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 『吉本隆明の経済学』論 20

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● 『吉本隆明の経済学』論 20 

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!   

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき   

                                                       第1部 吉本隆明の経済学  

 

  第4章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」

  Ⅰ.経済の記述と立場Iスミス・リカード・マルクス

 

   1.スミスの〈歌〉

                              スミスの思考法

  スミスの考え方を抽象的ないい方で中しますと、人間には、さまざまな異った外観、あるいは
 異ったもののなかから、何か共通に同▽なものをつかみ取る能力が具わっていて、それが人間に
 あって動物にはないいちばん重要なことだというのです。たぶんこの考え方がスミスの「交換」
 という経済概念の底にあるもののようにおもわれます。ここにはさきほどいいました、牧歌的な
〈歌〉をうたいながら、〈歌〉のなかで経済的な概念を創りあげていくという、スミスのやり方が
 実によく現われています。
 
  さまざまな場面で、スミスは、「起源」と「交換」というふたつの基本的な考え方のパターン
 から、興味深い経済的な概念を作りあげています。たとえば、取引き、「交換」ということ、い
 いかえれば、商品の販売や交換をかんがえてみます。それは、まずはじめのところでは、物々交
 換が行われ、そのかぎりではすべての人間は商人だということで、すべての人間が商人である社
 会は、いわば商業社会です。近代社会のなかの一部門で商業社会が成り立っているということじ
 ゃなくて、すべての人がはじめに、物々交換でじぶんにないものをじぶんが持つために、それか
 らひとがないものでじぶんが持っているものをひとにあたえるために、とかんがえはじめたとき、
 商業(資本)がはじまるという考え方です。

  そういうスミスの発想はたくさんあります。経済学の主要な概念について、スミスはそういう
 発想をひろげています。たとえば、「貨幣」とは何かかんがえてみます。はじめに物と物との交
 換が行われます。そのうちに、交換するしかたも種類も多岐にわたり、複雑になってきます。
 物々交換が煩雑で堪えられなくなったら、そのつぎの段階で人間はどういうことをかんがえるか
 というと、何かと交換しようといったばあい、この物ならたれでもそんなにいやだとはいわない
 というような、ある種の商品を、一定量たえず蓄えておくようになります。そして何かじぶんが
 欲しいものがあったら、〈これと換えないか〉というと、たいていの人は〈換えてやろう〉とい
 ってくれる確率がおおきいわけです。そういった大多数の人が欲しがる商品の種類を一定量蓄え
 ることを、人間は次第にかんがえていくでしょう。そのばあいの、これならばたれでもいやとは
 いうまいという蓄えられた商品が、貨幣の原型になるわけです。つまり貨幣の「起源」にあるも
 のは、そういうものだ、とスミスはいっています。

  ここにあるスミスの考え方には草原や森林の句いがします。とくにたれもが欲しくないとはい
 わない商品を蓄えて、物々交換に備えようとするとかんがえるところなど、そう感じます。牧歌
 のきこえてくるようなわかりやすい考え方で、貨幣の本性を説明しています。とても素朴で、人
 間の社会が、たぶん未開・原始の時代からやってきたことの面影を、ずっとすくい取りながら、
 貨幣という概念までもっていくスミスの発想は、じつに〈歌〉にあふれているといえます。経済
 学は面白くない学問だし、一般的につまらない記述の仕方で高度なことをいおうとしています。
 でも主著の『国富論』にあらわれたスミスは、じつに豊かなのびのびした記述をもっていて、み
 ごとだとおもいます。経済的な概念の作りあげ方が、じつに自然でスムーズにいっています。そ
 のなかで、スミスの考え方の特徴である「起源」という概念と「交換」の本性の概念がいつでも
 生かされています。

  そのなかで、いちばん興味深いのは、「価値」という概念を作っていくばあいの説明のしかた
 です。スミスは「価値」という概念を説明するのに、靴の例をあげています。靴というものは履
 いて歩くために使われる。そんな使われ方をするときは、靴は「使用価値」として使われている
 ことになります。しかし靴にはもうひとつの使われ方があります。それは、じぶんが欲しい何か
 別のものがあって、ひとがそれを持っていたとすれば、その靴をじぶんの欲しいものと換えたい
 ときに、その靴を使うということです。

