【本当にあった怖い話?】
宇宙物理学者の心ってどんなものなのと思うことがある。なぜそんなことを考えるのか? そ
れは、今から約7万年前、太陽系からおよそ8兆キロの距離を1個の恒星が通過したとの研究
論文が17日、英学術誌「アストロフィジカル・ジャーナル・レターズ(Astrophysical Journal
Letters)」に掲載されたが、これは宇宙の基準からすると、史上最大の「危機的状況」だった
というニュースに接したことによる。つまり、怖い、恐ろしいという感情が襲ったのだ。
これは、米国、欧州、南米の天文学者らからなる国際研究チームが発表した論文によるもので、
最近発見されたこの暗い恒星は、オールトの雲(Oort Cloud)として知られる、太陽系外縁部を取り
巻く彗星の集まりの中を通過した可能性が高いという。 この時の距離は、現在のところ太陽系に最も
近い恒星のプロキシマ・ケンタウリ(Proxima Centauri)までの距離の約5分の1で、これまで知られてい
る中でこれほど太陽系に接近した恒星は他にないと同研究チームが指摘している。発見者の名
にちなんで「ショルツ星(Scholz's star)」と命名されたこの赤色矮星(わいせい)は、軌道分析の
結果、太陽系から約0.8光年離れたところを通過したことが示唆された──天文学的スケール
では、これは「接近」であるとのこと。そこで、論文主執筆者で、米ロチェスター大学(University
of Rochester)のエリック・ママジェク(Eric Mamajek)は、ショルツ星は現在、20光年離れた距離に
あると話す。また、研究チームは、南アフリカとチリにある分光器と大型望遠鏡を用い、同星
の速度を算出し、時間の流れをさかのぼって同星の軌道を再構成することに成功。現在は、太
陽系から遠ざかりつつあることも突き止めている。現在のところ、太陽系に最接近通過する見
通しが最も高い候補は、いわゆる「ローグ星」のHIP85605だ。この星については、今から24万
年~47万年の間に太陽系に接近すると予測されているというが、HIP85605までの本来の距離が
10分の1ほど小さく見積もられている可能性が高いことも明らかにしていると伝えている。
遠い過去のできことであり、自分とは関わりのないことではあるが、知った限りにおいて想像
力が働くという話だ。なに、貴方は怖くないって?そうか~その線もあるか!
● 縄すてまじ! Ⅱ
沖縄県の翁長雄志知事は16日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設に向けた名護市辺野古で
の準備作業の一部を停止するよう、沖縄防衛局に指示した。従わない場合は、埋め立て工事に関
連する許可を「取り消すことがある」とした。ただ、対象となる作業はすでに終わっているとい
い、今回の指示が準備作業に影響するかは不透明だと報じた(「朝日新聞デジタル 2015/02/16」)。
翁長知事が停止を指示したのは、辺野古沿岸部の海底に大型のコンクリートブロックを沈める作
業。ブロックは海上の立ち入り禁止区域を明示するフロート(浮き具)の重りで、移設反対派は
「サンゴ礁を傷つけている」と反発している。指示の根拠は、仲井真弘多・前知事時代の昨年8
月、県が出した岩礁破砕許可の中の規定で、「公益上の理由により(県が)指示する場合は従う
こと」とある部分。翁長氏は16日、報道陣に、新たなブロック投入の停止や、設置したブロッ
クを移動させないことなどを指示したと説明した。また、27日から県が、現地の海底を調査す
ることも明らかにしたという。
この件は、ブログでも振れてきたが(『縄すてまじ!』2015.12.15)、ここで、鳩山由紀夫民主
党政権時代の普天間基地問題を時系列的に振り返ってみる。
2009.08.30 民主党開票センターで当選者の氏名に花をつける鳩山由紀夫と小沢一郎第45回衆議
院議員総選挙。民主党が過半数の議席を獲得する。ここで鳩山由紀夫代表は開票セ
ンターで、国家戦略局の前段階として「国家戦略室」を設置、財源は「まず行政刷
新会議で行政の無駄遣いを一掃させる」、「無駄を省いてそれでも足りない、という
ことは起きない」「消費税の増税はしない」「国債の発行も極力抑えるように当然
