『呉子』
春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。『孫子』と併称される兵法書。前四
世紀楚の宰相であった呉子の言を集録したものという。
5.応 変(おうへん)
臨機応変の「応変」。孫子の応変が老子思想に基づくものであるのにたいし、呉子のそれは法宗
感想を根底としている。
「高きに登り四望せよ」
「的と川辺の湿地で遭遇し、車輪は水中に煩き、軸まで水に沈み、兵車も騎兵も水びたし、あい
にく舟はなく、進退きわまった場合には、どうしたものであろうか?」
武候がたずねると、呉起は、
「これを。氷蔵″と申します。この場合、兵車や騎兵は役に立だないので、これらは待機させて
おきます。そうしておいて、将みずから高いところに登り四方を観察するのです。水辺ではわか
らなかった大局的な地形を知ることができましょう。川のどこが広いか、どこが狭いか、どこが
戌いか、どこが深いか、これを十分に見知めたうえで、それに応じた策を用いるならば、勝利を
得られましょう。
敵が渡河してきたならば、途中まできて、後退の自由を失っているときに攻めることです」
「高きに登り四望せば、必ず水情を得ん」 ゆきづまりを生じたとき一定の距離をおき、客観的
に削察しなおすと、状況がわかり、道が問けることがある。
特質に応じた使い方をせよ
武候がたずねた。
「長雨がつづき、馬はぬかるみに足をとられ、兵車は進むことができず、困りはてているところ
へ四方から
敵襲を受け、全軍が動揺した場合には、どうしたものであろうか?」
呉起はこたえた。
「兵車を使うには、原則があります。道がぬかるんでいるときは停止し、乾いたときに行勤し、
高地をえらび、低地を避けねばなりません。前進するにも、あるいは停止するにも、兵車を動か
すにはこの原則に従うことが必要です。いかなる兵器にも使い道の適不適があるものです。
また、敵の兵車が勁いたならば、かならずその跡をたどって行く手をつきとめることです」
敵の帰路を撃て
武侯がたずねた。
「もしも突然、敵が来襲して、わが国土をおかし、財貨を奪ったならば、どうすればよいか?」
呉起はこたえた。
「不意打ちをかけてくる敵は、かならず勢いにまかせて殺到します。まともにぶつかっては勝目
はありません。正面切って相手になるより、まず、損害を最小にくいとめることに意を注ぐべき
です。勝ちほこった敵は、日が暮れれば軍を返すでしょう。戦利品の重さに、かれらの動きはに
ぶり、しかもかれらの心は浮足だっています。帰路を急ぐあまり、規律も何もない烏合の衆と化
しているにちがいないのです。この機をのがさず反撃すれば、味方の勝利ほまちがいありません」
占領地の心得
敵を攻め城を囲むには守るべき道がある。町や村を占領したならば、各部隊は整然と宿営し、敵
の役人を手なずけ、敵の兵器を没収する。進軍にさいしては次のことを禁ずる。みだりに木を伐
ること、建物を荒らすこと、穀物を椋奪すること、家畜を殺すこと、財貨を焼くこと、そして、
危害を加える意志のないことを住民に示し、投降を順うものがあればゆるし、民心を安定させる
ことが肝要である。
【前もの情報コミュニケーション事業:ビタクラフト テンプパン】
フライパンに温度表示マーキング機能がついたものは既に上梓されているが、その場測定した温
度表示した商品――「温度加減」という新発想、すなわち、感覚と経験に頼っていた火加減では
なく、素材や調理にあった温度を見ながら確認できる。それがテンプパンの「温度加減」。料理
初心者はもちろん、料理上級者もレベルアップ。 今、「温度の見える化」が調理を劇的に変化さ
