エゴマ油が脳神経細胞の保護に有効だということで通販購入しようとしていたら、日本製粉株式会社
のローストアマニ粉末を購入し放置したいことに気づきそれを早速試食する。食感風味は「きな粉」
味と擂り胡麻の中間に類似する。ところでアマニとは、アマ(亜麻)のニ(仁=種子)の意味で、英
語ではフラックスシード(Flaxseed)。アマ科(Linaceae)の植物であるアマ(亜麻)の学名は、
Linum usitatissimum で、Linumはケルト語で「糸」、英語ではリネンを意味し、usitatissimumはラ
テン語の形容詞usitaus(最も有益な)に由来。原産は欧州の地中海地方の自生植物で、人類が初め
て栽培した植物のひとつと。古くは、石器時代にスイスの湖畔に棲んでいた古代人(Swiss Lake Dwel
ler People)が、その繊維分と種子を利用していたとの記録が残る。食用としての認知は、西暦800年
代で、仏のシャルルマーニ大帝は、「臣民はアマニをとるべし」と、その健康上の価値を認め、法令化
している。 この頃には、種子から搾った油を食に供し、茎は布地(リンネル)や紙に利用。中世/
近世はアマニの栽培が欧州全域に広る。 アマニの栽培は、寒冷地に適しており、北米、特にカナダは
世界の生産量の1/3から半分を担う、最大の輸出国です。南半球ではオーストラリア・ニュージーラン
ド等が生産国。ところで、最新技術リチウムイオン二次電池用高せん断力の電極合材材料の混練にア
マニ油が用いられているという。これは驚きだった(特開2015-032554 リチウムイオン二次電池用負
極の製造方法)。
● 『吉本隆明の経済学』論 24
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 生産と消費
すでにすこし触れたようにワルラスでは「交換価値という現象は市場において生ずるもの」と
されている。だがマルクスではAという商品のある量とBという商品のべつのある量とが交換さ
れるためには、価値の共通の基底がなくてはならず、その基底の条件をそなえているものは、そ
れらの商品を生産するのに加えられた労働の量になる。そして帰するところは労働時間だとみな
される。だとすれば、マルクスでは商品の価値はそのまま交換価値であり、交換価値という現象
が市場において生ずるというフルラスの規定は、マルクスの(労働)価値イコール交換価値とし
て商品に内在するという考えを意識して、それに異をたてるためになされた規定だといっていい。
試みにワルラスが『要論』で市場の例として挙げているものを列挙してみると、
(1)競争の点からいちばんよく組織されていて売買が取引員、仲買人、競売人のような仲介
者によって行われる市場として、証券取引所、商品取引所、穀類取引所、魚市場等。
(2)競争が多少制限されている野菜と果物の市場、家禽市場。
(3)小売商店、パン屋、肉屋、乾物屋、服屋、靴屋などが並んでいる商店街。
(4)医師や弁護士の仕事、音楽家や歌手の演奏などの世界。
(5)そして最後に「全世界は社会的富の売買が行なわれる各種の個別市場によって形成され
る広大な一般的市場」であるとみなせることになる。
ワルラスのあげた市場の例のなかに、労働力市場はでてこない。医師や弁護士の仕事、音楽家
や歌手の仕事の例がでてくるのだから、当然あげられていいはずなのだ。なぜでてこないのだろ
うか?
