11 九 地
敵味方のおかれている状況を九つの場合に分類し、それぞれに応ずる法(九地の法)をあげ
とくに捨て身によって全力を発揮する”奥の手”を論じている。
「始めは処女のごとく、終わりは脱兎のごとし」
いかなる大国でも、これらの兵法を使いこなす強力な軍に攻撃されれば、十分な兵力を動員
するいとまがない。強力な軍が圧力をかければ、敵は他国と同盟関係を結ぶこともできない。
こうなれば、実際に外交や軍事で他国と争うまでもなく、思いどおりに、柏手の城をとり、
国を破さらに、このためには、時には意表をついて規定外の宣を部下に与えたり、必要があ
れば、特別の政令を発したりして人心を掌握する必要もある。そうすれば全軍があたかも一
人の人間であるかのように、思いのままに動くのである。部下には、説明は不必要である。
ただ任務を与えさえすればよい。はげましは与えるべきであるが、危険を告げるべきではな
い。
絶体絶命の窮地に立ち、死地に入ってこそ、そこに活路が生じる。兵士たちは危険な目にお
ちいってはじめて真剣に勝負する気持になるのである。戦争するには力ずくでなく、敵の気
持をよく知り、これに応じたかけひきをすることである。敵を操作することにより一方面に
集中させて虚をつけば、千里の遠きにある敵将を殺すこともできる。これこそ戦いの名人と
いうべきである。
いよいよ開戦というときには、国境の関所を閉鎖して通行証を廃棄し、一切の往来を禁ずる。
軍議をこらして方針を確定し、敵の働きを見極め、まず敵の最大の急所をねらって、隠密裡
に行勤し、計画どおり敵に向かって、戦端を開く。
最初はさながら処女のごとく物やわらかに接することだ。相手はすっかり安心してしまう。
そして、いきなり兎が逃げ出すような激しい勢いでぶつかるのだ。これを防ぐことは不可能
である。
〈始めは処女の如く……〉 よく使われるこのことばは、本章が出典である。
【概要】
今回南関東に異常が集中したので要注意から要警戒にレベルアップ。富士山が大きな東方向
の水平変動をしたことを重視。今回4cm超の週間高さ変動があった点は28点と多数。特徴的
なのは南関東、北信越(特に長野県)および九州南部に集中していること。6cm超の点は神奈
川県の山北および二宮。隆起・沈降は、全国的に隆起。水平変動は東北地方、北信越地方、
中国地方、四国高知県と徳島県の県境、九州および南西諸島が活発しているとのこと。用心
にこしたことはないが、「人口減少の防災力劣化の危惧」とのコメントも今号に記載されて
いる。
世界はわれわれの畑だ。 ヘンリー・ジョン・ハインツ(1844~1919)
第1章 中国最大のトマト加工会社
中華人民共和国、新疆ウイグル自治区ウス市近郊
労働者たちを乗せたバスは、新疆ウイグル自港区の北部、ウス市近郊を出発した。目的地は、
首府のウルムチから隣国カザフスタンヘ続く道沿いのとある町だ。バスはひと気のない町を
通りすぎながら、アスファルトで舗装された道路を進んでいく。そして数キロメートルほど
行ったところで曲がりくねったでこぼこ道に入ると、あたりは目九渡すかぎりの畑になった。
土埃を上げながら畑のなかを進み、トウモロコシが並んで植えてある脇に停収する。その向
こうには三五畝、およそ2.3ヘクタールのトマト畑が広がっていた。サッカー場3つ分くら
いだろうか。遮るものがいっさいない、だだっ広い畑 労働者の群れがわれ先にとバスを降
りていく。女たちは一方の手で子どもの手を引き、もう一方の手でナタを樫りしめて走って
いく。子どもたちはみんな息を切らしている。ナタの柄には花模様が描かれていた。大きな
袋の束を奪いあうようにしてつかみとると、畑のあちこちへ散らばっていく。ビニール袋が
なくなると、トラクターがすぐに追加分を運んでくるが、それもあっという間になくなってし
まう。
「時間がもったいないからね」と、ある労働者は言った。「今日は、25キロ用の袋一つに
つき、2・2元もらえるんだ」。ユーロに換算すると、およそ30セントだ。トマト1キロ
当たり約1セントの計算になる。労働者同士で二、三言ことばを交わしている。標準語では
なく方言のようだ。なるべくいい場所を取りたいので、誰がどこで収穫を行なうか、互いに
交渉し合っているのだろう。一匹歳くらいだろうか、ひとりの少女がよろよろと歩いていた
。やせ細った背中に、自分の体重と同じくらいの重さのビニール袋の束をかついでいる。少
女は自分の持ち場にようやくたどりつくと、袋の束をどさりと地面に置き、束ねていたひも
をナタで切り落として作業にとりかかった。
