● 宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学 Ⅱ
「宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学」(『パピタブルゾーンの色』2015.03.03)、『一歩
前進!宇宙太陽光発電』(2015.03.14)で掲載した無線給電システム技術に話題が2つ入ってきた。
その1つが、イスラエルのWi - Charge社が赤外線 LEDを利用したワイヤレス給電技術である。要は、
赤外発光ダイオードで電力を変換し給・送電し、受電側のモバイル/家電器機の光電変換素子パネル
で電力変換し充電するシステムで、(1)既存のワイヤレス給電技術よりも送電距離を長く取れて、
(2)位置合わせの自由度が高いという特徴をもつものの、(3)エネルギー効率が数値として公表
されていないが?悪いものと思われる(上図/上をクリック)。
Wi - Charge社の新規技術は、レーザービームを使ってさまざまな機器を充電するトランスミッタとレ
シーバを開発(下図参照)。同社が今回披露したトランスミッタは電球やコンセントに適合する形状
になっていて、電磁波ノイズは出さない。また、赤外発光ダイオードと反射鏡を使いレーザービーム
を形成し、それを光起電力セルに当てる。具体的には、LEDを2枚の反射鏡で挟むと、LEDから放射
される光子が、その2枚の鏡の間で反射を繰り返し、狭ビーム(ナロービーム)を形成する。さらに、
レーザービームをピンポイントで受電側に照射しなければならず、送電/受電間で位置合わせの自由
度が低いという欠点があったが、(1)半透明の鏡を取り払い、レシーバを光起電力セルの近くに配
置、(2)反射鏡の表面(光子が反射する面)を曲面にしたカサグレンミラーを使用。これにより、
光子は、飛んできた方向と同じ方向に戻り、送電側の反射鏡とレシーバが平行でなくても給電可能と
なる。
もう1つは、宇宙空間で太陽光を反射させるために宇宙航空研究開発機構(JAXA)の求めに応じ
製作した反射膜に薄型ガラスを貼り付ける厚さ0.1ミリメートル、250グラム/平方メートルの
日本電気硝子の超薄型軽量ミラー技術(下図)。このミラーは、同計画の発電効率を上げるためのも
ので太陽光を反射させ、鏡がない時の2~3倍の光を集める。JAXAの要求に沿って、2.5キロ
メートル×3.5キロメートル程度の楕円形ガラス。宇宙空間で飛来物にぶつかってもガラスが飛散し
ないように同社独自の技術で樹脂を貼り付けて耐久性を上げ、発電に必要な光以外は透過させる。因みに、
宇宙太陽光発電は地上の1.4倍、常時集光という特徴がある。
● 『吉本隆明の経済学』論 25
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 生産と消費
Ⅲ
もし〈借りうけ〉る産業資本家がまったくいないとすれば、貨幣の所有者は貨幣を資本として
〈貨しだす〉ことで利子を増殖する貨幣資本家にはなりえないで、たんに貨幣をもっているもの
にすぎない。だが産業(商業)資本家という概念は、もともとそのある部分は〈借りだし〉だ資
本を生産(商業)過程に投下する存在だという前提でしか成り立っていない。資本は、〈借りだ
し〉だ貨幣のことだというのは経験的な事実だといっていい。このことは総利潤はいつでも利子
と生産(商業)の企業者利得とに分裂すべく(用意されて)いることを意味している。
このことはまた資本制以前の歴史的にもいいうることだ。極端なことをいえば未開や原始の社会
でおこなわれる〈贈与〉のばあいでも、これを〈貨しだし〉の特殊なばあいのようにみなせば、
それによって生みだされる無形の恩恵もまた利子の変種とみなすことができる。ほんとに「資本
制的生産様式が実存しこれに照応する資本および利潤なる肖像が実存するよりもずっと以前に、
利子生み資本が完成した伝来の形態として実存し、したがって利子が、資本によって生みだされ
る剰余価値の完成した下位形態として実存する」(マルクス)といってもいいことになる。
ここまでくれば利子が必然化されるとおなじように貨幣資本の所有者もまた必然化されるといっ
てよい。いいかえれば産業(商業)資本家が自己資本を運営して生産(商業)過程にはいっても、
〈借りだし〉資本を運営しても、それに対応する貨幣資本家の実存は必然化されてしまうし、利
子もまた自立した剰余価値の形としてたしかな根拠をもって経済的な必然化の環のなかにはいる
ことになる。
利子は質としてみれば生産(商業)過程の外部にあってただ貨幣を所有しているだけでもたらさ
れる剰余価値である。また量的には貨幣資本に対応して利潤のうちから利子になる部分は、利潤
の犬きさによって、ひとつの利子率によってきまったものになる。ここまできまってくれば〈借