さいわいなことにワルラスは『純粋経済学要論』の第十六章で、スミスとセイの価値説を批判
するという形でこれに触れている。
まず、スミスが『国富論』でとっている労働が価値の源泉だとする考え方にたいしては、ワル
ラスはつぎのようにいう。
この理論(スミスの―註)に対する反論は一般に不適切であった。この理論は、要するに、
価値があり交換せられるすべてのものは、労働が種々の形式をとったものであり、労働のみが
社会的富のすべてを構成すると主張するものである。これに関してスミスを批判する人々は、
価値があり交換せられても労働の生産物でないもの、すなわち労働以外に社会的富を構成する
ものがあることを主張する。しかしこの反論は皮相的である。労働のみが社会的富のすべてを
構成するか、または労働は社会的富の一部を構成するに過ぎないか、はわれわれの関心事では
ない。種々の場合において、なにゆえに労働に価値があり交換せられるか。これがわれわれの
取組んでいる問題であるが、スミスはこの問題を提起もしなければ、解決もしなかった。とこ
ろで、もし労働が価値をもち交換せられるとすれば、それは労働が効用をもち、量において限
られているからである。すなわち、それは稀少であるからである(101節)。ゆえに価値は
稀少性から来るものであり、稀少なすべてのものは労働を含むと否とにかかわらず、労働のよ
うに価値をもち交換せられる。すなわち、価値の原因を労働であるとする理論は狭過ぎるとい
うよりは、全く内容のない理論であり、不正確な断定であるというよりは根拠のない断定であ
る。
(ワルラス『純粋経済学要論』第十六章「交換価値の原因についての
スミスおよびセイの学説の解説とそれに対する反論」久武雅夫訳)
おなじようにセイの『経済学問答』のなかの、効用性が価値の源泉だとする考えにたいしては
ワルラスはつぎのようにいう。
これは、少なくとも証明の一つの試みとはいえるが、極めて不十分である。「ものがもって
いる効用はこのものに対する欲求を生ぜしめる」ことは確かである。「効用はこのものの獲得
のために人々に犠牲を払うようにさせる。」これは一様にはいえない。効用は、人々がこの効
用を得るために犠牲を払わねばならない場合にのみ、犠牲を払わさせるのである。「人の何の
役にも立たないものを獲得するために、なにものをも与えようとはしない。」これは疑いもな
くその通りである。「これに反し、自分が欲望を感ずるものを獲得するためには、自分が所有
するもののある量を与える。」これには条件がある。それは、このものを得るためになにもの
かを交換に与えなければならない場合に、ということである。それゆえ、効用だけでは価値を
創造するのに不十分である。さらに、効用のあるものが無限量に存在せずすなわちそれが稀少
であることを必要とする。この推理は事実によって確認せられる。呼吸せられる空気、帆船の
帆を膨らませ、また風車を回転させる風、われわれを照らす太陽の光線と収穫と果実を実らせ
る太陽の熱、水と熱せられた水が提供する水蒸気、その他多くの自然力は効用があり、また必
要でもある。けれどもこれらのものは価値をもっていない。なぜなら、それらは無制限に存在
しており、誰でもそれらが存在する場合にはなにものも与えることなく、またこれと交換に何
らの犠牲を払うことなく、欲するままに得られるからである。
(ワルラス『純粋経済学要論』第十六章「交換価値の原因についての
スミスおよびセイの学説の解説とそれに対する反論」久武雅夫訳)
これでは、スミスとセイにたいしては批判になっているかも知れないが、リカードをへてマル
クスで完成に達した労働価値説にたいする批判にはなっていないとおもえる。フルラスの著書と
マルクスの『資本論』とくらべると凡庸なその時代の秀才と世紀の天才ほどの違いがある。だが
ワルラスが労働価値説の批判に深入りできなかった理由は、商品の交換価値(つまり価値)の源
泉についてまるで発想がちがうからだとおもえる。フルラスは交換価値の現象は市場においては
じめて発生するという言い方で、労働市場における労働力の売り手である労働者を、はじめから
労働力商品の所有者(フルラスの言い方をすれば自然的資本の一種)とみなしていることを意味
する。
だが労働価値説の源泉は、とくにマルクスの『資本論』のような完成された論理の配慮があると
ころでは、労働者の(人間の)身体が、労働力の表出者(生産者)として、無際限の反復に耐え
るような底無しの価値体であるだけではなく、機能的な定常量の表出者ではなく主体的な状態に
よっては、どこまでも定常量を超えても気づかない存在たというところに根拠をおいている。こ
の人間の身体的な表出(生産)力の特殊な本質にたいするおどろきや不安や憂慮、いいかえれば
超合理性にたいする気づきがないところでは、労働価値説はワルラスのいう市場では、いいかえ
れば労働力の所有者としてのみ労働者が売り手として登場するところでは、捨象できるものでし
かない。ワルラスが「全く内容のない理論」と呼んだのは、ほんとはワルラスにとって〈全く内
容のいらない理論〉と呼ぶべきであった。
ワルラスは「もし労働が価値をもち交換せられるとすれば、それは労働が効用をもち、量にお
いて限られているからである。すなわち、それは稀少であるからである」という。だがこの考え
は、市場ではじめて交換価値が発生するのだというワルラス自身の前提がなければ、まったく意
味をなさないことははっきりしている。ある物の価値がそのものに加えられた労働の量によって
きまるという考え方にたてば、労働が効用をもつか、あるいは稀少であるかということは、価値
いいかえれば交換価値にとって、まったくどうでもいいことだ。
いままでここで述べてきたいきさつからして、マルクスの労働の量によってきまる商品の価値
(交換)の概念をとっても、ワルラスの市場ではじめて発生する交換価値という概念によるとし
ても、おなじように労働力の表出者(生産者)としての労働者や経営者は、労働力の所有者とし
ての労働者やその貨幣による買い手としての経営者を市場にのこしたまま、分裂して労働力市場
からはじきだされ、消費市場にさまよいでなくてはならない。両者はひとしなみに身体を養う(
生産する)ために貨幣を消費して喰べたり、道んだり、休養したりすることで、労働力市場での
明日の労働にそなえなければならない存在であることはたしかだ。この存在はいったい何を意味
し、どうなればいいのか?
