周知の通り、燃料電池発電システムは、燃料である水素と酸化剤である酸素とを電気化学的に反応さ
せ直接電気を取り出す。このシステムは(1)高い効率で電気エネルギーを取りだせ、(2)静かで
(3)有害な排ガスを出さないという環境性に優れた特徴をもつ。最近では小型のPEFC(固体高
分子形燃料電池)が開発加速し、家庭用燃料電池発電システムが開始され普及。この家庭用や小規模
事業用向けの比較的小型の燃料電池発電システムは、電力と発電に伴う排熱を供給する熱電併給、い
わゆるコージェネレーション装置とし使用される。現在は、都市ガスやLPガス、灯油などの炭化水
素系燃料により発電する燃料電池発電システムを中心に開発、商品化が進み、将来的には水素供給基
盤整備の計画あり、水素循環型社会到来すると考えられ期待される。
今月9日に、東芝燃料電池システム株式会社らのグループは、次世代型の純水素型燃料電池を山口県
周南市内の徳山動物園と周南市地方卸売市場に設置し、21日から実証試験を順次開始すると公表。
このシステムは、た出力700ワット純水素型燃料電池で世界最高水準の50%超の発電効率を実現。
また、水素をそのまま燃料とするため二酸化炭素を全く発生せず、1~2分という短時間で発電を開
始することが可能。耐久性は8万時間(連続運転で約9年)だという。東芝燃料電池システム社では、
エネファームの発電効率が40%程度であるのに対、純水素型は水素をそのまま燃料に利用できるた
め50%を超える。2015年度中にも発電効率を55%まで引き上げる計画と話す。
家庭などの小規模事業用向けの燃料電池発電システムは、電力発電に伴う排熱を供給する熱電併給、
いわゆるコージェネレーションシステムとして使用される。このようなコージェネレーションシステ
ムでは、発電に伴う排熱は、貯湯タンクに蓄え、給湯や暖房に使用されているが、アノード排ガスと
カソード排ガスをボイラーで燃焼させ、貯湯タンクに熱回収システムでありた、都市ガスやLPガス
、灯油などの炭化水素系燃料により発電する燃料電池発電システムにおいて、貯湯タンクに蓄えられ
ている排熱量が不足している場合には、補助熱源器として備えているバックアップボイラーに炭化水
素系燃料を供給して、不足する熱を補う方法が一般的であるが、水素循環型社会では、バックアップ
ボイラーに供給する炭化水素系燃料を使用しないことが前提となる(下図参照)。
【符号の説明】
1…燃料電池パッケージ、2…燃料電池本体、41…燃料極、42…空気極、43…冷却流路、3…
空気フィルター、4…ブロワ、5…燃焼器、6…冷却水熱交換器、7…燃焼排ガス熱交換器、8…凝
縮器、9…排熱回収水ポンプ、10…電池冷却水ポンプ、11…燃料極入口遮断弁、12…燃料極出
口遮断弁、13…空気極入口遮断弁、14…空気極出口遮断弁、15…燃料極排気流量調整弁、20
…第1燃焼排ガス遮断弁、21…第2燃焼排ガス遮断弁、22…給湯加熱用熱交換器、23…燃料極
バイパス配管、24…燃料極バイパス遮断弁、25…燃料極バイパス配管流量固定オリフィス、26
…燃焼空気供給ブロワ、27…第2燃焼器、28…空気極バイパス遮断弁、31…貯湯ユニットパッ
ケージ、32…貯湯槽、34…給湯水温度調整三方弁、35…第1給湯配管、36…第2給湯配管、
37…排熱回収水温度計、44…水素供給源、45…水素供給配管、46…排熱回収水ライン、47
…空気供給配管、48…空気極バイパス配管、51…制御器、61…共用熱交換器
上図によると、外部の水素供給源44から純水素を供給されて電気および熱を外部に供給する純水素
型燃料電池システムに、燃料電池本体2と、水素供給源44から燃料電池本体2に延びる水素供給配
管45と、貯湯槽32と、貯湯槽32に熱を供給する排熱回収水ライン46と、排熱回収水ライン46
を流れる水に燃料電池本体2で発生した熱を伝達する冷却水熱交換器6と、貯湯槽32に貯えられた
水を外部に供給する給湯配管35,36と、水素を燃焼させる燃焼器5と、水素供給源44から燃焼
