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● 癌を匂いで早期発見できる?!

がんは、日本人の死因第1位で、医療費や早期死亡による経済的影響は数兆円(世界では百0兆円)
であり、がんの解決に早期発見が最も有効であり、手軽に安価に高精度に早期がんを診断できる技
術が期待されていた。このほど、九州大学大学の味覚・嗅覚センサ研究開発センタの研究グループ
(広津崇亮助教ら)は、がんの匂いに注目し、線虫が尿によって高精度にがんの有無を識別するこ
とをつきとめたという。この技術(n-nose)が実用化されれば、尿1滴でさまざまな早期がんを短
時間に安価に(教百円)高精度に(約95%)検出できるようになる。

※ がんによる死亡者数は全世界で年間820万人(2012年)、2030年には1300万人に増加すると言
  われ(WHO)、医療費や早期死亡、障害における経済的影響は百兆円にも上ると報告されて
  いる。我が国ではがんの影響はより深刻であり、1981年から死因第1イ立で、2人に1人がが
  んを経験し、3人に1人ががんにより死亡する。がんの医療費は年間3.6兆円(2011年) に
  も上る。 

がん患者には特有の匂いがあることに注目し、虫は、嗅覚受容体を約1200種(犬と同等)有する嗅
覚の優れた生物であり、匂いに対する反応も走性行動(回)を指標に調べることができる。まず、
がん細胞の培養液に対する線虫の反応を調べ→がん細胞の培養液に誘引行動を確認(下図)→がん細
胞に特有の分泌物の匂いに対して線虫が反応→血液等に比べ、尿尿に注目し、がん患者の尿20検体、
健常者の尿10検体について線虫の反応を調べ全てのがん尿には忌避行動があることを確認できたと
いう(図2)。

 

これは凄い発見ですね。 

   

● 『吉本隆明の経済学』論 22

    吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!     

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。  

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                       第1部 吉本隆明の経済学    

  第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」  

  Ⅰ.経済の記述と立場 スミス・リカード・マルクス

     Ⅳ 古典経済学の可能性

  現在の経済学的な範躊、あるいは概念は、たぶん〈物語〉も〈ドラマ〉もなくなっているんじ
 ゃないかとおもわれます。そこではさまざまな考え方がありうるわけですが、かつてスミスが自 
 然の〈歌〉から緻密に経済学的な範晴、あるいは概念を作りあげていったというような過程を見
 ることができません。そういう過程にある、強固さとか、道具を積み重ねる繊密さとかはまずま
 ず見ることができないのです。今はどうなっているのか、今をどうするのかとか、今の状態から
 経済学的な範瞬を作るとすればどうなるか、という問題だけではじまり、そしてそれで終わらな
 ければいけない、終わるはかないんだということです。そこでは、どんな〈物語〉も〈ドラマ〉
 も、もう作ることができません。そこに、現在の経済学的な考え方がぶつかっているとおもいま
 す。

  また、マルクスの〈ドラマ〉を継承しようとしている人たちは、マルクスの〈ドラマ〉が、ど
 うして、どこで狂ってしまったのか、どこで自然の〈歌〉を失ったことの復讐を受けつつあるの
 か、ということについて、もはやあんまりかんがえることができなくなっているとおもいます。
 そこでは〈ドラマ〉の自家中毒みたいなものが起こっていて、いつでも外に出ていくことができ
 なくてくすりこみ〉の循環ばかりしていることになっています。そこらへんのところで、マルク
 スの描いた〈ドラマ〉がいちばん大きな問題にさらされているんだとおもわれます。

  スミスとかリカードとかマルクスとかという人たちは、古典経済学といわれている範暗にあり
 ます。ところで、古典経済学という範暗は唯一の範暗ではないんで、さまざまな形の経済学的な
 主張、あるいは学説があるのですが、ぼくはこのスミスとリカードとマルクスの三者の三角形の
 あいだで作りあげている〈歌〉と、〈物語〉と、〈ドラマ〉と、それから〈歌〉の喪失と〈ドラ
 マ〉の運命、つまり、〈ドラマ〉が〈歌〉を失ったことから何を受難しているのかということを
 おもいめぐらすことが、経済学以外の範囲にあるものにとっていちばん刺激になる場所です。皆
 さんのばあいでも、たぶんここが刺激を受けるところだとおもいます。ここには根抵的な考え方、
 つまり「起源」あるいは発生論的な考え方も生きており、〈物語〉も、また〈ドラマ〉もありま
 すから、ここからさまざまな別の問題を引き出していく実りのある素材が、豊富に見つかります。
 じぶんもそうですけど、皆さんのほうも何度でもこの三つのつくる三角形から、汲み取って、じ
 ぶんの分野にひきつけて何か作れないか、思いをめぐらせることができるような気がします。
 