たしかにいままで述べてきた範囲でこうなればいいといった理想の存在が、ひとつだけかんが
えられた。それは市場での労働力の買い手としての資本家(経営者)ではなく、資本の所有者(
貨幣の所有者)としての資本家だ。なにが理想の像にかなうかといえば、かれだけは消費市場で
身体を養う(生産する)行為そのものが、貨幣の生産(増殖)であるか、あるいはすくなくとも
貨幣の消費を伴わないことができる存在とみなせるからだ。身を養うことが同時に貨幣の生産だ
というほど理想の存在が、経済世界のなかでありえようか? 労働力の表出者(生産者)として
の労働者も経営者も、こういう存在になれば申し分ないことになる。たしかにそうなのだろうか?
この問いは疑いぶかい欲ばった問いだ。まだ何か外部的な解決すべきことがあるというのか。
わたしたちにはもうただひとつの解決すべき問題しかのこされていないというべきではないの
か? これらをめぐってまったく違う射程から参考にしていいことに言及しているシュムペータ
ーの画像をみてみよう。
およそ四〇年前までは、マルクスのほかにも多くの学者が次のように信じていた。資本主義
過程は国民総所得のなかでの相対的分け前を変化させる傾きをもつ。したがってわれわれの平
均増加率から導き出される明白な結論は、少なくとも相対的には富者がますます富み、貧者が
ますます貧するということによって無効にされるであろう、と。しかしかような傾向は少しも
ない。その目的のために工夫された統計的測定についていかに考えられようとも、次のことだ
けは確実である。すなわち、貨幣で表わされた所得のピラミッド構成は、われわれの資料にも
うらされている期間――イギリスで19世紀全般にわたる――には大きな変化を示していない
こと、および賃銀プラス俸給の相対的分け前も、その期間をつうじて実質的には不変であった
こと、これである。資本主義のエンジンがそのまま活動しつづけるとすれば、いかほどのこと
をなしとげうるであろうかを論じているかぎり、所得分配、ないしわれわれの平均数値に間す
る分散が、1978年には1928年のものと著しく相違するだろうと信ずべき根拠はまった
くない。われわれの結論を示す一つの方法は次のごとくである。もし資本主義が1928年以
降の半世紀間にその過去の成果をくりかえすとすれば、その場合には人□の最低層のあいだに
おいてすら、現在の水準で貧乏と呼ばれうるいっさいのものが病理学的な場合だけは別である
が――解消されるだろうということ、これである。
ルイ14世ほどの人が欲しいと熱望しつつ、ついにもち得なかったようなもの――たとえば、
近代歯科医術――でも、現代の労働者には利用できるものがいくつかあることは疑いない。だ
が全体からみれば、そのような高いレベルの家計が資本主義の業績によって利益を享受すると
いうことは、事実上問題にならないくらい少なかった。この上もなくもったいぶった紳士にと
っては、旅行の迅速さなどもたいしたことだとは考えられなかったであろう。たくさんのお金
に恵まれておって、十分なローソクを買い、それを世話する召使を雇うことのできる人にとっ
ては、電燈でさえもたいして恩沢ではあるまい。資本主義生産の代表的な業績は、安価な衣料、
安価な綿布、人絹、靴、自動車等であるが、それらは概して、金持ちにとって重要な意味をも
つ改良ではない。なるほどエリザベス女王は絹靴下をもってはいた。
けれども資本主義の業績は、典型的には女王たちのためにいっそう多くの絹靴下を用意する
ことにあるのではなく、必要労働量をつねに滅ずる代償として絹靴下を女工たちの手の届くと
ころにもたらすことにあるのである。
現在では、社会立法に対する闘争の技術や雰囲気があるので、それがなければ明瞭なはずの
次の事実がぼかされている。すなわち、一つには、この立法の一部が、以前の資本主義的成功
(換言すれば、以前の資本主義的企業によって創造される富)を前提条件としているごとだ。
二つには、社会立法が発展せしめ一般化せしめたものの多くは、以前は資本家階層自身の行為
