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読書事始め

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        離婁(りろう)篇    /    孟子  

 

                                 

      ※  一人一人渡してやるよりも橋を架けよ:子産は宰相として鄭の政治を司っ
     たが、溱水、洧水を渡る人たちを自分の車で渡してやった。 孟子はそれ
     をこう批評した。「思いやりはあるが、政治のなんたるかを知らない。八
     月に、飛び石をおいて人が通れるようにし、九月になって大きな橋を架け
     て車も遥れるようにしてやれば、人災は水の中を渡る苦労をせずにすむ。
     政治さえ公平周到に行なえば、道を行くとき、人々をよけさせてもかまわ
     ない。一人一人自分の車で渡してやることなど愚の骨頂だ。為政者が一人
     一人を喜ばせていたのでは、どれだけ時間があっても足りるものではない」

     〈子産〉春秋時代の部国の宰相。当暗部国は帽を争う百と楚の問にはさま
     れて苦しい立場にあったが、かれは内政、外交に手腕を発祥して、数十年
     も外国の侵略を許さなかったという。
     〈八月、九月〉 原文は十一月、十二月。陰暦の九月、十月にあたり、陽
     暦では八月、九月ごろになる。寒くなる前に、長閑期を利用して橋をつく
     っておけというわけである。

     【解説】個人的な道徳律を集団に及ぼすのが儒家思想の一つの特徴である
     が、孟子はそれを機械的に解釈しているのではない。政治の対象とするも
     のがマス(衆)であり、個人でないことをこの一節で強調している。つま
     り、個々の現象ではなく、基本的なものに着眼しなければならぬとする。
     そうでなければ、真の解決はあり得ないし、第一、非能率である。安価な
     ヒューマニズム、あるいは一時的な人気とりは、本当の政治ではない。こ
     れはまた、あらゆる場合にあてはまる。目前の現象にとらわれ、原則を忘
     れては、何事も成功しない。





【読書日誌:カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』】

 

  丘の連なりが鋸歯のような影を落とす大きな沼地の縁に、年老いた夫婦が住んでいた。名前
 をアクセルとベアトリスという。ほんとうの名前ではないかもしれない。もっと長い名前のI
 部だったかもしれないが、ここでは呼びやすいその名で呼んでおくことにしよう。夫婦二人だ
 けで暮らしていた。こう言うと、二人だけで孤独に暮らしていたように聞こえるかもしれない
 が、そうではない。そもそも、当時の村の形からして、孤独な暮らしなどはありえなかった。
 村人の多くは暖かさと外敵からの保護を求め、丘の斜面に深い横穴を掘って住み、その穴どう
 しを地下通路や覆い付きの廊下で結んでいた。だから、村は家の立ち並ぶ集落というより、む
 しろ兎の巣穴にでもたとえたほうが実際に近かったかもしれない。アクセルとベアトリスも、
 人口六十人ほどのそういう村にいて、そういう穴の一つに住んでいた。村を出て丘沿いに二十
 分ほど歩くと、別の村かおる。そこも外見はやはり菟の巣穴で、最初の村とたいして違わな
 い。だが、住んでいる村人の目には違いが歴然とあって、その一つ一つが自慢の種だったり、
 恥ずべき汚点だったりした。

  当時のブリテン島はその程度の島だったのか、と思われるかもしれない。世界のどこかでは
 壮麗な文明が花開いていたのに、イギリスはまだ鉄器時代を引きずっていたのか、と。そんな
 印象を与えたとしたら本意ではない。気ままに田古道を歩いていけば、不意にお城や修道院が
 出現することもあったろうし、そのお城では音楽が奏でられ、おいしい食事が出て、武術試白
 なども行われていたかもしれない。修道院では憎たちが学問に没頭していただろう。だが.....


