温かくなる。……そうだ、ところでおれがこのあいだ置いていった出刃包丁は見つか
ったか?」
「悪いけど見つからなかった」と私は言った。「どこにいったのかわからない。新しいものを買
って返すよ」
「いや、そんな心配はしないでいい。おまえと同じで、どこかに行ったきり記憶喪失にでもなっ
いたんだろう。そのうち戻ってくるさ」
「たぶん」と私は言った。あの包丁は雨田典彦の部屋の中には残されていなかったのだ。騎士団
長の死体や血の海と同じように、どこかに消えてしまった。政彦の言うとおり、そのうちにここ
に戻ってくるのかもしれない。
そこで話は終わった。近いうちにまた会おうと言い合って、我々は電話を切った。
私はそれから埃まみれのカローラ・ワゴンを運転して山を下り、ショッピング・センターに買
い物に出かけた。スーパーマーケットに行って、近所の主婦たちに混じって買い物をした。昼前
の主婦たちはみんな、あまり楽しそうな顔をしていなかった。おそらく彼女たちの生活にはそれ
ほどスリリングなことは起こらないのだろう。メタファーの国で渡し舟に乗ったりするようなこ
ともないのだろう。
肉と魚と野菜、牛乳と豆腐、目についたものを片端からカートに放り込んで、レジに並んで勘
定を払った。トートバッグを持参し、レジ袋はいらないと告げることによって五円を節約した。
それから安売りの酒屋に寄って、サッポロ缶ビール上十四本入りのケースを買った。家に帰って、
買ってきたものを整理して、冷蔵庫にしまった。冷凍すべきものはラップをかけて冷凍した。ビ
ールを六本だけ冷やした。それから大きな鍋に湯を彿かし、アスパラガスとブロッコリをサラダ
用に茄でた。ゆで卵もいくつか作った。とにかくそのようにして、なんとかうまく時間をつぶす
ことはできた。少し時開か余ったので、免色にならって車を洗うことも考えてみたが、どうせす
ぐに埃だらけになるのだと思うと、その気もすぐに失せた。まだ台所に立って野菜を茹でている
方が有益だ。
時計が十二時を少しまわったところで、私はユズの働いている建築事務所に電話をかけた。本
当はもう少し日にちを置いて、気持ちが一段落してから彼女と会話を交わしたかったのだが、私
は自分かあの暗い穴の底で心に決めたことを、とにかく一日でも早く彼女に伝えておきたかった。
そうしないと、何か私の気持ちを変えてしまうかわからない。でもこれからユズと話をするのだ
と思うと、受話器は心なしかひどく重く感じられた。電話には明るい声音の若い女性が出たので、
私は自分の姓名を告げた。そしてユズと話がしたいと言った。
「ご主人ですか?」と彼女は明るく尋ねた。
そうだと私は言った。正確に言えばもう彼女の夫ではないはずだが、いちいちそんな事情を電
話で説明するわけにもいかない。
「少しお待ちください」と相手は言った。
私はかなり長い時闘詩だされることになった。しかしとくに用事があったわけではないので、
キッチンのカウンターにもたれて受話器を耳にあて、ユズが出てくるのをじっと待った。一羽の
大きなカラスが窓のすぐそばを羽ばたきながら横切っていった。その艶やかな真っ黒な翼が、陽
光を浴びてぎらりと光った。
「もしもし」とユズが言った。
我々は簡単な挨拶を交わした。つい最近離婚したばかりの夫婦がどのような挨拶をすればいい
のか、どれはどの距離を置いて会話すればいいのか、私には見当もつかなかった。だからとりあ
えずできるだけ簡単な、通り一遍の挨拶にとどめた。元気にしている? 元気にしている。あな
たは? 我々の口にする短い言葉は夏の盛りの通り雨のように、乾いた現実の地面にあっという
間に吸い込まれていった。
「一度君に会って、ちゃんと顔を合わせて、いろんなことを話したいと思っていたんだ」と私は
思い切って言った。
「いろんなことって、どんなことを?」とユズは質問した。そんな質問が返ってくるとは予想し
ていなかったので(なぜ予想しなかったのだろう?)、私は一瞬言葉に詰まった。いろんなこと
って、いったいどんなことなのだろう?
