公孫丑(こうそんちゆう)篇 「浩然の気」とは / 孟子
※ ひとに学ぶ:子路(孔子の弟子)は、過失を指摘されると喜んだ。禹は戒めの言
葉を聞くと感謝した。舜は、この二人より偉大であった。すなわち、人々ととも
に善を行ない、自分の及ばぬ点は謙虚に人から学びとって実行にうつした。耕作
し、陶器を作り、漁をしていたころも、帝王となってからも、他人から学びとる
ことを常に忘れなかった。他人から善を学びとっては実行にうつす、これは人々
とともに善を行なうことである。君子にとって、これほど有意義なことはない。
Nov.8, 2017
【蓄電池篇:世界初 全固体ナトリウムイオン二次電池の室温駆動】
今月8日、日本電気硝子は、結晶化ガラスを正極材に用いた全固体ナトリウムイオン二次電池を試
作し、室温駆動に成功したと発表した。正極材に同社が開発した結晶化ガラスを活用し、結晶化ガ
ラスを正極材に用いた成功例としては世界初。高性能二次電池として主流のリチウムイオン電池は
、電解質に可燃性の有機電解液を用いており、異常発熱や発火などの事例が多発しているため、安
全性の高い二次電池が求められている。そこで、電解質に可燃物を利用しない全固体リチウムイオ
ン二次電池に注目が集まっているが、電極と電解質間のイオン伝導性の改善と、レアメタルに分類
されるリチウムの利用による供給不確実性が課題。導電イオン種にNa+を用いるナトリウムイオン二
次電池は、リチウムと比較して資源量が多いため電池材料の供給面では有利となる。また、NAS電
池などのナトリウム硫黄電池は、大型電力貯蔵用の蓄電池として既に実用化されているが、①正極
のナトリウムと負極の硫黄を溶融状態にする。②βアルミナ固体電解質のイオン伝導性を高めるた
めに電池を加熱する必要があり、電池が複雑、大型化となり電子機器に利用できる、小型かつ安全
性の高い全固体ナトリウムイオン二次電池の開発が望まれていた。
特殊ガラスメーカーとして蓄積してきた技術を持つ同社は、ガラスの軟化流動性を利用し、電池の
固体電解質と一体化を図ったNa系の結晶化ガラスを開発。この結晶化ガラスは高いイオン伝導性を
持つことから、電池が室温で駆動可能になる。電池に関する機構や結晶化ガラス構造の概要は、今
月14日から開催される第58回電池討論会で発表する。今後は、正極材の結晶化ガラスの開発を進
めていき、次世代の二次電池実現に向けて注力してしていく方針である。
❏ 事例研究:日本電気硝子株式会社 特開2017-037769 固体電解質シート及びそ
の製造方法、並びにナトリウムイオン全固体二次電池
【概要】
リチウムイオン二次電池は、モバイル機器や電気自動車等に不可欠な、高容量で軽量な電源として
普及しているが、現行のリチウムイオン二次電池には、電解質として可燃性の有機系電解液が主に
用いられているため、発火等の危険性が懸念され、有機系電解液に代えて固体電解質を使用したリ
チウムイオン全固体電池開発が進められている。しかし、リチウムは世界的な原材料の高騰の懸念
がある。そこで、リチウムに代わる材料としてナトリウムが注目されており、固体電解質としてN
ASICON型のNa3Zr2Si2PO12からなるナトリウムイオン伝導性結晶を使用したナトリウ
ムイオン全固体電池が提案されている。その他、β-アルミナやβ''-アルミナといったベータア
ルミナ系固体電解質も高いナトリウムイオン伝導性を示しこれらの固体電解質はナトリウム-硫黄
電池用固体電解質としても使用されている。
このように、シート化した固体電解質は、例えば原料粉末をスラリー化してグリーンシートを得た
後、焼成する方法(グリーンシート法)により製造されるが、ベータアルミナ系固体電解質シート
を上記の方法により製造した場合、イオン伝導値が低下しやすいという問題がある。従って、イオ
ン伝導値が高いベータアルミナ系固体電解質シート及びそれを用いたナトリウムイオン全固体電池
