「宇宙太陽光発電システムとワイヤレス先端工学」(『パピタブルゾーンの色』2015.03.03)でも掲載
した 宇宙太陽光発電システム(Space Solar Power System:SSPS)の中核技術として開発が進んでいる
無線送電技術の地上実証試験の長距離の無線送電に成功したことが報告された。具体的には、送電ユ
ニットから10kWの電力をマイクロ波で無線送電し、500m離れた受電ユニット側に設置した発光ダイオ
ドライトをその電力の一部を使って点灯させるもの。無線送電距離としては5百メートルは国内最長
で、10キロワット国内最大電力。また、ビームが受電ユニット以外の方向へ放射することのないよう
に制御する先進の制御システムの適用試験も実施し、問題のないことを確認できたという。
尚、SSPSは、太陽光パネルを地上から3万6,000キロメートルの宇宙空間に打ち上げ、静止軌道上の太
陽電池で発電した電力をマイクロ波/レーザーにより地上に無線伝送して、地上において再び電気エ
ネルギーに変換して利用するシステムです。クリーンかつ安全で枯渇しないエネルギーであることか
ら、エネルギー問題と地球温暖化問題を解決する将来の基幹エネルギーとして期待されていたもの。
宇宙太陽光発電システムを日本が一番最初に実現できれば、世界は人為的温暖化リスク回避でき贈与
経済のパイオニアになるだろう(参考@【オールソーラーシステム完結論 35】2014.11.28/『再
エネが一番安い時代』 )。これは目出度い話だ。
【要約】 無線電力伝送システム10は、電力をレーザビーム18に変換する光電装置である軌道上
モジュール12、及び軌道上モジュール12から発せられたレーザビーム18が照射される受電装置
である光電変換設備14を備え、光電変換設備14の受光面20は、レーザビーム18の目標中心位
置を挟んで対象に配置され、レーザビーム18の強度を計測するレーザ計測器を備えて、光電変換設
備14は、計測したレーザビーム18の強度の時間平均、及びレーザビーム18の強度の空間平均の
少なくとも一方を算出し、平均化したレーザビーム18の強度に基づいて、レーザビーム18の中心
位置を推定する(図1参照)。
上図のように、レーザビームにより送電する無線電力伝送システムが提案されている。従来技術には
マイクロ波ビームによる送電方法でクローズドループ制御――地上の受電システムがビームの位置ず
れ量を推定し、位置ずれ量に関する情報を送電システムに送信し、宇宙の送電システムが、受信した
位置ずれ量情報に基づきビーム送電方向を補正、地上でレーザビームの到達位置を検出する場合、レ
ーザビームのエネルギー分布からレーザビームの中心位置を推定。具体的には、レーザビームの目標
中心位置を挟んで対象(等間隔)に2つのパワーメータを配置し。レーザビームの強度を計測し、レ
ーザビームの中心位置が目標からずれていれば、ずれた方向に位置するパワーメータが他方に位置す
るパワーメータよりも高い強度を計測することとなる。これにより、レーザビームの中心位置を推定
するが、装置の設置場所の振動や大気の揺動によってレーザビームがゆらぎ、レーザビームの中心軸(
光軸)がずれる場合がある。また、大気中で送受光を行う空間光伝送装置は、装置の受光光軸の光軸
ずれに基づいて光軸方向可変部に光軸ずれ補正信号を送って受光光軸の方向を制御する際に、受光光
学系に設けたホログラムの回折格子によって1つの受光ビームから複数の回折光を発生させ、空間光
伝送装置は、受光ビームスポット位置検出受光素子の受光面上に複数の回折光スポットを形成し、自装
置のビーム取込口である入射瞳上の強度分布が不均一な場合でも、受光ビームスポットの光強度中心を光
束中心に近付けることによって光軸ずれの補正を行うが、回折現象を用いた光軸ずれ補正であり、無線電力
伝送システムに適用することは難しい。また、レーザビームは大気を通過する際に大気のレンズ効果により、
レーザビームの強度分布が乱れ、中心位置そのものを正しく推定できない場合があり、受電装置に照射され
たレーザビームの中心位置を高精度に検出でき、レーザ中心位置推定装置、無線電力伝送システム、及びレ
ーザ中心位置推定方法である。
● 『吉本隆明の経済学』論 23