努力する」と語っている。
2009.09.01 民主党の公約「米軍普天間飛行場の沖縄県外への移設」について、米国のジョン・
ケリー国務省報道官が、「普天間飛行場を沖縄県名護市の米軍基地内に移設する日
米合意案の再交渉を行うつもりはない」と言明。
2009.10.07 鳩山が、在日米軍再編のマニフェストを「時間によって変化する可能性は否定しな
い」「マニフェストを絶対に変えてはいけないという、そんな石頭で首相はやって
いない」と述べ、普天間飛行場の移設を合意を容認する可能性を示唆。米軍の普天
間飛行場の移設問題について、北澤俊美防衛相は「この問題に時間を浪費するいと
まはない」と問題解決に時間をかけることは建設的ではないと述べる。
2009.10.21 ロバート・ゲーツ米国防長官が、同盟強化よりも後ろ向きな姿勢ばかりが目立つ鳩
山政権への強烈な不快感の表明。
2009.10.23 鳩山首相は米軍普天間飛行場の移設問題について「(日米が)お互いにいかにリス
クを回避するかだ。それが外交だ。あせることはない」と述べ、時間をかけて調整
を進める考えを示す。
2009.12.11 鳩山首相は、米軍普天間飛行場の移設問題に関し、日米合意の全面履行は困難であ
ることを表明。
2009.12.18 普天間基地問題について与党3党が協議。移設先を当分決めないことで正式に合意。
2009.12.29 『ワシントン・ポスト』が、鳩山はオバマ大統領に普天間基地問題の年内解決を約
束する書簡を送っていたと報じる。
2010.06.01 「米国における対日世論調査」で、アジアにおける米国の最も重要なパートナーは
中国という結果。中国が1位になるのは1985年以来25年ぶり。
2010.06.02 鳩山首相が民主党緊急両院議員総会で首相と民主党代表辞任を正式表明。
2011.03.11 東日本大震災・福島第一原発事故発生。
2014.12.17 沖縄県知事選で普天間の名護市辺野古移設に反対する翁長雄志氏が圧勝
鳩山内閣誕生の2009年(平成21年)から約5年3ヵ月経過したことになるが、沖縄県民と安部政
府は真っ向の対決を見せており、このまま行けば流血事件や独立分離運動などの流れが生じる懸
念も拭えない状況だといえる。米国側の強固な軍事戦略に対しいかなる対案が提出されるのかと
考え出したのが下図の「自律型浮体空港システム」(2012.12.15)であり、ブログ初めて掲載し
た『黄菊と沖縄ビジョン』(2009.11.05)から5年経過する。前提条件は、(1)普天間基地の
廃止、(2)辺野古移転案の廃棄であったが、浮体空港であるため、必ずしも非沖縄県外を満た
すものではなく、沖縄本島の離島や九州などの沿岸部への配置を前提としている。また、浮体空
港と陸上部との人員の移動は、無人シャトルマルチコプタ――保安要員のパイロットとして1名
搭乗――でおこなうものである。米国側との交渉で戦略変更でグァム島に移動しても、本空港を
無償移譲するというものであった(仕様例は、該当ブログ(辺野古・沖縄・普天間で検索)参照)。
※ エンジンは水素液体内燃機関と水素燃料電池による電動機。水素は海水の電気分解、電気エ
エネルギーは太陽光発電・潮流波動発電及び外部持ち込みの液体水素を使用。
5年前、鳩山首相が決断していれば、世界初の自律型浮体空港が完成していただろうと考えてい
る。それが実現すれば造船業界は活況を取り戻すことができるだけでなく、海洋資源開発用、海
洋都市用、海洋再生エネルギー生産基地、防災用基地として応用展開でき、米国政府-沖縄県民
-日本政府の「三方よし」となり、鳩山由紀夫総理の名が刻まれるはずだったが、今からでも―
といっても、これから早くても3~5年先になるが――遅くないと考えている。
● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅲ
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 農業問題
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第8章 超資本主義論
不況とはなにか Ⅱ
Ⅰ
ここではまだ政策担当者にケインズ的な方策(逆にいえばマル経的な方策)の有効さが
