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在りて華やぐこの世おもしろ

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『尉繚子』
紀元前三世紀、秦の始皇帝に仕えた兵法家・尉繚の説を収録したものといわれる。

4.戦  威(せんい)
戦闘力を左右するものは、兵の戦意である。死を恐れずに戦い抜く精神力は、どこから生まれる
のか。命令の効果を諭し、政治を論じ、要は「人の和」であると断言する。尉組子の面目躍如た
る一章。

部下を発奮させるには
次に、士卒を発奮させることについて論じよう。そのためにはまず、民生を豊かにしなくてはな
らない。また、階級間の秩序、親族関係における礼の別は、社会生活の根本であるから、明確に
しておかねばならない。これらを定めるについては、あくまでも社会生活の実態に即し、慣行に
従って明確に規定することが大切である。土地や俸禄の制度は公正に、民衆の生活に対する思い
やりを忘れず、相互扶助の観念を振興させれば、人民の精神はかならず高揚する。これが、士卒
を発奮させるための根本である。
政者がこの配慮を忘れなければ、什伍は親戚のように睦みあい、卒伯は友人のように親しみあう
であろう。止まれば鉄壁の布陣を固め、進めば風雨のごとく迅速果敢、兵車は絶対に後退せず、
士卒はけっして退却せぬ勇猛無比の軍隊は、ここから生まれるのである。

〈什伍、卒伯〉各級の部隊の呼称。兵士五人の一隊が「伍」、十人が「什」、「卒」は五十人と
              も百人ともいわれる。「伯」は「卒」の倍だが、字義からいえば百人である。

五大要件
土地は、人民を養うためのものである。城は、土地を守るためのものである。そして戦争は、城
を守るための行為である。
土地の耕作に力を尽くせば、人民は飢えない。城の防備を厳にすれば、土地は奪われない。そし
て戦力の増強を怠らなければ、城は危機に顔することはない。
土地と城と戦力との三者は、先王が治国の根本として重視したものである。ところで、三者の中
でも何かもっとも困難かといえば、それは戦力の増強である。それゆえ、先王は、次の五大要件
を満たすために全力を傾注した。 

一、食指を蓄積すること。食糧が欠乏すれば、軍は進もうにも進めない。
二、論功行賞を十分に行なうこと。賞が十分でなければ、士卒は発音しない。
三、有能な人材を抜擢すること。人材を適所に用いなければ、軍は強くならない。
四、兵器を整備すること。武器が整っていなければ、戦闘力は弱まる。
五、賞罰が厳正適切であること。賞罰が適正を欠けば、士卒は上官に服従しない。

上の五大要件が満たされればどうなるか。軍が静止する時はその守りは万全、行動する時はかな
らず所期の戦果を収めることが可能となる。しかも防禦から攻撃に移行する時には、重厚で堅固
な全軍が一挙に、勇猛果敢に突進するようになる。



『下の句トレッキング:在りて華やぐこの世おもしろ』

少年の視線の先のくたびれた歩行靴わが普段覗き  

バス停で片足立ちに靴裏を見する機敏さなくて棒立ち  

執すれば靴の底さへ少年に未知の扉どなるかなるべし  

長靴のゴム底の跡入り混じる雪の庭ありき陽に融くるまでを  

つど子鹿われを去りゆき小顛なる出し惜しみせる残生ならす  

靴の底意匠なるほど様々に在りて華やぐこの世おもしろ
I find designs of various shoe soles and I think interesting this era fun.

 
寺尾登志子 / 『靴の底』

 

第9章 中国の加エトマト産業の暴走――始まりと発展、強制労働
第8節
中国に加エトマト産業が誕生したころは、新疆ウイグル自治区でのトマトの収穫はすべて手作業
で行なわれていた。労働者に支払う賃金は、現在の六分の一から十分の一程度だった。
日当2、3ユーロで、東方からの出稼ぎ労働者やウイグル人を働かせていたのだ。今なら20ユ
ーロくらいが相場だろう。
労改の収容者も働かされた。中国には2013年まで、反革命犯や政治犯を「改造」するために
労働をさせる一労働改造」という制度があった。旧ソ連の強制収容所、グラーグの中国版だ。そ
の一労働改造所=労政」の収容者たちが、新疆でのトマト収穫作業を強いられていたのだ。