器5に延びる燃料極バイパス配管23と、給湯配管35,36を流れる水に燃焼器5の排ガスの熱を
伝達する給湯加熱用熱交換器22と、を備えた構造で、熱供給不足となる可能性を低減する新規考案
である。
● 『吉本隆明の経済学』論 21
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
Ⅰ.経済の記述と立場 スミス・リカード・マルクス
Ⅲ マルクスの〈ドラマ〉
対立の〈ドラマ〉
リカードは、スミスが作りあげた経済的な〈概念〉をぜんぶ緻密に抜け穴のないように作りあ
げてしまったのです。リカードが作りあげたものは、そのままでは、一種の現実の〈鏡〉として、
これがいちばんいいんじやないかということを語っただけです。つまり〈物語〉としての〈鏡〉
を提出したにとどまるといえます。しかし、リカードのいちばん忠実で正統な後継者であったマ
ルクスが、こんどはリカードの〈物語〉にたいして、たとえていえば同じ経済学的な概念を使い
ながら、〈ドラマ〉を打ち立ててみせたといえるとおもいます。
マルクスの〈ドラマ〉の主要なテーマははっきりしています。それは、社会の経済的な範躊、
あるいは経済的な過程というものは、自然の歴史の延長線にあるという考え方(それがいい考え
方であるか、欠陥のある考え方であるか別として)です。これがマルクスの描いた〈ドラマ〉の
枡組にある考え方です。社会の経済的な範躊は自然史の延長と同じなんだ、つまり、太陽のまわ
りを地球が動くいているとか、地球上にはこれこれの元素があって、それがだんだん水素からさ
まざまの過程を経て作られてきたものなんだ、というのと同じ意味で、まったく自然の過程の延
長線に社会の経済的な過程が産みだされたという理念です。これがマルクスが描いた〈ドラマ〉
の根本的な原理になっています。
ですから、スミスが持っていた「価値」(「使用価値」あるいは「交換価値」)という概念も、
マルクスはもっと緻密にしています。「価値」概念の出どころ、「労働」概念の出どころは何か
といえば、根本的にいってしまえば、人間と人間以外の自然とのあいだの物質的な代謝関係です。
人間は頭とか神経とか筋肉とかを使って身体を動かして何かを作ってるわけで、作ったものが
「商品」として取引きされていきます。それは、いってみれば人間と自然の物質代謝(あるいは
物質交換)なんだ、それは基本的に「価値」概念と「労働」概念の根抵にあるものだ、というこ
とがマルクスの〈ドラマ〉でいちばん有力にかんがえられている原則です。
マルクスが、根抵的に経済的な〈ドラマ〉の中心としてかんがえた「対立」という概念があり
ます。人間が手を加え労働を積み重ねることで作りあげた「商品」は、スミスのいった「使用価
値」とか「交換価値」というような「価値」の概念で眺めたばあい、このふたつに分裂するもの
だ、とマルクスはみなしました。そのあげくは対立するにいたるというのがマルクスの〈ドラマ〉
の基本的な概念です。
それはどういうことかといいますと、マルクスは「価値」の概念を「等価概念」と「相対的価
値概念」とに分けました。すべての「商品」は、そのときどきの役割で交換のはあいに「相対的
な価値形態」となるか、あるいは「等価形態」となるか、どちらか、あるいは両方に分裂するも
のだ、分裂して、そのふたつが葛藤するものだとかんがえたのです。簡単な例をあげてみます。
スミスもマルクスもあげている例でいいますと、麻布があって、一反の麻布の「価値」は一着の
上着に該当する、とかんがえたばあい、麻布のほうが「相対的な価値形態」なんだ。その「価値」
は上着一着に該当する、というふうに役割をかんがえたばあい上着に該当するのが、「等価的価
値形態」だといいます。逆にこんどは、一着の上着の「価値」は一反の麻布に等しいというばあ
い、上着が「相対的な価値形態」であり、麻布が「等価形態」ということになります。
マルクス流のいい方をしますと、「相対的な価値形態」というのは、能動的・積極的な形態で、
それにたいして、「等価形態」は、消極的な、受動的な受身の形態だ、ということです。しかし、
