『呉子』
春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。『孫子』と併称される兵法書。前四
世紀楚の宰相であった呉子の言を集録したものという。
6.励 士(れいし)
「励士」は文字どおり「士をはげます」。中国の古代史『史記』には、呉子が部下の膿(うみ)
を吸い、感激したその兵士が死地におもくエピソードが記されているが、この章はこれを裏書
する。
決死の勢い
武侯がたずねた。
「賞罰を公正にすれば、勝利を全うすることができるであろうか?」
呉起がこたえた。
「わたくしごときに判断できる問題ではありませんが、賞罰はそれ自体、勝利の保証とはならな
いかと存じます。君主が号令を発すれば、よろこんで服従する。動員府令を出せば、よろこんで
戦場に赴く。敵と刃至父えれば、よろこんで一会を投げ出す。この三つの条件が満たされてこそ
功績のある者を、抜擢して手厚く迎することはもちろん、功績のない者に対しても激励のことば
をかけてやるのです」
さっそく武侵はこの進言を問きいれ、祖先を祭る御霊屋の庭に宴席をしつらえると、家臣を三列
に並べて響応した。
すなわち最も功績のあったものは、鋭前列にすわらせ、上等の器、上等の料理でもてなした。次
に功績のあったものは中列に坐らせ、ややおとった器でもてなした。功絹のないものは最後列に
坐らせ、さらにおとった器を用いた。
宴が終わって退出するさいには、功績のあったものの父母妻子に、やはりそれぞれの貨献度に応
じてみやげを固った。また、服役者の家には毎年使者を派遣してその父母をねぎらい、いつまで
も心にかけていることを示した。
こういうやり方を実施して三年たった。
たまたま隣国の秦が兵を発し、西河に攻めよせてきた。魏の家臣たちは、上司がまだ命令しない
うちに自発的に武装し、奮い立って敵を迎え撃った。その数は数万人にのぼったほどである。
武侯は呉超を呼び寄せると、
といって次の対策をたずねた。そこで呉起はこたえた。
「人間には短所と長所があり、活力には盛んなときと衰えるときがある、といわれています。ひ
とつ、功績のない者を5万人集めてください。わたくしが指揮して敵と戦ってみせましょう。も
し、勝利を得られなければ、それこそ諸侯の笑いものになり、わが国の権威は失墜するでありま
しょうが、わたくしには確信があります。
たとえば、死にものぐるいの賊が一人広野に逃げこんだとします。たとい千人でこれを追ったと
しても、ビクビクするのは追手のほうです。なぜなら、賊が突然姿を現わして、襲いかかってく
るかもしれないからです。
もし、わたくしが五万の兵士を、この死にものぐるいの賊のように仕立て、それを指揮して敵を
撃つならば、いかに敵が大軍でもうちまかすことができます」
さっそく武侯は爪ハ起の進言を聞きいれ、この五万の兵士に兵車五百台、騎兵三千を加えて出撃
を命じた。その結果駒組は五十万にのぼる秦の大軍を打ち破ることができた。
それというのも、士を励ましたからである。
その戦いに先立ったある日、呉起は全軍に命令を発した。
「全軍の将兵は、それぞれ自己の分担に応じて敵に直面せよ。すなわち兵車は敵の兵車と戦い、
騎兵は敵の騎兵と戦い、歩兵は敵の歩兵と戦え。もし兵車が敵の兵車と戦わず、騎兵が敵の騎兵
と戦わず、歩兵が敵の歩兵と戦わなかったならば、たとい敵軍を打ち破ったとしても功績は認め
ない」
このように、それぞれの任務を制欲にしておいたため、戦闘にさいしては、いちいち命令を下す
必要がなかった。天下を固結させることができたのは、そのためである。
★この終章は、呉子の生涯と関連させて考えると興味がある。すなわち、武侯は、かれの能力を
認める一方、父文俣いらいの口やかましい功臣を避けたがる気持があったにちがいない。それは
後に賊子が魏を亡命せざるを得なかったことでも裏書さされる。
『呉子』の序章は、文侯との出会いであった。そして終章は、文侯の子、武侯とのからみあいが
記されている。武俣が、呉子の献策によって秦の来襲を西河で防ぎとめたあと、「あなたの進言