ほかにもたくさんの少年少女がいた。労働者のほとんどが、ここから3000キロメートル
以上離れた中西部の貧困地域、四川省から来ている。ウイグル人もいた。総勢150人ほど
の労働者たちは10人から20人ずつのグループに分かれ、一定の間隔を空けて作業をして
いる。ほとんどがたったひとりですべての工程をこなしていた。ふたりで手分けをして作業
する者もいた。ひとりがしやがんで、頭上にかまえたナタを思いきむしっている。とくに顔
と手が赤く腫れたりただれたりしていた。どうやらほとんどが、畑で働くのは今日が初めて
ではないようだ。
先ほど悲しげな曲を歌っていたのは、四川省出身の男性だった。名はラモ・ジセ、32歳。
妻も同行しており、夫婦とも少数民族のイ族に属する。「今日はふたりで160袋くらい収
穫するんだ。それで350元もらえる」と言う。160袋はおよそトマト4トンに相当する。
炎天下での過酷な作業を明から晩まで続けて、ひとりたった24ユーロしかもらえないのだ。
「自分をはげますために歌ってるんだ」と、ラモは言った。
赤い帽子の男が、畑の隅に立って収穫の様子を見守っていた。トマト生産者のリ・ソンミン
で、この畑の所有者だ。収穫されたトマトは、夜のうちにトラックで中糧屯河(ちゅうりょ
うとんが)の工場へ連ばれていく。リはそこまでは知っているが、そのあと自分のトマトが
どうなるかは知らない。トマトを収穫している労働者たちの名前も知らない。四川省の出稼
ぎ労働者も、ウイグル人も誰ひとりとして知らない。全員、「手配師」によって送られてき
たのだ。リが連絡を取る相手は中糧屯河だけだ。中根屯河は、必要な設備をすべて提供した
うえで、さまざまな品種の加工用トマトを栽培するようりに要求する。リは、中糧屯河から
与えられたマニュアルに従って、もっとも効率のよい方法でトマトを作らなくてはならない。
収穫されたトマトは、契約した金額ですべて中程屯河が買いとる。収穫期には労働者も手配
する。工場ヘの輸送も中根屯河の負担で行なわれる。
中糧屯河糖業は、中国最大の、そして世界第二位のトマト加工会社だ。略称は中糧屯河、英
名はコフコ・トンハー。Cofco(コフコ)は China National Cereals Oils and Foodstuffsの頭文字
をとったもので、屯河(トンハー)は新疆ウイグル自港区の地名だ。親会社は中糧集団有限
公司英名はコフコ・グループ。アメリカのビジネス誌《フオーチュン》の企業ランキング「
グローバル500」に入る、世界でもっとも高い売上高を誇る企業のひとつだ。毛沢東統治
下の多くの企業を吸収して生まれた巨大食品企業グループで、中国で農産物の輸出入を行な
える唯一の国有企業でもある。グループ傘下の中糧屯河は、砂糖とトマトを取りあつかう。
15のトマト加工工場を所有し、うち4つはモンゴルに、残り11は新疆ウイグル自治区(
北部に7、南部に4)にある。
同社は、世界中の大手食品メーカーに濃縮トマトを供給している。クラフト・ハインツ、ユ
ニリーバ、ネスレ、キャンベル・スープ、カゴメ、デルモンテ、ペプシコ、マコーミックと
いった有名メーカーは、いずれも中糧屯河の取引相手だ。年間70万トンの砂糖も生産し、
ココーラ、クラフト・ハインツ、マース、三菱食品、そして中国乳製品メーカー最大手の蒙
牛乳業に販売している。ちなみに、蒙牛乳業の主要株主はコフコ・グループとダノンだ。さ
らに中糧屯河は世界最大級のアプリコット・ピューレの生産者でもある。同社は、年間18
0万トンのトマトを使って、全国生産量の三分の一に当たる25万トンの濃縮トマトを生産
している。原材料のトマトは、ウス市近郊をはじめ、新疆ウイグル自治区に点在する何千と
いう畑で収穫される。こうして完成した「コフコ印」の濃縮トマトは、れっきとした原材料
として世界80カ国以上に輸出される。
トマト畑では幼い子どもたちも働かされる。大手メーカーのトマト加工品はそういうトマト
で作られているのだ。10歳未満の子どもは、親の収穫作業の手伝いをする。13歳や14
歳になると、一人前の大人と同じように働かされる。「こんなふうに畑で子どもを働かせる
なんて、本当はよくないことだとわかってるさ。われわれ漢民族にとっては反道徳的だ。で
もしかたがないんだ。四川省の貧しい人間にほかの選択肢はない。子どもを預けるところな
どないのだから、仕事に連れてくるしかないんだ」
トマト生産者のリ・ソンミンはそう言う。リが生産したトマトは、中国国内では消費されず、
加工工場で濃縮されてから世界の食品メーカーに売られていく。その濃縮トマトを使って、
