『尉繚子』
紀元前三世紀、秦の始皇帝に仕えた兵法家・尉繚の説を収録したものといわれる。
4.戦 威(せんい)
戦闘力を左右するものは、兵の戦意である。死を恐れずに戦い抜く精神力は、どこから生まれる
のか。命令の効果を諭し、政治を論じ、要は「人の和」であると断言する。尉組子の面目躍如た
る一章。
三つの勝利法
勝利を収めるには、三つの方法がある。道によって勝つ、これが第一。威によって勝つ、これが
第二。力によって勝つ、これが第三である。
自軍の武力を整備練磨し、敵の力を計量してつねに優位を保つように努め、戦わずして敵の戦意
を阻喪せしめるとともに敵軍の統制を乱し、たとい形体は整っていようとも実質的には戦闘の役
に立たぬようにさせてしまう。これが道による勝ち方である。
次に、法制を確立し、賞罰の規定を明示し、兵器を整備して常時使用できる態勢におき、人民の
戦意を高揚させる、これが威による勝ち方である。
さらに、敵軍を撃破し、敵将を殺し、外城を梁っ取って本陣めがけて弩を打ちかけ、敵軍を潰走
させて領土を奪い、凱歌をあげて帰巡する、これが力による勝ち方である。
君主たる者、この三勝の理を体得できれば、それで十分である。
戦意は勝敗のかなめ
さて、戦闘の最高責任者たる将師も、兵となる人民が存在しなければ戦うことはできない。そし
て人民はまた、戦意がなければ戦うことはできない。戦意旺盛ならば進んで戦うが、戦意阻喪す
れば敗走する。戦意こそは、実に勝敗のかなめなのである。
軍も勤かさず、刃も交えずに、敵の戦意を喪失させるには、どうすればよいか。それには五つの
項目について考慮をめぐらさなければならぬ。第一に、作戦計画である。第二に、司令官の選定
である。第三、進攻態勢である。第四に、防衛態勢である。そして第五に、軍紀の確立である。
この五項目についての決定は、あらかじめ彼我の優劣を綿密に計量して行なってこそはじめて
生かされる。こうすれば、敵の虚を衝くことになり、ひいては戦わずしてその戦意を奪うことが
できる。
相手の戦意を奪い、こちらの戦意は奪われない。これが有能な軍事指導者というものだ。では、
何によって相手の戦意を奪うか。それには、心の勤きというものをよく老えることだ。
【下の句トレッキング:新芽のいづる静脈の道】
ただならぬ世にありふれど花終へて新芽のいづる静脈の道
Although it’s a tough world, sprouts are budding on this road like a vein where cherry blossoms
are scattered.
そのたましひ蝶どなりゐてあをめをど宙のはたてを昇りゆくべし
捜せど蛻(もぬけ)の殼のわが棲処うれひは春のもやもやの霧
雲を食らひ雨を唖下しこの土地にぎりぎりに生きぎりぎりに死ぬ
ゆつくりと人遠ざかる。暮れきらね夕霧をだき一夜ありけり
堕ちきれぬままのくやしみ引力に抗ひてこしは心のみなる
薬師寺に唐招提寺いづこぞど斧ふりかざし霞追ひくる
たはむるる童子のわれの若葉してどこしへに木の梢にそよぐ
ふかきふかき無間の穴より這ひあがり蹴落とされつつ地球春の宵
眠られぬ夜を聴こえくるさりさりど宇宙の塵を掃く清掃車
負けいくさど知りつつ立てるもののふの丈高き素志 どほいなびかり
五寸釘打たるるごどし丑三つに汗をねぐひて醒めたるは誰
喜多弘樹 / 『春の宵』
すべての歌に深い歴史的実存性を含んだ躍動が感じられ目が留まるも、第一首の首尾の対句は見
事。母方の里(吉野)の血がシンクロさせたのかもしれない。だとすると、日本語の奥域に驚嘆
するばかりである。
第9章 中国の加エトマト産業の暴走――始まりと発展、強制労働
第1節
1990年代初めから、中国では、イタリア資本によるトマト加工工場が次々と建設された。加
エトマト産業はみるみる発展し、2000年代に入ると、中国は濃縮トマトの生産量で世界トッ
プに躍りでた。そして2004年、カルキス(中基)は、濃縮トマトをヨーロッパで販売する足
がかりとして、フランスの大手トマト加エメーカー、ルーカバノンを買収する。こうして、中国
は史上晨速でトマト加工品分野の大国に成長したのだ。
まったく経験がなかった分野で、中国がこれほどスピーディーに成長したことは、確かに大きな
驚きだった。だがそれ以上に驚かされたのは、工場のあまりにもずさんな管理体制だった。20
00年代、イタリアの機械メーカーによって工場が建設されすぎたため、その一部はもう使われ
ていなかった。新疆ウイグル自治区では、すでに取り壊されたものもあれば、廃墟のまま放置さ
れているものもあるという。
「信じがたいことだけど、中国人ときたら、多く造りすぎたと思ったら、1000万ユーロ以上
の価値がある工場でも平気で取り壊してしまうんだ」
イタリア《フード・ニュース》誌の元ジャーナリストで、中国の加工トマト業界に詳しいダヴィ
デーギロッティはそう旨った,
それにしても、中国の加エトマト産業は、どうやって短期間にこれほどまでに成長できたのか?