したとおりにやったが」といったときの呉子のことば、「人に短長あり、気に盛衰あり」(人間
には短所も長所もあるものです・・・ )というのは、それ自体含蓄あることばだが、気まぐれな主
人への皮肉とも解せる。しかも、典子はこのあと、陽の目をみないものばかりの軍勢をひきいて
決死の出撃をし、秦の大軍を破っている。きびしい法治主義者であり、しかも君主との関係では
不遇であった呉子の説く「励子」の一篇はそれだけによりいっそう意味深い。
【下の句トレッキング:目を遣れば存在もせず】
短歌の雑誌を時たま買ってきては本棚に積んでおく程度にいたが、電子書籍時代になりオンライ
ンで読むようになり時代の変化に驚嘆する(おかげで、月刊誌を購入するようになる)。今月の
挿絵(上図)が目にとまり、次の五連首の巧みさに感心ししばらく「暮らしぶりの変化」に暫く
思い巡らせていた。
薪の火も瓦斯の炎も揺るるなし電子レンジのチン待つ間
晩年に父が裴荷をきざみたるお台所の朴のまな板
いつよりか皿洗ひ機は棚となりいま目を遣れば存在もせず
LDKのKの煙に煉されてピアノの上のフランス人形
厨房にうごく真白き人影が火と肉を和す地上550階
❦ 昧の素
半世紀ほど前のことである。食卓で父と母が夫婦喧嘩をしていた。父が味の素を味噌汁に振りか
けたのを、母が咎めたのが原因らしい。その頃は、味の素の小瓶が、塩や醤油とともにあちこち
に置かれていた。母には、自分の縁付けが既されたように思えたのだろう。二人の論理と感情を
小学生は傍らで聞いていた。化学調味料が魔法のI振りと宣伝されていた頃である。目の窄まっ
た、亦い蓋の小瓶は、今どこにいったのだろう。
『厨房いづこ』 内藤明(歌壇、2018年05月号)
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第7章 ファシズム政権の政策の象徴、トマト缶
1922年のイタリア王国で、ムッソリーニによるローマ進軍とファシスト政権樹立に伴い、新
たな農業政策が実施された。新政権下では「アウタルキア(自給自足経済)」政策が掲げられ、
公共機関の建物の壁にも大きく貼りだされた。イデオロギー色の強い経済政策は、イタリアの農
業にいくつかの大きな影響を与えた。加エトマト産業に関して言えば、この時期にかつてないほ
ど目覚ましい組織化、近代化、計画化を遂げている。
1925年、ファシスト政権は、ムッソリーニが上半身裸で農民だちといっしょに麦刈りをする
写真をプロパガンダに、穀物類を優先的に生産する「小麦戦争」キャンベーンを実施した。その
甲斐あって、わずか8年間で、小麦の生産量は5000万キンタル(約2250万トン)から8
000キンタル(約400万トン)に急増する。ほかにも新政権は、地域・産業ごとにさまざま
な戦略を立て、目標生産量を設定した。加エトマト産業では、栽培と加工技術のさらなる進化が
求められ、北イタリアの都市パルマにその中心的な役割が与えられた。これ以降、イタリアの北
部と南部の役割分担が明確にされた。加工技術の発達した北イタリアでは主にトマトペーストを
トマト産地の多い南イタリアでは主にホールトマト缶をそれぞれ生産するようになり、その傾向
は今も続いている。
◉1919 Mussolini founds the Fascist party
ファシスト政権にとって、加エトマトは決して優先順位が高い産業ではなかった。だが結果的に
「自給自足経済」の目標生産量をクリアしたうえ、トマト缶の輸出量を増やすこともできたのだ
。1929年、2倍濃縮トマト輸出協同組合の多大なる努力もあって、イタリアのトマト缶輸出
量は13万7610トンに増加した。ところが1930年代になると、世界恐慌の影響で保護貿
易が進み、各国で関税率が上昇したため、輸出量が大幅に減少してしまう。食品産業に多額の投
資をしていた銀行は次々と倒産した。最大の打撃は、1930年6月17日にアメリカで成立し
たスムート・ホーリー法だ。2万点以上の品目に法外な関税がかけられ、アメリカヘのトマト缶
輸出量はみるみる落ちこんだ。これと時期をほぼ同じくして、アメリカでは、トマト缶の高い需