  たとえば、ぼくらは文学をもとにして文学を作ることもできますし、文学の歴史を確かめて文
 学の現状を見直すこともできます。もうひとつのやり方は、全然それとはちがうところに、ある
 横根的な考え方の原型があるとしますと、その原型を、じぶんなりの読み方をして、そこからあ
 ることを汲み取っていくという考え方も、また成り立ちうるのです。ぼくはじぶんの〈言語〉の
 美についての考え方を作りあげるばあいに、そういうことでマルクスの『資本論』からたくさん
 のことを得てきました。これはぼくだけじゃなくて、もっと較べものにならない優れた人ですが、
 ソシュールなども、マルクスの『資本論』からたくさんの言語学的な範躊を借りてきているとお
 もいます。だから、現在、言語学の検討をなされるばあいでも、もちろん言語学の著書によって
 もいいわけです。

 しかし、その著書によるばあいには、現在の言語学の言語は具体的には民族語ですから、ソシュ
 ールの言語学にはどうしてもインド=ヨーロッパ語をよく知っていないとうまく把めないところ
 があります。そこにいきますと、経済学的な範躊にはそういう特殊性がありません。言語学の概
 念を作りあげていくばあいでも、ドラマはどうやったら作れるんだ、あるいは戯曲を書くにはど
 うしたらいいんだということを作りあげていくばあい、あるいは、小説を書くにはどうしたらい
 いかということを作りあげていくばあい、あるいは歌はどう作ったらいいんだ、詩はどう作った
 らいいんだということをかんがえていくばあいでも、経済学のなかでは概念が民族語によってさ
 えぎられることはありませんから、ここから類推していかれると、たくさんの得るところがある
 んじゃないかとかんがえます。

  じぶんの体験から、それをいうことはできますし、また、じぶんがこれからやろうとすること
 にたいする、一種のヒントといいますか、そういうことからもそういうことがいえるんじゃない 
 かとおもいます。だから、皆さんのほうでも、「起源」を包括した、スミス、リカード、マルク
 スの経済学的な範躊からたくさんのことを得られるとおもいます。もし今日お話したことを機縁
 に、〈もう一回ちょっと見てみよう〉みたいな気を起こされることがありましたら、ぼくのお話
 した役割は果されるわけです。簡単ですが、時間がきたようですから、これで終わらせていただ
 きます。



  第4章 生産と消費

  解説

   1980年代の日本社会は、いよいよ成然した消費社会に入っていった。生活のために
   どうしても必要な「必需的消費」にたいして、外食や高級車や新型電化製品やファッショ
   ンなどにたいする「選択的消費」の家計の中で占める割合が、いちじるしく拡大していっ
  た。欲望の末端の微妙な違いに対応できる商品の多様化も進んだ。「欲しいものが欲しい
   わ」という広告が象徴しているように、消費資本主義はもはや欠乏をドライブとする社会
   ではなくなってきた。

   こういう段階に入った資本主義にたいしては、マルクスが『資本論』で与えた解明だけ
  では不十分になってしまった。近代経済学者の中にも、シュムペーターやハイエクのよう
  な少数の例外を除いては、消費資本主義の本質に触れることができている人は、ほとんど
  いなかった。そういうときにフランスの哲学者ボードリヤールだけが、「生産ではなく消
  費」という視点から、現代批判の論陣を張っていたが、それとても伝統的な左翼言説の限
  界内にあるように感じられてしかたなかった。誰かが消費資本主義に関する新しい『資本
  論』を書かなくてはいけなかったのだが、それを引き受けることのできる力量と情熱をも
  っていたのは、世界中で吉本隆明ただ一人であった。

   マルクスが知っていた資本主義では、「生産は同時に消費である」という命題によって、
  生産と消費の過程をほぼまんべんなく説明することができた。物の生産がおこなわれると
  き、労働力・設備ふ原料がまったく遅延なしに消費されていく。仕事を終えた労働者がレ
  ストランで食事をすると、労働で消費された体力や気力が再生産され元気が取り戻される。
  これらの場合、消費は必需的消背たけでできている。