その理由を探る前に、まずはそれ以前の加エトマト業界の状況について知っておきたい。業界は
どういう構造をしていて、誰が権力を握っていたのか。
戦後、世界の加工トマト業界を取りしきっていたのは、イタリアのパルマとナポリだった。
当時、ホールトマト缶やトマトペースト缶などのトマト加工品分野は、少数の企業が市場を支配
する寡占状態だった。イタリアの市場を牛耳っていたのは、三つの分野のトップ企業だ。まずは
バルマ。北イタリアのこの町には、国内外に濃縮トマトの販売ルートを持つ大手商社と、最先端
のトマト加工機械のノウハウを持つ食品機械メーカーがあった。そしてナポリ。この南イタリア
の都市には、パルマの商社にとって最大のクライアント、大手食品メーカーのルッソとベッティ
があった。
当時の加工トマト業界では、商社、食品機械メーカー、食品メーカーの三つが密接な利害関係に
ある、堅固なトライアングルを形成していた。関連企業の数は片手で数えられるほどだった。こ
れらごく少数の企業は、二〇世紀後半にわたって、揺ろぎない関係を維持してきた。イタリアの
加エトマト産業は、まさにカルテルの様相を呈していたのだ。
Feb. 9, 2014
第2節 イタリア、エミリア・ロマーニャ州パルマ
1930年、アルマンドとウーゴのガンドルフィ兄弟は、パルマで食品の卸売をする会社を設立
した。ウーゴはチーズとハムを、アルマンドは缶詰などの保存食品を担当した。1969年にア
ルマンドが死去するとすると息子のロランド・ガンドルフィが父の仕事を引き継いだ。以来、同
社は海外へも進出し、膨大な量の濃縮トマトを取りあつかうようになった。数多くのクライアン
トを抱えていたが、そこにハインツも含まれていた。二〇世紀後半、ガンドルフィはトマト加工
品の取引で世界最大の商社に成長し、今もその地位を守りつづけている。
ロランド・ガンドルフィは2002年に他界している。だが、彼には生前からの忠実な右腕、シ
ルヴェストロ・ピエラッチがいた。ピエラッチは、仕入れルートと市場を開拓するため、世界中
を駆けまわった。
「わたしはもともと化学者だったんだ。ところが一九六四年のある日、パルマの保存食品産業試
験場(SSICA)から電話がかかってきた。トマト加工工場が化学分析をしてくれる人間を探
していると言うんだ。それがこの業界に入ったきっかけだった」
2016年7月25日の取材時、ピエラッチはすでに現役を引退していたが、むかしの思い出を
惜しみなく話してくれた。
「1969年、ロランドと仕事を始めた。すぐにふたりで海外へ出かけるようになったよ。当時
は外国へ出かけるのはめずらしかったけどね。最初はギリシャとトルコ、次はポルトガルヘ行っ
た。ギリシャの仕入れルートは、その直後の1970年代初めに確立した。パスクワーレ・ペッ
ティが、ギリシャ産の濃縮トマトを買ってくれるようになったんだ。今、ナポリのペッティ社を
経営しているのは、その息子のアントニオだよ。パスクワーレ・ペッティは、じつにたくさんの
濃縮トマトを買ってくれた。そしてわれわれガンドルフィ社は、いくらでも商品を供給すること
ができた。どうしてだと思う? パルマには優秀なトマト加工機械メーカーがある。うちの会社
のすぐそばで、最先端の機械が作られていた。そこでわれわれは、ギリシャの工場に最先端の加
工機械を設置して、濃縮トマトを大量に生産させた。そうやって作らせた商品を買い上げて、ク
ライアントに売ったのさ。
外国の仕入れルートはギリシャが初めてだった。当時はうち以外にもたくさんの会社がトマ
ト加工品の卸売をしていたよ。でもうちには、独自のノウハウ、高い供給能力、クーフイアント
との厚い信頼関係があったからね。一九セ○年代の終わりには、トマト加工品取引で世界一の
シェアを誇るようになった。ハインツ、ネスレ、クーフフトフーズ、パンツァーニなど、たくさ
んの企業と素晴らしいパートナーシップを築いてきた。この業界の大手メーカーとはたいてい
取引してきたよ」
現役時代のピエラッチは、トマト加工工場がひとつでもあるとわかれば、必ずその国を訪れたと
いう。そうやって、大量の濃縮トマトを人手し、あちこちに売りさばいたのだ。追随できる同業
他社はどこにもなかった。
「電話一本で契約が決まって、3万トンの濃縮トマトを売ったこともあったよ。貨物船が数隻分
だ」