によって着手されていたということ、これである。この二つの事実は当然資本主義成果の総額
に付加されねばならぬ。いま、資本主義体制がもしも1928年以前の60年間になしたこと
をもう一度遂行して、人ロー人あたり1300ドルにまで実際に到達したとすればその時には、
あらゆる社会改良家――多くの変わり種をも含めて、実際にはほとんど例外なしに――がいま
までに夢みてきたいっさいの願望が自動的に満たされるか、もしくは資本主義過程に著しく手
を加えることなしに満たされうるということがただちに了解されよう。ことに失業者を十分に
世話するということも、そこでは単にがまんしうる程度の負担であることを通り越して、まっ
たく造作のない負担になってしまうであろう。
(シュムペーター『資本主義∴社会主義・民主主義』
第二部・第五章、中山伊知郎・東畑精一訳)
この画像はとても高い水準で、現在の知的迷信に衝撃をあたえる力をもっている。そこで好ん
で引用してみる価値があるのだ。おおく《良心的)知識人たちは《良心》を使う場所を間違えて、
いまから40年まえですら、ロシア・マルクス主義(レーニン・スターリン主義)が塗ったくっ
た誇張された画像のなかに《良心》を閉じこめていた。それはたんに20世紀に支配的な影響を
知識人にあたえてきた知的な宗教と迷信でしかなかった。そういうよりも知識人という概念自体
が倫理として登場するとき、それはこの知的な宗教が産みたしか副産物にほかならなかった。よ
ほど鈍感でないかぎり知識人という自己覚醒の倫理は、大衆への嫌悪であり、同時にこの知的な
宗教への帰依であるという矛盾を意味した。知識人のあいだに喜劇が悲劇として演じられたり、
悲劇が喜劇として演じられたりしたのは当然たった。何しろ大衆をもっとも嫌悪して、大衆から
自己感性を隔離したいと無意識に熱望している連中が、この知的な宗教に帰依せよと街頭布教し
はじめたのだから。
わたしたちがここで解明できたらとかんがえている画像は、シュムペーターの画像でも解明さ
れているわけではない。ましてこれはどの巨匠にも迷信はなおあって、そのあと四十年の世界像
は、たぶんかれの思いがけないものになっていった。わたしたちは労働力市場で、労働力の所有
者としての労働者は売り手であるかぎりにおいて、労働力の買い手である貨幣の所有者(経営
者)よりも貨幣の取得量において不利な傾向性があり、その中間は断続しているというより連続
して移行するものだという画像を描いた。そして労働力の市場では、売り手としてあらわれる労
働者とその買い手としてあらわれる経営者とのあいだのこの傾向性は、消費市場ではひとしく労
働力の表出者(生産者)としてあらわれ、おなじように身体を養うために貨幣を消費することに
なり、その差異は消費可能な貨幣額の差にあらわれるだけになる。この二重にあらわれる傾向性
は、どの極限をとっても連続的で階級像を描き得ないようにみえる。それといっしょに経済市場
を介してあらわれる社会像のなかで、わずかに消費可能な貨幣額の差異としてしかあらわれない
労働者と経営者の姿は、どう描写されるべきなのか、マルクスの「生産は直接消費でもある」と
いう命題はそれを要請しながら、それを自らに問うたことはないといっていい。
Ⅲ
労働力が売り買いされる市場で、買い手になってやってくる資本家(経営者)ではなくて、資
本になる貨幣の所有者を経済からみた人間の理想像としてかんがえるべきだろうかと自問してみ
た。そしてこの理想像の根拠をひとつ挙げて、かれだけは消費の市場で、身体を養う(生産する)
ために遊んだり、休養したり、食べたりすることが、たんに手にした貨幣の消費ということにな
らず、そのまま貨幣の増殖になる可能性をもった存在たというところにおいた。じじつ労働力の
売り手である労働者は、それを売って手にした貨幣を消費して身体を養わなくてはならないし、
労働力の買い手として登場した資本家(経営者)でさえ、消費市場で貨幣をついやして身体を養
わなくてはならない。ただ貨幣の所有者で、いつどこでも貨幣を資本として提供できる可能性を