   ところがウォークマンを買って仕事帰りの電車の中で好きな音楽を聴くことや、コム・
  デ・ギャルソンのデザインしたおしゃれな洋服を着ることや、エスノフードのレストラン
  を選んで食事をしたことで、「すぐさま」なにかの生産がおこなわれるわけではない。こ
  こでは消費がただちに身体の生産や生活の生産に結びついていく必需的消費の場合とちが
  って、時間や空間のずれ(遅延)が発生して、生産と消費の分離がおこっている。選択的
  消費では「生産にたいして大なり小なり時空的な遅延作用をうけることになる」。これが
  吉本隆明のじつにすぐれた着眼点だった。

   この「遅延」という概念を自在に使って、吉本隆明は現代における生産の現場にも大胆
  に踏み込んでいった。製品の多様化が進むと、部品も多様化し、その生産を受け持つ下請
  け工場の作業も細分化され、そうやって分化をとげた末端産衆評を巨大なネットワーク状
  につないでいく高度な組織がつくられる。こうやって消費資本主義は産業全体を高度化し
  ていく潜在力をもつことになる。
  
   とてつもなく強力な批判精神が、資本主義が高度化に向かって変貌をとげていくその「
  自然史過程」に強力にポジティブな解明をほどこした。動物は消費だけをおこない、人間
  だけが生産する。このような常識が覆されるような段階に、いまや資本主義は足を踏み入
  れているのである。


   Ⅰ エコノミー論

    1

     i  


  わたしたちが思いおこすあのふるい自由の規定は、現実が心身の行動を制約したり疎外したり
 する闇値のたかい環境のイメージといっしょに成りたっていた。こんな過去形をつかうのはそれ
 ほど深刻な意味からではない。ふるい自由とあたらしい自由という規定を、1960年代から1
 980年代のどこかで転換したイメージとしてかんがえたいからだ。そんな程度の気分からだ。

 わたしたちが現に実感している自由の規定は、現実は心身の行動をうすめ埋没させてしまうとい
 う環境のイメージといっしょに成りたっているものだ。ふるい自由のように制約や疎外を実感で
 きないので、まったく恣意的に振舞っていいはずなのに、と惑っているのだ。ほんとはちいさく
 部分的な制約や疎外でしかないものを、膨大に誇張して、いやまだ深刻で人類の運命にかかわる
 制約や疎外はあるとみなして、虫めがねをたずさえて探しあるき、世界苦のたねを発見しなくて
 はならなくなっている。発見できなかったら、でっち上げなければならないのだ。だがふるい自
 由のこの振舞い方は、現在から遠ざかっていくほかない。わたしたちが本格的にこの矛盾をとり
 あげるときがきっとやってくるとおもえる。ここではあたらしい自由の規定がぶつかっている余
 計に恣意的になってしまった環境、制約も疎外もいちようにのみこんでしまった現実が、わたし
 たちにあたらしい自由とはなにかを問いかけ、自由をまるで無意識を遠るように遠るとはどうす
 ることなのか解答を求めていることが大切なのだ。
 
  制約と疎外をのみこんで、ひとりでに増殖する生物のように、ありあまる恣意性(自由)を先
 き占めしてしまった現実に、あたらしい自由の規定が戸惑っているとすれば、いちばん要めにあ
 るのは、映像と、その対象になった現実とが、区別をなくし、同じになってしまったからだとお
 もえる。わたしたちはほんとをいえば制約や疎外にのみこまれてしまっているかどうかさえ把め
 ていない。にもかかわらず、制約や疎外の画像がたしかにのみこまれ、うしなわれているのは、
 映像と現実との区別が無意味になってしまったからだ。これはもうすこし正直な言い方ができそ
 うな気がする。たしかに物や貨幣や心像の制約や疎外は、いまでもひとつひとつの場面でわたし
 たちを悩ませたり患わせたりしている。なにひとつ解決されていないとみなせば、たしかに、な
 にひとつわたしたちの恣意になるものはない。無定形な逼迫感ならば、かえって現実が制約とみ
 え、それに抗うことが自由の獲得のようにおもえた時期よりも、膨大でとりとめもなく困難にな
 っているとさえみえる。