1980年代、ガンドルフィ社は主にナポリ方面で取引をしていた。南イタリアのナポリ近郊、
アグロ・サルネーゼ・ノチェリーノ地域は保存食品産業が盛んで、そこにあるいくつかの食品メ
ーカーがクライアントたった。
「ナポリの会社は大量に商品を買ってくれたよ。アントニーノ・ルッソとは1979年に知り合
った。初めて会ったとき、エ場の倉庫で、たくさんの木箱に囲まれて話をしたのを覚えている。
何時間も話しこんだ末、とうとう木箱の上に座りこんだりしてね。南イタリアの人間と仕事をす
るには、最初に信頼関係を築いておくことが大切なんだ。どれくらいの濃縮トマトが売れたか、
数えきれないくらいさ。とにかく当時は、ルッソとペッティが二大企業だった。ジャグアーロは
まだそれほどでもなかった」
「かつて南イタリアの会社は、トマト加工後に残った屑でトマトペーストを作って、超激安価で
アフリカで売っていたんだ。南ではそうやって加エトマト産業が発展した。トマト缶だけじゃな
い、モモ、サクランボ、イングン豆などの缶詰もそうやって作られていた。当時、アグロ・サル
ネーゼ・ノチェリーノでは、野菜とフルーツの市場のほとんどがカモッラ、つまり地元のマフィ
アの手中に握られていたんだ」
ルッソとペッティが巨大な加工トマト市場を二分するようになると、シェア争いが激しくなり、
互いに相手の取引先を横取りしようとするようになった。そしてさまざまな出来事があって、両
社は真っ向から対立しはじめた。アルジェリアやリビアなど北アフリカの国での入札のときもそ
うだった.、
「そういう入札で決まるのは、コンテナ数台レベルの話じゃない。数万トンだ。だからルッソも
ペッティも、アフリカの市場を喉から手が出るほど欲しがった。そこでルッソは、ペッティを出
しぬくためにダンピングをやった。いくつかの商品を不当な低価格で売りけじめたんだ。
年に一度、アルジェリアとリビアで入札が行なわれるときは、それはもう大変な騒ぎだったよ。
今だから言うけれど、そういうときに一番効き目があるのは賄賂さ。その点に関して、リビア入
は最悪だった。際限なく要求してくるからね。アルジェリア入にはなんとか我慢できたが、リビ
ア入は本当にひどかった。まあ、今では状況が一変してしまったけどね。アルジェリア入は中国
から仕入れた濃縮トマトを、自分たちで缶に詰めて売るようになったから」
だが、ルッソとペッティの値下げ競争は、両社に原材料を供給しているガンドルフィ社にとって
は都合がよくない。そこでガンドルフィ社は、折りに触れて両社の仲を収りもとうとした。ロラ
ンド・ガンドルフィは、ルッソとペッティの和解交渉の場を設けるよう、右腕のピエラッチに命
じたという。ある日肢らは、ローフの高級ホテル、エデン・デ・ラ・ヴィア・ルドヴィージの客
室で、秘密裏に築まった。
「ロランドとわたしは、ルッソとペッティを何度も説得しようとした。争いの末、殺し§いにな
ってもしかたがないからね。市場が100買うと言ったら、それは100なんだ。それ以上にも
以下にもならない。だったら、互いに妥協できる線でルールを決めておくほうがずっといい。激
安で売って損をして、共倒れになるのはバカげてる。正当な値段で売ると互いに約束しておかな
いと、いずれはどちらも行き詰まってしまう。大損をして、大赤字になって、税金を収めること
も、仕入れの支払いをすることもできなくなる。
トマトペースト缶だけじゃない、ホールトマト缶だってそうさ。だが、ホールトマト缶について
は、とうとうルッソとベッティを同意させることができなかった。二、三度、戦略を練って、市
場獲得と販売に関するルールを取り決めようとしたが、結局失敗に終わった。その一方で、トマ
トペースト缶についてはどうにか同意させることができたよ。とくにアルジェリアとリビアの入
札に関してはね。ルッソとペッティのどちらかが注文を受けたら、それを二社で折半するのさ。
しばらくはそれでうまくいっていた。どちらがどういう注文を取ってもね。ごく簡単なことさ」
ガンドルフィ、ルッソ、ペッティ……のイタリア三社の《濃縮トマトカルテル》は、1980年
代以来、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの加エトマト産業を支配している。豊かな国だけでな
く賄しい国にも、大手食品メーカーやスーパーチェーンだけでなく独裁国の町の食品市場にも濃