「まだ細かい内容まではよく考えていないんだけど」と私は少し口ごもって言った。
「でもいろんなことを話したいのね?」
「そうだよ。考えてみたら、何もきちんと話さないままに、ただこんな風になってしまった」
彼女はしばらく考えていた。それから言った。「ねえ実は私、妊娠しているの。会うのはかま
わないけど、おなかがもう膨らみはじめているから、見ても驚かないでね」
「知ってるよ。政彦に聞いた。ぼくにそのことを伝えてくれと君に頼まれたと、政彦は言ってい
た」
「そうだった」と彼女は言った。
「おなかのことはよくわからないけれど、でも迷惑じゃなければ、一度会ってくれると嬉しい」
「少し待ってくれる?」と彼女は言った。
私は待った。彼女は手帳を取り出し、ページを捲ってスケジュールを調べているようだった。
そのあいだに私はゴーゴーズがどんな曲を歌っていたかを思い出そうと努めた。雨田政彦が主張
するほど優れたバンドだとも思えなかったが、あるいは彼の方が正しくて私の世界観が歪んでい
るのかもしれない。
「来週の月曜日の夕方ならあいている」とユズは言った。
私は頭の中で計算した。今日は水曜日だ。月曜日は水曜日の五日後にあたる。免色が空き瓶と
空き缶をゴミ集積所まで待っていく日だ。私が絵画教室に教えに行かなくてよい日だ。いちいち
手帳を絵るまでもなく、私には何の予定も入っていない。しかし免色はいったいどんなかっこう
をしてゴミを出しにいくのだろう?
「月曜日の夕方でぼくはかまわない」と私は言った。「どこでもいい、何時でもいい、場所と時
刻を指定してくれればそこに出向くよ」
彼女は新宿御苑前駅の近くにある喫茶店の名前を口にした。懐かしい名前だった。その喫茶店
は彼女の仕事場の近くにあって、我々がまだ夫婦で一緒に生活している頃、何度かそこで待ち合
わせをした。彼女の仕事が緒わったあと、二人でどこかに食事をしに行こうというようなときに。
そこから少し離れたところに小さなオイスター・バーがあって、新鮮な牡蝸を比較的安く食べさ
せてくれた。よく冷えたシャブリを飲みながら、ホース・ラディッシュをたくさんかけて、小ぷ
りな生牡頬を食べるのが彼女は好きだった。あのオイスター・バーはまだ同じ場所にあるのだろ
うか?