を開発している。このように固体電解質シートは、β-アルミナ及び/またはβ''-アルミナを含
有し、厚みが1mm以下であり、かつ空隙率が20%以下であることを特徴として、固体電解質シ
ートは、厚みが1mm以下と小さいため、固体電解質中のイオン伝導に要する距離が短かく、空隙
率が20%以下と小さい。固体電解質シート中のβ-アルミナ及び/またはβ''-アルミナの各粒
子の緻密性が高い。以上によりこの固体電解質シートはイオン伝導性に優れる。また、固体電解質
シートは、イオン伝導値が1S以上であることが好ましく、「イオン伝導値」は、固体電解質シー
トのイオン伝導度(S/cm)に厚みを乗じた値を指すが、このシートは、β-アルミナ及び/ま
たはβ''-アルミナを含有し厚みが1mm以下で、イオン伝導値が1S以上であることを特徴とする。
この固体電解質シートは、モル%で、Al2O3 65~98%、Na2O 2~20%、MgO+
Li2O 0.3~15%を含有することが好ましい。なお、「MgO+Li2O」は、MgOとL
i2Oの含有量の合量を意味する。さらに、ZrO2を1~15%含有することが好ましく、さらに、
Y2O3を0.01~5%含有することが好ましく、ナトリウムイオン全固体二次電池用として好適
であり、ナトリウムイオン全固体二次電池は、上記の固体電解質シートの一方の面に正極層、他方
の面に負極層が形成された構造を特徴とし、β-アルミナ及び/またはβ''-アルミナを含有する
厚み1mm以下の固体電解質シートを製造するための方法であって、(a)主成分としてAl2O3
を含有する原料粉末をスラリー化する工程、(b)スラリーを基材上に塗布、乾燥してグリーンシ
ートを得る工程、(c)グリーンシートを等方圧プレスした後、焼成することにより、β-アルミ
ナ及び/またはβ''-アルミナを生成する工程、を含むことを特徴とする.下図のように、β-ア
ルミナ及び/またはβ''-アルミナを含有し、厚みが1mm以下であり、かつ空隙率が20%以下
であることを特徴とする固体電解質シートにより、イオン伝導値が高い薄型のベータアルミナ系固
体電解質シートを提供することでイオン伝導値が高いベータアルミナ系固体電解質シートを製造を
可能となる。
❏ 事例研究:特開2017-199688 ナトリウムイオン二次電池用負極活物質および
その製造方法
【概要】
携帯用パソコンや携帯電話の普及に伴い、リチウムイオン二次電池等の蓄電デバイスの高容量化と
小サイズ化に対する要望が高まっている。蓄電デバイスの高容量化が進めば、電池の小サイズ化も
容易となるため、蓄電デバイスの高容量化へ向けての開発が急務となっている。リチウムイオン二
次電池やナトリウムイオン二次電池等の蓄電デバイス用負極活物質には、一般に黒鉛質炭素材料、
ハードカーボンなどの炭素材料が用いられている。さらに、リチウムイオンやナトリウムイオンを
吸蔵および放出することが可能な負極活物質として、層状ナトリウムチタン酸化物Na2Ti3O7
が提案されている。しかし、層状ナトリウムチタン酸化物Na2Ti3O7負極活物質は、放電容量維
持率(サイクル特性)が低いという問題があったが、蓄電デバイス用負極活物質がTiO2、Na2
O、及び網目形成酸化物を含有することを特徴とした。放電容量維持率が高い蓄電デバイス用負極
活物質およびその製造方法を提供する。
【実施例】
実施例1、2の負極活物質は、次のとおり作製した。炭酸ナトリウム(Na2CO3)、酸化チタン
(TiO2)、及び無水ホウ酸(B2O3)を原料とし、表1に記載の組成となるように原料粉末を調
合し、1300℃にて1時間、大気雰囲気中にて溶融を行った。その後、一対のロールに溶融ガラ
スを流し込み、急冷しながらフィルム状に成形することにより溶融固化体を作製。得られた溶融固
化体をボールミルで20時間粉砕し、空気分級することにより、平均粒子径2μmの溶融固化体粉