縮トマトを供給しているのだ。
「中国と仕事を始めたきっかけは、1990年代のある日、食品機械メーカーのインジェニェー
レ・ロッシからかかってきた電話だった。中国にトマト加工工場を売ることになったから、そこ
で生産される濃縮トマトを売るのに手を貸してくれないか、と頼まれたんだ。ハインツが中国に
参入したのも同じころだった」
第3節 中国、北京
2016年8月21日、カルキス(中基)の創案者で元経営者、リウ将官は北京の自宅でこう言
った,「中国の加エトマト産業の歴史において、イタリアはマルコ・ポーロと同じ役割を果たし
てくれた。中国にトマト加工設備を最初に設置したのは、イタリアの会社だったんだ。北イタリ
アのパルマの機械メーカーが工場を建設して、いろいろなことを教えてくれた。機械の操作方法、
さまざまな技術とノウハウ、人材育成のしかた………何もかも向こうで手はずを整えてくれた。
工場設能のほとんどが、ロッシ&カテッリとインジェニェーレーロッシの製品だった。
完成した工場で生産された濃縮トマトは、南イタリアのナポリの食品メーカー、ルッソとペッテ
ィが買いとってくれた。イタリアは工場を提供してくれたうえ、商品まで買ってくれたんだ。最
初から全部ね。アントニーノ・ルッソと初めて会ったのは、1999年か、2000年だったか
な。わたしが濃縮トマトの商品サンブルを持ってナポリを訪れたんだ。そのサンプルを分析した
結果を見て、ルッソはとても驚いていた。うちの商品のコストパフォーマンスの高さにびっくり
し、信じられないという顔をしていたよ。そして、もっと詳しいテストをしたいからコンテナー
台分送ってほしい、と頼まれたんだ。言われたとおりにすると、いきなり最初から5000トン
の濃縮トマトを発注してくれたよ。
商品が到着すると、ルッソは自社のために3000トンをキープし、残りはナポリのほかの会社
に分けてやったらしい。イタリアでは、カルキスの濃縮トマトの品質の高さに誰もが驚いたんだ。
うちの商品は本当に優れていたからね。カルキスの名前はたちまち知れわたった。その後、新疆
生産建設兵団の副代表をナポリヘ連れていき、アントニーノールッソに紹介した。そのとき、取
引金額の白意が取れて、わたしたちのパートナーシップはよりいっそう強固になった。2003
年には、感謝のしるしにと、ルッソがもうひとつ工場を造ってくれた。わたしたちは長年にわた
って協力関係にあったんだ」
第4節 イタリア、エミリア・ロマーニャ州パルマ
濃縮トマトの世界最大の商社、ガンドルフィ社のオフィスは、シンプルで洗練された内装で、広
々として落ち着いた雰囲気だった。まさにこの場所で、かつて加工トマト業界の「マルコ・ボー
ロ」たちが中国へ出発し、業界のグローバル化の一大ドラマの幕が聞かれたのだ。現在は、ガン
ドルフィー族の三世代目に当たる三兄弟が共同経営し、匪界中を駆けまわって濃縮トマトの売買
を行なっている。毎年、トマト収穫期の夏になると、三兄弟は代わる代わる中国へ出張に行く。
生産現場の監督をしに行くのだ。
わたしの取材の申し出に、長男のアルマンド・ガンドルフィが快く応じてくれた。2016年7
月26日のことだ。
「中国に仕入れルートを確立したのは、うちの会社が初めてです。イタリアから専門家を派遣し
て技術指導を行なうなどして、われわれはずっと中国をサポートしてきました。そのおかげで、
現在うちの会社は、中国製品を輸入する世界最大の商社のひとつになっています」
「1990年代初頭、アルマンド・ガンドルフィは、新規仕入れルートの視察のために初めて中
国を訪れた。その旅をきっかけにして、中国の加エトマト産業が築きあげられたのだ。だが最初
にそう開いたとき、にわかには信じがたかった。そのころのアルマンドは、まだ30歳そこそこ
だったはずなのだから。
「当時の中国は、今とはまったくちがいました。人々はまだ人説服を看ていました。通りには車
はほとんど走っておらず、自転車で溢れかえっていました。発展前のむかしの中国です。あれか
らあの国はずいぶん変わりました。当時の中国を旅するのは、わたしにとってまさに大冒険でし
た。都市から遠く離れた田舎をはるばる訪れました。寝台車で旅をしたときのことを、今もよく
覚えています。丸一日、ひどく不衛生な列車に閉じこめられたのがつらくて、果てしなく長い時