  一般的にすべての商品はそんなふうに、それ自体として使われるばあいと、それをもとに別の
 欲しいものと換える、一種の購買力の代用品として使うやり方もあります。靴を履いて使う使い
 方が「使用価値」という概念の源にあります。そして、靴で購買力の代用をするばあいの使い方
 をかんがえれば、「交換価値」という概念が発生するといえましょう。スミスはそんな説明をし
 ています。



  ところで、スミスが「使用価値」と「交換価値」を説明するのに出してきた概念は、スミスが
 最初の発想ではありません。これは(マルクスも記していますが)、アリストテレスが『政治学』
 のなかですでに出している概念だといえます。ものの役立ち方にはふたつあって、ひとつはその
 ものとして役立たせるということだし、もうひとつはものをほかのものと換えて役立たせること
 だ、事物にはかならずこのふたつの役立たせ方があるというように、アリストテレスはのちの
 「使用価値」や「交換価値」の概念がすぐに出てくるような、はっきりしたいい方でいっていま
 す。スミスたちは、アリストテレスの概念をかりて、「使用価値」とか「交換価値」という概念
 を作り出しているとおもいます。

 
                                  〈牧歌〉の豊かさ

   スミスの「使用価値」とか「交換価値」という概念の作り方を、もっと元に戻してしまったら
  いったいどういうことになるでしょうか。つまり、スミスが『国富論』でやっているよりも、も
 っと元に、もっと白然のなかに、牧歌のなかに戻してしまうのです。それをちょっとかんがえて
 みます。

  何よりも「価値」という言葉でおもい浮かんでくる感覚的なこと、感情的なこと、論理的なこ
 と、その他なんでもいいから、ぜんぶおもい浮かべてみましょう。「価値」という言葉を聞いた
 ときに、たとえばみなさんはどういうことをおもい浮かべるでしょうか。「価値」って何だとお
 もうと訊かれたばあい、どういうものをおもい浮かべるかかんがえてみます。ひとそれぞれにち
 がうでしょう。「価値」という言葉を聞くと、すぐにダイヤモンドだとか、高価な貴金属をおも
 い浮かべる人もいるでしょうし、なんとなく〈貴重なもの〉という感情をおもい浮かべる人もい
 るでしょう。また〈大切なもの〉を具体的におもい浮かべる人もいるとおもいます。そのおもい
 浮かべ方はさまざまです。こういうさまざまなおもい浮かべ方のなかで、「価値」といわれると、
 なんとなくおおげさに感じながら、なんとなく心の中では大切なものなんだ、というものをおも
 い浮かべてみます。そういうことは、たぶん「価値」という言葉をおもい浮かべたときの根抵に
 ある感情、あるいは感覚なんじゃないか、とおもいます。その根抵には、なんか知らないが、具
 体的な何かというんじゃなくて、なんとなく大切なものなんだ。

  しかし、その大切なものをどういうものだというふうにしてしまったら、もう、大切なものが
 どこかで壊れてしまう。ましてや、それを「価値」という言葉でいってしまったら、とても重要
 なものがそこから抜け落ちてしまうような感じがする〉ということがあるとおもいます。

  そうすると、「価値」という概念を経済学のほうにではなくて、牧歌、あるいは自然感情、ま
 たは人間の自然本性のほうにどんどん放ってしまいますと、とても漠然としたくなんとなく大切
 なもの〉というところに源泉があるとこまでいってしまいます。そこまでいってしまえば、それ
 は、ほんとの古代の素朴な牧歌といいましょうか、そういうものになっていきます。つまり、な
 にか大切なもの、しかし形がなんだかってことはいえないし、それは外にあるものなのか、ある
 いは形のない心の中にあるものなのか、それもいえないというところまで、ずうっと牧歌的なも
 ののほうに概念を放してしまいます。そこのところがたぶん、「価値」という概念の「起源」に
 あるものだとおもいます。

  スミスもやはりそういうものからつぎつぎに、感覚とか感情とかをしぼりこみ、削り落して、
 「交換価値」とか「使用価値」という経済学上の概念を作っていったとおもいます。