末を得る。得られた溶融固化体粉末を、大気雰囲気中800℃にて1時間熱処理を行うことにより
、負極活物質を得た。粉末X線回折パターンを確認したところ、表1に記載の結晶に由来する回折
線が確認された。実施例1の負極活物質のX線回折パターンを下図1に示す。
実施例3の負活物質は、次のとおり作製した。炭酸ナトリウム(Na2CO3)、酸化チタン(Ti
O2)、及び無水ホウ酸(B2O3)を原料とし、表1に記載の組成となるように原料粉末を調合し、
1300℃にて1時間、大気雰囲気中にて溶融を行った。その後、一対のロールに溶融ガラスを流
し込み、急冷しながらフィルム状に成形することにより溶融固化体を作製。得られた溶融固化体を
ボールミルで20時間粉砕し、空気分級することにより、平均粒子径2μmの負極活物質を得る。
粉末X線回折パターンを確認したところ、結晶に由来する回折線が確認されず、非晶質である。
比較例1の負極活物質は、次のように作製した。炭酸ナトリウム(Na2CO3)、及び酸化チタン
(TiO2)を原料とし、表1に記載の組成となるように原料粉末を調合し、ボールミルで粉砕混合
してペレット化した後、大気雰囲気中800℃で20時間固相反応させた。その後、ボールミルに
よる粉砕、ペレット化、大気雰囲気中800℃で20時間固相反応の各処理を再度行うことにより
負極活物質を得た。粉末X線回折パターンを確認したところ、表1に記載の結晶に由来する回折線
が確認される。
蓄電デバイス用負極活物質に対し、結着剤としてPVDF、導電助剤としてケッチェンブラックを
負極活物質:結着剤:導電助剤=80:15:5(質量比)となるように秤量し、これらをN-メ
チルピロリドン(NMP)に分散したあと、自転・公転ミキサーで十分に攪拌してスラリー化。次
に、隙間100μmのドクターブレードを用いて、負極集電体である厚さ20μmの銅箔上に、得
られたスラリーをコートし、乾燥機にて80℃で乾燥後、一対の回転ローラー間に通し、1t/c
m2でプレスすることにより、電極シートを得た。電極シートを電極打ち抜き機で直径11mmに
打ち抜き、140℃で6時間乾燥させ、円形の作用極を得る。次に、コインセルの下蓋に、得られ
た作用極を銅箔面を下に向けて載置し、その上に60℃で8時間減圧乾燥した直径16mmのポリ
プロピレン多孔質膜からなるセパレータ(ヘキストセラニーズ社製 セルガード#2400)およ
び対極である金属ナトリウムを積層し、ナトリウムイオン二次電池を作製した。電解液としては、
1M NaPF6溶液/EC(エチレンカーボネート):DEC(ジエチルカーボネート)=1:
1(体積比)を用いた。なお、試験電池の組み立ては露点温度-70℃以下の環境で行った。得ら
れた電池を用いて30℃で充放電試験を行い、放電容量及び放電容量維持率を測定した。結果を表
1に示す。なお、充放電試験において、充電(負極活物質へのナトリウムイオンの吸蔵)は、2V
から0VまでのCC(定電流)充電により行い、放電(負極活物質からのナトリウムイオンの放出
)は、0Vから2VまでCC放電により行った。Cレートは0.1Cとした。ナトリウムイオン二
次電池における放電容量維持率は、初回放電容量に対する20サイクル目の放電容量の比率をいう。
また、コインセルの下蓋に、得られた作用極を銅箔面を下に向けて載置し、その上に60℃で8
時間減圧乾燥した直径16mmのポリプロピレン多孔質膜からなるセパレータおよび対極である金
属リチウムを積層し、リチウムイオン二次電池も作製した。電解液としては、1M LiPF6溶
液/EC:DEC=1:1(体積比)を用いた。なお、試験電池の組み立ては露点温度-40℃以
下の環境で行った。得られた電池を用いて30℃で充放電試験を行い、放電容量及び放電容量維持
率を測定した。結果を表1に示す。
なお、充放電試験において、充電(負極活物質へのリチウムイオンの吸蔵)は、2.5Vから1.