欧米のメディアでしぼしぼ「ウイグル人のダライ・ラマ」と紹介される、ラビア・カーディルと
いう女性がいる。1970年代に新疆ウイグル自治区の実業家として成功し、1990年代には
中国でもっとも富裕な女性のひとりになった。当時はその高い社会的地位から、さまざまな政治
団体のメンバーになっていた。ところが1999年、ウイグル人の人権の改善を訴え、中国政府
によるウイグル人抑圧を非難したために逮捕され、政治犯として収監されてしまう。労働改造所
に収容され、縫製作業の懲役を科せられた後、2005年にようやく釈放された。現在はアメリ
カで暮らしつつ、世界ウイグル会議の議長として、ウイグル人の人権擁護を訴える活動を行なっ
ている。

2016年7月20日、わたしはラビア・カーディルに取材することができた。カーディルは、
中国の政治犯が新疆ウイグル自治区で加工用トマトの収穫作業を強いられていること、そして政
治犯以外の受刑者も農作業を強制されていることを教えてくれた。

「中国でもっとも多くの労改収容者が働かされているのが、新疆ウイグル自治区です。労改の所
長は、まるで会社の経営者です。収容者を無理やり働かせて、輸出向けの商品を生産しています,
とくに農地や工場で働かされています」

反中国政府のプロパガンダのための嘘ではない。新疆ウイグル自治区で、わたしはカーディルの
証言の裏付けを取ることができた。加エトマト産業に関わる役人は誰ひとりとして、労改収容者
にトマト収穫をさせたことを認めなかった。だが、漢民族のトマト生産者が、かつて収容者にト
マトの収穫をさせたことかあると証言したのだ。強制労働によって収穫されたトマトは、工場で
加工され、濃縮トマトになって大手食品メーカーの手に渡っている。

かつて、ソ連時代の強制収容所のグラーグは、世界中の知識人から非難の的になっていた。
現在でも、テレビ番組で共産主義の是非が論じられるとき、もし誰かがグラーグのことに言及す
れば、その点に関してはすべての人の意見が一致する。なのに、どうして中国の強制労働は許さ
れているのか? 「労働改造」の制度自体は2003年に廃止されたが、強制労働は今も中国で
続いている。だが、誰もそれを非難しようとしない。いつの間にか、強制労働は国際的に容認さ
れてしまったのだろうか?

確かに、中国版グラーグは、グローバル化された今の資本主義社会にすっかり組みこまれている。
労働コスト削減のためなら手段を選ばない大手食品メーカーにとって、原材料の下請会社でただ
で使える労働力かおるのは、実に都邑がよいことなのだ。この件について、中国政府は公式な数
字をいっさい公表していない。だが複数のNGOは、およそ400万人の人たちが今も強制労働
をさせられていると発表している。
ドイツ公共放送ARDテレビで長年アジア特派員を務めたジャーナリスト、ハルトムート・アイ
ツクは、中国の強制労働に関するドキュメンタリー番組を制作した。この作品は、独仏共同出資
テレビ局アルテで放映されている。

2015年9月1日、わたしの取材に対し、アイツクはこう言った。
「中国の強制労働は、国の経済発展に大きく貢献しています。金額にしてざっと数十億ユーロに
なるでしょう。ヨーロッパの企業が視察に訪れるのは、いつも近代的な工場です。現地ですぐに
商品を発注する企業もあります。でも、工場の裏手に収容所があって、商品は本当はそこで作ら
れています。ヨーロッパの人たちにはそれがわかりません。クリスマス飾り、プラスティックケ
ース、衣類、ぬいぐるみ、機械のパーツなど、わたしたちが暮らす町で安く売られている中国製
品の多くは、こうした強制労働によって作られているのです」

ヨーロッパの経済は、いまや中国からの輸入に大きく依存している。そのせいか、中国で強制労
働が行なわれている実態は、メディアでほとんど取りあげられない。だが、こうした強制労働に
よって農業労働力が提供され、そのおかげで中国が世界中に食品や原材料を輸出しているのは確
かな事実だ。そういう卑劣な行為によって作られた商品が、欧米のスーパーの店頭に並び、わた
したちの食卓に並べられるのだ。

[2] United States Department of Agriculture Foreign Agricultural Service 2002b, p.4.