 ところで問題なのは、スミスがそうして「価値」概念を作ってしまったとき、すでにもう人間が
 〈なにか知らないけれど大切なものだ〉というイメージでおもい浮かべるものから、なにか重要
 なものが抜け落ちています。こぼれ落ちてしまっているのです。そうすると、こぼれ落ちてしま
 ったものは、ふたたび経済的な範躊にたいしてどこかで逆襲(復讐)するにちがいありません。
 まずアダム・スミスが『国富論』で近代的な経済概念をはじめて作りあげた、そのところですで
 に、そういうこぼれ落ちていったものが、経済学的範躊を至上のもの、いちばん重要なものとし
 てかんがえる考え方にどこかで復讐することがある。そんなことがかんがえられます。 

  このばあいこぼれ落ちた部分をもとにして、それになにか別の形をあたえていったものが、た
 とえば文学であり、絵画であり、音楽であるといえましょう。それらが経済学、あるいは経済概
 念にたいして復讐をしているのか、または調和を求めているのかわかりませんが(それはさまざ
 まなばあいがありうる)、とにかくそういう形で経済の範疇から離れていって、別の分野を作っ
 ているといえるとおもいます。

  経済的な範疇というものをかんがえるばあいに、たえず経済的な範疇からこぼれ落ちたものか
 ら何か生まれたのか、あるいは何を生み出していったのか、そしてそれは経済的な範暗にどうい
 う復讐のしかたをしたり、どういう調和のしかたをしたり、どういう分かれ方をしたりしている
 のか、ということをおもい浮かべることは大切なことのようにおもわれます。その重要さを最初
 にみごとに保存して、経済的な概念とか範疇とかが作りあげられるところで何かこぼれ落ち、そ
 して何か残されたのか、それからまた経済的範疇というものをもともと〈歌〉のほうに放してみ
 れば、どういう人間的な〈歌〉が存在したのか、そんなことをいつでもおもい出させてくれるの
 が、アダム・スミスの大きな意昧だとおもいます。

  スミスのいちばん正統的な後継者であるリカードとか、リカードの正統的な後継者であるマル
 クスになってきますと、すでに、スミスが持っていた良さ、おおらかさ、いいかえれば「起源」
 の歌をたえずおもい浮かべさせてくれる、「起源」の感情、あるいは〈歌〉の感情のほうにいつ
 でも人間を引き戻してくれる、そういう方法的な豊富さはなくなってしまいます。スミスだけが、
 たぶん最初の経済的な概念をつくりあげただけでなく、同時に、その経済的な概念の残余、こぼ
 れ落ちたもののなかに何かあるのか、どういう〈歌〉があるのかを、たえずイメージに浮かべて
 いられたのだとおもいます。それが、スミスの特徴のようにおもいます。

  このスミスの特徴は、スミスの作りあげたおおきな経済的な範躊のひとつ、たとえば「地代」
 というようなものにも、反映されています。「地代」とは何かというばあい、原始・未開の時代、
 往んでいる土地がたれのものだという区別もないし、たれかが独占している土地でもなかったと
 きをかんがえてみます。そのとき、そこに値わっている本から本の実を食べるために十個もぎと
 っていったとします。そのばあい、本の実十個の価値は、本の実を十個採るために本に梯子をか
 け、登り、そして十個もぎ採り、そしてまた梯子をおりてきて、故に入れ、というようなことを
 した。つまりそのすべての労働、その労力が木の実十個にたいして支払った「労働の量」なはず
 です。ごく自然にかんがえて、ある生産物、ある採集物、ある商品の価値と、それが労働の量で
 はかられるということの、いちばん「起源」にあるのはそういう問題です。そこである土地には
 いって木の実を十個採れば、十個採るだけの労力を使ったということだけが支払いであり、それ
 が木の実十個の「価値」に該当するもので、原始・未開の、土地がたれのものでもなかった時代
 には、掛け値なしにそのとおりでした。
 