2VまでのCC(定電流)充電により行い、放電(負極活物質からのナトリウムイオンの放出)は、
1.2Vから2.5VまでCC放電により行った。Cレートは0.1Cとした。リチウムイオン二
次電池における放電容量維持率は、初回放電容量に対する10サイクル目の放電容量の比率をいう。
以上のように、実施例1~3において作製された負極活物質は、網目形成酸化物であるB2O3を含
有するため、ナトリウムイオン二次電池における放電容量は87~122mAhg-1と高く、放電
容量維持率も72~92%と高かった。また、リチウムイオン二次電池における放電容量は48~
51mAhg-1であり、放電容量維持率は96~98%と高かった。一方、比較例1において作製
された負極活物質は、B2O3を含有しないため、ナトリウムイオン二次電池における放電容量は、
112mAhg-1と高かったものの、放電容量維持率が25%と低かった。また、リチウムイオン
二次電池における放電容量は45mAhg-1であり、放電容量維持率は75%でありいずれも低い。
Nov.7 ,2017
【地熱発電篇:岐阜高山で温泉熱発電所】
今月6日、高山市奥飛騨温泉郷一重ケ根に、温泉熱を利用した「奥飛騨第1バイナリー発電所」が
完成し、起動式が行われている。奥飛騨宝温泉協同組合が掘り直した源泉の湯を利用し、熱交換機
で発生させた蒸気でタービンを回して発電する。源泉は地下300メートル地点で約160度、地
表で120℃あり、組合加盟者には70℃ほどに下げて給湯。発電所は同組合と洸陽電機(神戸市)
が設置。年間約37万キロワット時(一般家庭110世帯分)発電し、約1500万円の売電収入
を想定している。同組合の田中君明代表理事は収益により、組合員への給湯利用料の減額になる。
約2割ほど下げられればとのこと。来春には2基目の発電所の稼働を予定する一方、同組合など4
つの源泉温泉組合と洸陽電機は「奥飛騨自然エネルギー合同会社」を設立し、エネルギーの「地産
地消」を目指す。
❏ 事例研究:株式会社洸陽電機
特開2016-148508 熱交換器およびそれを用いた地熱利用システム
【概要】
地熱熱水を用いた地熱発電は、年間を通じて安定した電力を得られるという利点を持ち、ベースロ
ード電源としても利用できる。また、二酸化炭素排出量が極めて少ないため、環境に優しい発電方
式である。地熱発電の方式としては、バイナリー発電方式が知られている。地熱熱水のエネルギー
は、熱エネルギーとして、直接あるいは熱交換した他の流体を介して間接的に用いる場合もあるが、
地熱熱水には、炭酸カルシウム(CaCO3)やシリカ(SiO2)などのスケール成分が溶解し、
熱熱水の圧力および温度が低下して炭酸カルシウムやシリカなどが過飽和の状態などになった場合
には、スケールが析出、熱交換器や配管などの地熱熱水の流路に付着し流路が閉塞するリスクをと
もなう。地熱熱水を利用するシステムの配管その他の機器へのスケールの付着を抑制にあって、下
図のようにバイナリー発電システムなどの地熱利用システムに、熱交換器30と、バイナリー発電
機12とを備える。バイナリー発電機12は、熱交換器30で温められて真水配管24を通じて供
給される真水の熱を利用する。熱交換器30には、一次側流路と二次側流路とが形成されている。
一次側流路は、一次側入口から、その一次側入口よりも上方の一次側出口まで延びる。二次側流路
には、一次側流路を流れる流体と熱交換する流体が流れる。地熱熱水を供給する熱水供給配管22
は、地下から延びて、熱交換器30の一次側入口41に直接接続されている。
JP 2016-148508 A 2016.8.18
【符号の説明】
10…バイナリー発電装置、12…バイナリー発電機、14…冷却水配管、16…冷却水ポンプ、
20…熱交換装置、22…熱水供給配管、24…真水配管、26…排出配管、28…ポンプ、30