間に思われました。新疆ウイグル自治区では、橋のない川を車で渡ったこともあります。まるで
未開の地を開拓に来た気分でした。そういう地域も、今ではトマトの重要な生産地になっていま
すけどね」
当時、中国政府は新疆ウイグル自治区を開発したいと考えていた。この地域にはすでに新疆生産
建設兵団が駐屯し、農地開拓と産業化を推し進めていた。だが、ウイグル人による独立運動を弾
圧し、中国政府による支配を強化するには、さらなる開発が必要だと考えたのだ。
「当時、濃縮トマトを輸出して海外市場を間発しようとまでは、中国政府は考えていなかったん
じやないでしょうか。すくなくとも、具体的な戦略はなかったはずです。わたしが思うに、当時
の中国政府の主な目的は、農民に仕事を与えること、雇用を剔出すること、そして経済を発展さ
せることだった。そのために投資を行なったのです。ところが最初から、生産された濃縮トマト
はほとんどすべて輸出されました。中国には市場がないからです。中国人はあまりトマト加工品
を食べません。多く見積もっても生産量の10パーセント程度しか国内消費されません。あとは
すべて輸出するしかないのです。生のトマトはたくさん食べられていますが、加工品は売れない
んです。これは文化的な要因でしょう。国民の消費の嗜好が、生トマトからトマト加工品に移る
には時間がかかります。簡単ではありません、国によって食べかたがまったくちがいますからね。
でも最近の若い人たちは、加工品も食べるようになってきました。ただし、時間はかかりますね」
アルマンド・ガンドルフィは、父ロランドと父の右腕のシルヅェストロ・ピエラッチが現役だっ
た時代の、1975年に経営に関わりはじめた。当時、ガンドルフィ社はハインツに濃縮トマト
を供給していた。ハインツにとって重要な卸売業者だったのだ。そのため、ロランド・ガンドル
フィは、ハインツの本社工場があるピッツバーグをしばしば訪れていた。
第5節
1990年代半ば、中国に工場を建設するためのイタリアの資金は、スイスを拠点に流通してい
た[1]。初期のころの工場の建設は、バーター貿易協定によって行なわれていた。
バーター貿易とはいったいどういうものか。シルヴェストロ・ビエラッチがわかりやすく説明し
てくれた。
「まず、わたしがきみに機械を与えるだろう?きみはその機械を使って商品を生産する。商品が
完成したら、きみはわたしにそれをくれる。わたしはその商品をよそに売ることで、きみに与え
た機械にかかった金を回収する……どうだ、わかったかい?むかしはそういうシステムをよく使
ったものだ。それでうまくいっていた」
つまり、初期のころの工場建設にかかった費用は、通貨によっては支払われていなかった。
その翌年にトマトが収穫され、加工されたあと、完成した濃縮トマトによって後払いされていた
のだ。一言で言えば、物々交換だ。
アメリカ農務省の2002年の報告書に、こうしたバーター貿易協定についての記録が残されて
いる[2]。実際、わたしがこの協定について尋ねると、イタリアや中国の業界有力者の多くは 確
かにがってはこの手の協定があったと証言してくれた。この協定のおかげてイタリアの資金はイ
タリア国内で、そしてイタリアからスイスヘ、税金を免れて流れていったのだ。
だが、世界の加工トマト業界の有力者は誰ひとりとして、自分が協定の当事者だったとは言わな
い。そして、誰が当事者だったか覚えていないと主張する。それはなぜか?もしかしたらこうし
た資金の流通が、資金洗浄を可能にしたのだろうか? マフィアが経営する食品メーカー、つま
りアグロマフィアのためか、あるいは、何かほかにうしろ暗い資金があったのか………だが、そ
の笞えは決してわからないだろう。中国でも、イタリアと同じように、この協定に関しては誰も
が知らぬ存ぜぬの一点張りだった。汚れた金であろうがなかろうが、中国にとっては、この新し
いビジネスで得られる利益は魅力的なものだったのだ。
[1] Bill Pritchard et David Burch, Agri-food Globalisation in Perspective, International restructuring in
the processing tomato industry, Farnham, Ashgate, 2003.
