【オールバイオマスシステム完結論 14】
● ウッドパウダー食品工学で地元林業を活性化
静岡理工科大学の志村史夫教授らが、樹木の主な成分のセルロースを使いって、パンやビスケット、ソ
ーセージ――スギやヒノキを加工するときに出る「おがくず」を細かく粉砕して、食べられる「
スーパーウッドパウダー」――をつくっているという。2年前から研究をつづけてこられている
という(「研究室にようこそ!地元大学の研究者にインタビュー」2015.02.12 静岡新聞)。食
感も違和感はなく、例えば、パンは口に入れると木の香りが、食べるとリフレッシュした気分が
し、今まで食べた人の7割は「便秘に効いた」と言う。つまりこれは、食物繊維だからダイエッ
ト機能食品だとのことで、現在は、杉花粉成分を加え減免効果を狙って、花粉症に効くか調査中
だという。半導体の研究者である志村史夫教授は、古代人の建築技術とか、自然や生き物の持つ
パワーに驚きを感じ樹木の研究を通じて、地元の林業を活性化したいと語っている。
尚、天竜区水窪町の雑穀料理店「つぶ食 いしもと」が志村教授から依頼され、パンのほか、ケ
ーキやビスケット、ドーナツ、ハンバーグ、ソーセージなどを試作している。
わたし(たち)が木質バイオマスのパウダー化に着目したのは1989年前後だったと記憶して
いる。これは静岡出身の商社営業マンとのお茶の製法が話題にあがった時だ。この経緯はこのブ
ログでも掲載しているが、お茶の売上げが逓減しているため対策を話していた時である。お茶の
成分は葉のみでなく枝などにも含まれているからこれをパウダー化すれば廃棄物も減らせ、コス
トも逓減できるというものであった――このとき特許出願していれば今は億万長者?になってい
ただろう。事実、1992年には売上額が最低を記録するが、伊藤園の営業努力もありV字回復
していく。また、回転寿司システムの普及、消費者の健康志向もあり生産量が続伸していく。
さて、そんなこともあり静岡理工科大学の研究グループに注目したが、環境問題だけでなく、食
糧安全保障的側面からも大きなプロジェクトとなっていくだろうと考えるからこの話題を取り上
げた。
目次
第1章 五重塔の心柱
第2章 日本古来の木造加工技術
第3章 “呼吸する”古代瓦
第4章 古代鉄と日本刀の秘密
第5章 奈良の大仏建立の謎
第6章 縄文時代の最新技術
東京スカイツリーの制振装置にも使われた、「倒れない五重塔」の秘密。驚異の湿度調整能力で
家屋を守る古代瓦。名刀「正宗」に半導体顔負けの多層構造が隠されていた!朽ちない釘に重要
な役割を果たした“不純物”とは?縄文人はアスファルトを利用し、レーザーをしのぐ穿孔技術
をもっていた!現代のハイテクを知り尽くす半導体研究者が自ら体験・実験して見抜いた、古代
日本が誇る、自然を活かしきった匠の技のすべて。
志村史夫[シムラフミオ]
1948年、東京・駒込生まれ。名古屋工業大学大学院修士課程修了(無機材料工学)。名古屋
大学工学博士(応用物理)。日本電気中央研究所、モンサント・セントルイス研究所、ノースカ
ロライナ州立大学を経て、現在、静岡理工科大学教授、ノースカロライナ州立大学併任教授。応
用物理学会フェロー。日本とアメリカで長らく半導体結晶の研究に従事したが、現在は古代文明、
自然哲学、基礎物理学、生物機能などに興味を拡げている
● 志村教授の放射能汚染に関するコメント
「物事の根幹と枝葉末節冷静かつ論理的に考える」 静岡新聞の時評(2011.05.17)のコメント
に「「放射能汚染」の風評被害も甚大である。学生時代から長らく放射線を実験手段に使い、昔
の実験装置には十分な安全装置がついていなかったから、私はかなりの量の放射線被曝を経験し
ている。そういう私がどう考えても深刻とは思えない放射線量のために、住民に避難生活を強い
たり、生徒を校庭に出さないで体育館に閉じ込めたりする政府・自治体の責任者は、それが当事
者に引き起こすストレス、精神的負担のことを深刻に考えるべきだ。また、私の先輩でいまも元
気に活躍している長崎原爆被爆者の「俺たちは原爆投下直後にどんな野菜でも魚でも元気で食べ
た」という証言もある。多くの病気の元凶がストレスであることは科学的に証明されていること