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 生産と消費
Ⅰ エコノミー論
1
マルクスが「生産は直接消費でもある」と言明したとき、生産と消費の規定性である否定は、
凝集と反復を意味した。この否定性のもつ無類の、はじめての概念はヘーゲルが論理学で定立し
たものだった。わたしはここで生産の裏面には否定性としての消費がつきまとっているというよ
うな感覚的な言い方をした。だがこれはちっとも正確だといえない。ただいわんとしていること
はわかるという反応を期待した言い方にしかすぎない。規定は否定のことだというスピノザの命
題についてマルクスがやっている理解では、否定はただ凝集と反復から成り立っているといえる
だけだ。生産の凝集と反復は否定としての消費を生産する。わたしたちの理解によれば、これが
マルクスのいっている否定性の意味にほかならない。ところでいま生産の側面からみられる場面
と、消費の側面からみられる場面とは隔てられたイメージをもつようになった。この場所的な隔
離は、生産と消費のあいだの否定性を、どんなふうに何にむかって変化させるだろうか? すぐ
にいえることは、凝集は分散に転化し、反復は方向性に変化するということだ(図2参照)。
ひとつの事象の規定につきまとった凝集と反復からできた否定性は、場面が分離してはなれた
ところでは、分散と方向性に転化する。生産とその否定性である消費のばあいには、分散は場面
の距たりによって中間に介在する分配に、方向性は場面の距たりをふくんだ(いいかえれば流通
をふくんだ)交換に転化されることになるといっていい。
マルクスが指摘するように生産と消費の場面が距てられたあとでは、生産は消費の場面に外部
からもたらされることになる。このことから消費の場面で生産は二重になってあらわれる。ひと
つは消費がすなわちその否定性として身体の生産であったり、生活の生産であったりということ
だし、もうひとつは外部からもたらされた生産を、像や欲望や衝動やそれらの統合されたものと
しての生産にたいする願望や要求として、内面的な生産にするという二重性だ。
このことはさきにあげた例をあくまでもつかえば、レストランで食事をするとき、それは栄養
を摂取することで身体を生産し、生活を生産するといえるとともに、気分の解放であったり、人
間関係の拡大や親和を生みだしたりすることだとかんがえたときにすぐに気づかれていいものだ
った。もっと積極的なかたちで、さらに安くてうまい料理が欲しいとか、もっとくつろげるレス
トランの環境をつくってもらいたいという願望や要求が生産されることは、当然だからだ。
人間は意識と無意識のあいだで、身体の限度を気づかずに消費しながら生産することができる
し、それをやりかねない存在だということは、リカードやマルクスを悩ませたエコノミーの課題
だった。だが▽万でいままで法や道徳や神とかの外には住めなかった人間の精神の内屈性に、生
産したい物のかたちのイメーージや、欲望や、衝動が、像としての消費の場面であらわれること
もまた、マルクスにとってあたらしいエコノミーの発見だったかもしれない。わたしたちは無意
識の深層のほうへおし込まれて潜在する陰の生産と消費のかたちを、どこかでいつかとりださな
ければ、解放と自由の行方を語れないかもしれない。
マルクスの生産と消費の否定性のつながりは、これは生産の場面、これは消費の場面というよ
うに、習慣的にいっている社会像が、じつは省略をふくんだ近似的な概観にしかすぎなくて、ほ
んとは生産の場面では否定性としての消費が、消費の場面では否定性としての生産がいつもつき
まとっている社会像のほうが適確だということをおしえている。いいかえれば意識的にこしらえ
られた生産の場面と意識的にしつらえられた消費の場面とが別々に距たりをもって分布し、その
深層には無意識の生産と消費が対応して付着しているという社会像がほんとうにより近いという
ことになる。そして消費の場面の深層の底のほうには、生産してほしい物についての願望や要求
や欲望の内面的な像もまた二重にこしらえられている。
ここまでの社会についてのエコノミー・イメージでは、まるで定常宇宙の像とおなじように、
生産には、それと等量の否定性としての消費がつきまとい、消費にはそれと等量の否定性として