すべての「商品」は、まっぷたつに、相容れないふたつの価値形態にかならず分割することがで
きますし、その分割されたものはけっして混同されることはなく、いわばそれが葛藤・ドラマを
演ずるということが、マルクスの作りあげたいちばん重要な概念だとおもいます。
このマルクスの〈ドラマ〉の概念を、現代言語学の基礎に据えたのがソシュールです。ソシュ
ールは、「相対的価値形態」に当るものを「意味するもの」、「等価形態」に当るものを「意味
されるもの」あるいは「概念」(ソシュール流のいい方をすれば一種の「聴覚映像」です)とか
んがえました。ですから、「価値」の〈ドラマ〉を演じている「商品」の形は、記号としての言
語が、社会のなかで流通しているしかたとまったく同じようにかんがえることができるとしまし
た。そういうことが、ソシュールがじぶんの言語学を作りあげていった最初の起点になっていま
す。起点になっていると書かれてあるわけではありませんが、ぼくはそうおもいます。ソシユー
ルはじぶんの言語学をどこから持ってきたのかといえば、マルクスの『資本論』からだとぼくは
おもっています。
マルクスが経済的な〈ドラマ〉のいちばん主要なものとかんがえた商品の「相対的価値形態」と
「等価形態」への分割の〈ドラマ〉には言葉が商品とおなじように演ずる〈ドラマ〉が秘されて
いることを見つけて、ソシュールはじぶんの言語学の骨組を把んだのです。
ついでに申しあげますと、ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったか
といいますと、おなじくマルクスの『資本論』から作りました。ぼくは、「価値形態」としての
「商品」の動き方は、言語の動き方と同じなんだと、かんがえたのです。そして、ぼくはどこに
着目したかというと、「使用価値」という概念が、言語における指示性(ものを指す作用)、そ
れから「交換価値」という概念が、「貨幣」と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通に
ある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろう、とかんがえたんです。言語における「指示
表出」と「自己表出」という概念を、「商品」が「使用価値」と「交換価値」の二重性を持つと
いうところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました。
そこでぼくの考え方はいい考え方だ、と今でもおもっていますが、残念ですが、たとえばソシ
ュールとぼくと較べたら、能力とか緻密度が格段にちがうのです。ですから、ぼくはそれをよく
展開しきれなかったんだとおもいます。それから、ぼくの『言語にとって美とはなにか』に凝縮
された言語的な概念の展開のしかたに、あんまり魅力がなかったんだとおもいます。ですから、
現在、皆さんがご承知のとおり、世界の語秀才はぜんぶソシュールの学徒になっているといってい
いくらい、隆盛をきわめています。しかし、根本的な言語の「価値」概念、あるいは言語の
〈美〉の概念を作りあげていく最初の考え方として、すくなくとも文学言語についてならば、今
でもじぶんの考え方のほうが機能主義的でなくてよろしいとおもっています。残念ですが、あま
り魅力がないものですから、たいしたことはないところで終わっているといっていいとおもいま
す。
マルクスの達成とマルクス批判
マルクスの描いたもっともおおきな経済的な〈ドラマ〉が、商品の価値形態が「相対的価値形
態」と「等価形態」とにまっぷたつに割れて、両者の対立・葛藤が、経済的な〈ドラマ〉の主要
な物語なんだという概念です。このふたつの葛藤が、社会の段階が進んだらどうなって行くだろ
うか、とかんがえたのが、マルクスの『資本論』に該当するのです。
マルクスの『資本論』は、リカードの〈散文物語〉に較べれば〈ドラマ〉に匹敵します。この
〈ドラマ〉は緻密で、そしてある意味でやりきれないほど息苦しくなっているのです。なぜかと