もった者だけが、消費市場で身体を養うことが、そのまま貨幣の増殖になっている可能性を、い
たるところで(貨幣を資本として提供したところではどこでも)もっているのだ。
ふたたびわたしたちは自問する。この存在は経済人としてみられた人間の、いちばん理想の姿
だろうか?そして万人が(ということは一般大衆が)この存在になる 率直にいってみれば、ポ
リティカル・エコノミーやソシャル・エコノミーが、まだわたしたの外部にあるときは、たしか
にそれは到達すべき目標であったり、ときどきはのどから手がでるほどの渇望の対象像であった
り、とみなすことが妥当のようにおもえる。だがエコノミーが内在的になったときには、万人が
(ということは一般大衆が)この理想像の経済人になりおおせたとしても、すこぶる浮かない多
数の貌に出遇うだけのような気もする。わたしたちは、現在、単独で(個人的な努力で)この理
想の経済人になっている存在を見つけようとすれば、少数だが見つけることができるに違いない。
そしてかれらに問うてみれば、じぶんは経済人として理想の状態にあるかどうか、それぞれ答
えてくれることは疑いない。その答えは、まちまちだろうが、ただひとつ共通な点が想像される。
われらのなかでポリティカル・エコノミーやソシャル・エコノミーが、外部から内在へとスムー
ズに連結されていないということだ。かれら資本としての貨幣の所有者の理想像は、マルクスの
いうように収奪とだましによってそうなったとみなそうと、シュムペーターのいうように勤勉と
たゆまない努力によってそうなったとみなしても、外部と内在とをむすびつける偶然と必然のな
いまぜられた無意識が存在せずに、犬なり小なり意図と実現の断層をもっている点が共通してい
るに違いない。そうだとすれば外部からどんな理想像にみえようとかれらはどこかで浮かない貌
を見せている存在だといえそうな気がする。
わたしたちは万人にとって(一般大衆にとって)理想の経済人の像とみえるこの存在を、もう
すこし詳しくみてゆくべきだとおもえる。
わたしたちが経済人としての理想像(みんながそうなればいいという意昧での理想像)と仮定
してきた貨幣資本の所有者は、いままでのいきさつから労働力市場を例にとりつづければそこへ
労働力の買い手としてやってくる経営者にたいして、貨幣を提供するとき〈貨しつけ〉という方
法をとる。〈貨しつけ〉を交換の特殊なひとつの形としてみれば、貨幣を資本として〈貨しだ
す〉ことで利潤をうみだすことを見越した分だけの使用価値で、貨幣を商品という性格で〈貨し
つけ〉るのだ。けっしてもともとその貨幣が貨幣の額面どおりにもっている使用価値でつかわれ
るのではない。
マルクスが『資本論』(第五篇・第二十一章「利子生み資本」)でつくり、ヒルファディング
が『金融資本論』で引用している具体例をとってみるともっとわかりやすい。
いま年平均の利潤率が20%のところで、価値100ポンドの機械は、平均条件で資本として
使用されると、20ポンドの利潤をうみだすことになる。いまAという貨幣所有者がこの100
ポンドを一年間、Bという買い手資本家(経営者)に〈貨しだす〉とすれば、AはBに20ポン
ドの利潤、いいかえれば剰余価値を与えたことになる。BはAに年末には、利潤のうちからたと
えば5ポンドを、100ポンドの資本機能にたいして支払うとする。これはAの〈貨しだし〉に
たいする利子と呼ばれることになる。
いま最初Aが〈貨しだし〉だ100ポンドをGであらわし、AがBから利子として得た貨幣を
ΔGとすれば、Aは最後は居ながらにしてG+ΔGを手にいれることになる。これを図示すれば
つぎのようになる(図4参照)。
貨幣資本の所有者の境涯に、万人が(一般大衆が)なりえたとして、経済的にみられた人間と
しては理想像だとおもわれる根拠は、図式のようにかれが居ながらにして貨幣を多角的な場面に
〈貸しだす〉だけで、はじめ〈貨しだし〉だGに、利子を加算されて、G+ΔGに増殖した貨幣
を手にすることができることにある。