  ところが、本の生えている土地がたれかのものになると、そうはいかなくなります。だいたい、
 〈採らしてくれないか〉とことわったり、あるいはくおたくの木の実を採らしてもらいました〉
 とかくおたくの土地にはいらしてもらいました〉とかいうことで、そのなかから本の実二個分だ
 けは土地の持ち主にやらなければならない。あるいは十個分以外にいくらかのお金を支払わなけ
 ればならない、ということになります。そうすると、土地を持っている人に、十個採ったという
 労力だけじゃなくて、ほかにお金を支払った、それがそもそも「地代」のはじまりです。スミス
 はそんな「地代」の規定のしかたをしています。

  この「地代」の規定のしかたと、同時に、ある生産物あるいは採集物の「価値」とは何なのか、
 どこからかんがえても、水の実十個を採るために梯子をかけたり、登ったり、もいだり、また梯
 子をおりてきたりという労力、つまり値った労働力の量になるというのがいちばんいい考え方だ
 ということも提示しています。そういうのがスミスの考え方で、そこにも、スミスのなかにある
 〈歌〉を感じます。そこには牧歌的な精神、牧歌的な思考方法があふれています。後代の経済学
 の高度に発達した概念からいえば、まったく素朴で、ある意味でほまちがいやすく、あるいはい
 ろいろなことを混同しているともいえるわけです。

  しかし、そうではなくて遂に、その後の経済学がすぐに喪ってしまった、ある自然感情の響き
 といいましょうか、〈自然〉と〈人間〉との関わりあいのいちばん根抵のところを保存している
 ともいえます。スミスはそれを保存しながら、経済的な概念をつくりあげているのです。

  スミスの『国富論』を読めばすぐにわかりますが、スミスはとても聡明です。そして優しく、
 それで「起源」にたいする、もとになった自然感情にたいする思いいれの部分をいつでも含んで
 います。そのくせとても緻密な論理をそのなかに含んでいます。たいへんみごとな〈歌〉をうた
 っていることが、読むもののたれにでも感じられるとおもいます。この犬きさは、ちょっと後に
 はかんがえようもないんで、文学でいえばゲーテあるいはシェークスピアみたいな巨人の面影を
 持っているとおもいます。たぶん、それはスミスだけが持っているといってもいいとおもいます。

  あとのさまざまな経済学の巨人はスミスのような意味で〈歌〉を持っていません。経済学が
 〈歌〉をうたうことができなくなってしまったという時代的な趨向もありますし、さまざまな要
 因もあるんですが、スミスのような豊かな優しい〈歌〉をうたいながら、経済学の〈概念〉を作
 りあげていった者は、スミス以降には求めることはできないとおもいます。




  Ⅱ リカードの〈物語〉

                                    〈歌〉の喪失

  商品の「使用価値」とか「交換価値」とか「地代」とか、あるいは「利潤」とか、そういうも
 のについてのスミスの考え方を、いちばん忠実に、いちばんみごとに凝縮しているのは、リカー
 ドだとおもいます。リカードにはすでにスミスの持っていた〈牧歌〉はすこしも残されていない
 ということは、リカードの主著である『経済学および課税の原理』を読みますと、すぐに感じら
 れます。リカードの『経済学および課税の原理』とスミスの『国富論』とは、ほとんど同じ世代
 で、二〇年くらいしかちがっていません。しかし、スミスの持っている〈歌〉は、リカードには
 なくなっています。リカードは、文学でいえば、〈歌〉の時代、つまり抒情詩とか叙事詩の時代
 がすみやかに過ぎ去ってしまって、一種の味気ない〈散文〉の時代にはいったことの象徴になっ
 ています。リカードになってきますと、スミスの持っていた歌声はもうなにもきこえなくなって
 しまいます。また事物は「起源」を尋ねて、その「起源」のところでかんがえることが、その本
 性を把むもっともいい方法なんだというスミスの持っていた原理も、リカードでは、すでに断ち
 切られています。

  リカードが実現したのは、スミスの概念を緻密にし、もっと整えて、構成を格段に精密にした
 ことでした。〈歌〉はすみやかに失われてしまって、味気ない経済的概念と、現実の社会の経済
 的な勤きとの照応関係をどうかんがえるべきか、という問題がリカードの主な関心を占めるよう
 になっています。これはいってみれば〈散文〉、あるいは一種の〈物語〉の時代みたいなもので
 す。リカードが使った〈物語〉の材料は、スミスとまったく同じです。ある「商品」が生産され
 るためには「土地」と「資本」と「働く者」あるいは「働くこと」が要素として必要だ、という
 スミスの考え方は、リカードでもそのまま〈物語〉を作るために使われています。その同じ素材、
 あるいは同じ概念を使って、スミスのほうは一種豊かな優しい〈歌〉をうたったわけですが、リ
 カードのほうは同じ材料、同じ概念を使って、堅苦しい、息苦しい〈物語〉を作らざるをえなく
 なった、そういうことができます。