いいますと、すでに〈軟〉が失われてから散久しい年月が経っているということがありますし、
スミスの時代に較べてマルクスの時代は、いわば資本主義の勃興期で、しゃにむに恣意的な経済
競争をめざして、富む奴は極限まで富み、さきほどの三人登場人物でいえば、働いて報酬を得る
人間がどんどん貧困になっていく情況にさらされました。
もうひとつは、スミスの描いた「分業」という概念の牧軟性は、もうはるかに遠くなって姿を失
うほど細分化と膨化かすすんだ時代に入ってしまったのです。そこでは、抜け遠を作ろうにも作
りようがなくなってきますし、経済的な〈牧歌〉をうたおうとしても、経済学の範囲では〈歌〉
をうたうことがもうできなくなります。マルクスの詰め方は緻密でみごとな詰め方ですし、マル
クスが作っている「相対的な価値形態」と「等価形態」という概念の作り方も目覚しいのですが、
どうすることもできません。
マルクスは、すべての事物は同一でなければ差異であるというヘーゲルの作りあげた緻密な弁証
法論理の体系を縦横に駆使していて、なかなか異論をはさむことができないほどです。とてもみ
ごとな〈ドラマ〉なんですが、〈歌〉はすでにないわけです。
この〈歌〉のなさということが、マルクスの経済学と、『資本論』以降現在に至るまで、マル
クスの考え方の系統を踏む経済的な考え方にとっては、さまざまな意味で反撃をうけているとこ
ろです。つまりマルクスの経済学には〈ドラマ〉はあるけれども〈歌〉がなくなっちやっている、
それは致し方ないんだ、というような問題が、さまざまな意味あいで問われているのだといえま
す。
リカードの〈散文物語〉にたいして、マルクスの〈ドラマ〉がもうひとつやりとげたことを挙
げてみますと、ただひとつだとおもいます。
リカードが(アダム・スミスもそうですけども)、すべての分配の仕方は、それを作るために加
えた「労働の量」の割合で分けられる、という考え方をしましたが、この「労働の量」という考
え方を、マルクスは「労働の時間」というふうに変えることができたとおもいます。どうしてで
きたかといいますと、分業があまりに緻密化し、膨大になっていったために、Aという分業にた
ずさわることと、Bという分業にたずさわることと、Cという分業にたずさわることとは、分業
の極限に達したとみなせば、区別しなくてもいい、ということに帰着します。スミスの概念では、
動物とちがって人間は、それぞれに役割を果たし、専門化して分かれて、それぞれを補いあうこ
とができるんだ、というのが「分業」概念の「起源」たったわけです。
マルクスの時代にいたってば、分業があまりに微細化され、あまりに微細化されたため、いって
みれば、Aという分業とBという分業を取り換えたって同じだ、ということになったのです。な
ぜなら、あまりに細分化されれば、ぜんぶが均質だとみなしてもあんまりまちがわないからです。
そうすると「労働の量」をいう必要はもうないので、「労働の時間」といえばいいことになりま
す。つまり「労働の時間」が、できあがった商品の「価値」を決定する大きな要因なんだ、とマ
ルクスはいい換えることができたのです。
リカードにくらべてマルクスの時代がはるかに分業が発達し、細分化し、膨大になったという
ことがそういわせたわけです。リカードの考え方をもっと追いつめて、人間が難しい仕事を1時
間するのと、易しい仕事を1カ月するのとくらべると労働の「量」は、難しい仕事を1時間する
ほうが多いんじゃないか、みたいな疑問はいたるところに存在するわけです。それにたいしマル
クスは、そうじゃない、ひとりの個人のなかでそういうことはありうるけれど、つまり、難しい
仕事を1時間やったときのほうが、易しい仕事を1カ月やったよりずっとくたびれたよとか、ず
っと苦労したよ、ということは、個人個人の主観のなかではありうるけど、全般的な社会過程で
微細な分業が行われ、細分化がすすみ、膨大な商品が作られるところでは、そういうことをいう
必要はないので、もうただ「時間」をいえばいいことになります。「時間」が1時間かかってで