である。」(「なくさない! 飯坂温泉 共同湯」2011.05.30) と見解を披露しておられるが、
安全・安心的側面から賛同しかねるものである。その失敗は、福島原発事故、福知山線列車事故、
アスベスト塵肺発ガン、水俣病、原発被爆者救済、西淀川公害訴訟などの事例からも自分の立ち
位置が判断できるだろう考える。マッチョ思考体質が推測できそうなエピソードだが、これは戴
けない。
● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅶ
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第7章 贈与価値論
1 贈与論
Ⅰ
このヴァリエーションもあって、漂ってきた嬰児の霊魂が水洛中の女性の子宮に入りこむ
と妊娠するとの認識もあれば、妊娠したい女性の小屋に、その女性の兄弟またはその女性の
「母」の兄弟が汲んだ海水の容器をおいておくと、その海水に浮遊していた「母」方の親族
の霊魂が夢のなかに訪れて、その女性は妊娠するという言い方もある。
このいずれのばあいをとっても、兄妹始祖の神話をもつ「母」系優位の初期社会で、子ど
もは「母」方の親族の霊魂から授かった贈与だとみなされている。マリノウスキーのこの場
面の記述はあいまいさをのこしている気がするが、基本にあるのは「母」方に近い親族、た
とえば「母」「母」の兄弟、「母」のその「母」親の兄弟といった母系の親族の霊魂の贈与
により、子どもは受胎され、妊娠、出生するということだ。兄妹始祖神話の風によって孕む
というばあいも、小さな嬰児の霊魂が流本のようなものにのって漂着し、海岸に水浴してい
る女性の子宮にはいって受胎し、妊娠するばあいも、母方の親族によって汲みあげられた海
水をコ僕小屋のまえにおくことによって孕むばあいも、日本列島の島々にのこされた伝承の
ように、セキレイの交尾をみて兄妹が性交する方法を知って子孫をふやしたばあいも、夢か
現かわからぬ入眠状態で、をなり神(姉兄 妹が人間の始祖になるという神話は、インド南
部、中国の南西部や東南アジア、台湾妹)にたいするえけり神(兄弟)や「母」やその兄弟
などの霊魂の贈与により子どもが受胎され、妊娠期間を経て出産されるとみなされているこ
とは、疑うことができない。
この「母」系優位の初期社会で出産された子どもの価値は、贈与された「母」系の親族の
霊魂の価値とちょうど釣り合っているということもできる。そして「母」系の親族の霊魂と
等価なのはその「母」系親族組織の形而上的な価値、いいかえれば儀礼、慣習、氏族的な地
位等々のすべてだということになる。マルクスのようにいえば、最初の分業は子どもを産む
ばあいの男女の分業だということになる。男女、いいかえれば「父」「母」とはどんなもの
を分業して子どもを生んだのか。このばあい「母」系親族の霊魂が贈与されたことと何か対
応するかが問題だとすれば、「父」親の性行為にまつわる心身の享受と消費ということにな
る。これはもう少しだけ追いつめてみなければならない。ここで贈与と交換のあいだに脈絡
をつけうるとすれば、「母」系の親族の霊魂の力能と「父」親の性愛の力能とは対応するも
のという考えにみちびかれる。たぶん未開人の近い親族の霊魂の力能と現代にも通用する「
父」親の性愛の力能とは等質とみなせるにちがいない。そこでこの考え方からすればわたし
たちは贈与とは遅延された形而上的な交換だという概念に導かれる。そして未開、原始の初
期社会ではこの遅延は世代(出生と死)を単位とする無限の循環時間(永続転生)によって
規定できるとみなされる。しかしここまでのところで、こういう理解の仕方をよいものとし
ておしつけることはできない気がする。わたしたちはもっとよくこの問題をつきつめなくて
はならない。
わたしたちはどこかでよく聞きなれた考え方に出合っているような気もするが、やはり未
開や原始の初期社会の観察を読んでいることは間違いない。
Ⅱ
マルセル・モースの、名前だけはよく知られた『贈与論』のなかに、マオリ族の立法者の
言葉の報告が載っている。
たとえば、あなたがある特定の物(タオンガ)を持っていて、それをわたくしにくれた
としましょう。しかもあなたは一定の代価をも定めないで、それをわたくしにくれたの
です。わたくしたちは、その売買を行ったのではありません。さて、わたくしが、この