  リカードが関心を待ったのは、たとえば、働く者の「賃金」がある量だけ上昇した。そうする
 と、資本を待っている者の「利潤」にどれだけ影響をあたえるか、どれだけ「利潤」を減らすだ
 ろうか。「利潤」を減らせば、作られた商品の相対的な「価値」にたいして影響をあたえるだろ
 〈物語〉のなかに登場してさまざまなドラマを演ずる、それは「利潤」であり、「賃金」であり、
 商品の「価値」であったりするわけですが、片方の人物がすこし弱り目になったときにはあとの
 ふたりはどうなるんだろうかといった、物語としてかんがえて、たいへん息苦しいものが主題で
 した。

  一定の〈物語〉の枠組みと登場する人物はすでにきまっていて、ただ登場する人物の三者の関
 係がどういうふうにありうるだろうか。Aなる人物が強大になったときにはBとCはどうなるだ
 ろうかとか、Aなる人物が衰えたときにはBとCはどうなるだろうかというような、〈物語〉と
 して堅苦しい筋書きを描きつけるのが、リカードの経済学の経済的な関心の主要なものでありま
 した。


                           正しい経済学的〈物語〉

  ただ、そのなかに款いがあるとすれば、リカードは何か正しいのか(「正しい物語」というの
 はおかしないい方なんで、文学のばあいに〈正しい〉とか〈正しくない〉というのはないわけで
 すけども、経済学のはあいにはもしかするとそれがあるかもしれないので)つまり正しい経済学
 的物語はどういうものを指しているのかについて、リカードはじぶんなりの考え方を持っていま
 した。リカードの堅苦しい〈物語〉のなかで、そこに款いがあるといえばいえるとおもいます。
 
  たとえば「地主」と「資本家」と働く「労働者」という三者がいるとすれば、三者がどういふ
 うに会ったときにいちばん正しい〈物語〉といえるかといえば、三者が同じ「労働の量」に当す
 るだけの「価値」の分け前を受け取る形がとれたときです。この原理や哲学がリカードのいちば
 ん大きな〈理念〉です。つまりこの〈理念〉が、わずかに、堅苦しい経済学の〈物語〉にひとつ
 の人間らしさの糸口を与えているということができます。

  リカードは、スミスの経済的な概念を緻密にして、ほんとうの意昧での経済の学の諸概念の基
 礎を作りあげた人だとおもいます。しかし堅苦しくて、スミスが持っていた〈歌〉とか大きさと
 か豊かさとかいうものは、すでにリカードのなかにはなにもなくなってしまっています。そうい
 うことをかんがえますと、それはたいへん目の詰まった、抜け目のないことをかんがえざるをえ
 なくなっている社会的な現況とか、状態をたいへんよく反映していたとおもいます。経済学の
 「起源」にある「三大範疇」が、どういう分け前の受け取り方をしたらいいかというばあい、平
 等な「労働量」に該当するだけの「価値」の受け取り方をすることがいちばんいい、公正な受け
 取り方です。それが経済学が現実の経済的な動き、あるいは社会的な動きにたいしてなにかいえ
 ることがあるとすれば、そういうことです。そのことを、とても素朴な、堅苦しい緻密な概念を
 作りながら、はっきりさせていったのが、リカードがやったいちばん大きな仕事でありました。

  この仕事は、まったく〈散文〉的な、あるいは〈物語〉的な仕事で、この〈物語〉がうまく作
 られたからといって、現実がそのとおりになるわけではないのですが、現実がもしゆがめられて
 いたら、それを映す一種の鏡として、こういう形の〈物語〉が欲しい、現実にもそう展開される
 のがいちばんいい〈物語〉なのだ、ということを、リカードは、スミスの経済概念を緻密にしな
 がらはっきりさせていったといえましょう。そこが堅苦しさのなかでの款いではなかったかとお
 もいます。 