「六時過ぎにそこで待ち合わせるということでいいかしら?」
かまわない、と私は言った。
「たぶん遅れずに行けると思うけど」
「遅れてもかまわない。待っている」
じやあ、そのときに、と彼女は言った。そして電話が切れた。
私は手に待った受話器をしばらくじっと眺めていた。私はこれからユズに会おうとして
いる。
まもなくほかの男の子供を産もうとしている別れた妻に。待ち合わせの場所と時刻も決まった。
問題は何もない。でも自分か正しいことをしたのかどうか、今ひとつ自信が持てなかった。受話
器は相変わらずひどく重く感じられた。まるで石器時代に作られた受話器のように。
でもまったく正しいこととか、まったく正しくないことなんて、果たしてこの世界に存在する
ものだろうか? 我々の生きているこの世界では、雨は30パーセント降ったり、70パーセン
ト降ったりする。たぶん真実だって同じようなものだろう。30パーセント真実であったり、7
0パーセント真実であったりする。その点カラスは楽でいい。カラスたちにとっては雨は降って
いるか降っていないか、そのどちらかだ。パーセンテージなんてものが彼らの頭をよぎることは
ない。
ユズと話をしたあと、私はしばらく何をすることもできなくなった。私は食堂の椅子に腰を下
ろし、主に時計の針を眺めながら一時間ほどを過ごした。来週の月曜日に私はユズと会う。そし
て「いろんなこと」を話すことになる。二人が顔を合わせるのは三月以来だ。それは静かな雨の
降る、冷ややかな三月の日曜日の午後だった。彼女は今では妊娠七ケ月になっている。それは大
きな変化だ。そして一方の私は相変わらずただの私だ。数日前にメタファーの世界の水を飲み、
無と有とを隔てる川を渡ったけれど、それで私の中の何かが変わったのか、それとも何ひとつ変
わらなかったのか、自分でもよくわからない。
それから私は受話器を取り、もう一度秋川笙子の家に電話をかけてみた。しかしやはり誰も出
なかった。留守番電話のメッセージに切り替わっただけだ。私はあきらめて、居間のソファに腰
を下ろした。何本かの電話をかけてしまうと、そのあともうやるべきことは残ってなかった。久
しぷりにスタジオに入って終を描いてみたいという気持ちはあったが、何を描けばいいのか思い
つけなかった。
私はブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』をターンテーブルに載せた。ソファ
に横になり、目を閉じてその音楽にしばし耳を澄ませていた。一枚目のレコードのA面を聞き終
え、レコードを裏返してB面を聴いた。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』は
そういう風にして聴くべき音楽なのだと、私はあらためて思った。A面の「インディペンデン
ス・デイ」が終わったら両手でレコードを持ってひっくり返し、B面の冒頭に注意深く針を落と
す。そして「ハングリー・ハート」が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『ザ・
リヴァー』というアルバムの価値はいったいどこにあるだろう? ごく個人的な意見を言わせて
もらえるなら、それはCDで続けざまに聴くアルバムではない。『ラバー・ソウル』だって『ペ
ット・サウンズ』だって同じことだ。優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。
聴くべき姿勢というものがある。
いずれにせよ、そのアルバムにおけるEストリート・バンドの演奏はほとんど完璧だった。バ
ンドが歌手を鼓舞し、歌手はバンドをインスパイアしていた。私は現実の様々な面倒をしばらく
のあいだ忘れ、音楽のひとつひとつの細部に耳を傾けた。
一枚日のLPを聴き終えて、針を上げたところで、免色にも電話をしておいた方がいいのでは
ないかと私は思った。昨日、穴から助け出してもらって以来、話をしていない。でもなぜか気が
返まなかった。免色に対して私はたまにそういう気持ちになることがあった。だいたいは興味深
い人物なのだが、ときどき彼に会ったり、話をしたりするのがひどく億劫に感じられることがあ
る。その差がけっこう大きいのだ。どうしてかはわからないけれど。そして今はとにかく、彼の
声を聞きたいという気持ちにはなれなかった。
結局、私は免色に電話をすることをやめた。もっとあとにしよう。まだ一日は始まったばかり
だ。そして『ザ・リヴァー』の二枚目のLPをターンテーブルに載せた。しかしソファに横にな