の生産がつきまとい、直接の部分的な交換も、流通をふくめた総体としての交換も、等価と等量
としておこなわれ、ただ消費の場面の内面にある生産についての願望や要求や欲望の刺戟のイメ
ージだけが、方向性にあずかっているという像がえられるようにおもえる。わたしたちはこの社
会像を現在が当面している社会像にかぎりなく近づければいいのだ。
ここで、意識された生産の場面と、意識された消費の場面とから、供給と需要とが寄りあう単
一の場面として市場の概念をつくりだし、また方向性のかわりに成長の概念をおきかえることは
できるだろうか、と設問してみる。わたしたちの単純な対応意識からすれば、それは充分にでき
そうにみえる。つまり犬切なのは生産とその否定態としての消費の場面の在り方からみた社会像
と、総供給と総需要の場面としての市場の在り方からみた社会のエコノミー像のあいだに、ひと
つの対応函数の関連をみつけることだといっていい。
もし意識された生産と意識された消費のあいだに、あるいは企てられた総供給と企てられた総
需要のあいだに、等量と等価の本態と否定態の関連が成りたち、それがゆるがないとすれば、活
動的なエコノミーの関係はありえないことになる。またそれと同時に方向性という概念も無意味
なものになってしまう。わたしたちはどこからとりだすにしろ生産と消費のあいだに、あるいは
総供給と総需要のあいだに、たえず不等量か不等価の状態をもった場面をつくりだしていなけれ
ば、エコノミーの活性化は成りたたないことになるだろうとおもえる。もうひとつある。方向性
のもとになっている消費の精神的な内面性、いいかえれば生産すべき物にたいする欲望や、衝動
や、願望や、要求を、はっきりした物の像の形態として創造してゆくことが問題になるはずとお
もえる。
またここには、すこしちがった考え方も成りたちうる。エコノミーはべつに活性化の状態にな
くてもいいのではないのか。生産と消費とが等量と等価で交換の場面をもち、ただ方向性(ある
いは成長)が、人間の身体や生活の再生産が充分にみたされるような食糧をあたえて、すくなく
とも飢餓の状態にならないようにしながら、食糧以外の欲望や衝動や願望や要求のイメージを増
大させる方向に(エンゲル係数が少なくなるように)移ってゆくとすれば、もはや何もほかに必
要でないというような考え方はありうるようにおもえる。それはエコノミーの活性化や膨張がな
くてより低い水準であっても、平等と充足がえられて、静謐な生が保てる保証がえられるならば、
理想の社会像にあたっているとかんがえることとおなじだ。
このふたつのすこしちがった考え方のあいだには、歴史が自然史から歩みはじめ、無意識の欲
望や衝動を充足しようとしながら、ひとりでにつくりあげてしまった歴史の無意識の現在と、歴
史を意識的に自然史の無機的な時期として再現したい願望とが、選択すべき社会像としてよこた
わっている。そこにはとりもなおさず、生産と消費、あるいは総供給と総需要として問われるべ
き問題が、ふくまれているとおもえる。そして歴史を意識的に企画しようとする試みは、現在ま
でとられた方法では、ほとんど完全に失敗し、現在もとの木阿弥に当面していて、あらためてそ
れをつくづくと眺めまわしている状態にあるといっていい。もちろん生産と消費、あるいは総供
給と総需要とは、過剰と過少のあいだで波立っている。このもとの木阿弥の状態は、いまから四
十年ほど前の状態にさし戻すとすれば、たいへん見事に描写された一枚のその画像をさがしだす
ことができる。
およそ資本主義は、本来経済変動の形態ないし方法であって、けっして静態的ではないの
みならず、けっして静態的だりえないものである。しかも資本主義過程のこの発展的性格は、
ただ単に社会的、自然的環境が変化し、それによってまた経済活動の与件が変化するという
状態のなかで経済活動が営まれる、といった事実にもとづくものではない。この事実もなる
ほど重要であり、これらの変化(戦争、革命等)はしばしば産業変動を規定するものではあ
るが、しかもなおその根本的動因たるものではない。さらにまたこの発展的性格は、人口や
資本の準自動的増加や貨幣制度の気まぐれな変化にもとづくものでもない。これらについて
も右とまったく同じことがいえる。資本主義のエンジンを起動せしめ、その運動を継続せし