第9節
中国の加エトマト産業が暴走したのは、さまざまな要因が積み重なったためだった。ただ同然の
労働力、激安価格で競争力が高い濃縮トマトの世界市場進出、少しでも安い濃縮トマトを求める
ナポリの食品メーカー、新疆ウイグル自港区の産業化と領土の有効利用と賄賂を求める中国の権
力者たち、年間三パーセントずつ増加する加工用トマトの世界需要、なるべく多くの設備を売ろ
うとする食品機械メーカー………こうして中国の加エトマト産業はうなぎのぼりで成長し、やが
て生産過剰に陥り、増えすぎて使われない工場があちこちに現れるようになった。
のだ。

  Tony O'Reilly

第10章 ハインツの経営合理化とその影響
第1節
1983年6月30日、アメリカ元国務長官のヘンリー・キッシンジャーはインツ社のジェット
機に乗って初めてアイルランドを訪れた。わずか数日間の滞在で、7月1日には現地を発ったと
いう。アイルランドのメディアはプライベートな旅行と報じ、目的は明らかにしなかった。とこ
ろが、その訪問の目的がなんと30年後に明かされた。
2013年に公開された国家機密文書によると、アイルランドの当時の首相、ガレット・フィッ
ツジェラルドは、キッシンジャーの突然の訪問に大変困惑したという。だが、ともあれ首相はキ
ッシンジャーをダブリンでの晩餐会に招待した。そしてそこには、トニー・オライリーという人
物も同席した[1]。
トニー・オライリーは、ラグビーのアイルランド代表の元選手で、引退後は実業家として知られ
るようになった。アイルランドの大手新聞社のCEOであり、億万長者、そしてハインツの五代
目社長だった。この数年後の1987年には、創業者ヘンリー・ジョン・ハインツの孫-・オラ
イリーは、キッシンジャーのその交渉力に頼りたかったのだ。


そのころ、オライリーが社長を務めるハインツの商品は、世界人口のわずか15パーセントにし
か流通されていなかった。つまり、アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパの市場にしか出回っ
ていなかったのだ。もっと販路を広げたい、進出が難しいとされる中国のような国で、同業他社
に先駆けて商品を販売したい……オライリーはかねてからそう願っていた。当時の中国の最高指
導者、邨小平が進める対外開放政策に乗じてどうにか中国に進出できないか。その相談で、キッ
シンジャーをアイルランドに呼び寄せたのだ。

アメリカに戻ったキッシンジャーは、さっそくハインツのために動きだし、あっという間に中国
市場参入の話をまとめあげた。そして翌年の1984年、ハインツは広東省のメーカーと、ベビ
ーフードの生産における白弁会社を設立した。契約締結までわずか7ヵ月というスピードだった。
中国の生産工場は1986年6月に完成し、落成式は中国共産党の役人やハインツの経営陣を迎
えて盛大に行なわれた。当日の写真を見ると、ハインツ創案者の孫であり3代目社長たったヘン
リー・ジョンージャックーハインツニ世と、五代目社長のトニー・オライリーが、中国の子ども
たちに囲まれている。子どもたちはハインツのロゴが印刷された風船を手にしている。その場に
集まった地元の人たちは、人民服を着て、「ハインツ」と書かれた帽子をかぶっていた。

その2年後、工場は3倍の規模に拡張された。中国のテレビで初めてCMを流した外国企業もハ
インツなら、資本主義国のブランド食品を中国で初めて販売したのもハインツだった。天安門事
件から一年も経たない1990年には、ハインツはすでに中国の国土の半分で自社商品を販売し
ていた。ハインツは再び資本主義の歴史の最先端に立ったのだ。