せる。 調理は温度へ。感覚と経験に頼っていた「火加減」ではなく、ハンドル部分にリアルタイ
ム表示される「温度」で調理できる、全く新しいタイプのフライパン―― が、ビタクラフトジャ
パン株式会社から販売されている(上/下図参照)。これだと、フライパンで天ぷらの温度制御
がうまくいきそうだ。このように調理面に内蔵された温度センサーで調理温度を計測し、1℃刻
みの温度をハンドル部分に表示する。 調理中、リアルタイムで温度がわかるから、温度の上が
りすぎや下がりすぎを防ぎ、「おいしい温度」で調理できる。テンプパンがあれば、あの日のお
いしさを、何度でも。「強火で」「中火で」「弱火で」「とろ火で」といったこれまでの作り方
では、作る人一人ひとりの感覚、ガスやIHといった熱源、メーカーなどの違いによって、火加減
や火力、調理のタイミングに差が出てしまう。テンプパンなら絶対的な指標の温度で調理できる。
数字での確認なら失敗を防ぐことができて安心。自慢のオリジナル料理も、温度と時間をメモす
れば、同じおいしさにつくれる。これを応用展開すれば、赤外センサを調理機内壁に組み込めば
電子レンジにも応用でき、そのデータを自動的にレコード/デコードしておけば、処理条件が時
系列で「視える化」でフィードバックしやすくなり、美味しく上手に調理できる。
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【関連特許事例】❏ 特開2008-029849 食物調理容器
【要約】
下図のように、調理容器本体に熱伝導性をもたせて連結される収容部材を係合させるための受け
部を有する取手部を設け、該収容部材に温度測定お知らせ装置の軸部を収容するための開口部を
設け、該軸部に収容部材壁面に接触する複数の検知センサーを有する温度センサー領域を設ける。
また、該収容部材の底部の延長部は調理容器本体から収容部材へ熱を伝えるための熱伝達手段と
して作用する締め付けねじによって係止される。さらに、温度測定お知らせ装置を取手部から取
り外すことができるこ安価で耐久性を有する温度表示のある食物調理容器を提供する。
【符号の説明】
1 フライパン 2 突起部 3 端部受け座 4 取手部 5 管状本体部 6 締め付けねじ
7 ねじ受け部 8 受け部 9 収容部材 10 開口部 11 延長部 12 軸部
13 温度測定お知らせ装置 14 帯状センサー部(温度センサー領域)
第6章 中国産トマトも「イタリア産」に
第10節 「イタリアで缶詰にされています」
加工トマト業界における一犯罪」はほかにもある。
2010年10月29、カンパニア州サレルノで、アメリカに出荷されるはずだった18台のコ
ンテナが、イタリア国家憲兵カラビニエリによって差し押さえられた。コンテナには、サン・マ
ルツァーノという原産地呼称保護(DOP)表示を偽造したホールトマト缶30万個が積まれて
いた一旦。すべてが有名食品メーカー、アントニオ・アマートのトマト缶で、実際に使われてい
たのはサン・マルツァーノ産ではなく安くて品質のよくないトマトだった。家宅捜索された工場
からは、数千枚の偽ラベルと、18台のコンテナ分の請求書が見つかった。この不正取引の請求
額は40万ユーロ(約5134万円)超に上ったという。この事件で、トマト王アントニーノ・
ルッソの息子であるワルテル・ルッソと、アントニオ・アマート社の旧経営者であるアントニー
ノ・アマートが起訴され、アマートはラベル偽造の罪で懲役1年4ヵ月の有罪判決を受けた。
近年では、2016年2月、今度はアントニーノ・ルッソの娘、ロッセ士フ・ルッソが、詐欺罪