要に応えるため、イタリア移民によって次々とトマト缶メーカーが設立されはじめていた。さら
に、1936年、前年からのムッソリーニによるエチオピア侵攻に対し、イタリアは国際連盟か
ら経済制裁を受けてしまう。
Smoot-Hawley Tariff Act " Goodbye, Free Trade ? "
こうしたさまざまなマイナス要因が重なって、イタリアの加エトマト産業は徐々に縮小していっ
た。イタリアのファシスト政権は、最初はトマト缶の生産を合理化して輸出量の増加に貢献した
ものの、後になって逆に輸出量を減少させてしまったのだ。
第二次世界大戦が勃発してアメリカが敵国になると、イタリアはとうとうトマト缶を輸出できな
くなった。だがその一方で、イタリア軍の兵糧としてのトマト缶需要が高まり、おかげで輸出量
の減少分か相殺された。2015年、当時の痕跡がエジプトで見つかっている。ふたりのオース
トリア人考古学者が発掘調査を行なっていたとき、チリオの缶詰がたまたま発見されたのだ。そ
のうちのひとつが、1923年製のトマト缶だった。これは、戦時中にイタリア軍が植民地に向
けて南下していたことの証明であると同時に、イタリアの加エトマト産業史においてチリオが果
たした役割の大きさも示している。
Histry of Cirio chopped tomatoes Cirio since 1856
第二次世界大戦中、チリオはイタリア軍にトマト缶を供給する役割を担っていた。チリオの缶詰
は、イタリアから東部戦線にいたる広いエリアで、イタリアやドイツなどの枢軸国の兵士の食糧
とされた。その一方で、アメリカ、イギリス、フランスなど連合国の兵士には、キャンベル・ス
ープとハインツの缶詰が支給されたのだ。
少し時期がさかのばった1938年、イタリアのファシスト政権は、トマト加工品の生産を国家
計画化する法律を公布した。生産を手作業で行なっていた小規模な缶詰メーカーは撤退を余儀な
くされた一方、業界におけるパルマの重要性はますます大きくなった。こうして、国家の支配下
に置かれた加エトマト産業は、もはや銀行の収益に左右されることなく、多くの点で保護される
ようになった。原材料の供給、加工設備、技術研究は、すべて政府が保障してくれた。
ファシスト政権時代、とくに第二次世界大戦直前は、食品産業における重要な革新はいつも北イ
タリアで行なわれてきた。ファシスト政権下の20年間、加工用トマトの栽培面積は拡大しつづ
けた。1920年から1922年までは3万3000ヘクタールだったのが、1923年から1
925年までは4万1000ヘクタールに、1929年から1931年までは5万2000ヘク
タールに、そして1938年から1940〇年までは5万9000ヘクタールになった。
戦時の1940年、第1回目の缶詰展示会(モストラ・デッレ・コンセルヴエ)がパルマで開催
された。アウタルキア(自給自足経済)政策における缶詰の役割に焦点を定めたもので、展示会
カタログの表紙には、大文字で「アウタルキア」と書かれた缶詰が描かれた[9]。
このイベントは政権幹部から大絶賛された。ファシスト政権のイデオロギーに缶詰はぴったりだ
ったからだ。政権のアウタルキア政策と、戦争・都市・機械を賛美する未来派に影響された「文
化革命」のシンボルだ。「新時代の人間の食糧」ともみなされた。そしてその容器は、近代工業
によって科学的な方法で生産され、祖国の大地で栽培されたものを保存しているとして、重要な
意味を持っていた。
そしてファシスト政権は、とうとう保存食品の歴史まで書き換えてしまった[10]。保存食品を
発明したのはフランス人のニコラーアペールではなく、イタリア人の生物学者ラザッロ・スパラ
ンツァーニ(1729~1799)だと主張したのだ。アペールより先に、加熱殺菌して密閉し
たスープに微生物が発生しないことをスパランツァーニが証明し、そのおかげて保存食品が誕生
したのだという。
[9] Piαneta italia ,Arte e Industria, Giovanni Pacifico Editore.