 そう、現実をありのままに言えば、仮に天気のよい季節に頑丈な馬に乗って旅をしたとして
 も、縁一色の風景の中に城や修道院を目にすることなど、数日に一度もあったかどうか。通り
 過ぎる集落のほとんどは、いま述べたような村たったはずだ。しかも、たまたま贈り物にでき
 るような食糧や衣服を待ち合わせていないかがり-あるいは恐ろしげに武装してでもいない
 かぎり-旅人は歓迎されなかったはずだ。当時のイギリスをこんなふうに描写するのは不本
 意だが、そこはそれ、やむをえないところもある。

  アクセルとベアトリスに戻ろう。言ったとおり、この老夫婦は巣穴のような村の外縁に住ん
 でいた。当然、それだけ外界の影響を強く受けたし、夜、村人全員が大広間に集まって火を焚
 いていても、暖かさのかこぼれに恵まれることが少なかった。昔はもっと大の近くに住んでい
 たような気がする、とアクセルは思った。それはまだ息子らと一緒だったころではなかろう
 か………夜明け前の何もない時刻、ぐっすり眠る妻を横に感じながらベッドに横たわるアクセ
 ルの心に、しきりにそんな思いが忍び込んできた。その思いは正体不明の喪失態をともない、
 アクセルの胸をいらだたせて、眠りに戻ることを許さなかった。

  だから、この朝、アクセルはそっとベッドを抜け出し、音を立てないよう注意して外に忍び
 出ると、村の入り口のわきに置いてあるベンチに腰をれろした。古いベンチで、ゆがみが出は
 じめている。ここで夜明けの最初の光を待とうと思った。季節は春。だが、まだ寒い。出しな
 に手にとってきたベアトリスのマントを体に巻きつけ、ひとしきり物思いにふけった。やが
 て、肌を刺す空気にあらためて寒さを意識したとき、ふと見ると空の星はすでに消え去って、
 いま地平線上に明るさが広がりつつあった。薄明りの中で、鳥のさえずりも聞こえはじめてい 
 少し長く外にいすぎたか………アクセルは後悔しながら、ゆっくり立ち上がった。もうすっか
 りよくなったとはいえ、熱がひくまでにしばらくかかって、それからまだ間がない。脚が冷た
 く湿っていろ感じがする。ここでぶり返しでもしたら大変だ,だが、中に戻ろうと振り向いた
 とき、アクセルの心には多少の満足感もあった。ここしばらく忘れていたことをいくつか思い
 出せたから。それに、もうすぐ重大な決定を-長く引き延ばしてきた決断を-するという予感
 があった。アクセルは少し興奮し、この興奮を早く妻と分かち合いたいと思った。

  中に入ると通路はまだ完全な闇に沈んでいて、自宅のドアまでのほんの短い距離を手探りで
 進んだ。村を構成する各戸の戸口は、粗末なアーチーつだけのものが多い。つまり、アーチを
 くぐれば、そこはもう家の中だ。じつに簡単な構造だが、村人はそれをプライバシーの危険と
 は考えず、むしろドアなどないほうが都合がよいと思っていた。大広間では焚き火が燃え、村
 内の許されたあちこちでも小さな火が燃えている。せっかくの暖気が通路を伝わってくるのに、
 ドアで締め出したらもったいないではないか………ただ、アクセルとベアトリスの家はどこの
 焚き火からも遠すぎた。だから、この家には実際に「ドア」と呼べるものがあった。大きな木
 枠をはめ込み、そこに小枝や蔓を縦横に渡して、中にアザミなどを編み込んである。出入りの
 際には、このドアを片側に寄せる手間がかかるが、その代わり、冷たい隙間風は防がれる。ア
 クセルとしてはドアなどないほうが好ましかったが、ベアトリスは違う。ドアを作りつづけて
 いるうち、しだいにそれが自慢の腫になってきているようだ..アクセルが外出から戻ると、
 よく、しおれた枝や蔓を引き抜き、日中に築めておいた新しい材料で置き換えていた。

  この朝、アクセルは体がぎりぎり通るほどにドアを寄せ、できるだけ音を立てないように中
 に入った。外壁の小さな隙間から夜明けの光が部屋に漏れていて、前に伸ばした手がぼんやり
 と見えた。草のベッドには、厚い毛布にくるまれて横たわる人の姿が見える。ベアトリスはま
 だぐっすり眠っているようだ。