…熱交換器、41…一次側入口、42…一次側出口、43…二次側入口、44…二次側出口、50
…地面
【図1】本発明に係る地熱利用システムの一実施の形態のブロック図。
【図3】地熱利用システムの20日供用後の熱交換器の一次側流路の写真の例
【図4】地熱利用システムの100日供用後の熱交換器の一次側入口に接続された配管の写真の例
【図5】本発明に係る地熱利用システムの60日供用後の熱交換器の一次側流路の写真の例
【図6】本発明に係る地熱利用システムの60日供用後の熱交換器の一次側入口に接続された配管
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
第62章 それは深い迷路のような趣を帯びてくる
時間は彼女の意思とはかかおりなく、それ白身の原理に従って経過していった。彼女はその小
さな部屋で裸のベッドに横になり、時が緩慢な足取りで目の前を行進し、通り過ぎていく様子を
ただ見守っていた。ほかにとくにするべきこともなかったから。何か本を読むことができればな
と彼女は思った。しかし手元に本はなかったし、もしあったとしても、明かりをつけるわけには
いかなかった。暗い中でただじっとしているしかない。彼女は貯蔵庫の中に懐中電灯と予備の電
池を見つけたが、それもできるだけつけないようにした。
やがて夜が深まって、彼女は眠った。知らない場所で眠り込んでしまうのは不安だったし、で
きることならずっと目覚めていたかったが、ある時点でとても我慢できないほど眠くなった。も
うそれ以上目を開けていることができなくなった。剥き出しのベッドではさすがに寒かったから、
戸棚から毛布と布団を引っ張り出して、それにロールケーキのようにぴったりとくるまって目を
閉じた。暖房器具は置いてなかったし、エアコンをつけるわけにはいかなかった(ここで時間経
過に関する私の註が入る。おそらくまりえがそこで眠り込んでいるあいだに免色は家を出て私
のところにやってきたのだろう。そして彼はうちに泊まって翌朝帰っていった。従って免色は
その夜は自宅にはいなかった。家は無人であったはずだ。しかしまりえはそのことを知らない)。
夜中に一度目が覚めて便所に入ったが、そのときも水は流さなかった。昼間はともかく、しん
と静まりかえった真夜中に水洗の水を流したりしたら、その音を間きつけられる可能性が大きい。
免色は言うまでもなく注意深く綿密な人間だった。ちょっとした変化にも気づきそうだ。そんな
危険を冒すわけにはいかない。
そのとき腕時計を見ると、針は午前二時前を指していた。土曜日の午前二時だ。金曜日はもう
終わってしまった。窓のカーテンの隙間から、谷間を隔てた自分のうちの方に目をやると、応接
間にはまだ煌々と明かりがともっていた。真夜中を過ぎても私か帰ってこないので、人々は――
といっても夜中の家には父親と叔母しかいないはずだが――きっと眠れないでいるのだろう。悪
いことをしてしまったとまりえは思った。父親に対してさえ申し訳ないと感じた(それはきわめ
て珍しいことだった)。自分はここまで無謀なことをするべきではなかったのだ。もともとそん
なつもりはなかったのだけれど、その場で感じるままに行動をとっているうちに、こんな結果に
なってしまった。
でもどれだけ後悔したところで、自らを責めたところで、谷間を飛び越えてうち仁現れるわけ
ではない。彼女の身体はカラスたちのそれとは違う。空中を飛ぶようにはできていない。また騎
士団長のように自由に消えたりどこかに現れたりすることもできない。彼女はまだ発育途中の身
体に閉じ込められ、時間と空間によって行動の自由を厳しく制限された、不器用な存在に過ぎな
いのだ。乳房だってほとんど膨らんではいない。まるで失敗したパンケーキみたいに。
暗闇の中で独りぼっちで、秋川まりえはもちろん怯えていた。そして自分の無力さを痛感しな