[10] Attilio Todeschini,Il pomodoro in Emilia, lstituto Nazionale di Economia Agraria,1938. Collection de l'auteur.
料理歴史家のアルベルト・カパッティは、2016年8月24日の取材でこう言っていた。
「ファシスト政権のアウタルキア政策において、トマト缶は大きな役割を果たしました。当時、
加工用トマトとトマト缶はすべてイタリア国内で生産されていました。トマト缶こそが典型的な
イタリアの食品で、自給自足のイメージそのものだったのです。増産政策が農業全体に打撃を与
えた小麦や、イタリア人にとって重要ではなかったジャガイモとは大違いです。もともとはイタ
リア生まれでいまや世界中に広まったファストフードがふたつあります。何だかわかりますか?
パスタとピザです。どちらにもトマトが使われます。そのことはある意味で、加エトマト産業が
ファシスト政権によって組織化され、成長が促進され、生産を奨励され、資金を提供されてきた
歴史の遺産と言えるでしょう。当時の缶詰展示会で賛美されたのは、決してファシズムではあり
ません。イタリアの生産力の高さです。ただし、ファシストの支配下に置かれていたものです。
イタリアが食品機械の製造において世界のパイオニアになったのも、ファシスト政権下でのこと
でした。そして、こうした機械が食品業界において重要な役割を持つようになったのも、まさに
この時代からでした。その影響は今も続いています」
イタリアの缶詰展示会は戦後も重要なイベントとして継続され、食品業界から多くの来場者を集
めている。1985年、このイベントは「チブス・テック」と改名された。「チブス」は、イタ
リア語の「チーボ(食品)」の語源になったラテン語だ。チブス・テックは食品加工機械の見本
市として、今もパルマで開催されている。パルマは現在も、加工トマト産業の世界的拠点のひと
つでありつづけているのだ。
それにしても、歴史はときどき奇妙なパラドックスを生みだす。イタリアの食品産業に機械化と
合理化をもたらしたのは、ムッソリーニの自給自足経済政策だった。外国と取引せずに自国内で
生産と消費を行なうことを目的に、イタリアの食品産業は進化した。それによって戦後のイタリ
アは、トマト缶の世界シェアでトップに立ち、業界をリードする存在になった。加工機械の製造
でも世界の最先端に立った。イタリアはファシスト政権の政策のおかげで、加工トマト業界の組
織化とグローバル化を確立することができたのだ。
1944年、エミリア‥ロマーニャ州で多くの工場が爆撃された。そこにはトマト加工機械を製
造する工場も含まれていた。1945年、カミッロ・カテッリ(1919~2001)は、技術
者のアンジェロ・ロッシと共同で、この地に新しいトマト加工機械メーカー、ロッシ&カテッリ
を設立した。機械を製造するだけでなく、工場の設計・建設も手がけて好評を博し、みるみる世
界のトップ企業になった。その後、同業他社と合併を経て、2006年以降はCFT社と名を変
えている。
戦前、カミッロ・カテッリは、当時の大手トマト加工機械メーカー、ルチアーニの工場で働く見
習い労働者にすぎなかった。だが1950年代に入ると、実業家としての才能をめきめきと発揮
し、瞬く間に世界中に自社の機械を輸出するようになった。その後、アンジェロ・ロッシとのコ
ンビを解消。ロッシのほうは、1951年にインジェニェーレ・ロッシ社を設立し、こちらもト
マト加工機械業界の大手になった。ただし、20世紀後半にインジェニェーレ・口ッシが取得し
た特許や契約は、ロッシ&カテッリ名義になっている。
ロッシ&カテッリが本格的に世界市場を席巻したのは、1957年、近代型蒸発濃縮装置の第一
号機を発明したときだ。革命的な製品で、このおかげで加工トマト産業の生産性は大きく向上し
た。ロッシ&カテッリは、それから数十年間にわたって最先端の商品を開発しつづけ、それは今
日まで続いている。1960年代からは、ソ連とアメリカにもトマト加工機械を輸出しはじめた。
そしてこのころ、初の戦略的なパートナーシップをハインツと契約した。 そして1990年代
初頭、中国の時代がやってくる。