きたものと、2時間かかってできたものとは、2倍の「価値」のちがいがあるんだ、といえばい
いんだということを、マルクスははっきりさせることができたのです。それがもうひとつ、リカ
ードの〈物語〉にくらべてマルクスの〈ドラマ〉が、抽象化・均一化を、いちだんと進めたゆえ
んだとおもいます。
マルクスの考え方は現在、さまざまな批判にさらされています。その批判は主としてどういう
ところから起こっているかといいますと、スミスがはじめ経済学的な範躊としてかんがえた、
「働いて賃金を得る者」という概念(労働者という概念)は、けっしてなまのままの労働者(つ
まり社会的な労働者)という意味ではなくて、経済学的な範躊としての労働者なんだ、というこ
とです。マルクスの労働者という概念には、しばしば経済的範躊の労働者と社会的な労働者との
混同が起こっている、という批判のされ方がありえます。マルクスの「労働価値」概念と、実際
に具体的な現実の市場での商品の価格とのつながりがうまくいかないという批判のされ方もあり
ます。
こういう批判のされ方の根抵にあるのは何かといいますと、いってみればマルクスの〈ドラマ〉
が〈歌〉を喪失したということ、否応なく喪失してしまったところで作られた〈ドラマ〉であっ
たということを、問いただされているんだ、といえばいえなくもないとおもいます。マルクスの
作りあげた「価値」概念とか、経済学的な範躊にたいするあらゆる批判は、そういうところから
起こっているので、いってみれば、その〈ドラマ〉には、自然の〈歌〉がもう聞こえないじやな
いか、自然の〈歌〉はどこへ行っちやったんだ、という問題、あるいは自然の〈歌〉とその〈ド
ラマ〉とのつながりは、いったいどうなるのか、あるいはそのあいだの空隙はいったいどうふう
になっているんだ、ということです。
マルクスの経済的な〈ドラマ〉にたいする批判の根抵にあるものはそれだとおもいます。その根
抵にある問題は、最初にたぶんスミスが持っていたへ歌〉が、どこで失われ、どこでそれが回復
できないのか、あるいは緻密化か進んだということで、それは回復できないのか、という問題と
大きくつながっているとおもいます。
第一部 吉本隆明の経済学
吉本が言語論と資本論との二重性をイメージし経済学を論じることの"正統性"が、ホモサピエンスの
進化生物学から――人類の心と行動を進化させた要因に(1)レイモンド・ダートの狩猟仮説や『ヒ
トは食べられて進化した』ドナ・ハートとロバート・サスマンらの捕食回避説があり、(2)デニス
・ブランブルとダニエル・リーバーマンの「腐肉食動物説」、あるいは、(3)はニコラス・ハンフ
リやロビン・ダンバーの「社会脳仮説」やスティーブン・ミズンの「心のモジュール説」があり(4)
二足歩が頭蓋骨を変化させ、頸部下部の声道や喉頭構造などが第二の進化と評される『言語の発達』
がブローカ野の拡張など――も支持されるかのようである。また、第7染色体の文法能力 を含む言語
発達との関連が示唆されているFOXP2遺伝子は、近年、自閉症と遺伝子は関係ないとの見方を覆す、あ
る事例報告され、言語機能獲得の意味でも。FOXP2が自閉症と関連しているという仮説が議論されてい
る。ここまで読み進め、ふと、"生命力の奇跡"を考えさせられ、これらのことも視野に入れ執筆され
たているのだと自分勝手におもった次第。ますます、面白くなりそうだ。
(この項続く)
ルームランナーのメニューを少し負荷をかけ、最大斜度6度、最大速度を毎時6.5キロメートル変
えたら、腰痛気味で、コルセットを着用する始末。それでも、雪が舞う朝は、メニューを6キロメー
トルに戻し室内ウォーキング。昼は、天麩羅うどんを戴き、午後からは作業の手を止め、スウィート
マジジョラーとタイプの2種類のハーブの種まきを行う。天麩羅うどんに旬な野菜を入れれば美味し
く戴けるが、衣の温度を冷蔵庫に入れるなどして低くする、かき混ぜすぎない、粘り気のルテンを作
らないようにするのが肝、天ぷら油は170~180℃が最適。雪の降る寒い日は格別。