第2節
1980年代のネオリベラリズムの流行によって、政府が市場に極力介入しない市場原理主義が
世界中に広まった。その影響で、多くの先進国で規制緩和や金融自由化が行なわれ、自由競争が
促進された。経済における金融の役割が大きくなり、いわゆる経済の金融化か進んだことで、国
内外における生産システムと金融システムが根底からくつがえされた。1962年、アメリカの
国民総生産(GNP)に占める金融業の割§はおよそ16パーセントで、製造業は49パーセン
トだった。ところがその40年後の2002年、金融業は43パーセント、製造業は8パーセン
トと完全に逆転してしまった。

ハインツの社長、トニー・オライリーはネオリベラリズム信奉者で、経営にもすぐにこの思想を
取り入れた。そういう意味で、オライリーは1980年代を象徴する経営者だったと言えるだろ
う。ネオリベラリズムとグローバリズムに合わせようとしたというより、積極的に椎し進めてい
ったのだ。
[3]  Andrew  F. Smith,  Pure Ketchup: A  History of  America's National Condiment, Colu mbia, University
of South Carolina Press, 2011.



トニー・オライリーは、当時の大統領、ロナルド・レーガンの公私にわたる友人だった。その人
脈を利用して、1981年、オライリーはアメリカのネオリベラリズムをケチャッブ色に染めよ
うと試みたようだ[3]。

1982年度の連邦予算が決定したとき、社会保障費が270億ドル削減され、それに伴って学
校給食費も10億ドルほど削られた。そこで当時のアメリカ農務省は、1981年9月3日にケ
チャップを「調味料」ではなく「野菜」と分類することを提案した。そうすれば生野菜や調理野
菜の量を減らしても、ケチャップを使うことで一食当たりの野菜摂取量を満たすことができるう
え、大幅なコスト削減が可能になる。しかし、当然のことながら反対の声は大きく、この提案は
却下された。だが現在、大さじ二杯以上ならトマトペーストが「野菜」と認められていることか
ら、ビザはアメリカの給食で「野菜」に分類されている。

「トニーは50歳と、まだまだ子どもだ。だがわたしが思うに、数年後には政界進出できるくら
いに成熟するだろう」
1986六年、アイルランド系アメリカ人経営者クラブに向けて、同じくアイルランド系のレー
ガン大統領は、ホワイトハウスからビデオメッセージを送っている。実際、レーガンニ期目の共
和党政権では、トニー・オライリーを閣僚に迎え、商務長官に任命しようとする動きもあったの
だ。大統領はビデオメッセージでこうも言っている。
「トニーは偉大なアイルランド系アメリカ人だ。イギリスとアイルランドの両方でその功績が認
められている。世界的なラグビーブレイヤーとして、複数のメディアのトッブとして、国際的な
実業家として、さまざまな分野で素晴らしい仕事を成し遂げている。われわれは彼に感謝してい
るのだ」

ハインツ創業者のひ孫、ヘンリー・ジョンーハインツ三世にもまた、共和党大統領の秘蔵っ子議
員のひとりだった。1971年から1977年まで下院議員を務め、1977年からは上院議員
に選出されている。1991年に飛行機事故で死去したときは、ジョージ・H・W・ブッシュ大
統領自らがハインツ記念チャペルでの葬儀に駆けつけ、故人の冥福を祈った。ハインツ記念チャ
ペルは、ハインツ社によってピッツバーグ中心街に建てられたゴシック様式の教会だ。今、ハイ
ンツ三世は、ハインツ創業者で曽祖父のヘンリー・ジョン・ハインツ、二代目社長で祖父のハワ
ード・ハインツ、三代目社長で父のヘンリー‘ジョン・ジャック・ハインツニ世らとともに一族
の霊廟で眠っている。なお、ハインツ三世の未亡人、テレサ・ハインツは、1995年、アメリ
カ第68代目国務長官ジョンーケリーと再婚している。

第3節
1980年代、国際コンサルティング会社のキッシンジャー・アソシエーツがハインツのために
何をしてきたか、その一部はいまだ謎に包まれている。だが1986年、トニー・オライリー社
長は《ニューヨーク・タイムズ》紙に対し、キッシンジャーがコートジボワールとハインツの契
約の仲介をしたことを明らかにしている。フェリックス・ウフェーボワニ大統領とオライリーが
一対一で会えるよう、間に立って交渉をしたのだという。そのわずか一年前、ハインツはジンサ
ブエでも合弁会社を設立している一玉・ロバート・ムガベ首相とオライリーとの間で契約が交わ
されたのだ.これもキッシンジャーの交渉の成緊だったのだろう。

「ハインツは重要なパートナーです。ほかの外国企業もぜひ後に続いてほしいと思っています。
ハインツがジンバブエに進出し、この国の発展を支援してくれることを、心から喜んでいます。
ハインツのおかげで、多くの国民の生活レベルが向上するでしょう」

[4] Heinz Goes It Alone in Zim babwe , New York Times, 27 fevrier 1989.