信じられているのだ。すでに不況の原因が先進地域国家における第三次産業の過半分さと、
第三次産業における物流と非物流の独立と分離した動きの政行性からやってきていることが、
はっきりしているのに、不況政策は相変らず第二次産業を主体にかんがえられている。これ
で効果がすみやかにあらわれるとかんがえる方がどうかしていることになる。
Ⅱ
できるかぎり常識にしたがって判断するようにこころかけて、第三次産業が全体の50パ
ーセント以上の総生産と就業人口をもっか先進的な地域国家では、不況(景気後退または経
済恐慌)のあり方は、金融の過剰な溜り、過少な流れだけが独行する不況も、物流の過剰な
溜りや停滞あるいは遂に過少になる加速が独り歩きする不況も、金融の溜りあるいは流れすぎと、
物流の溜りあるいは流れすぎとが連動しながら破行状態に陥ることが不況の原因になるばあ
いもあることになる。ごれが現在、世界のいちばん先進的な地域国家であるアメリカや日本
や西欧の先進地域(フランスやドイツ、イタリア、イギリろを軒なみに訪れている重たいが
輪郭の不明瞭な不況の根源にあるものだということができよう。
ところで宮崎義一の『複合不況』はアメリカや日本やイギリスの金融自由化の政策からは
しまった金融の流れの不整脈化か物流の停滞に波及して、それが世界的な規模でひろがり、
金融循環からはじまって生産物循環を疏行状態に陥れたのが、現在の不況の実体だというか
んがえを、アメリカの不況現象と日本の不況現象を分析しながら結論づけている。わたしは
かくべつまちがった分析だとおもわなかった代りにかくべつ感心もしなかった。宮崎義一は、
金融自由化の流れが一国資本主義的なケインズ政策では統御できなくなったことが、この複
合的な不況が世界化した根拠だという考えを述べている。そしてこれをケインズ政策的に再
構築するには、一国規模ではないグローバルなケインズ政策が必要で、巨額な資金の世界的
な流れをコントロールできる強力な世界銀行を作って、世界共通貨幣が形成されるような基
礎をつくらなくてはならないと結論づけている。
わたしには支配の政策の補助学としての経済学の旧い体質を見事に象徴した結論のように
おもえた、なぜこういう結論になるかはとてもはっきりしている。現在の先進地域国家をつ
ぎつぎにおとずれている不況を、アメリカ、日本、イギリスなどの先進諸国の金融自由化か
らはじまった金融の流れの破行状態が、ついに生産物の過剰である不況をまきこんだ複合不
況としてあらわれたものだと位置づけたところから、そんな結論が導きだされている。わた
したちは宮崎義一の論旨にそっておなじことをいうとすれば、まったく逆立ちしたことを言
うほかはないのだ。すでに消費が所得や収益の過半量を占め、また選択が可能な消費が全潰
費や総支出の過半量を占めるようになったために、経済政策のどんな担当者よりも、諸国民
個人や企業体のほうが優位になった地域国家で、社会生産が第三次産業に主体が移ってしま
ったために、現在のような先進国の不況は起っている。この不況を離脱するには、ほんとう
はすでに先進国では諸国民と企業体を経済と経済政策の主体においた方策をとるよりほかに
はありえないので、ケインズ政策の信奉者やマルクス主義経済の信奉者が、すでにじぶんた
ちが先進諸国民や企業体本位の政策の代行者にすぎないことを自覚するよりほかにありえな
いのだ。
佐和隆光の『成熟化社会の経済倫理』は、ほとんど宮崎義一とおなじことを、別の言葉で
語っているにすぎない。経済専門家と称するものの見識がどの程度に妥当性をもち、どの程
度駄目なものかを程よく象徴しているといっていい。この本の結びのところで佐和隆光は言
わずもがなのお説敦を国民大衆に向ってたれている。
①21世紀の発展途上諸国の人口爆発と彼らの「発展権」を前提とするかぎり、大量生産、
大量消費、大量廃棄ないし使い捨てを旨とする、20世紀型文明の見直しがせまられてい
る。
②いまわたしたちは、こうした「ぜいたく」の粋をきわめた80年代後半の生きざまを反省
しもったいない、質素倹約、省子不ルギーーなど、数年前に「死語」と化した言葉を、あ
らためて想起しなければならない。
③地球環境を保全することが、飢えと貧困にさいなまれ「発展権」を主張する南の国ぐにと、