品物を第三者に贈ると、暫くたって、その者はわたくしに代償(utu) としてなにかを
返そうと決心し、わたくしになにかの品物(タオンガ)を贈ってよこします。ところで、
彼から貰ったこのタオンガは、わたくしがあなたから貰い、更に、彼に譲り渡したタオ
ンガの霊(hau)なのです。わたくしはあなたのところから来たタオンガのために、い
ま貰ったタオンガをあなたにお返ししなければなりません。わたくしとしては、これら
のタオンガが望ましいもの(rawe)であっても、また、いやなもの(kino)であっても、
それをしまって置くのは正しく(tika)ないのです。わたくしは、それをあなたにお返
ししなければなりません。それはあなたから貰ったタオンガのハウであるからです。も
しわたくしがこのタオンガをひとり占めでもしようものなら、わたくしは疾病あるいは
死亡という事故にすら見舞われるでしょう。このようなものがハウであり、また、身の
廻りの品のハウ、タオンガのハウ、森のハウにあたります。
(モース『贈与論』「マオリ族の法律家の言葉」有池亭訳)
これにたいしてモースは一定の解釈を施している。マオリ族の観念では贈り物(一般には
物)は、生命のないものではなく、その物の本来の産地(本源地)から生気づけられたハゥ
(言)をもっている。そのハゥ(霊)はじぶんの本源地である民族や森や土地にその物が帰
るまで、その物につきまとって離れない。その物をもつものが、同等あるいはそれ以上の返
礼を贈与したとき、はじめて最初の贈与者に威力を戻しえたことになり、ハウ(霊)は本源
に安んじたことになる。
このモースの解釈は原往のマオリ族の「法律家」の報告が、物(タオンガ)がそれに付着
した霊(ハウ)に統御されるという観念からできているように、贈与と返礼の義務を物の背
後、物についている霊(ハウ)の力能に帰している。もっといえば、たとえ物が贈与した者
の手をはなれたとしても物についた霊(ハウ)はなお贈与したものの所有としてその物にと
どまっているので、その物を渡されたものは返礼の義務を生じ、それを果さぬかぎりつきま
とう霊(ハウ)の力能をまぬがれることができない。物を贈与されることはその贈与者の「
霊的実在」の一部をもらうことだが、返礼なしにその物を所有することは危険で生命にかか
わることがあるかもしれぬため返しておかなくてはいけないことになる。物についた霊(ハ
ウ)はその物を産んだ氏族や土地にたいして、じぶんの代りになる等価物を返そうと願うか
らだ。マリノウスキーの解釈は、ひと通りの意味でいえば贈与を物とそれについた霊(ハウ)
を含む価値とみて、あるいは霊(ハウ)だけを価値とみて、等価交換が成り立つとかんがえ
ていたといえよう。しかしこういう理解はすっきりした物と霊の二重化にすぎるような気が
する。贈与という概念も、贈与と返礼という行為も物と霊との分離やずれがないところでは
成り立ちそうにもみえない。もうすこしいえば、物と霊のあいだ、人間と霊のあいだに境界
のない交換が成り立たなくてはならないようにおもえる。
モースは、ダヤク族では食事に居合わせるか、またその用意を目撃したら、食事に加わら
なければならない義務があると記している。このばあい、食事をすすめることを怠ったり、
逆にすすめを断るのは、親交を拒否したこととおなじになる。モースの考えでは、ある原住
民が物を与えるのは、与えることを強制されているからだ、また物を受けるのは受ける者が
与える者のもつすべての物にたいして、「ある種の所有権」をもっているから、と述べてい
る。「ある種の所有権」とは氏族や家族の儀礼や睨的行為などの共同性からつくられる霊的
な紐帯を指すことになる。この考え方に異論をもつとすれば、「義務」や「強制」とモース
がいっているものは、共同性のもつ睨的な威力にたいする服従と成員の人格的善意とに帰着
する。
モースのダヤク族についての例は、わたしたちの慣習からそれほど遠いものではない。た
とえば、京都の地着きの家庭を訪問し、食事に居合わせたり、食事の用意を目撃し、どうぞ
一緒に食べませんかといわれたら、それは帰ってくれという意昧との言い草は、いまでも耳
にささやかれている。これはダヤク族のような贈与の風習が、わたしたちのあいだにもあっ