  妻を起こしたい気持ちに駆られた。いま、この瞬間、妻が目覚めてくれて、話し合うことが
 できれば、なすべき決断への最後の障壁、この身に残るためらいが完全に払拭されるような気
 がする-アクセルの一部はそう確信していた。だが、村全体が起き出して今日の仕事を始め
 る時刻までに、まだしばらく間かおる。だから、妻のマントを体にきつく巻きつけたまま部屋
 の隅に行き、そこの低いスツールに腰をおろした。
  今朝の霧の濃さはどうだろうか、と思った。この闇が薄れるとき、外壁のひび割れから霧が
 部屋に侵入してくるさまが見えるだろうか………だが、思いはしだいに霧から離れ、さっきま
 で心にあった疑問に戻っていった。それは、自分たちはいつもこうして暮らしてきたのだろう
 か、ということだ。いつも二人だけで、この村の端っこでこんなふうに暮らしてきたのか。そ
 れとも、以前はまったく違っていたのだろうか。さっき外にいるとき、記匪の断片がいくつか
 戻ってきた。その中に、村の長い中央通路を歩いていく一瞬があった。片腕を子供の背に回
 し、やや前のめりの姿勢で歩いていた。あれは老いて背が曲がったのではなく、通路の薄賠さ
 の中で、天井の梁に頭をぶつけないよう用心する歩き方だった。それとも子供が何か話しかけ
 てきた直後だったろうか。子供が何かおもしろいことを言い、それでニ人して笑っていたのか
 もしれない、だが・・・・何をどう考えても、どこか落ち着かない気分が残る。さっき外にいると
 きもそうだった。集中して考えようとすればするほど、記憶はしだいにぼやけていく。ぼけた
 老人の頭に根拠もなく浮かんだ妄想なのだろうか。そもそも、神様は二人に子供を授けてくだ
 さったのか………

  過去を確かめたければ周囲に問うてみればよい、と思うかもしれない。なぜ尋ねてみないの
 か、と。だが、それは言うほどやさしいことではない。まず、この村では過去がめったに語り
 合われない。タブーというのではなく、ただ、過去を語り合うことに意味が見出されない。村
 人にとって、過去とはしだいに薄れていき、沼地を覆う濃い霧のようになっていくもの。たと
 え最近のことであっても、過去についてあれこれ考えるなど思いもよらないことだった。
  たとえば、ここしばらくアクセルが頭を悩ませている問題かおる。そう遠くない昔、この村
 には赤い髪を長く伸ばした女がいて、村の宝物のように扱われていた。その赤毛の女はすぐれ
 た治療の技を持っていて、誰かが怪我をしたり病気になったりすると、真っ先に呼ばれてい
 た。アクセルはそう確信しているが、その女はいまいない。不思議なのは、いなくなったこと
 を残念がる者がいないことだ。いや、それどころか、その女がどうしていなくなったのか、い
 ぶかる者さえいない。ある朝、霜の降りた畑に鍬を入れながら、一緒にいた三人の村人にその
 疑問をぶつけてみた。だが、三人からは、何のことか見当もつかないという反応しか返ってこ
 なかった。一人は仕事の手をとめてまで思い出そうとしてくれたが、結局、首をひねり、「そ
 り ゃ、ずいぶん昔のことだったに違いないな」と言うだけで終わった。
 
                 カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』第1部/第1章




本の題名の「巨人」は15章の最後の方に、ウィスタン――6世紀ごろ、いまはイングランドと呼
ばれるブリトン人の居住地区にサクソン人が侵入し、ブリトン人は伝説上アーサー王の下で勇敢に
戦い、彼の死後も小康状態を保っている時代に、ブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスが村に
いづらくなり、息子と一緒に住むために旅に出る。サクソン人の村に一夜泊まり旅を続ける。アー
サー王の甥のガウェイン、サクソン人のウィスタン騎士とエドウィン少年に会い一緒に旅をしてい
る――が「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します」。「二つの民族の間に結ば
れた友好の絆など、強さはありません。国が一つ一つ、新しいサクソンの国になります。あなた方
ブリトン人の痕跡など … 羊の群れ一つ二つくらいしか残りません」というところに記述されてい
る。この小説の時代の後、ブリトン人、ピクト人などケルト人はアングロ・サクソン人にほぼ完全
に駆逐され、数少ない文化的遺産が残るのみとなり、サクソン人のキリスト教化もほぼ完成する。
その後11世紀に「ノルマン・コンクエスト」を経て"イギリス原国家"が形成される。第一の読手
イギリス人)はこうした歴史をわきまえ、作者(イシグロ)が記録が乏しい時代の老人夫婦の旅
路をどのようにファンタジーとして読む解く意図をもち展開していくという(Wikipedia)。ともあ
れ、各部・各章の主な話題が分かりづらく、霧と森と鬼とファンタジーと不確かな追憶の世界へい
ざなわれることとしよう。