で懲役8ヵ月の判決を受けた。ロッセ士フが代表を務める缶詰メーカー、サンパオリーナでも、
サン・マルツァーノのDOP表示を偽装して商品を販売していたのだ[39]。
「39]Falso San Marzanovenduto in USA,condannataimPrenditrice di Angri ,Carriere del Mezzoagiorno。
16 fèvrier 2016
Feb. 12, 2016
「彼女は、この国の素晴らしい財産を守るために働いてきたのです」と、ロッセーラの弁護士は
言った。
こうした事件が頻発したことから、さすがにヨーロッパの大手スーパーチェーンもナポリ近郊の
トマト加エメーカーの悪評を無視できなくなりつつある。事件の多くはすでに世間に知られてお
り、司法捜査の対象とされ、そのうちのいくつかは有罪判決を受けている。こうしたメーカーが
イタリア産ではない濃縮トマトをトリコローレに彩られたイタリアブランドの缶に詰めて売っ
ていることは、もはや隠しようのない事実なのだ。
中国から青いドラム缶入りの濃縮トマトを輸入し、ヴェスヴィオ山の麓のエ場で希釈し、小さな
缶詰に詰めなおす……yこのプロセスは、もはやこの業界では当たり前のことになってしまった。
現在、EU圏内で格安で販売されているトマトペースト缶のほとんどが、ナポリ近郊のメーカー
によって供給されている。これらの激安トマト缶には原産地の表示がない。表示がないのは、原
産地が不破かなのではなく、むしろ輸入濃縮トマトを使用している証拠かもしれないのだ。
品質のよいトマトペースト缶に原産地を表示しない理由はない。品質の証明は原産地にこそある
のだから。世界市場におけるトマトペーストの価格は、その品質の良し悪しによって、1トン当
たり450ユーロ(57760円)から900ユーロ(115520円)まで約2倍に変動する
のだ。
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トマトはおそらく、あらゆる時代、気候、国を超えた、真に普遍的である唯一の食品と言ってい
いだろう。
1933年5月18日19日、パルマにて
全国イタリア加エトマト産茉会議
保存食品ファシスト全国連盟
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第7章 ファシズム政権の政策の象徴、トマト缶
第1節
ここで、保存食品と缶詰の歴史についておさらいしておこう。食材を加熱殺菌することで保存食
品を初めて作ったのは、フランス人のニコラ・アペールだ[1]。1794年から幾度も実験を
重ねて瓶詰を開発し、1802年、パリ郊外マッシーに世界初の瓶詰工場を設立した。アペール
の瓶詰は、ドイツのバイエルン地方やロシアの富裕層から、冬場でも春夏の料理が味わえると好
評を博した。4年後には、第四回フーフンスエ業製品博覧会に出品もしている[2]。
だが、瓶詰に使っていたガラス容器は、輸送中に破損しやすいという大きな欠点があった。
そこで数年後、今度はイギリス人のピーター・デュランドが、瓶の代わりに薄い鉄板に錫をメッ
キしたブリキを使って缶詰を発明する。これで輸送や携行がしやすくなり、保存食品が一気に進
化した。
[1]Nicolas Appert. Le Livre de tous ménages, l' art de conserver pendant plusieurs anné toutes les substa-
nce animales et régétables, Paris, Charles-Frobert Patris, 1831(1et éd,1810).