エネルギー多消費型経済発展をとげてきた北の国ぐにの双方の利益につながることを、双
方 が確認し、協調体制をつくるべきだ。
佐和隆光が繰り返しているこの種の経済倫理の結論は、いくら並べてみてもおなじことだ。
ようするにわたしの根本的な批判はスターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化
主義にたいする批判とおなじだ。第一にわたしは佐和隆光とちがって、経済現象と文明とは、
その中核のところで自然現象とおなじように、自然史的な過程であって、人工的な政策で統
御できるのは、発展の遅速だけだということをマルクスから学んだ。この文明と経済の発展
過程は停止させることも、逆戻りさせることも、跳躍させることもできないということだ。
佐和隆光のいうことは経済政策や環境政策によって、人類の歴史を逆行させることすらで
きるという馬鹿げた錯誤と、そこから出てくる口当りのよい地球環境浄化論にしかなってい
ない。
もうひとつ根本的な批判がある。やさしい言葉でいえば近代経済学を心得えた顔をした経
済学者でありながら、この今くらいの世界諸地域の経済発展の程度で、もう音をあげて経済
発展の公理を放棄してしまっていることだ。佐和隆光の言っていることは二宮尊徳の『夜話』
の世界ですでに150年も2百年もまえに、農民は勤倹節約してぜいたくを慎んで生活し、
金銭を貯えるためには、夜なべをして縄をない、それを販って貯蓄につとめなければならな
いと説いている。ひとかどの経済学者が、今度の不況程度のことでこんな唐突にもう退化を
はじめてしまうことが、わたしにはまったく信じられない。わたしは断言して予告しておく
が、たとえ佐和隆光や中野孝次が政府の経済政策や道徳政策の顧問になって国民大衆に勤倹
節約を強制しても、経済機構は高度化への自然史的な発展をやめないで、第三次産業化への
度合いをすすめてゆくし、都市は農村との接触対面をますます少なくして、H・G・ウェル
ズの未来小説的にハイパー都市化をすすめるとおもう。この方向は政策や政治とはかかわり
ない自然史的な必然に属するから、自民のような保守政府でも、社共のような進歩政府でも、
退化してしまうことはありえない。せいぜい文明の進展に反動的に逆らうことで、多少の遅
れをもたらせるだけだ。
佐和隆光は経済学の専門家を自任しているから、そこまで露骨には言っていないが、黒古
一夫のような無智な素人は、国民大衆が高価なファッションを身につけたいために、自由に
使える選択消費の部分からそれを購ったことが、バブルがはじけ、不況になった原因だとお
もっている。
わたしが再三いうようにそれは逆なのだ。国民大衆がファッションを身につけて豊かな気
分になったり、選択消費を充分に使える状態が経済的好況を主導することになるので、脇を
締めて勤倹節約しなければならない状態は政策者や指導者が無能なために起った悪い社会状
態なのだ。
黒古一夫や佐和隆光や中野孝次が清貧な生活をしても、誰も賞めないかわりに咎めるもの
もいない。だが国民大衆に勤倹節約を説教するのは、まったくのお門違いで、この倒錯は諸
国のスターリン主義者や同伴者が国民大衆をあざむいて破産させた根本的な前近代の発想法
にしかすぎない。きびしくその錯誤を批判するよりほかありえない。国民大衆に勤倹節約を
強制したり勧告したりする佐和隆光のような見解が、ひとかどの経済学者の口をついて出て
くるなど、わたしにはとうてい信じ難いことだ。経済学はまかり間違えばすぐに支配の補助
学として機能できる側面をもっている。宮崎義一や佐和隆光の不況分析や現在の経済状態の
分析は、それほど不都合だとはおもわないが、そこから導きだしている経済倫理や経済政策
は、まったくの反動と退化を口当りのいい言葉でつらねているにすぎない。それは経済学的
な知識の蓄積の問題ではなく、見識と叡知を問われる側面を経済学がもっているからだ。自
分たちはそうしたければ清貧を守ればいい(ただし立てまえだけの嘘をつくのはもうやめる
べきだ)。だがすこしは国民大衆の所得を増加させ、民衆が自由に豊かなファッション製品
を購買できるようになることを促進するような見識を示してみせるべきではないか。
経済不況の現状を誤解し、政策や方策をまちがえて不況に陥れた指導者の責任の後始末の