                                     この項つづく 

【「食」の図書館:『トリュフの歴史』】

  トリユフとはなにか

  哺乳類なのに卵を産むカモノハシや、光合成だけでなく虫を食べて栄長を得るハエトリグサ
 はどの分類に当てはめようとしてもしっくりこない動植物だが、トリユフにも同じことが言え
 る。だからこそ、何世紀にもわたってトリユフの定義は迷走を続けてきたのである。たとえば、
 古代ローマの植物学者、大ブリニウスは1世紀にまとめた博物誌にこう記している。

  なによりも驚嘆すべきことは、植物のなかには根を持たずに発生し、しかも枯れずにいる
  ものがあるということだ。トリユフないは秋雨と頻繁な雷雨により発生する。発育にとり
  わけ影響をおよぼすのは雷だ。この不完全な大地の植物――そうとしか表現のしようがな
  い――は果たして正常に生育するのか、そもそもこれは生物なのかそうでないのか、とい
  う疑問に私は容易に答えられない。

 16世紀のドイツの植物学者ヒエロニムス・ボヅクは、トリュフの発生について犬ブリニウス
 と同様に誤った自説を展開している。トリュフは草でも根でも花でも種でもない 土や樹木、
 または腐った木片の余剰水分から発生したものである」 19世紀初頭になると、トリュフヘ
 の理解はまだ完璧なものではないにせよ、少ななくとも好ましいものとして受け止められるよ
 うになった フランスの政治家で食通としても知られたジャン・アンテルム・ブリア=サヴァ
 ランは、トリュフを「台所の宝石」と表現している……作曲家ロッシーニも同意見だったのだ
 ろう、トリュフを「キノコのモーツァルト」と呼んだ。

 トリュフはキノコ――正確には菌類の子実体――の一種だ、光合成はおこなわないが、大半の
 キノコは植物と同じく地上部と地下部で生育する。外皮膜とよばれる保護層と基本体と呼ばれ
 る胞子形成部分があり、その色や質感はさまざまだら こうした色や質感の違いが、厖大な種
 類のなかからあるひとつのキノコを特定する。最初の手がかりとなる。
 厳密に言えば、すべてのトリユフは「生殖体」、つまり胞子を生みは子嚢という小さな袋のな
 かにあり、じつに多様な形をしている(円形や梢円形、八面がでこぼこしたものや滑らかなも
 の等)。トリュフの種類を特定する第犬段階は、顕微鏡での確認だ。外皮膜れ拡大してみれば
 子襄内の胞子の数や形自体、がかなり異なっていることがわかる。

 キノコは胞子が風や生き物によって繁殖する,子実体の大半は地上にて繁殖するが、孤独を愛
 するキノコ、繁殖するのは地下部分だ。氷と共生し(これはほかのキノコ類でも見られる)そ
 の根に寄生するのである。この関係は木にとってあまり得るものはないと考りえる菌学類者も
 いるが、いずれにせよ、木はトリュフが糸状の細胞を自分の根に巻き付けることを「容認する」。
 
 網の目の緩い手袋を想像してほしい。木の根っこと菌糸で編んだ手袋、つまり、ハルティニヒ
 ネット(外菌根)を通してトリュフの網を広げて水分とミネラルを土中から吸収し、木にそれ
 を取り込ませて大きく成長させるのだ。この共生関係によってトリュフは地下の闇の中でも生
 育でき、誰にも発見されずに枯れるまで地下に引っ込んでいられるのである。

 ただし、あらゆる生命体は繁殖して生息地を広げる必岑があり、植物の繁殖はその多くは植物
 の繁殖はその多くが動物を媒体としておこなわれる。トリュフと木の共生関係性に近いのは、
 種子植物とミツバチの関係だ。種子植物はミッバチに蜜を与え゛へツバチは花の蜜を吸うとき
 に脚についた花粉を別の花に運ぶことで受粉がおこなわれる。また、蜜だけでなく甘いごちそ
 う(果実)を動物がついばみ、その種を別の場所に運ぶ場合もある。種は勤物の内臓を通過し、
 排泄物という有機肥料に包まれて別の離れた場所で堆積する。