1819年、ニューヨークにアメリカ初の缶詰メーカーが設立された。翌年の1820年にはフ
ランスとイギリスで、1822年にはアメリカでも缶詰は一般に流通され、広く知られるように
なった。その後、フランスのブルターニュ地方で、オイルサーディンの保存用に缶詰が使われる
ようになり、そのための工場が次々と建てられた[3]。こうした工場で雇われたのは、漁師の
妻や子どもたちだ。低賃金で働かされ、労働条件が劣悪だったため、ストライキが頻繁に起きた。
オイルサーディン缶は、初めは船乗りのための保存食として作られ、その後急速に世界に広まっ
た。1860年代は、フランスが世界最大の輸出国だった。1862年に英仏通商条約が結ばれ
ると、植民地でも生産が行なわれた。
ほぼ同じ時期の1856年、20歳のイタリア人青年、フランチェスコ・チリオが、北イタリア
のトリノにイタリア初の缶詰メーカーを設立した。チリオの商品が匪界から注目を集めた
のは1867年のパリ万博のときだ。このときすでにチリオは、トマト缶をリバプールからシド
ニーまで世界各地に輸出していた。
1871年7月2日、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレニ世がローマに遷都し、南北
イタリアがほぼ統一される。するとチリオは南イタリアにも工場をいくつか設立し、広大な畑を
利用して計画的な農業を行なった。南イタリアで遅ればせながら産業化が進んだのは、チリオの
缶詰工場がきっかけだったのだ。チリオブランドの主力商品であるホールトマト缶は、イタリア
製品のシンボル的存在になった。
1861年から1865年までの南北戦争のころ、ヨーロッパからアメリカヘ大量の缶詰が輸出
された。丘ハ楳として兵士に支給するためだ。だが当時、缶詰は大変高価だったため、上級士官
にしか与えられなかった。それでも缶詰はたくさん消費され、食べ終わったあとの空き缶が南北
両軍の兵舎に散乱した。ブルターニュ産オイルサーディン缶や、トマトベースの野菜スープ缶も
含まれていた。南北戦争は近代兵器を使った史上初の戦争だったと言われるが、それと同時に缶
詰を世界に普及させた戦争でもあったのだ。缶詰のおかげで、アメリカの食品産業が急速に発展
し、ヨーロッパでも生産がさらに加速した。
アメリカでは1859年から1899年の間に工業が六倍に伸び、とりわけ新しい分野の食品産
業は1500パーセントも成長した。20世紀に各地で起きたさまざまな戦争の影響もあり、缶
詰は世界中に普及した。輸送に便利で、季節を問わず人手でき、どんなに過酷な環境でも破損・
劣化しないため、戦闘中の兵士でも携帯できる。輸送や配給が容易なので、戦争が長期化しても
対応できる。
20世紀を通じて武器は次々と進化し、戦争のスタイルも変わりつづけたが、缶詰の配給だけは
変わらなかった。いつの時代のどの軍隊にも缶詰は欠かせなかった。長きにわたって大規模な戦
争をするのに、缶詰は必需品だった。戦時、缶詰は兵士たち、そして一般市民にとっても非常に
便利な食糧として重宝されていたのだ。
1900年、ニューヨークのイタリア人移民の数は22万人だったが、1910年には54万5
000人に急増した。1930年、ニューヨークの人口に占めるイタリア人移民の割合は17パ
ーセントになり、1938年には、アメリカで食品店を経営するイタリア人移民が1万人以上に
なった。そうしたすべての店の陳列棚にトマト缶が並べられ、そのほとんどがイタリア産だった
ため、さながら「駐米トマト大使館」のようだったという[4]。トマト缶はイタリア人移民の生
活になくてはならない食品だった。
Mar. 19, 2011
[4]John F. Mariani, Mariani, How Itarian Food Conquered the World, New York. PaIgrave Macmillan, 2011.
[5]David Gentilcore, Pamadoro ! History of the Tomato in Italy, New York,Columbia university Press, 2010.