◉Whole genome resequencing in tomato reveals variation associated with introgression and breeding events
Published online 2013 Nov 14. doi: 10.1186/1471-2164-14-791
◉Draft Genome Sequence of Eggplant (Solanum melongena L.): the Representative Solanum Species Indigenous to t
he Old World
◉Hirakawa H. et al. (2014) DNA Res. 21(6):649-660
次回は、いよいよ、中国の「第8章 トマト加工の工場の奇妙な光景」に移る。残り12章と遅
々として進めず辟易する。結論だけ先に言うと、日本の農業技術力を考えれば、「世界一美味し
くて、安心で手頃な完全なるトマトの自給・自足とその加工食品立国」の実現可能だ。と、考え
ている ^^;。
連載が終了した『エネルギー革命元年』を最新事業開発の考察を継続しながら、新しい事業開発
の考察として『再生医療』の事業開発を掲載していくことにする。ところで、再生医療こと、再
生医学( Regenerative medicine)とは、人体の組織が欠損した場合に体が持っている自己修復力を
上手く引き出し、その機能回復の医学分野である。
【iPS細胞 裾野広がる 難病細胞再現し創薬】
ペンドレッド症候群について
6月3日、慶応大は6月から、難聴が進行する遺伝性の難病「ペンドレッド症候群」の治験(臨
床試験)を始める。治療で効果が見込める薬は、患者のiPS細胞を病気の原因となる内耳細胞
に変化させ、それに薬剤を添加して見つける。担当社はモニターを確認後、約100個の小さな
培養皿に内耳細胞を移し、6種類の薬剤をそれぞれスポイトで入れる。他にも有効な薬がないか、
今も実験を続ける。ペンドレッド症候群の患者数は国内に約4000人。内耳細胞の異常が原因
であることは分かっていたが、この細胞はリンパ液に満たされた骨の内部にあり、検査のため採
取することが難しく、創薬研究では患者と同じ病態を持つマウスを遺伝子操作などで作り実験を
行うことも多いが、マウスを使った病態の再現も難しく研究が進んでいない。ここ着目したのが、
iPS細胞だ。患者の血液からiPS細胞を作り、内耳細胞に変化させる。それを健康な人の
iPS細胞から作った内耳細胞と比較。患者から作ったものは異常なたんぱく質が蓄積して死に
やすくなり、難聴が進行することを突きとめる。
発症の原因が分かれば、次はその原因を抑える“薬探し”だ。複数の既存薬を培養皿に入った内
耳細胞に加えて効果を分析。藤岡正人専任講師らは、細胞死を抑える効果がありそうな薬約20
種で実験し、免疫抑制剤として使われる「シロリムス錠」にその効果があることを発見できた。
治験は慶応大病院で7歳以上の患者16人を対象に実施し、シロリムスを投与して効果や安全性
を調べる。既存薬を使うため一定の安全性が確認されていると判断し、効果を検証する動物実験
を経ないで治験に入る。早ければ2020年にも実用化が期待されている。これにより、患者の
病態をマウスで再現できず研究が進んでいない他の疾患も、iPS細胞を使うことで治療薬が見
つかる可能性高まるとみられる。
iPS細胞を使った創薬研究の治験は、慶応大のチームが国内で2件目。国内初は、京都大iP
S細胞研究所のチームが昨年10月から骨の難病「進行性骨化性線維異形成症」の患者を対象に
実施。全身の筋肉などに骨ができる疾患で、患者数は全国に約80人。京都大チームは、患者の
iPS細胞から病気の状態の細胞を作り、健康な人から作った細胞と比べるなどして、特定のた
んぱく質の刺激で骨が形成されることを解明した。さらに患者から作った細胞に約6800種の
既存薬などと特定のたんぱく質を添加。すると、免疫抑制剤の「シロリムス」に骨の形成を防ぐ
効果が確認している。iPS細胞がなければ、一気にこれほどの薬を試すことはできないのだ。
iPS細胞を使った研究は移植など再生医療が注目を集めがちだが、患者から作ったiPS細胞