 トリュフもまた動物を媒体として繁殖する。あの有名な独特の芳香は、いわば動物を魅了する
 香水である 胞子が熟すとトリュフは香りを放ち、菌食性の生物を呼び寄せる 生物はトリュ
 フを掘り当てて食べ、数時間後に森の別の場所に胞子を堆積さぜるのだ。このような生物には
 ブタがいる。もっともでブタとトリュフという組み合わせはおなじみではあるものの、現在ト
 リュフ採集にはブタよりも犬が重宝されている。しっかり訓練すれば探し当てたトリュフを食
 べずに人間に知らせ、代わりのごほうびで満足するという点で、犬はブタよりもすぐれている
 からだ。犬は人間の親友だとよく言われるが、トリュフの親友は「ホモ・サビエンス」だ。ト
 リュフーの外来種は100年前には生息していなかった場所でも生育することがあるが、これ
 を可能にしたのは人類なのである。菌類を好むほかの生物と同じく、人間もその香りに惹きつ
 けられる。本書では、トリュフが単にキノコの一種――それも異彩を放つ――から高級食材へ
 と変化を遂げた過程を探っていく。トリュフの香りはありふれた品をごちそうに変え、その稀
 少性ゆえ今なお高値の食材だ。この特別な食材を味わう機会を得た人々は、自分が特別な人間
 だという気分にさえなるのである。

 世のなかの歴史書の大半は狂犬な戦いと突出した指導者を中心に描いたものだが、トリュフの
 本は一種類のスーバースター、フランスのペリゴール産トリュフ(学名:Tuber melinosporum )
  とイタリアのアルバ産白トリュフ(学名:Tuber magnaturm)を取りトげることが多い。しかし、
  トリュフ全体の歴史を紐解くならばあらゆる種を取り上げるべきだろう。本書ではふたつのス
 ーハースクー以外の種にも触れながらアメリカ大陸や第三世界に出会ったヨーロッバ化の変遷
 についても追っていく。

 フランス人はトリュフについて「大いなる謎(La grande mystique)」というと言葉をよく使う。
 トリュフの謎といえば、かつてはフ「トリュフとはなにか?、どうやって生育するのか?、な
 ぜ人工栽培ができないのか?」というものだった 今は科学が発達し、こうした疑問の大半に
 答えが出ている。すなわち、トリュフとは地下生菌類の子実体だ、胞子を成熟させて菌食性の
 生物を引き寄せ、胞子を拡散させて生育する、今では人工栽培可能なトリュフもある。

 現代ではトリュフにまつわる疑問は変化した そ典型はが、「われわれはトリュフをどう扱う
 べきか?」というものだぺ自然にまかせ、犬を連れた老人が晩秋に森で採集するにとどめるべ
 きなのか? それとも人工栽培の万法を精力的に開発するべきなのか? もし自然にまかせる
 のであれば、トリュフを食卓で拝めるのはごく一部のグルメだけという状況は変わらない。ト
 リュフはヨーロッバで誕生した種と――法的に――定義するべきか、それとも北アメリカとア
 ジアの地下生菌の子実体も「トリュフ」と見なしてよいのだろうか? なぜ地味でありふれた
 存在のはずのキノコが高級食材として需要が高まり、懐かしい農村と国際化する未来の両方を
 象徴する存在になったのだろ?本書『トリユフの歴史』ではこうした疑問ひと.つひとつにス
 ホットライトを当て.く謎に追っていく。 

              序章「台所の宝石」(雑貨リー・ノワク著『トリュフの歴史』)

第二の人生に入り、セイヨウオショロつまりトリュフ栽培に興味があり、この三が日にこの本に手
をつける。ところで、原書房の『「食」の図書館』シリーズは数多くの食品が取り扱われており、
感想が良ければさらに愛読書に加えていくことも考えている。ともあれも、それも時間次第、体調
次第である。

 

   