ムガベ首相は熱を帯びた声でそう語った。トニー・オライリーのほうもまったく同じ気持ちだっ
たらしい。

「ジンバブエヘの進出は大成功でした。この投資をして本当によかったと思います。ジンバブエ
政府による積極的で協力的な姿勢にも感謝しています」

1992年、ハインツの年間売上高のエリア別内訳は、アメリカ六四パーセント、ヨーロッパ
28パーセント、その池8パーセントだった。キッシンジャーの交渉のおかげで、商品の販売エ
リアの拡大に成功したのだ。
1990年代初め、アフリカ、ロシア、中国、タイヘの進出に伴って、ハインツ栄養学協会の主
宰による大規模な一利学的」セミナーが開催された万Tセミナーには、科学者や政府保健福祉省
の代表らが参加した。目的は、科学的に信頼できるというイメージをハインツの商品に与えるこ
とだった。さらに、ハインツ財団特別レクチャーと題して国際講演会を開催することで、このイ
メージ戦略はいっそう強化された。講師には著名な政治家が集まった。報酬をもらえるうえに、
自分のキャリアに箔がつくとあり、みんな嬉々としてやってきたのだ。当時アフリカ民族会(A
NC)の議長に就任したばかりの、ネルソンーマンデラもそのひとりだった。

現在、ハインツ中国法人のウェブサイトには、同社の輝かしい歴史を伝える年表が、かわいいキ
リンのイラストとともに紹介されている。だがその歴史からは、ハインツにとって都合の悪い多
くの出来事が巧妙に省かれている。たとえば、2006年、国際環境NGO《グリーンピース》
が、ドイツの研究機関に委託してハインツの製品を検査したところ、ベビーフードに違法な遺伝
子組み換えコメが含まれていることが発見された。ハインツ中国法人の広州工場で生産されたも
のだった。
《グリーンピース》によると、ベビーフードから遺伝子組み換え作物が見つかったのは世界初だ
という[6]。ハインツはすぐに声明を発表した。一読当の製品はしかるべき検査を受けており、
遺伝子組み換え作物が含まれていないことは確認済みだ」と反論し、「問題のコメがどうして混
入したかはわからない」と述べている。

[6] Green peace, Illegal genetically  engineered rice  found in  Heinz baby food in China , 14 mars 2006.



その2年後の2008年、中国のあるメーカーの粉ミルクを飲んだ乳児が次々に体調をくずし、
そのうち牧人が死亡するという事件が起きた。化学物質のメラミンが混入されていたのだ。この
騒ぎで、当該メーカーだけでなく、国内の食品メーカーの製品が次々と当局の捜査を受けた。す
るとその一環で、ハインツ中国法人のベビーフードにも、基準を超えるメラミンが含まれている
のが発見された[7]。アメリカのハインツ本社は、メラミンが含まれているおそれのあるベビー
フードのロットをすべて回収し、中国産粉ミルクを今後は一切使用しないと宣言した。ロイター
通信によると、食品に混入されたメラミンによる中毒者は、総勢およそ9万4000人に上った
という。一方、中国政府は徹底的に報道を規制し、中国の食品業界の実態を象徴するこの出来事
を周到にもみ消そうとした。

だが2012年、またしても事件が起きた。ハインツのベビーフードが水銀に汚染されていると
してヽ中国当局が製品の回収を命じたのだ[8]。事件はさらに続く。今度は2014年、別のベビ
ーフードに基準量を超える鉛が含まれていることが衛生当局の検査で発覚し、やはり市場からの
回収に追いこまれている[9]。食の安全に関する「科学的」セミナーとはいったい何だったのだろ
うか。

[7] L. Bollack, Contaminated milk: Heinz decides to stop sourcing Chinese milk, Les Echos, September 30,
2008; Open Melamine in Baby Care Heinz, 7sur7.be, 27 September 2008.