ヨーロッパでケチャップやトマトソースが作られるのだ。
次回は「第2章 "中国産"のトマトペースト」へに移る。「一見簡単なことに思われるかも
しれないが、じつはそうではない。ブラックインクに水をたっぷり入れたら、とろみをつけ
るためにデンプンや食物繊維を加えなくてはならない。だがそれらを多く入れすぎると色が
薄くなるので、今度は着色料を加えなくてはならない。だが入れすぎると粘り気がなくなり、
トマトペーストとは似ても似つかないものになるおそれがある。ここにいる科学者は、それ
ぞれの添加物のちょうどいい割合を見つけられる唯一の人物なのだ。では、彼の最新のレシ
ピとは? それは濃縮トマト31パーセントに対し、添加物69パーセントだ・・・」 (トマ
ト缶の黒い真実 「添加物69%」の現場」、太田出版ケトルニュース)。恐るべし、わたし
たちの健康までもが、中国人にゆだねられているのか?! 今後の展開は如何に。
この項つづく
【読書日誌:カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』No.4】
「あのばかな女たちに言われて来たんですか、あなた。わたしがあの人たちほど若かったこ
ろは、むやみに怖がったり、ばかなことを信じたりするのは年寄りって決まっていたもので
すけどね。石ころを見れば呪われてるだの、野良猫を見れば悪霊だの、って。でも、いまは
逆みたい。迷信にがんじがらめにされているのは、年寄りのわたしじやなくて若い人のほう。
主がいつも見守っていてくださるのに、そんなことまるで信じていないみたい。あの気の毒
な旅人をご覧なさい、あなた。独りぼっちで、疲れきって。どの村でもほかへ行けって追い
払われて、四日間も森や野をさまよったら、それは当然疲れますよ。ここはキリスト教の国
なのに、行く先々で悪魔扱いではね。それか、らい者扱い……皮膚のどこにもそんな印はな
いのに。わたしはたまたま持っていた粗末な食べ物をあげているだけ。まさかあなたまで、
やめろなんて言うんじやないでしょうね」
「そんなこと言うつもりはないよ、お姫様。この目で見ても、おまえの言うとおりだとわか
るからね。旅人を親切に受け入れることもできなくなったとすれば、それは恥ずべきことだ
ここへの道々、そう思いながら来た」
「じゃ、あなたは仕事に戻ってくださいな、アクセル。仕事が遅いと、また文句を言われる
から。また子供たちをけしかけて、わたしたちの悪口を言わせるようなことをされたら、い
やだもの」
「わたしは仕事が遅いなんて言われたことはないぞ、お姫様。どこでそんなことを聞いたん
だか。わたしはそんな文句を一度も聞いたことがない。実際に、二十も若い男と比べたって
同じだけの仕事ができるよ」
「からかっただけですよ、あなた。そのとおり。あなたの仕事にけちをつける人なんかいま
せん」
「わたしらの悪口を言う子がいたら、原因は仕事の速さ遅さの問題じゃない。親がばかなん
だ。それか、いつも酔っ払ってぽかりいて、子供に行儀を教えないからだ。年長者への敬意
もな」
「落ち着いて、あなた。からかっただけって言ったでしょう?もうしません。あの旅の人は、
わたしにはとても大事に思えることを話してくれているんです。いずれ、あなたにとって
も大事になるかもしれない。とにかく最後まで間いておきたいの。だから、もう一度お願い
よ。あなたは仕事に戻って。わたしは話を間いて、できるだけのことをしてねぎらっておき
ますから」
「言い方がきつかったら、ごめんよ、お姫様」
そう言ったとき、ベアトリスはもうアクセルに背を向け、辣の本とはためくマントの女に向
かってさっさと道を上りはじめていた。
少し後、用事を終えたアクセルは畑へ戻るために遠を引き返しはじめた。だが、途中少し遠
回りをし、例の斡の本の横を通ることにした。時間がかかりすぎて仲間に道草をとがめられ
るかもしれないが、やむをえない。アクセルも妻と同じで、女たちの迷信深さに眉をひそめ
たくなる気持ちはある。だが一方で、あの見知らぬ旅の女にはどことなく危険なにおいがす
るという思いも捨てきれない。その女とベアトリスを二人だけにしてきたことが不安だった。
だから、丘の出っ張りにある岩の前に妻が立ち、空を見上げているのが見えたときは、とて
もほっとした。ベアトリスは何やらじっと考え込んでいた。アクセルの姿も目に入らず、下
から声をかけられてようやく気づいたようだ。すぐに岩を離れ、下りの野道をたどりはじめ
たが、その足取りはさっきよりのろかった。おや、とアクセルは思った。歩き方が以前とは