高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』   

     第3章 奇跡の終焉と「狂乱物価」の正体

     第3節 固定相場を維持するには膨大なドル買い介入が必要になる

   今、述べてきたように、固定相場制についての最大の誤解は、相場を決めれば自動的に相場
 が維持されると思っている人が多いことです。何度もいいますが、固定相場制とは、「為替介
 入をしない制度」ではなく、「常に為替介入をする制度」です。
  1ドル=360円という数字を決めただけでは相場は維持できません。実際には、相場を維
 持するために猛烈な介入が必要になります,円安気味になりそうになったら、円を買い込んで
 1ドル=360円が保たれるようにします。円高に振れそうなときには、ドルを買いまくって
 1ドル=360円を維持します。介入をし続けることで維持されるのが固定相場制です。

  詳しい仕組みを説明しますと、相場を維持する責任を負っているのは大蔵省(当時)です。
 大蔵省は特別会計で外貨を買うために、為券(外国為替資金証券)という政府短期証券を発行
 します。為券を発行して資金を調達して、その資金で外債を買って、為替相場を維持します。
 為券は大蔵省の発行する国債ですが、市中に為券を出してお金を調達すると、国債増発と同じ
 で金利が高くなってしまうことかあります。実体経済に影響が出てしまうといけないので、為
 券は日銀がすべて大蔵省から買い取っていました,

  固定為替相場維持のために、日銀は大蔵省に指示されるままに、円を発行し続けます。日銀
 からお金が出ていく形になりますので、その分だけインフレ気味になる現象が起こりました,
  日銀の独立性などまったくありません。大蔵省が「為替介入する」といったら、インフレに
 なろうがどうなろうが、日銀は円を刷らなければいけなかったのです。「国際金融のトリレン
 マ」で説明したように、固定相場を維持するために、独立した金融政策が犠牲になっていたと
 いうことです。
 「為替政策」と「金融政策」を別のものと考えてしまう人が多いのですが、実際には表裏一体
 の政策です。
 1ドル=360円のときには、輸出産業は非常に高いゲタを履かせてもらって有利な取引をし
 ていました。そのゲタを維持するために、日本経済はインフレ基調を甘受せざるをえませんで
 した,それでも、高いゲタの恩恵のほうがけるかに上回っていたため、国民経済全体がうまく
 回っていたのです,

 第4節 1985年のプラザ合意までは、実は、実質的な「固定相場制」だった

  固定相場を続けている限り、独立した金融政策を打つことはできません。固定相場制から変
 動相場制に移行することで、初めて日銀は独立した金融政策をとることができるようになりま
 す,では、いつから変動相場制に移行したのでしょうか。
  社会の教科書では1973年2月から変動相場制に移行したとされています。しかし、国民
 には知らされていない裏があります。制度上は1973年に変動相場制になったのですが、実
 際には猛烈な為替介入が続いていました。「ダーティ・フロート」とい立畏の介入が続いてい
 たのです。もちろん国民にはわかりにくい形にされていました。
 「ダーティ・フロート」を完全にやめて、宣]の変動相場制に移行したのが1985年の「
 プラザ合意」です。1ドル=360円時代は、360円から上下への変動をまったく許さない
 為替介入をし、1973年2月からプラザ合意までは、上下への変動をある程度許す為替介入
 をしていました。プラザ合意以降は「クリーン・フロート」にして為替介入をやめました。

  日本が固定相場制から、為替介入しない変動相場制に移行したのは、1973年2月ではな
 く、1985年9月のプラザ合意です。ここを見誤ると、1973年から1985年までの日
 本経済を正しく理解できなくなります。為替介入をやめて変動相場制にすると、為替は計算上
 の均衡レートとほぼ一致した数値になります,下図1のグラフをもう一度見て下さい。グラフ
 の2つの折れ線が急激に近づいていくのは、1985年以降です。それまでは両者には開きが
 あります。これは介 入を続けていたことを意味しています。