                                          第一部 吉本隆明の経済学

                                     (この項続く) 


● メルケル首相安倍首相と会談 過去総括、和解の前提

安部晋三首相は9日、首相官邸で来日中のドイツのアンゲラ・メルケル首相と会談。両首脳は混迷す
るウクライナ情勢への対応で連携することを確認したほか、両国経済の関係強化を目指すことでも一
致。メルケル首相は歴史認識についても触れ、会談後の記者会見では「過去の総括は和解のための前
提になっている」と語ったという。この中で東アジア情勢が取り上げられ、安倍首相が北朝鮮による
拉致・核問題などを説明した。メルケル首相は、東アジア情勢について「アドバイスする立場にない」
と前置きしたうえで、ドイツが戦前のナチスの行為を透明性を持って検証した経緯を紹介。会談後の
記者会見で、メルケル首相は「(ナチスドイツの)過去の総括は和解の前提になっている。和解の仕
事があったからこそ、EU(欧州連合)をつくることができた」と述べ、地域の安定には和解の努力
が不可欠であるとの認識を示したという。また、ウクライナ情勢について両首脳は、親ロシア派と停戦合
意したウクライナの平和と安定のため、積極的な役割を果たしていくことで合意。「力による一方的な現状変更
は許されない」との立場を確認する一方、平和的解決に向け、ロシアとの対話を継続する方針でも一致したと
も。

「侵略戦争」も容認しない政治委員グループだから和解も、また「原発推進」からの転換も難しいと
いうのがわたし(たち)の見解だ。ドイツは「ウクライナ紛争の平和解決」が中心で、武力介入する
ロシアへの牽制(あるいは、武力対決を主張する米国へも)がメインテーマであるからこの問題も微
妙(北方領土返還)な立場にある。ところでメルケルはロシア語が堪能である(彼女の経歴参照)。


●  高橋洋一  賃金が上昇するのはGDPギャップ解消の半年後 

完全雇用失業率が3~3.5パーセントであれば、最近のGDPギャップ拡大は消費増税が原因。ただし
見解が分かれる。金融政策効果が発揮されずに、実体経済への影響後、インフレ率と失業率に波及す
る時間差――インフレ率も失業率と、GDPギャップから半年程度のラグがある――インフレ率が2
パーセントに達しないと実害はないだろうとのこと(ダイヤモンドオンライン「」2015.03.06)。急
激なインフレが1年以内にインフレ率5パーセントは考えられないし、下図のGDPギャップとイン
フレ率からみると、GDPギャップがプラスになっても、インフレ率の上昇はない傾向がある――と
の結論はわたし(たち)た同じ立ち位置にある。

 


● 日本型富の偏在とは? 



森口千晶一橋大教授は、日本では所得上位10%にあたるのは年収580万円以上で、1990年代
以降、その層が国民所得に占める割合が増えているとの試算した。10日発売の中央公論に掲載され
る。森口教授は、格差問題を論じたベストセラー「21世紀の資本」の著者、仏経済学者トマ・ピケ
ティ氏と共同研究している。試算によれば、年収750万~580万円の層で、所得上位5~10%
に相当する。所得上位10%の中でも、特に上位1%が国民所得に占める割合が集中している米国と
は、格差の構造が異なる。日本の場合、所得上位1%は年収1270万円以上だ。 ピケティ氏は、
日本も所得上位10%の層が国民所得に占める割合が増えていると主張していた。中央公論で森口教
授と対談した大竹文雄阪大教授は「すごい金持ちが増えていないが、日本では非正規雇用の増大や、
勤続年数によって賃金が増える年功賃金の影響があるなどと指摘したという。このことはもっと世界
に発信してもいいのでと考えるが如何に? もっとも(1)リフレ政策、(2)所得税の累進制の是
正、(3)税の完全補足(マイナンバー制導入/歳入庁創設)の早期実施に(4)高い付加価値労働
の促進の4原則堅持との立場は揺るぎない。^^;。

 

● 今夜のアラカルト 韓国風葱パンケーキ


最後にエゴマ油を少し振りかけ、疲れた脳神経を癒し戴きましょう。



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