違うような気がする。足をとくに引きずるというのではないが、どこかに痛みがあって、そ
れをかばっているような歩き方に見える。近づいてくる妻に、さっきの旅の女は?と声をか
けた。
「つぎの村へ行きました」とベアトリスは答えた。
「きっとおまえの親切に感謝しているだろうよ、お姫様。ずいぶん長く話したのかい」
「ええ。向こうも話すことがたくさんあったらしくて」
「心を乱すようなことを言われたみたいだな、お姫様。村の女たちの言うとおり、近づかな
いほうがいい女だったのかもしれない」
「そんなことはありませんよ、アクセル。でも、いろいろと考えさせられたのは確かね」
「気分がよくなさそうだな。まさか、おまえに魔法をかけて、自分は空中に消えたんじゃあ
るまいな」
「あら、辣の木まで行ってごらんなさい。いま出たばかりだから、道を遠ざかっていくのが
見えますよ。きっと、丘の向こうの村ならもっとよくしてくれると思っているでしょう」
「そうか。じゃ、わたしは行くよ、お姫様。何事もなくてよかった。おまえの親切に神様も
お喜びだろう。ま、おまえはいつもそうだけどな」
だが、今度はベアトリスが、行ってほしくないようなしぐさをした。一瞬よろめいて、支
えを求めるように夫の腕をつかむと、そのまま胸に頭をもたせかけてきた。アクセルの手が
意思を持つもののように上に動き、風でもつれた妻の髪をそっとなでた。アクセルは妻を見
下ろし、その目が広く見聞かれているのを見て驚いた。
「気分がよくないんじゃないか。旅の女に何を言われた」
ベアトリスはしばらくそのまま頭をアクセルの胸に押し当てていたが、やがて背を伸ばすし、
夫から離れた。
「考えてみたらね、アクセル、あなたがいつも言っていることが正しいような気がしてきま
したよ。ほんの昨日のことや一昨日のことなのに、みんなが忘れてしまうなんて、まるで何
かの病気がはやっているみたいで変……」
「そうだろう、お姫様?あの赤毛の女のことだって……」
「赤毛の女はもういいの、アクセル。問題なのは、わたしたちがほかに何を忘れているかで
すよ」ベアトリスは霧でかすむ遠方に目をやりながら言うと、アクセルの顔をひたと見た。
その目には悲しみと願いが満ちているように見えた。あのときだった、といまアクセルは思
っている。あのときベアトリスは言ったのだった-「あなたが昔から反対だったのは知って
います、アクセル。でも、もう考えなおすべきときじやないかしら。旅に出ましょうよ。こ
れ以上遅らせてはだめ」と。
「旅かい、お姫様?どんな旅」
「息子の村への旅ですよ。そんなに遠くじやない。そうよね、アクセル?老人のゆっくりし
た足でも、大平野を東へ少し越えたところ、せいぜい数日の旅ですよ。もうすぐ春になるし」
「なるほど。わたしに異存はないよ、お姫様。だが、それはあの旅の女に何か言われたから
思いついたことなのかい」
「長い間、田心いの中にあったことですよ、アクセル。でも、これ以上引き延ぼしたくない
と思ったのは、確かにあのかわいそうな人が言ったことのせい。息子が向こうの村で待って
いるのに、あとどれだけ待たせればいいの」
「村に春が来たら、旅のことを考えよう。絶対にな、お姫様。だが、わたしが昔から反対し
てきたというのは、いったいどういうことなのかな」
「二人でどんなやり取りをしてきたのか、全部思い出せるわけじやありませんけど、でもね、
アクセル、でもわたしはいつも望み、あなたはいつも反対でしたよ」
「そうかな、お姫様。まあ、仕事が全部すんで、ご近所さんにのろま扱いされる心配がなく
なったら、ゆっくりと話そう。いまは行かせておくれ。すぐに話し合えるから」
だが、それからの数日、二人は互いに旅のことをそれとなくにおわせはしたが、きちんと話
し合うことはなかった……というか、できずにいた。その話題が持ち出されると、なぜか奇
妙に居心地が悪くなる。そんなことが何度かつづいて、やがて二人の間では、旅の話題はで
きるだけ避けようという暗黙の了解ができあがっていった。長い年月を一緒に過ごした夫婦
なら誰でもうなずくだろう。自然発生的なあの暗黙の了解だ。いま「できるだけ」と言って「
絶対に」と言わなかったのは、ときに一方が強い衝動に駆られ、つい切り出してしまうこと
もあったからだ。もちろん、そんな状況での話し合いはすぐに曖昧模糊に堕したり、一方が
不機嫌になったりして終わる。一度、アクセルは真正面からあの日の出来事を尋ねたことが
ある。あの旅の女は輯の本の下で何を言ったんだい………そのとき、ベアトリスの表情はた