める基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費材、新生産方法ないし新輸送方法、
新市場、新産業組織形態からもたらされるものである。
前章でみたごとく、たとえば1760年から1940年までの労働者の家計の内容は、単
に一定線上での成長ではなく、質的変化の過程を経たものである。同様にして、輪作、耕耘、
施肥を合理化しはしめたころから、今日の機械化された器具――エレベーターや鉄道と連絡
して――にいたるまでの典型的な農場生産設備の歴史は、革命の歴史である。木炭がまから
現在の型の溶鉱炉にいたる鉄鋼産業の生産装置の歴史、上射水車から現代の動力工場にいた
る動力生産装置の歴史、駅逓馬車から飛行機にいたる運輸の歴史、みなしかりである。内外
の新市場の開拓および手工業の店舗や工場からU・S・スチールのごとき企業にいたる組織
上の発展は、不断に古きものを破壊し新しきものを創造して、たえず内部から経済構造を革
命化する産業上の突然変異――生物学的用語を用いることが許されるとすればの同じ過程を
例証する。この「創造的破壊」(Creative Destruction)の過程こそ資本主義についての本質的
事実である。
(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』中山伊知郎・東畑精一訳)
この画像がなぜ見事かは誰の眼にもはっきりしている。わたしたちが確かにそうだと実感でき
る社会像が、生産と消費、総供給と総需要との政行してはまた傷をいやし、傷を回復しては政行
する反復のイメージとして、とても根本的な、枝葉には足をとられない画像で記述されているか
らだ。わたしたちはそのあと四十年間の経験的な事実をこの画像に補足すれば、現在に到達でき
そうな気がしてくるほどだ。
Ⅱ
あらかじめふたつ注釈を入れてみる。生産と消費とは、たがいに否定しあう規定で、しかも同
時におなじだという二重性をもっている。この奇異さをすでにある概念にできるだけちかづけて、
理解の流れをつけたいというモチーフがはたらく。このモチーフをすこしはっきりさせたうえで、
もうひとつ生産と消費との場面が、場所ごとに空間的に距たってゆくとき、「生産は直接消費で
もある」というマルクスの命題、あるいは「規定することは否定することだ」というスピノザ的
な命題に、人間が(身体が)関与する部分は、いったいどうなるのか、どうかんがえればいいの
か、解明をすすめてみたいのだ。
マルクスがいうように生産と消費がたがいに規定と否定性の間係にありながらくっつきあって
いる状態の像から、なにはともあれ生産をおもてにする場面と、消費をおもてにする場面とが距
たってしまったとき、この場所や空間の距たりは、分散と方向性を骨組みにもった市場と呼んで
いたことになる。もちろんマルクスのような規定と否定性の関係からいえば、生産をおもてにす
る場面と消費をおもてにする場面との距たりを、凝集し反復することで連結するもの(充たすも
の)を市場と呼ぶといってもおなじことになる。エコノミーの通常の概念の流れからいえば、あ
との言い方のほうが市場と呼ぶにふさわしい。なぜならば市場は生産された物をもつものが、べ
つの生産された物をもつものと、その場所に集まり、物と物との交換をくりかえす場所としては
しまったものだからだ。しかし市場をこんなふうに起源から規定すると片寄ってしまう。マルク
スの「生産は直接消費でもある」という生産と消費の起源は、その規定からはまったく死滅させ
られてしまうからだ。わたしたちは、生産と消費との場面の距たりそのものが市場だという規定
を、あくまで固執しなければならない。そうまでいわなくても、何の根拠もなしに消去してしま
うわけにはいかない。わたしにはこれはとても大切なようにおもえる。
たとえば医者が治療の技術をもって患者に接し、患者はそれにたいして、病気をもってその場
所(病院)へやってきて治療の技術や薬を買う場面を、市場と呼ぶことができる。また資本家が
貨幣をもってあらわれ、労働者が労働力をもってあらわれ、これを資本家に売って貨幣をえる場
面(会社)を市場と呼ぶこともできる。これらの場面の系列をすべて総合して、「さらに、全世
界は社会的富の売買が行なわれる各種の個別市場によって形成せられる広大な一般的市場である