 Sep. 18, 2008


第4節
1970年代半ば、ハインツは海外市場を拡大するのと並行して、アメリカ、イギリス、オース
トラリアの生産拠点を次々と閉鎖した。1975年から1980年の間に工場の数は半減し、何
千人もの従業員が解雇された。最終的に、従業員の5人にひとりが辞めさせられた[10]。
ハインツは最低限のコストで生産することを目指し、そのためには大規模解雇も厭わなかった。
コスト削減のため、あちこちの工場で少しずつ生産するのではなく、巨大工場で大量に生産する
ようになった。それは、創業当時からの経営方針、パターナリズム(家父長制度)との完全な決
別だった。

1982年、3万6600人の従業員で売上は37億だったが、10年後の1992年には3万
5500人の従業員で66度ドルとなった。労働コストを削減しつつ売上高を上げることに成功
したのだ。
1991年から1992年にかけて、ハインツはもうひとつ大きな企業再構築を行なっている。
原材料を自社で生産するのを辞めたのだ。コーンスターチ、グルコース、イングルコースなどを
生産していた工場を手放し、代わりに世界中から安く原材料を調達するネットワークを築きあげ
た。安い原材料を購入すれば、自社で生産するよりコストを下げることができる[11]。濃縮ト
マトもそのひとつたった。

ハインツ本社には、原材料調達に関する情報収集と取引交渉を行なう特別部署が設けられ、原材
料の仕人れはすべて一任されるようになった。
こうして全社を通じて大規模なコスト削減が行なわれる一方で、広告宣伝費は爆発的に増えた。
1982年には2億ドルだった予算が、1992年には12億ドル、売上高の18パーセントに
ふくれあがっている。ハインツでは、これまでもマーケティングに多額の予算が投じられていた
が、1992年にはそれがピークに達したのだ。

[10] Rapport Heinz Company, Centre for Research on Multinational Corporations (SO MO), 1993.

トニー・オライリー社長は、現在のハインツについてこう語っている。
「われわれは、ハインツを素晴らしい国際企業に育てあげた。弊社はグローバルな戦略で事業を
展開している。これからは、世界中のすべての人がハインツを二番に選んでくれるよう、さらな
る努力を続けなければならない。この地球のあらゆる場所で、現在も、そしてこれから何世代に
もわたって、常にトップでいられるように」
1983年から1993年にかけて、ハインツ株の配当金を再投資した場合、年利回りは20・
6パーセントだった[12]。10年間だと551・5パーセントになる。アメリカ元国務長官の
ヘンリー・キッシンジャーはこう述べている。

「ハインツの歴史は、われわれに刺激を与え、いろいろなことを教えてくれる。トニー・オライ
リー社長のリーダーシップは、よい経営とはこういうものだという手本を示してくれる。世界市
場には新しい世代の消費者が増えつつあるが、ハインツはこれからも理想的な企業でありつづけヽ
輝かしい業績を作っていくだろう[13]」

[13]Eleanor Foa Dienstag, In Good Company; 25 Years at the Heinz Table, op. cit.



   太陽は明けの明星(モーニングスター)にすぎない。

                        ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
                     『ウォールデン――森の生活』(1854年)
                     カリフォルニア州コルサ郡ウィリアムズにある
                 モーニングスター社の工場の看板に書かれたスローガン



「戦争とは関係国の支配者が関係国の国民の命と生活を蹂躙する行為であると」いう言葉通り、
平時においても行われている――開発独裁国・中國の飢餓輸出政策と英米流金融資本主義国(=
グローバリズム=破壊的格差政策)アメリカ――ことを見事に炙りだしているように見える。思
うに、国民生産の2/3以上が第3次産業で成りたち立つ高度消費資本主義社会にあって、先進
性とは高度な消費政策がスムーズに運営されているかに象徴される。その意味で、米忠両國とも
貧相な大国である。

                                                                         この項つづく

● 今夜の寸評:これでやっと、ひと息付ける

                           
                                  

 

 


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