ちまち曇り一瞬、泣き出しそうになった。それ以後、アクセルはあの旅の女に決して触れな
いようにしてきた。
しばらく経つと、旅の話がどういうことから始まったのか、それが二人にとって何を意味す
ることだったのか、アクセルにはもう思い出せなくなっていた。だが、今朝、夜明け前のひ
とときを外のベンチで過ごしているときゾ記憶の曇りが-少なくともその一部が-晴れて、
多くのことが戻ってきた。赤毛の女のこと、マルタのこと、黒いぼろをまとった旅の女のこ
と………その他、この話には関係ないこともいろいろ思い出したが、とくに何週間か前の日
曜日のこと、ベアトリスが蝋燭を取り土げられたときのことが、とても鮮明によみがえって
きた。
日曜日はここの村でも安息日だが、それは、せいぜい畑で働かなくてもよい日という意味で
しかない。いくら日曜日でも家畜の世話は必要だし、ほかにも片付けなければならない仕事
は山のようにある。労働とみなせる行為をすべて禁止することなどおよそ非現実的で、それ
は司祭自身も認めている。ある日曜日、アクセルは朝のうちにブーツの修繕を終え、外に出
た。そこには春の陽光があふれていて、村の前は人でいっぱいだった。みな散らばって、あ
る者は草叢にすわり、ある者は小さなスツールや丸太の上に腰かけ、話し、笑い、仕事をし
ていた。子供たちは、遊び、駆け回った。草の上で荷車の車輪を組み立てている大人が二人
いて、その周りにも子供たちが集まって見物していた。こんなに晴れて、戸外の活動に適し
た日曜日は、年が改まってから初めてではなかったろうか。そのせいか、辺りはほとんどお
祭りのような華やいだ空気に包まれていた。だが、アクセルが村の入り口に立ち、村人たち
のいる場所の向こう側、沼地に向かって土地が下っていく辺りをながめていると、そちらに
はまた霧で煙ってきそうなあやしさが感じられた。では、この天気も午後にはまた灰色の霧
雨に飲み込まれるのか、とアクセルは思った。
Mar. 25, 2017
”Kazuo Ishiguro’s latest novel was buried, but never forgotten”
しばらくそこに立って、下のほうにある放牧地などをながめていると、突然、放牧地の囲い
の辺りで願ぎが持ち上がった。最初はとくに気にとめなかったが、そよ風が騒音を運んでき
て、そこに含まれる何かに耳が反応した。ぴんと背すじが伸びた。アクセルの目は確かに衰
えている。歳とともにいやになるほど衰えたが、耳はまだ十分に信用できる。囲いの横の人
だかりから起こる叫び声のなかに、アクセルはベアトリスの悲痛な叫び声を聞いた。
他の人々が手を止め、振り返って、そちらを見たとき、アクセルはもう駆け出していた。村
人の間を縫い、動き回る子供たちや草の土に放り出された道具を危うくよけながら駆けた。
もみ合っている村人の集まりに駆けつけると、ちょうど人だかりがほどけて、真ん中からベ
アトリスが出てくるところだった。両手で何かをつかみ、狗に押し当てている。取り巻いて
いる人々の顔にあるのはほとんどが苦笑いだったが、すぐにベアトリスの肩越しに女の顔が
現れそれだけは怒りでゆがんでいた。これは、前の年に熱病で死んだ鍛冶屋の女房だ。ベア
トリスは厳しい雰囲気をまとい、ほとんど無表情を保ちながら、責め立てるその女を払いの
けた。だが、アクセルが近づいてくるのが見えたとき、感情が剥き出しになった。
あの場面をいま思い出し、あのとき妻の表情にあったのは何よりも大きな安堵感だった、と
アクセルは思う。もちろん、夫が来てくれたことですべてが収まると期待したわけではなか
ろう。だが、夫が嶺にいてくれるという事実がすべてをがらりと変えたのだと思う。アクセ
ルを見るベアトリスの表情には、安堵感だけでなく懇願があった。そして、誰にも奪われま
いと必死で胸に抱え込んでいたものをアクセルに差し出した。
カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』第1部/第1章
この項つづく
Apr. 25, 2018
☝海面上昇で21世紀半ばで大半の島々は非可住地域に
Title: Most atolls will be uninhabitable by the mid-21st century because of sea-level rise
exacerbating wave-driven flooding. Science Advances 25 Apr 2018:Vol. 4, no. 4, eaap9741
.