1930年代になると、一部のトマト缶は、アメリカに暮らすイタリア人向けのファシスト政権
のプロパガンダに利用された[5]。プログレッソというブランドのトマト缶のラベルには、ロー
マ人兵士の姿とともに、ファシストのシンボルが表された。イタリアの急速な工業発展をアピー
ルするために、近代的な建築物、飛行機、船舶、トンネルから現れる電車などが描かれたのだ。
第2節 イタリア、エミリアーロマーニャ州パルマ。トマト博物館
北イタリアのパルマは、トマトペーストとトマトピューレの名産地だ。その起源を八二・ネリと
いうパンに見ることができる。1840年、この地域の田舎の主帰たちは、天日干しにしたトマ
トをペースト状にして生地に練りこんでパンを作っていた。6倍濃縮というかなり濃いペースト
で大きくてとても硬いパンだった。なお、六倍濃縮トマトの起源はシチリア島にあるが、今日、
生産者はほとんどいない。シチリア島のパレルモにひとり残っているだけだ。
それから25年後の1865年、パルマ在住、化学者で農業技術者のカルロ・ロニョーニ(18
29~1904)が、トマト加工品の生産の近代化に努めた。まさに加エトマト産業の父と言え
よう[6]。地元の実験農場で先頭に立って働きながら、加工用トマトの栽培方法を多く性を向
上させ、トマト生産者の協同組合の結成にも尽力した。19世紀末、イタリアはトマト缶の輸出
を開始し、二〇世紀初頭には、早くも世界一のトマト缶輸出国になった。1897年には200
トンだった輸出量が、1906年に1万435トン、1921年に4万9100トンと右肩上が
りに増加。この年、イタリアは年間63万トンのトマト缶を生産していた。これは、当時として
は世界でほかに倒を見ない圧倒的な数字だった[7]。
[6]Musée de la Tomate d’industrie, Parme
[7]Dr Carlo Boverat,L’industria italiana delle conservedi pomodoro e la sua posizione sul mercaro ゛,
1958. Collection de l’auteur.
とくに、イタリア入移民が多く暮らす国々はたくさんのトマト缶を輸入した。その筆頭であるア
メリカは、1913年、たった1カ国でイタリアの総輸出量の半分近い2万1000トン近くを
輸入している。アルゼンチンも6000トン以上を輸入した[8]。当時、チリオはまだトマト
缶を輸出する数多いメーカーのひとつにすぎなかったが、1920年代から大々的な宣伝活動し
たことが功を奏し、一躍トマト加工品のトップ企業になった。
[8]Attilio Todeschini, Il Pomodoro in Emilia,lstituto Nazionale di Economia ASraria,1938.
Collection de llauteur.
現在、パルマのトマト博物館には、加エトマト産業にまつわるさまざまな遺産が展示されている
。もっとも目を引くのは、「プール(球体)」とフランス語で名づけられた機械だ。銅製で大き
く丸い形をしており、まるで19世紀の作家、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』に出てくる
砲弾のようだ。一世紀以上前に使われていたビール醸造機を、イタリア人がトマト加工用に改造し
たのだという。まさにこの「プール」こそが、19世紀のイタリアで使われた初期の蒸発濃縮装
置のひとつだ。原材料のトマトをなかに入れて蒸発濃縮させる。現在の装置も技術的にはこの機
械とほとんど変わらない。
ほかの展示スペースには、赤白ツートンカラーのフィアット車の屋根に、巨大なトマトペの-ス
トのチューブを乗せたものがあった。1950年代の宣伝カーだ。チューブ入りのトマトペース
トは戦後のイタリアで発明された。このおかげで冷蔵庫のない貧しい家庭でも、開封後のトマト
ペーストを安全に長期保存できるようになった。
一善良の展示スペースでは、巨大なショーウィンドウにトマト缶がずらりと並べられていた。百
個ほどあるだろうか、どれも赤や金に輝いていて、1世紀以上前のものもある。そう、まさにこ
のパルマで、1888年、さまざまなラインナップをそろえるトマト加エメーカーが初めて誕生
したのだ。
並べられた缶を見れば、かつてこの業界がいかに繁栄したかがよくわかる。缶にはそれぞれブラ