これは見易い道理だし、誰だってそんな手品みたいな境涯は経済的に理想像として願望するに
ちがいないとおもえる。
もうすこしこの理想像に具象的なイメージをあたえてみることにする。さしあたってハイエク
が「貨幣の理論と景気循環」でやっている例を装飾して使ってみる。それはできるはずだ。いま
貨幣資本の所有者Aの〈貸しだし〉も、買い手の資本家(経営者)Bの〈借りだし〉も、銀行を
介するものと仮定する。この仮定は事実像にいちばん近いはずだ。Aが〈貸しだし〉のために新
しく銀行に預金した額のうち10%を支払い準備のために保持して、90%をBに貸しだしたと
する。Bが買い手としての支払いを小切手でやり、売り手はその小切手をじぶんの銀行へ振り込
んで現金に代えることにした。この銀行もまた預金の10%を準備金として保持し、90%を貸
しだすとする。現金で引きだされないかぎりこの過程は第3の銀行、第4の銀行とつづくことが
できる。こうして全部の銀行が、預金の90%を再貸しだしとして、別の銀行に同額の預金増加
をひき起すとすれば、最初の預金は、初めの預金額の
いいかえればこの無限級数の和9、つまり9倍の信用を創造できることになる。いいかえれば
貨幣所有者の境涯に、万人が(一般大衆が)なれたらという理想像は、はじめの9倍に高揚して、
わたしたちの胸に希望をもってくることになる。
ところでこの経済的な理想像にはどこにも弱昧はないのだろうか? わたしたちがどこかに経
済的な浮かない感じをもつのはどうしてだろうか? こんどはアラをさがして、できるだけ数え
あげてみなくては、公平でないことになる。資本として貨幣を〈貸しだす〉資本家(貨幣資本
家)は貨幣を資本として、あるいは利潤をあげる商品として〈貸しだし〉ているあいだは、利子
を手にすることができる。だがそのあいだ元金を自由に処分することはできない。かりに元金を
回収できたとしても、資本としてあらたに〈貸しださ〉ないかぎりは、利子をうみだすことはな
い。マルクスのいい方をかりれば「それが彼のてにあるかぎり、それは利子を生まず、資本とし
ては作用しない。そしてそれが利子を生み、資本として作用するかぎりは、それは彼の手にはな
い」(『資本論』)のだ。マルクス的にいえば、もっと嫌な言い方もできる。貨幣資本家から〈
借りうけ〉て運営する資本家は、利子の歩合が、ゼロに近づいた極限のところでは自己資本を運
営している産業(商業)資本家(経営者)の像に一致してしまう。一方で貨幣資本を〈貸しだし〉
だけで利子を増殖できる貨幣資本の理想像を保とうとするなら利子歩合がゼロ・パーセントにど
んなに近づいても、いつも産業(商業)資本に〈貨しだし〉をつづけなくてはならない。いま利
潤をPとし利子をZとすれば、〈借りうけ〉だ貨幣資本を運営している資本家と自己資本で運営
している資本家との差は、PとPマイナスZの連いで、Zがゼロに近づけばPマイナスZ=Pに
なって、両者はおなじ立場にたつ。〈借りだし〉資本はいつも返済してあたらしく〈借りだす〉
ことをつづけなければならないし、自己資本もまた、いつも資本をあらたに生産(商業)過程に
投大していなくてはならない。また貨幣資本を〈貨しだし〉ている理想像の経済人も、どんなに
利子がゼロに近づいても〈貨しだし〉をつづけなければ利子をうむことができないし、利子を生
んでいるあいだは、眼のまえに貨幣の山を築いて、さて何に使おうか、使い連にこまるという場
面を悦に大って満喫しているわけではない。おなじように絶えまのない貸借や生産や利潤の経済
過程にはいっていなくてはならない。
わたしたちの経済的な理想像には、もっと陰りをもたせることができる。というのは貨幣資本
の所有者を、たんに産業(商業)資本家に貨幣を〈貨しだし〉て、利子を増殖して受けとる存在
というところから連れだして、利子といっしょに経済人として必然の息苦しい場所にはめこんで
しまうこだ。
第一部 吉本隆明の経済学
と、ここまで、堅苦しさを伴いながら読み進めてきたが、さらにいま暫くこのように読み進めていく。
(この項続く)
● 亜麻仁色のソーラープレーン