と考えることができる」(ワルラス『純粋経済学要論』久武雅夫訳)。そんな言い方もできるは
ずだ。
だがわたしたちは市場について、こんな規定を無条件につかえるところからは出発しなかった。
「生産は直接消費でもある」という命題でいえる生産と消費の規定と否定性が、水に溶けるよう
に分離して、場所の距たりをもったとき、状態はどうかんがえたらいいのか。その像のゆくえを
見うしなうわけにはいかない。
市場を分散と方向性を特徴にした距たりとみなしても、その逆に凝集と反復を特徴とする交換
の場面とみなしても、そこに市場人という人間が関与することを勘定に入れるかぎり、わたした
ちは「生産は直接消費でもある」という規定とその否定性とがつきまとうのを、どうしても捨象
できないようにおもえる。
たとえばワルラスが、社会的富、市場、交換価値、商品にあたえている規定を簡単にいってみ
ればつぎのようになる。
(1)社会的富とは価値があって交換されうる有形無形のものの全体だと定義する。そして価
値があって交換されるすべてのものは、効用があり(有用で)量が限られている。
(2)交換価値は、あるものがもつ性質であって、無償で得られることも譲られることもなく
て、売買され、他のあるものに対して一定の割合の量で授受される性質のことだ。そして
交換価値という現象は、市場ではじめて生じるものだ。
(3)値があって交換されるものは商品と呼ばれる。
(4)市場とは商品が交換される場所のことをいう。
こういう規定はそれ自体をとってきたら、どこにも不都合はないようにみえる。そのとおりで
たぶん不都合はないのだ。しかしわたしたちがここでこだわってきた「生産は直接消費でもあ
る」というマルクス起源の規定は、こういうワルラスの規定のなかにははいりこむ余地はない。
その徴候はすでに「それゆえ交換価値という現象は市場において生ずるものであり」(ワルラス
『純粋経済学要論』久我雅夫訳)という規定にあらわれているといえる。マルクスの「生産は直
接消費でもある」という規定は、売りは直接買いでもあるという言い方になおせば市場での交換
が売り手と買い手の「二つの売りと二つの買いとから成り立っている」というフルラスの規定に
対応している。だがマルクスのこの命題を、本源的な特殊な商品としての労働力の売り手と、そ
れを買う買い手のあいだの交換市場についていえば、フルラスの規定はそのまま通用はしても、
この規定におさまりきれないものが露呈してくる。
労働力という商品の所有者としてやってきた売り手労働者は、買い手と交換市場で交換過程にす
ぐにはいれるが、労働力の表出者(生産者)としての労働者は、この過程にはいることができず、
労働力の所有者としての労働者が、その市場で労働力を売ってえた貨幣をもって、べつの消費市
場へ出かけてゆき、その貨幣で喰べたり、遊んだりして、身体を養い、体力を再び生産しなけれ
ばならないし、そうするだろうことは間違いない。
これを単純化して言っておけばワルラスのいう交換市場に売り手として登場した労働者は、労働
力商品の所有者としての労働者であり、労働力の表出者(生産者)としての労働者は、ワルラス
の市場概念からは弾きだされてしまう。これはべつの言い方をすれば、労働力市場における労働
者は、労働力の所有者と表出者(生産者)とに分裂してしまう。そしてこの労働者の分裂は、資
本家が労働力市場では貨幣の所有者(資本の所有者)と労働力の買い手(経営者)とに分裂する
ことと対応している(図3参照)。
この問題をもっとさきまで追ってゆくとすれば、さしあたってふたつの問いに象徴させること
ができる。ひとつはワルラス的な市場から弾きだされた労働力の表出者(生産者)としての労働
者は、どこをさまよい何をしていることになっているのだろうか? ということだ。そしてエコ
ノミーの画像は、これをどう描写すればいいか、あるいは無視しても大過ないとかんがえるべき
かということも、この問いのなかにふくまれる。もうひとつの問いは、「生産は直接消費でもあ
る」というマルクス的な命題は、労働力という商品が人間の身体の表出(生産)という輪郭をで
られないとみなすかぎり、市場を構成するだけの空間的な距たりや時間的な蓄積をもちえず、そ
のかぎりではすべての市場(ワルラス的にいえば全世界)の陰に潜在するほかないのではないか?