ンド名が書かれているが、その多くがもうすでに存在していない。描かれているイラストはどれ
も個性的で、壁一面に並ぶ様子はまるで古代エジプトの象形文字を見ているようだ。
白鳥、鷹、雄鶏、ライオン、ヒヨコ、虎、雄牛……いろいろな動物たちがいる。奥のほうには月
、太陽、星、向こう側には、バラやスミレもある。天使に決闘を挑もうとしている騎士、大西洋
横断船、大型帆船や飛行船、空飛ぶ複葉機。その下の列には、パエトーン、ヘラクレス、ケンタ
ウルスといったギリシャ神話の登場人物や、イタリアの詩人ダンテの姿もある。わたしがしげし
げと眺めていると、博物館のガイドの男性が説明してくれた。
「そうなんです、当時は識字率が低かったので、トマト缶の種類をイラストで見分けていたんで
す。名前やブランド名がわからなくても、食品店で”虎のやつをちょうだい”とか””鷹のをく
ださい”と注文できました。他社と差別化するために、各メーカーがそれぞれのトレードマーク
を持っていました。中身はたいして変わらなかったんですけどね。どのメーカーであろうが、ト
マトペーストの品質に差はありませんでした」
このガイドの男性は、本人も気づかないうちに、現在も続いているある事実を語っていた。
トマト加工メーカーは今も、アフリカ市場のために缶にイラストを表示している。たとえ中身が
同じであろうとも、他社と差別化するために。
この項つづく
【ゼロ・ウエスト事業:従来よろ強い野菜廃棄物混合コンクリート】
6月15日、英ランカスター大学の研究グループは、根菜から得られるセルロースでビジネスを
行っているCelluComp という会社と組み、コンクリートの強度向上についての研究を行っている
ことを公表(上写真参照)。それによると、強度が強く、環境に優しい建築の「鍵」になる。コ
ンクリートの主要成分の1つ、ポルトランドセメントは二酸化炭素排出量負荷が大きく、全世界
の二酸化炭素排出量のうち8%を占める。さらに今後は、この割合は今後30年で16%になる
と予測(下写真ビデオ参照)。同グループは、CelluComp社と協働で、二酸化炭素排出量抑制に
「根菜」を使う方法を研究していが。テンサイ(ビート)やニンジンから抽出した「ナノプレート
レット」をコンクリートに混ぜると、より強固な混合物ができる。コンクリートそのものが強固
になれば、使用量を減らせ、一石二鳥となるという。
この記事から、二酸化炭素排出量、フード・ロスの2つへの波及が期待されるが、下図のコンクリートにグ
ラフェンを混ぜた「グラフクリート」 ――グラフェン・ナノプレートレットは、米国のXG Sciences社が開発した
複数のグラフェンシートが積み重なった構造をしている粉末状ナノ素材。Cグレードは層厚2ナノ以下、エ
リアサイズは2μ以下、Mグレードは層厚6〜8ナノ、エリアサイズは5, 15, 25μ等選択可能。より厚いHグレ
ードもある。周囲のエッジ部に官能基を導入したり、表面に界面処理剤を施すことによりマトリックスとの
親和性を高めることができる(上写真参照)――のグラフェンや日本で開発されたナノセルロー
ス(今回の技術は植物繊維ということでは近い)である木質バイオマスまで拡大すれば、強度/
耐蝕性を飛躍的高めることが可能となる。これは、重要な新興事業になることまちがいないだろう。
❑ コンクリートにグラフェンを混ぜた「グラフクリート」は強度2倍・耐水性4倍の性能を持つ、
:Ultrahigh Performance Nanoengineered Graphene-Concrete Composites for Multifunctional Applications -
Dimov, Advanced Functional Materials, 、Gigazine. 、
limone menta mandorle pepe rosa La cucina di ASI
● 今夜の寸評:独裁制移行の愚
中国、ロシアに続きシリアのお隣のトルコも独裁制に移行するという。この考察は50年前に終
えている。独裁制は一見すると強そうにみえるがもろい。いや、もろいが故、人権を抑圧するわ
けだ。かって、スターリニズム(日本では「民主集中制」を標榜するソフトスターリニズム政党
は存在するが)の国家であった中国は、日本の軍拡・軍国化を批判し干渉(主権侵害)してきた
が、いまは、自ら軍拡・軍国拡張に邁進している。多くの「命と人権」を踏みにじる自爆行為は
決して「未来共有」できないと温故知新する。