ために、国民大衆に勤倹節約を説くなどは、まったくの逆縁というもので途方もないまちが
いなのだ。
中沢新一 編集 『吉本隆明の経済学』
ここでは、吉本節が炸裂している。おおむね同意できるとしても、福島第一原発事故前の発言で
は、原発は限りなく経済効率が良いという発言を撤回し、安全第一を唱えているが、終末処理や
事故対応などのコストやリスクについてなにも言及してはいない。つまり、観念的とまでは言わ
ないが、独創的な原理を説くが現実的な処方箋らしきヒントは少ないと、いつもながらのパター
ンは変わっていない。と、そのように見うけられるが、それはさておき、ここは、さらに読み進
めていくことに。
(この項続く)
真っ白な陶磁器を 眺めては飽きもせず かと言って触れもせず
そんな風に君の周りで 僕の一日が過ぎて行く
遮断機が上がり 振り向いた君は もう大人の顔をしてるだろう・・・・・・
作詞 小椋 佳
作曲 井上 陽水
「白い一日」は、概して、少年が未だ逡巡している間に、いち早く少女のほうが大人にな
ってしまうね、という当惑と感慨を歌ったもの。ここで言う「大人になる」とは、「人間社
会の理不尽さ、曖昧さ、いい加減さを受け容れる人間となる」、言い換えれば「もの判りの
いい人間となる」といった程度の意昧でとらえていただいていいと思う。それはそれで男女
差の仕方のない現象だと思う。
私は、しかし、この国では、もの判りの良過ぎる傾向か国民全体に蔓延しているのではな
いかと懸念している。「理屈っぽい奴だ」とか「屁理屈を言うな」とかの攻め言葉がある。
理屈の通っていないことを、さも正当な理由があるかの如く表現されるのは困ったものであ
って、たしかに、この攻め言葉が使用されて妥当な場合は多い。けれども、何かしか論理的
であろうとする姿勢がうかがえる分だけ、それらは、「理不尽」よりはややましだと私は考
える。私としては、「大人になる」ことより、「それぞれに自らの理を保持することを重大
視する」国民性の獲得を祈りたい。
私たちは、この国の、あるいは私たち国民の、行為規範ないし在るべき姿の基本的規定と
して日本国憲法をもつ。さて、たとえば、その第11条では、基本的人権の享有と憲法による
その保障を謳う。私たちは、人間は誰もが生来当然に基本的人権をもつと、無反省に理もな
く思いこまされていないだろうか。あるいは、憲法前文で「民主」を言い、第14条で法の下
の「国民皆平等」を言いつつ、第1条から第8条までで、天皇という特定人物の特権と人権
剥奪扱いともいえる規定を設けている。この一見不整合に思われる構造をそれぞれがどのよ
うな理で自らのウチを収めて受容しているのか。いずれにせよ、「特別それで大きな不都合
は起きていないんだからいいんじゃないの」という「大人」が多過ぎはしないだろうか。
若者一般の為体を嘆くのは年寄りの小言になってしまうが、近年若い記者のインタビュー
を受けた析に、「(文)Aだから(文)Bでして……」と語られたとき、そのAとBの文が
「だから」ではまったく繋がらないものであったにもかかわらず、本人はそのことに無頓着。
言葉を仕事の道具としている人でさえの(理由づけの)接続詞「だから」の雑で不快な濫用、
私はおおげさ(やや大袈裟だが)日本の将来に暗雲を感じてしまった。
小椋 佳 『生前葬コンサート』
この曲の作詞を担当した小椋佳も1974年にシングルとしてリリースしているが、この楽曲の思い
出も多い。1975年にわたしはこの地にマイホームを新築するがその工事が進行していた時期だ。
若くして他界した同期の野村利和は、会社の寮を退去し借家住まいしていたが、まだ、独身寮―
―同期でも寮規定を改定してまで住み込んでいたり、寮規定を悪用し、持ち家を賃貸し、自分は
チャッカと寮住まいしていた社員もいたが――に住み、仕事と企業内組合、地域運動なども掛け
持ち活動していた。時折彼の借家に上がり込み、好きな歌手のレコードを聴かせてもらっていた。
井上陽水の同曲も良かったが、いまは、しっとりとした小椋佳の歌声に癒されていた頃、嵐のよ
うな毎日を過ごしていた頃を思い出す。そう考えればわたしの周りの、素晴らしい先輩や仲間に
囲まれていた。今から思えば、その恵まれ環境への感謝の気持ちでいっぱいである。