[2] United States Department of Agriculture Foreign Agricultural Service 2002b, p. 4.
この項つづく
【5G関連市場・エッジ機器は23年に26兆円超】
● 5G対応基地局は23年に4兆円、5G化率80%へ
6月21日、富士キメラ総研は2018年6月、5G(第5世代移動通信)システムの関連市場を調査し
、その結果を発表した。これによると、2023年の市場規模は、5G対応基地局が4兆1880億円、5G対
応エッジ機器が26兆1400億円になると予測。今回は、5Gに関連する通信インフラ関連機器/デバ
イス、サーバ/サーバ関連デバイス、エッジデバイス/機器/サービス、その他関連機器/部材
などの市場について調査、分析。
5G対応基地局市場は、マクロセル基地局、スモールセル基地局、C-RAN(Centralized-Radio Access
Network)基地局を対象とした。2023年の市場規模は、マクロセル基地局で1兆180億円が見込ま
れる。これに対して、スモールセル基地局は2兆9500億円と予測され、市場の拡大をけん引する。
5G対応基地局合計では4兆1880億円となる。この時点で5G化率は80.1%になると推定。
また、5G対応エッジ機器市場は、スマートフォンやスマートウォッチ、監視カメラ、スマートグ
ラス、ドローン、スマートスピーカーを調査対象とした。エッジ機器全体の市場規模は2019年に
3兆5165億円を見込み、2023年に26兆1400億円と予測した。この時点で5G対応比率は60%を超える
見通し。こうしたエッジ機器では、高性能CPUコアの実装などにより、これまで以上に放熱対策
やノイズ対策が重要だと指摘。調査レポートでは、5G導入に連動してバックホールの高速化と大
容量化が進むことから、「100G/200G/400G光トランシーバー」を注目市場として挙げた。対象
とした光トランシーバーは、伝送速度が100Gビット/秒(bps)以上、伝送距離は数百m~40kmの領
域である。市場全体では2023年に6200億円と予測する。このうち、400G光トランシーバーが3000
億円に拡大し、2020年をピークに縮小が想定されている100G光トランシーバーと同等規模になる
見通し。 今回は、専門調査員によるヒアリングなどを2018年3~5月に実施した。調査、分析結
果の詳細は、「2018 5G/高速・大容量通信を実現するコアテクノロジーの将来展望」にまとめた。
【五坐踏破計画 2017】
少し焦りがある。時間ばかり過ぎ、目標が達成できない。精神的にも日々の作業で限界にある。
心を開放しなければ。悪天候をさけた今月の土曜に焦点当て単独、あるいは二人で警戒をたてる
ことに。
● あの日の一曲
Joanie Sommers " One Boy "
ジョニー・ソマーズ:Joanie Sommers(1941年02月24日、ニューヨーク州バッファロー、Joan D
rost 生まれ、現在77歳)は、米国歌手で、ジャズ、スタンダード、ポプスをこなす。「The Voice o
f the Sixties」と呼称され、ヒット曲「Johnny Get Angry」――ビルボード・ホット100で7位を獲
得――で名を馳る。彼女の1960年のデビューシングル「One Boy」(Bye Bye Birdie)はビルボー
ド・ホット100で第54位を獲得、3ヶ月間チャートイン。「One Boy」と「I'll Never Be Be Free」
はビルボードのスポットライト賞を獲得。その後のツアースケジュールには、ニューヨークのレ
フト・バンク・クラブ、ハリウッドのクレッシェンド、ミネアポリスのフレディ、シカゴのザ・
クロスターなどの会場や、ジャック・パール・ショーやボビー・ダーリン・スペシャルの出演な
どに出演を果たす。