りだし〉だ資本を運営する資本家と自己資本を運営する資本家とのちがいは、企業者所得だけを
うる資本家と企業者所得と自己資金にたいする利子をじぶんで増殖分として元金といっしょにう
けとる資本家との違いに還元されてしまう。
わたしたち万人は(一般大衆は)そうなればいいのかと問うた経済人としての理想像(貨幣資
本の所有者の像)は、捏ねくりまわしているうちに、しだいに浮かない姿をあらわしてきたよう
におもえる。ただそれでも時代の平均的な欲望をとげるのには、格別不自由がないばかりか自在
だという程度の利子の蓄積はできているということが、できないものに比べたら神の業にもひと
しい。そうとみなすばあいは、話はまったく別なことになる。
貨幣資本の所有者ほどではないが、それにつぐ理想的な存在である産業(商業)の資本家(経
営者)は、利子をめぐって貨幣を〈賃しつけ〉る資本家と対立している。かれは総利潤のうちか
ら利子を貨幣資本家に支払ったあとの企業者利得だけをうけとるのだし、この利得はそれが単純
な労働者にくらべれば多いとしても、また必然である以上にもらいすぎた利得であったとしても、
かれたって生産(商業)過程で労働したこと、いいかえれば労働者としてうけとったものだ。マ
ルクス的にいえば「それ白身、労賃であり、監督賃であり、wages of superintendence of labour で
ある」にほかならない。つまり賃労働者にくらべるといくらか複雑な労働だったり、じぶんでじ
ぶんの労賃をいくらか白由にきめられたりするところからくる差異にすぎない。そればかりでは
ない。貨幣資本を所有していることと、これを運営して生産(商業)過程に入るものとの対立と
差異は、総利潤、いいかえれば剰余価値を、利子と企業者所得との二部分に分裂させる本性をも
っている。
この理想像として二番手であり「次」であり「亜」である産業(商業)資本家(経営者)の性
格を、もうすこしつきつめてみる。かれは聡明なら労働力の性格と利子生み資本の性格とが深い
類似性をもっていることに気がつくはずの存在である。どうしてかといえば、いままでみてきた
ように、このふたつに深くじぶんが経験的にかかわってきた存在だからだ。かれが労働市場(会
社)で労働力を買うのはそれが価値をうみだす能力だとおもうからだ。でも買った労働力を生産
(商業)過程で使うかどうかは、どうでもいいことだ(私用でサービスにつかうこともありうる)。
おなじように利子をうむ貨幣資本も、資本として使ってじっさいに剰余価値をうみだす活動をや
るかどうかは〈借りだし〉だ資本家の勝手だ。かれは商品としての資本にふくまれる可能性とし
ての剰余価値にたいして利子を支払うのだから。産業(商業)資本家は労働力の買い手としては
労働者に貌をむけ、利子の支払い手(生み手)としては貨幣資本の所有者に貌をむけている。
これはふたつの深淵に面しているようなものではないのか?かれは(経済)社会の循環器官や筋
肉をもった社会的身体である資本と、循環器官や筋肉をもっか身体である労働力とに直面してい
る。かれがこの息苦しさから脱出するには、左右の手を同時に別べつに行使できるような自己シ
ステムを人工的につくりだすほかにありえない。そしてもちろんそれができるためには相手であ
る貨幣資本の持ち主と労働力の持ち主である労働者の同位性がなくてはならないはずだ。貨幣資
本も労働力も底知れない深淵の画像から底をもたないシステムの画像にかわることになるという
ような。たとえば貨幣資本はシステムの代理体としての銀行に〈貨しだし〉を集約して、じぶん
はシステムをのこしてたんなる画像になって消えたり現われたりする。
この有様は具象的に描きだせるかどうかわからないが、やってみる価値はありそうにおもえる。
貨幣(G)があって、それが生産(商業)の過程で物(W)をうみだし、それが売られて貨幣
(ご)が手にのこる。そしてG'>Gになっていることは、資本の画像のかんたんな記述になって
いる。それはG―W―G'とあらわされる。あいだをつないでいる「―」は、いちばん単純にかん
がえて生産過程と流通過程を記号化したものだ。いま利子をうむ資本のばあいには、貨幣は、す
くなくともじぶん自身ではこの生産過程と流通過程をへないからG-G'とあらわされていいは
ずだし、しかもG>G'になっている。G―G'を実現する目的のためにだけ、貨幣は資本になる
わけだから、中間の過程をへないでG―G'が実現することは、経済(人)としていちばんの理
想像ではないのか。そして万人が(一般大衆が)みなこの理想像をつかんだ状態が究極の理想状
態ではないのか? わたしたちはそういう問いから出発した。いままったくその通りだとすれば、
利子をうむ貨幣の所有者は理想像だとみなされる。この状態はどうしたら実現されることになる
のか?