いわけにはいかなかった。騎士団長がそばにいてくれたなら、と彼女は思った。彼には尋ねたい
ことがたくさんあった。質問に対する答えが返ってくるかどうかはわからないが、少なくとも誰
かと話をすることはできる。彼の話し方は現代の日本語としてはかなり奇妙なものだったが、趣
旨を理解するのに支障はない。しかし騎士団長はもう二度と彼女の前に姿を見せないかもしれな
い。
「これからほかに行かなくてはならない場所があるし、ほかにやらなくてはならないことがある」
と騎士団長は彼女に告げた。まりえはそのことを寂しく思った。
窓の外から夜の鳥の深い声が聞こえた。たぶんフクロウかみみずくだ。彼らは暗い森の中に身
を潜め、智恵を働かせているのだ。私も負けずに智恵を働かせなくてはならない。賢くて勇気の
ある女の子にならなくてはならない。しかし再び眠気が彼女を襲い、それ以上目を開けているこ
とができなくなった。彼女はまた毛布と布団にくるまり、ベッドに横になって目を閉じた。夢も
ない深い眠りだった。次に目が覚めたとき、夜は徐々に明け始めていた。時計の針は六時半をま
わっていた。
世界は土曜日の夜明けを迎えたのだ。
まりえは土曜日いちにちをそのメイド用の居室の中で静かに送った。朝食代わりにまたクラッ
カーを宿り・、チョコレートをいくつか食べ、ミネラル・ウオーターを飲んだ。部屋を出てこっ
そりとジムに行って、そこに山のように積まれていた日本語版「ナショナル・ジオグラフィック」
のバックナンバーを何冊か素早く持ち帰り(免色はどうやらバイクマシンを漕ぎながら、あるい
はステップマシンを踏みながら、それらの雑誌を読むらしく、ところどころに汗のあとがついて
いた)、それを何度も繰り返し読んだ。そこにはシベリア・オオカミの生息状況や、月の満ち欠
けに関する神秘や、イヌイットの生活や、年々縮小していくアマゾンの熟帯雨林なんかについて
の記事が掲載されていた。まりえは普段ならそんな記事を読むことはまずないのだが、ほかに読
むものもないということもあって、暗記してしまうまでそれらの雑誌を熟読した。写真も穴が間
くほど詳しく眺めた。
雑誌を読かのに疲れると、ときどき横になって短く眠った。そして窓のカーテンの隙間から谷
間の向かい側にある自分の家を眺めた。ここにあの双眼鏡があればなと彼女は思った。その家の
中をもっと細かく観察することができて、人が勣いているのを目にすることができたらな、と。
そしてオレンジ色のカーテンのかかった自分の部屋に戻りたいと思った。熱い風呂に入って身体
を隅々まで丁寧に洗い、新しい服に着替え、それから飼っている描と一緒に暖かいベッドに潜り
込みたい。
午前九時過ぎに誰かがゆっくりと階段を下りてくる音が聞こえた。室内履きを履いた男の足音
だった。たぶん見仏だ。歩き方に特徴がある。ドアの緯穴から外を見たかったが、ドアに鍵穴は
ついていなかった。彼女は身体を硬くし、部屋の隅の床に身を丸めて座り込んだ。もしこのドア
を開けられたら、どこにも逃げ場所はない。免色がこの部屋を覗くようなことはないはずだ、と
騎士団長は言っていた。彼の言葉を信じるしかない。しかしもちろん何か起こるか、そんなこと
は誰にもわからない。この世界には百パーセント確実なことなんて何ひとつないのだから。彼女
は気配を殺し、クローゼットの中のイフクのことを思い浮かべ、何も起こらないでくださいと念
じた。喉の奥がからからに謁いた。
この項つづく
● 今宵だけのアラカルト
先日、彼女が、エリンギのポークロールアップスを夕食に出してくれたが、この写真では檸檬だが、自
家製の柚子ボン酢でいただいたが、育成の進化でエリンギが太くなってきて見た目も美しく絶妙の美味
さに仕上がっていたのでデジカメすることも忘れ口に放り込んでしまい後悔するほど「仕合わせな一時」
を味わった。美し国の暖かき庵である。