たとかんがえられる一例だ。どうぞ一緒に食べませんかといわれたら、それを受けなければ
ならない義務があった。わたしははじめての訪問であり、「父」「母」が出郷したのは数十
年も以前だったので、迷惑のかからぬようにと、すこし離れた所に宿をとって訪問した。「
母」方の親族はとこかに宿をとったのかと尋ねたので、正直にその場所を告げた。「母」方
の親族は心の底から不服そうで、表情に不満感をみなぎらせ、どうしてじぶんの家に泊らな
いのかといい、わたしは親族を納得させる弁明につとめなければならなかった。このことは
たぶん、数十年も音信のない親族にいきなり初対面で訪問されたら心の底から岫っていけと
いえずにためらうだろうと、わたし自身が類推した配慮が、どんな親族でも即座に同化し親
和できる風習のなかにあるものと裏返ったのだとおもえる。
このばあい、わたしの解釈は親族内の親和意識のつよい遺風と、相手方の人格的な善意と
に理由をもとめる。だがそこで親和はおわり、この親族の態度をさかのぼって「義務」と「
強制」にまでたどりつくことはしないとおもう。なぜそうかといえば、モースにとってポリ
ネシアやミクロネシアの島々はまったく異質な外部から観察した初期社会でありうるのに、
わたし(たち)はあるところまで外部からの観察者の眼を行使できるものの、深層のところ
では、外部と内部の視点が融け合うポリネシアやミクロネシアと同質の伝統に融けてしまう
からだ。
抽象度を高めて表現しないかぎり、交換や交易よりも贈与と返礼によって成り立ってきた
習慣ののこるこれらの地域で、ポトラッチを「義務」「権利」「強制」といった言葉で解釈
しつくすこと、そして「母」系を中心の分節点として網の目のように融著し粘性をもってつ
ながりあった家族や氏族、家族の性質としての個人を分離することは難しいとおもえる。
モースがとりあげるポトラッチ部族のうちで、もうひとつわたし(たち)の心を騒がせる
のは、わたしたちのなかにある北方的な要素についてだ。アラスカ海岸に居住するトリンギ
ト族やハイダ族についてもモースは記述している。これらの部族は春になると山地に散らば
って狩猟や本の根や果実を採取し、河海では鮭、あざらし、鯨などをとったりしている。社
会組織は「母」系優位なのだ。そして紋章の描かれた櫛形の銅版や美しい毛布が通貨の代り
をしている。冬になると「町」に集まって、全期間を通じて興奮した状態をつづける。部族
や氏族の家族どうしがいつも訪問しあい、祭が冬中くりかえされる。婚礼や儀式があると、
蓄積した物をことごとく消費する。
かれらのポトラッチ、贈与にたいする返礼(反対給付)には、はっきりとした「期間」が
あることだ。モースはこの「期間」の概念をもとに、一方では贈与と返礼を限りなくちかづ
けて同時化する物々交換(交換の初源の形態)、他方では売買上の「信用」取引と貸借が生
みだされたと、注目すべきかんがえを披露している。つまり信用取引が文明社会の経済的段
階の産物ではないと、モースはいいたいわけだ。このモースのかんがえは、さきに述べた、
贈与は遅延された交換、とするかんがえにとってはおあつらえむきだといっていい。ただ、
わたしたちが贈与は遅延された交換というために、いい難い心理的なわだかまりやもやもや
を切り持てたうしろめたさを感じるのとは違い、モースがアラスカ沿岸の部族のポトラッチ
を理解する手つきは、あまりにすっきりしすぎている。もやもやの要素が喚び起こす半概念
的な気分は何なのかとりあげるべきだとおもえる。
第一部 吉本隆明の経済学
右図をクリック!
今夜から第7章に入り、わたしたちの文化的遺伝子の芳香に感動しながら読み進んでいる。何と
素晴らしいことかと。
(この項続く)
昨日のこと。ルームランナーを起動すると「LUBE BELT」が表示される。電子ファイリングさせ
ていたマニュアルを開くと「6か月ごとまたはディスプレイに「LUBE BELT]と表示されるごと
にランニングデッキとランニングベルトの間のワックスがけをする必要があると表示。専用の
シリコンオイルを薄く塗って(手袋の着用)平滑度を維持する作業を行う。毎日3キロメート
ル、最大斜度6、最大速度毎時6キロメートル、スクワット、スナップ付きのトレーニングを
続ける。創意工夫しながらがのトレーニングだ。