って「キャディラック・ランチ」を聴いているところで(「僕らはみんないつかキャディラッ
ク・ランチで願を合わせることになるんだ」)電話のベルが鳴った。私はレコードから針を上げ、
食堂に行って受話器をとった。たぶん免色だろうと私は予想した。しかし電話をかけてきたのは
秋川笙子だった。
「ひょっとして今朝、何度かお電話をいただきましたでしょうか?」と彼女はまずそう言った。
何度か電話をかけた、と私は言った。「まりえさんが戻ってきたという話を、免色さんから昨
日うかがったものですから、どうなったかと思って」
「ええ、まりえは確かに無事にうちに戻ってきました。昨日の昼過ぎのことです。そのことをお
知らせしようと、おたくに何度か電話をかけてみたのですが、いらっしやらないようでした。そ
れで免色さんに連絡してみたのです。どこかにお出かけだったのですか?」
「ええ、どうしてもすませなくてはならない用件があって、遠くまで出かけていました。昨日の
夕方に帰ってきたばかりです。電話をしたかったのですが、電話のないところだったし、携帯電
話も持っていないものですから」と私は言った。それはまったくの嘘というわけではない。
「まりえは一人で昨日の昼過ぎに、泥だらけになってうちに戻ってきました。でもありかたいこ
とに、とくに大きな怪我みたいなものはありませんでした」
「いなくなっていたあいだ、彼女はいったいどこにいたのですか?」
「それはまだわかりません」と彼女は押し殺した声で言った。まるで誰かに盗聴されることを恐
れるみたいに。「何か起こったのか、まりえは話をしてくれないのです。警察に捜素願を出して
いたので、警察の方もうちに見えて、あの子にいろいろと質問したのですが、何ひとつ返事をし
ません。ただ沈黙を守っているだけです。だから警察の方もあきらめて、もう少し時間を置いて、
気持ちが落ち着いたらあらためて事情を聴こうということになりました。とりあえずはうちに帰
ってきて、身の安全は確保されたわけですから。とにかく私が尋ねても、父親が尋ねてもぜんぜ
ん返事をしないのです。ご存じのように、頑ななところのある子ですから」
「でも泥だらけだったんですね?」
「ええ、身体は泥だらけになっていました。着ていた学校の制服も擦り切れて、手足には軽い擦
り傷のようなものもありました。病院の手当を必要とするような傷ではありませんが」
私の場合とまったく同じだ、と私は思った。泥だらけで、服は擦り切れている。ひょっとして
まりえもやはり、私がくぐり抜けてきたのと同じような決い横穴をくぐって、この世界に戻って
きたのだろうか?
「そしてひとことも口をきかない?」と私は尋ねた。
「ええ、うちに戻ってきてから、まだただのひとことも口をきいていません。言葉どころか、声
そのものをまったく出さないのです。まるで誰かに舌を盗まれてしまったみたいに」
「何かでひどいショックを受けて、それで口をきけなくなったとか、言葉を失ったとか、そうい
うことなのでしょうか?」
「いいえ、そういうことではないと思います。それよりは、口をきくまいと自ら心を決めて、た
だ沈黙をまもり続けているように私には思えます。これまでにもそういうことは何度かありまし
た。何かでひどく腹を立てるとか、そういう場合に。いったんこうしようと心を決めると、何か
あってもそれを貫く子供なんです」
「犯罪性みたいなのはないんですね?」と私は尋ねた。「たとえば誰かに誘拐されていたとか、
監禁されていたとか?」
「それもよくわかりません。なにしろ本人がまったく口をきかないものですから、もう少し落ち
ついてから警察で事情を聴くということになっていますが」と秋川笙子は言った。「それで勝手
なことを申すようですが、先生にひとつお願いがあるんです」
「どんなことでしょう?」
「もしよるしければ、まりえと会って話をしてみてくれませんか? 二人だけで。あの子は先生
にだけは、心を許している部分があるように私には思えます。だから先生が相手なら、何か事情
を打ち明けるかもしれません」
私は受話器を右手に握ったまま、そのことについて考えてみた。秋川まりえと二人きりになっ
て、いったいどこまでをどのように話ればいいのか、私にはまったく考えが浮かばなかった。私
は私自身の謎を抱えているし、彼女は彼女自身の謎を抱えている(はずだ)。ひとつの謎ともう
ひとつの謎を持ち寄って重ね合わせ、そこに何かしらの答えが浮かび上がってくるものだろう
か? しかしもちろん彼女に会わないわけにはいかない。話さなくてはならないことがいくつか
ある。
この項つづく