 ただ制約や疎外をもたらしている強度が、かつてのようにわたしたちの外部からやってくる強度
 ではなくて、自由そのものに貼りついていて、現実は自由の規定よりもはるかにおおきな許容性
 をもち、自由の振舞いを戸惑わせるほど先行していると感じられる。わたしたちの心身の振舞い
 には、いつもほんのすこし先行して制約や疎外や逼迫が貼りつき、それにとりつかれているよう
 におもえてくる。そしてよほど内省的な瞬間でないかぎり、心身の振舞いを制約し、存在を疎外
 する現実などは、どこにも実体を指摘できるほどの形態がないと感じられる。

 わたしたちは、何を求め、自由はどこに規定性を迫ってゆけばいいのか。これがさしあたって当
 面している問題だといえよう。ふるい自由の規定性が無意味にされてしまった現在は、またあた
 らしい自由の規定性がつくれないために、自由そのものを死にさらそうとしておし寄せてくる強
 度のことなのだ。

  現実の方が主観がつくる自由の規定性よりもっと過剰な自由をゆるしているようにみえること
 は、さしあたり現実を映像化してしまう。また心身の行為そのものに、制約や疎外が貼りついて
 離れないとおもえることは、わたしたちの映像が現実とおなじ属性をもった状態だということを
 意味している。こういう現実と映像とのおなじだとおもえる状態の核心にあるものは、ふたつだ。
 ひとつは、規定できる現実(これはまちがいなく現実だと呼べる条件)よりもあり余り、つみ重
 なった現実は、かならず映像化される(映像とおもわれて現実を離脱する)ということだ。もう
 ひとつは、構築された物の体系からできあがった現実が、天然(物の起源)を内包するところで
 は 差異が映像を生むということだ。このふたつの特異点によって、現実と映像とが同一になっ
 た。


 そしてそのふたつの要素が交換可能になった状態に、あたらしい自由の舞台をみていることにな
 る。何をなすべきかという問いが消滅して、そのおなじ場所にどう存在すべきかという問いが発
 生するのはそのためなのだ。 

 マルクスは「経済学批判序説」のなかでスピノザの Determinatio est negatio(規定することは否定
 することだ。規定性は否定性だ)という命題をあげて生産と消費の同一性を説明している。マル
 クスが論理として強調してやまないことは、否定が直接に事物の規定に付着するものだというこ
 とだ。この魔術的な概念はヘーゲルの論理学なしには生みだされなかった。わたしたちはその論
 理の方法(弁証法)の効力におどろき同時に何かがはぐらかされるような感じをうける。この実
 感だけが捨ててならないもののようにおもえる。

  マルクスの説明では、生産を規定(定義)しようとすることは、そのまま生産の否定(反対物)
 としての消費を規定しているのとおなじことになる。もっと具体的にいえば生産するとき、個人
 はじぶんの労働力を支出し、消費する。また生産手段(装置・道具)も消耗し消費される。また
 原料も消費される。そのほかさまざま消費されるものがあるだろうが、いずれにせよ何らかの消
 費を裏面につけなければ生産は、いつもまったく成り立だない。おなじことは消費についてもい
 える。

 たとえばわたしたちは金銭を支払ってレストランで食事をする。この消費の行動は、同時に身体
 の生産にあたっている。喰べた料理から摂取された栄養を吸収し、欠如をおぎない、身体の状態
 をととのえるという生産行為がレストランでの消費にはつきまとっている。またレストランでの
 食事が気分を快活にし、あたらしい意欲を生産することにもつながっているかもしれない。

 まだある。一緒に食事した人とのあいだに、あらたな親和感情が生産されるかもしれない。これ
 も数えあげれば無数にできるはずだ。

  生産を規定することは、裏面についた生産の否定としての消費を規定することとおなじだ。規
 定をもっとのっぴきならない場面にひっぱりだせば、ある人間の行為に術語的な規定をあたえる
 ことは、その行為の否定を規定することとおなした。わたしたちは何となくこんな言い方ではま
 だ物足りない気がする。もっと別な言い方をたくさんしてみることができる。ある術語的な規定
 (まちがいなく反復されると予想される規定)があったら、その背後にはその術語の規定に向き
 あって、相互に否定の関係がかならずみつけられるような二つの種類の人間的な行為が存在して
 いるといってもよさそうにおもえる。ただ、二つの種類の人間がという言い方はさしあたってで
 きそうもない。