  整理しますと、

 ・プラザ合意まで → 固定相場制(1973~1985年は実質的固定相場)
 ・プラザ合意以降 → 変動相場制

 となります,
 「国際金融のトリレンマ」に則していえば、1985年までは固定相場制だったため独立した
 金融政策をとることができず、1985年に変勤相場制になってようやく独立した金融政策を
 とれるようになりました。
 「マンデル・フレミング」を知れば、財政と金融のどちらが効果的かわか均衡レートは、19
 71年までさかのぼって計算することができます。1970年代における均衡レートは、1ド
 ル=140円程度です。それ以前の均衡レートは私の試算ですが、1970年代と大きくは追
 っていないはずです。グラフを見ていただくと、1ドル=360円時代が日本の輸出産業にと
 っていかに有利な為替レートだったかがわかります。1ドル=140円程度のところを1ドル
 =360円で取引できるなら、「楽勝レート」です。1960年代の高度成長期には、非常に
 有利なレートで輸出をすることができました。

 1ドル=360円のレートは、一九回九年に設定されて以来ずっと続きました。なぜアメリカ
 が日本にとって有利な為替レートにしてくれたのかはよくわかりません。かつて田中角栄が「
 円は360度だから、1ドル360円だ」と冗談めかしていったという話はありますが、1ド
 ル=360円に決めてくれた人に感謝するしかおりません。日本のことをアメリカがナメてい
 たのかもしれません。この有利な為替レートが戦後の高度経済成長の最大の要因です。196
 0年代の高度成長期は、高いゲタを履かせてもらっていましたので、輸出企業の競争力が圧倒
 的に高まり、高収益を上げることができました。 

    第4節 為替レートが有利なうえに、技術力がついてきた

  日本の輸出企業は圧倒的に有利な為替レートの恩恵を受けていました。もちろん、日本企業
 に基礎的な技術力があったのも事実です。いくら為替レートが有利でも、粗悪品をつくってい
 たのでは海外では売れません。昔は日本製品は低品質と見られていましたが、徐々に技術力が
 高まり、アメリカ製品と似たようなレベルの物をつくることができるようになりました,その
 過程で、海外から多くの技術を学んでいます。海外企業と提携して技術力を高めた企業もたく
 さんあります,

  もちろん、実力を超えた円安の時代ですから、海外から技術を導入する経費は大変なもので
 した。本田技研は、あまりに高額の工作機械を購入したことも響いて資金難に陥り、倒産しか
 かっています。松下電器がフィリップスと提携したときも、イニシャル・ペイメント(前払い
 実施料)55万ドル、株式参加30%、ロイヤルティー(技術指導料)7%を要求されました。松
 下幸之助が、この技術指導料に対して「経営指導料」を逆に要求したことは有名な話です。結
 果としてフィリップスの技術指導料4・5%に対して、松下電器の経営指導料3%で契約が成
 立しています。

  たしかに、当時の名経営者たちはこのような果断な判断を次々と下し、技術力を格段に向上
 させていったのです。1950年代は価格の安さが最大の売りだったのでしょうが、利益を上
 げながら品質を高め、一丸八〇年代には日本製品の品質は世界最高レベルになっています。
  それを端的に物語っているのが、アメリカの映画「バック・トゥ・ザ・フユーチャー」です。
 主人公が一九八五年から1955年にタイムスリップするストーリーですが、1985年のシ
 ーンでは、身の回りの家電製品は日本製ばかりです。主人公の少年があこがれる自動車もトヨ
 タのピックアップトラックです。

  ところが、30年前の1955年のシーンはまったく追います。シリーズ三作目で、195
 5年当時の人物が、「メイド・イン・ジャパンじゃ、壊れても不思議はない」というのに対し
 1985年から来た主人公が、「何をいっているんだい。日本製は最高だよ」というシーンが
 あります。1950年代の日本製品と1980年代の日本製品ではまったくイメージが追って
 います。
  ともあれ、果断な経営判断と、不断の努力で製品の品質を上げていったことが、日本製品の
 最終的な勝利を招来することになったわけですが、日本企業の躍進を支えた大きな要因は、や
 はり「1ドル=360円」の為替レートだったことは間違いないでしょう。有利な為替レート
 のおかげて、「品質の良いものを、割安の値段で売る」ことができたのです。おかげで、日本
 製品はどんどん海外で売れました。さらにいえば、当時の経営者たちが果敢に決断できた背景
 に、「1ドル=360円」という為替レートがもたらしてくれる高収益に対する安心感があっ
 たことも、間違いありません。


                                    この項つづく 

 ● 今夜のアラカルト

 


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