ということだ。
市場で労働力の表出者(生産者)と労働力の所有者とに分裂したあと、労働力の表出者(生産
者)としての労働者がさまよいあるく場所は、べつのところにある消費市場しかありえないだろ
う。そしてその消費市場は、手にいれた貨幣を消費して、じぶんの身体を養うために喰べたり、
精神や神経を養うために遊んだり、休息したりする場所をさしている。つまりかれは「消費は直
接そのまま生産である」というようにマルクスの命題の逆をたどりながらマルクスの命題を保存
することになる。
ところで労働力の所有者とその表出者(生産者)との分裂は、労働力の市場における売り手で
ある労働者にだけおこるのではない。労働力の買い手(経営者)として市場に登場する側にも、
労働力の所有者と表出者(生産者)との分裂は、まったくおなじようにおこる。「二つのものの
相互の交換はすべて、二つの売りと二つの買いとから成り立っている」(ワルラス『要論』)と
いう言い方を真似ていえば、市場での労働力の売り手である労働者と買い手である経営者との差
異は、たんにより多い売り手で同時によりすくない買い手である者(労働者)と、より多い買い
手で同時によりすくない売り手である者(経営者)との差異にすぎない。もっとはっきりした画
像でいえば、表むきで労働力の売り手であり、同時に深層で貨幣の買い手である者(労働者)と、
表むきで労働力の買い手であり深層で貨幣の売り手である者(経営者)との差異にすぎない。さ
まざまな意味で、この市場で仲介の役目を負うことになる中間管理者(係長、課長、部長、局長
等)が、この市場が混乱や対立や紛争になったとき戸惑うのは、労働力の所有者と表出者(生産
者)としてのじぶんにとって、どちらがおもてでどちらが深層か判断しにくい場面に出あうから
だ。
このばあいおもてで労働力の売り手である者(労働者)よりもおもてで労働力の買い手である
者(経営者)の方に近づくにつれて、給付される貨幣の量が逓増する傾向にある。そんな画像も
つけ加えなければ、正確さを欠くことになるだろう。だがしかし、労働力の表出者(生産者)と
しての労働者も、労働力の表出者(生産者)としての経営者も、この市場からはじきだされるこ
とも共通しているし、さまよってゆく場所が消費市場で、そこでは貨幣を消費して、喰べたり、
道んだり、休息したりして身体や精神を養う(生産する)ことも共通している。貨幣の所有者
(資本の所有者)だけは、論理的な像だけからいえば、労働力の所有(者)と表出(者)(生産
者)との分裂を体験しなくてもいいことになる。
かれが消費市場で貨幣を消費して喰べたり、遊んだり、休息したりして身体を養う(生産する)
ことは、そのまま貨幣を生産する行為と同一になっている。あるいはべつの言い方で、かれは消
費市場で貨幣を消費せずに喰べたり、遊んだり、休息したりして身体を養う(生産する)ことが
できるといってもおなじだ。なぜならその消費市場でも、かれは資本の所有者と等価だとみなす
ことができるからだ。いままで述べてきたところから、いくつかの記憶していていい團像がのこ
される。そして読者はどうか記憶していてほしいとおもう。
(1)労働力市場では労働力の所有者である売り手(労働者)よりもその買い手(経営者)の方
がよりよい給付をうける傾向がある。しかし売り手(労働者)から買い手(経営者)への移
行の中間(仲介者)は連続的であって、断続的でも対立的でもない。
(2)働力の市場では、労働者も労働力の表出者(生産者)と労働力の所有者(労働者、経営者)
や貨幣の所有者(資本の所有者)に分裂する。
(3)労働力の表出者(生産者)としては労働者も経営者も、労働力市場のそとに弾きだされて
消費市場にさまよいでて身体を養う(生産する)ほかにすることはない。これとべつの挙動
をとり、消費市場での消費がそのまま貨幣の生産行為でありうるのは、資本の所有者だけだ。
第一部 吉本隆明の経済学
(この項続く)