❦ TFC55 LEVEL5 東儀秀樹×古澤巌×coba 全国ツアー2018 TFC
● 今夜の一曲
GLAY / 誘惑
誘惑 作詞・作曲:TAKURO 編曲:GLAY、佐久間正英
『TDK ミニディスク XAシリーズ』キャンペーンソング。イントロのギターリフ、ドラムの
生音が強調され、ギターテクが前面に押し出されている。ライブでも頻繁に演奏されており
「彼女の“Modern…”」の後にメドレー形式で披露される事も多く、ドラムから始まる曲で
ある為に「TOSHI!!」という呼び掛けで演奏がスタートし、HISASHIのギターソロが始まる前
にTERUが「OK!カモンHISASHI!!」と言うのが恒例となっている。この曲で2度目の『NHK紅白
歌合戦』に出場した。誘惑」(ゆうわく)は、GLAYの13枚目のシングルである。前作「
HOWEVER」に続いてミリオンセラーを達成し、1998年度のオリコン年間シングルランキン
グ1位を獲得した(プラネット・CDTVでは「夜空ノムコウ」(SMAP)に次ぐ年間2位)。
初動売上はシングルでは自身初の80万枚を突破、GLAYのシングルでは初動・累計ともに
「Winter,again」に次いで2番目の売上を記録している。(162万枚)
時に愛は2人を試してる Because I love you
キワどい視線を振り切って WOW
嘘も真実も駆け引きさえも いらない
今はオマエが誘うままに Oh 溺れてみたい
MORNING MOON 昨夜(ゆうべ)の涙の理由(わけ)も聞かず
遠く 空回る言葉はトゲに変わる
I don't know how to love, don't ask me why
薄情な恋と Oh 指輪の跡が消えるまで
闇に 加速する 俺を酔わす
Sometimes love tests us
Because I love you
I shake off your suggestive gaze, wow
I don't want lies, truth, or even bargains
Now I just want to drown
Oh, in your seduction
The morning moon doesn't ask the reason for last night's tears
Far away, those circling words turn into thorns
I don't know how to love, don't ask me why
Until the mark of this ring, oh
And this cruel love disappear Accelerating through the darkness, you make me drunk
● 今夜のため息:雨垂れ石をも穿つ
さすが、昨夜の「エネルギー革命元年Ⅶ」を書き終えると脳疲労による呂律が回らない、ち
ょっとした荷下ろし病に見舞われる。トリスハイボールを作り飲み干し一息つきソファーで
そのまま寝てしまい午前4時半に目が覚めるが、しばらくとりとめない不安に襲われること
1時間。日が差し込むと一転し、嘘のように頭がすっき。そこで浮かんだ諺が「雨垂れ石を
も穿つ:Constant dripping wears away the stone.」、よく似た諺では「石の上にも三年:Three
years on a stone.」、あるいは、「継続は力なり:Persistence pays off」となる。ネット上では「The town
crest even portrays Hygeia, the mythical goddess of health striking rocks with a wand to make the health-
giving waters flow forth. :この町の紋章には、細い棒の先から癒しの水を流し続け て 石を穿つ 健
康 の女神ヒュギェイアさえ描かれています」 などと記載されていることも知る。結論、このシリーズは
今回で完了ということで、「ポストエネルギー革命論」として、踏み込んだ事例を随時連載していけれ
ばと考える。