すくない人数ならばいまでもこの理想状態にいるとみなせる人たちは存在している。かれらがと
ても利殖の技術にたけていたのか、超人的な刻苦のはてに蓄財したのか、偶然の幸福にてあった
のかは、さまざまでありうる。だが万人が(一般大衆が)そうなる状態はどうやって実現される
のかは、現在まで存在している理想像の経済人をどんなに分析し、解剖してもわかるはずがない。
かれらはそうなってしまった個々の、特殊な少数例にすぎないから、一般化できないし、一般化
できる要素はあったとしても、すくないに違いないからだ。この経済人としての理想像を経済的
な範躊であらわしたもの、すなわち利子をうむ貨幣資本について、マルクスがつぎのように述べ
ている個所がある。
利子生み資本として、しかも、利子生み貨幣資本としてのその直接的形態(ここで吾々に関
係のない他の利子生み資本諸形態は、この形態から再び誘導されるのであって、これを内蔵す
る)において、資本は、主体・売ることのできる物・としての純粋な物神形態G―G'を受け
とる。 第一に、資本がたえず貨幣-この貨幣形態では、資本のすべての規定性が消滅し資本
の現実的諸 要素が眼にみえなくなっている-として定在することによって。貨幣こそは、ま
さに、そこでは 使用価値としての諸商品間の区別が消滅し、したがってまた、これらの商品
とその生産諸条件とから成りたつ諸産業資本間の区別が消滅している形態である。
貨幣は、そこでは価値――この場合には資本 が自立的交換価値として実存する形態である。
資本の再生産過程では、貨幣形態は一つの消滅的形態であり、一つの単なる通過的契機である。
これに反し貨幣市場では、資本はつねにこの貨幣形態で実存する。――第ニに、資本によって
生みだされた。この場合にはやはり貨幣の形態でのこ刑余価値は、資本そのものに帰属すべき
もののように見える。樹木の生長と同じように、貨幣を生むということ(トーホス〔生まれた
もの転じて利子、の意〕)が、この貨幣資本としての形態をとる資本の属性のように見える。
利子生み資本においては、資本の運動が簡略体に要約されている。媒介過程が省略されており、
かくして一資本1000が、それ自体は1000であるが特定期間がたてば――あたかも、あ
なぐらにおける葡萄酒が特定期間後にはその使用価値を改善するように――1000に転化す
る物として、固定されている。資本はいまや物であるが、物として資本である。貨幣はいまや
恋を宿している。それが貸付けられるか、または再生産過程に投下されれば(その所有者とし
ての機能資本家にたいし、企業者利得とは別に利子をもたらす限りは)、それが睡っていても
起きていても、家にいても旅していても、昼も夜も、それには利子がつく。かくして利子生み
貨幣資本において(また、およそ資本は、その価値表現からみれば貨幣資本である。あるいは、
いまや貨幣資本の表現たる意義をも言、貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現したのである。
(マルクス『資本論』第五篇・第二十四章)
この引用で万人が(一般大衆が)経済人としての理想像になればいいという願望をなし遂げる
条件になりそうなのは「貨幣こそは、まさに、そこでは使用価値としての諸商品間の区別が消滅
し、したがってまた、これらの商品とその生産諸条件とから成りたつ諸産業資本間の区別が消滅
している形態である」と述べている箇所だとおもえる。なぜかといえばこういう言われ方が成り
立つところでは、貨幣資本として〈貸しださ〉れて生産(商業)過程にまではいりこんだ貨幣は、
たくさんの産業(商業)のあいだのどんな区別もなくなってしまった高度な抽象的な商品の象徴
であり、そんな高度な抽象的な商品をうむためのだくさんの産業(商業)資本のあいだの区別も
なくなった市場(貨幣市場)の象徴になっているからだ。
いいかえれば貨幣がそんな象徴でありうるような高度な経済社会がやってくることが条件として
かんがえられるか、それとも貨幣がそんな象徴でありうるような経済システムをつくりあげるこ
とが、理想像の一般化のもとになるとみなされうるからだ。そこでは貨幣がさまざまな産業の抽
象であること、そしてさまざまな産業が生産したものの抽象であることという画像がとび交う。
マルクスがここで描写しているように利子をうみだす資本としての貨幣だけは、たしかに資本制
のはじめからその徴候を受胎していたし、やがて金融資本として分娩し、成長しけじめ、思春期
に達したときには、寝ても醒めても、昼も夜も利子を恋うまでに成熟した。でもそれはすべての
場面における貨幣の姿ではなかった。
シュムペーターがいいにくい言い方をして、でもはっきり言っているように、マルクスがいうほ
ど少数だけが得恋し、大多数の貨幣は失恋のどん底に沈んだわけではなかった。ただ恋をする暇
がなかったとか、ちいさな恋しかできなかったというだけだ。近似的にだけいうとすれば、たく
さんの産業は、そのレプリカのなかに抽象の面影を宿し、たくさんの産業のだくさんの生産物(
商品)は、その機能的な形態のなかに抽象の似姿をもっているかのようにおもわれてきた。貨幣
がたくさんの産業やそれらの産業の抽象なのではなく、たくさんの産業やその生産物(商品)が、
貨幣の抽象であるようにおもわれてきたのだ。わたしたちはふしぎな抽象の二重性を、貨幣とた
くさんの産業や産業の生産物のあいだで体験している。そこではふたつの抽象の貌のうちどちら
がほんとの得恋の貌なのか失恋の貌なのか、わからないのだ。もっと極端なことをいって仏頂づ
らなのか欽びをおしかくした貌なのかわからない表情をして、人びとは巷を歩いている。読者諸
氏においてもまた。
(後略)
第一部 吉本隆明の経済学
この「後略」された部分にも触れたい気がするが、そこは先送り?にしてさらに読み進めることに。
(この項続く)