  わたしたちはここで実感に立ちかえってみる。「生産は直接消費でもある」というマルクスの
 言い方には、おどろきの感じと、はぐらかされた感じとがふたつともつきまとう。おどろきの方
 からいってみれば、それは、生産という概念と消費という概念とはまったく正反対なもので別々
 にきり離して考察するよりはかないとおもっているわたしたちの常識が、虚をつかれるところか
 らきている。マルクスのこの言い方を正当づけているのは、あるものの規定は同時にその規定の
 否定性だという命題からはじまって、すべての規定の否定性はかならず関連するという命題が是
 認されるからであり、それが是認されるかぎりにおいてだといえる。これは図示できる(図1参
 照)。

  一方、わたしたちが「生産は直接消費でもある」というマルクスの言い方にはぐらかされた感
 じをもつのは、この考え方からすると、生産と消費はつきまとってどこまでいっても分離できな
 いことになるとおもえるからだ。ただ生産には、欲望を充たすため、衝動によって、あるいはあ
 る目的に役立たせるため、などどれであってもいいが、いつも人間(の必要)が介在しているよ
 うにおもえる。それから人間もほかの消費財も補給なしに無限にじぶんを消費することができな
 い。

  そこでマルクスは、なんだ生産といっても消費といっても、おなじことを表と裏から言ってい
 るだけじゃないか、というわりなさを、つぎのように回避している。ここであげた例でいえば、
 ある場面でひとりの人間が物の生産にしたがうことで、じぶんの身体の力を消費した。このばあ
 い生産(第一の生産と呼べば)しているあいだは、この人間はじぶんを物にかえて消費している。

  つぎにこの人間が身体力を回復し、栄養を補給するために、レストランヘ行き注文でつくられ
 た料理を喰べた。このばあいは料理という第一の生産物を破壊することで(ぐちやぐちゃに喘み
 くだくことで)、じぶんの身体を生産(回復)したのだ。この第二の生産では物(料理という)
 が人間化して身体の養分になったという言い方ができる。このようにして生産と消費とは人間と
 いう媒介によって関連づけられることになる。このばあい規定とそれにくっついた否定性とは、
 人間の物象化と物象の人間化のあいだにあらわれることになる。そしてこれは重要なことだが、
 生産と消費としてみられた社会像の深層に無意識として潜在することになる。

  マルクスはここから欲望や衝動について語る方向へゆくのだが、わたしたちは生産と消費の関
 連についてなおこだわりをもつことにする。じっさいにわたしたちがぶつかる社会の場面では、
 そこが生産の場所だという習慣や社会的通念や規則がある場所(たとえば製造工場)では、身体
 力や生産手段や原料の消費は表面からかくされ、連に消費の場所(たとえばレストラン)だとお
 もわれているところでは、生産物の破壊(料理を噛み砕く)とか身体力の生産とかいうことは表
 面からかくされ、しかも場所として隔離されてへだたっている。生産の場所で物の生産や身体力
 の消費がおわってから、消費の場所へ出かけることになっている。この分離はどうして起り、ど
 んな意味があるのだろうか? この場所の分離のために、交換とか分配とか流通とかがエコノミ
 ー世界の中間に介在することになる。

  もし場面を生産の側面からみて、否定としての消費を表面からかくす場面と、消費の側面から
 みて、否定としての生産を表面からかくす場面が隔離され(工場とレストランというように)、
 この隔離が自然な過程としてかんがえられるとすれば、そうなる理由はただひとつだとおもえる。
 生産がしだいに高度な質をもつようになり、また量的に膨大になったあげくに、生産の場所を特
 別に設備し、そこに生産の手段(装置や道具)をあつめ、生産(的消費)をやるたくさんの人員
 を具備するようにしたということだ。この生産の場面を特別につくり、生産の手段や人員をそこ
 に集中することは、他方の極に消費の場面と消費の手段(設備・建物)と消費する人間をあつま
 るようにすることと、おなじことになるはずだ。


この項ではマルクスの〈ドラマ〉を展開し経済の現代化を思考する。「そしてそのふたつの要素が交
換可能になった状態に、あたらしい自由の舞台をみていることになる。何をなすべきかという問いが
消滅して、そのおなじ場所にどう存在すべきかという問いが発生するのはそのためなのだ」と結ぶ。
蓋し名言であり、世界に残すこととなった。そうすれば、次に、"集中とは何か"と問われることにな
るが、すでにその解答がでているということになるのだが・・・・。

                                     第一部 吉本隆明の経済学 

                                     (この項続く) 

 

 

 


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