で疾患の原因を探り効果のある薬を見つけ出す創薬研究も大きな柱だが、患者からiPS細胞を
作るには数カ月から半年かかり、費用も少なくとも100万円かかる。患者数の少ない難病など
の疾患だと、研究に協力してくれる患者を探すのも難しい。こうした研究にかかる時間とコスト
を削減しようと、理化学研究所バイオリソース研究センタでは10年から、国内の公的研究機関
から患者の同意を得てiPS細胞の寄託を受け、凍結保存して全国の研究機関に提供する「iP
S細胞バンク」を運営する。先月5月17日現在で、11機関が延べ806人の患者から作製し
た371疾患のiPS細胞を寄託。うち213疾患について提供する態勢が整っている。国が
難病に指定する疾患が大半を占め、指定難病以外ではてんかんやアルツハイマー病患者のiPS
細胞もある。既に国内外の34機関がバンクを活用してiPS細胞の提供を受けた。整っても課
題は多く、まず患者の病態を持つ細胞に変化できるかどうか、慶応大の岡野栄之教授(生理学)
は「iPS細胞は受精後5日半の細胞と同じくらい未熟。試験管内で成熟した細胞を作ることは、
技術的にかなり難しいと指摘する。ヒトのiPS細胞が07年に開発されてから、創薬研究の治
験にたどり着いたのは国内でまだ2件。全国の研究機関で技術は向上してきたがさらなる底上げ
が重要とされる。
また、病態を持つ細胞を作り、培養皿上の実験で細胞に効果のある薬を見つけたとしても、体内
で同様の効果があるとは限らない。効果のあった薬が既存薬だとしても、特定の患者に重篤な副
作用を引き起こす可能性もあり、安全性の確認が重要となる。国際医療福祉大の元非常勤講師で
、難聴患者らで作るNPO法人「みみより会」の宮田和実副理事長は希少疾患の研究が進むこと
はありがたいが、治験は慎重に進めてほしいと話す(「iPS細胞 裾野広がる 難病細胞再現
し創薬」毎日新聞、2018.06.03)。
※なるほど、治験が加速されることの意義はもっと理解されるべきだと納得する。
● インフルエンザ 感染組織の観察に成功 生体で初、可視化
Jun. 25, 2018
6月25日、インフルエンザに感染したマウスの肺を生きたまま観察し、蛍光技術を使って免疫
細胞の動きや血流の変化、肺組織の損傷の様子をとらえることに初めて成功したと、東京大医科
学研究所の河岡義裕教授(ウイルス学)らの研究チームが米科学アカデミー紀要電子版に公表。
致死率の高いウイルスの方が通常の季節性より血流速度の低下が早く起きるなど症状の違いも判
明した。
Jun. 25, 2018
◉An Ultrasensitive Mechanism Regulates Influenza Virus-Induced Inflammation
それのよると、インフルエンザに感染した肺ではさまざまな免疫反応が起こるが、肺は呼吸により動く
ため、生体で観察するのは困難だったが、研究グループは、感染した細胞が蛍光を発するよう遺伝子改
変したウイルスをマウスに感染させ、さらに肺の血流や免疫細胞の一種「好中球」を蛍光で光らせる薬剤
を血管から投与。麻酔下で開胸し、特殊な顕微鏡を使って一定間隔で撮影した肺の画像を詳細に
解析。致死率50%で流行が懸念されるH5N1型鳥インフルエンザと、季節性のウイルスをそ
れぞれ感染させたマウスに加え、健康なマウスも比較。感染したマウスの肺では血流が遅くなり、
感染初期に好中球の数が増える一方、好中球の移動速度は落ちることが分かった。そうした変化
はH5N1型の方が季節性より早く生じ、炎症や肺胞が潰れるなどの組織障害が激しく起こって
いた。H5N1型が重篤化する理由の解明に役立つと期待され、河岡教授は他のさまざまな呼吸
器感染症にも応用できると話している。
、Neutrophile
※個人的には、肺癌とインフルエンザによる合併症の危険評価ができればと考える。
Jun. 21, 2018
● 世界最小コンピュータの再定義論争! ~ Michigan Vs. IBM ~
2018年のVLSI技術と回路シンポジウム課題:「Cortex-M0 +プロセッサとセル型温度測定用光通信
統合(0.04mm3 16nWワイヤレスおよびバッテリレスセンサ)システム」
尚、この試作は、三重富士通半導体社及び米高富士通エレクトロニクス社による。