北陸新幹線の部分開業フィーバーをうけ、今夜はその延長の福井は若狭のグルメ二品にフットライト
を当てる。まず、へしこ。へしこは鯖を糠漬けにしたもので、福井を代表する特産品の一つで福井の
伝統的なスローフード。そのの昔、若狭湾で獲れた鯖は鯖街道と呼ばれる山道を通り、京都へ運ばれ
ていた。京の都人がこぞって求めたという質の高い若狭の鯖は、地元ではへしこに加工され、冬の貴
重なタンパク源として欠かせない存在。塩辛さの中に旨みがギュッと凝縮され、ビタミンB、鉄分な
どをバランスよく含みます。そのまま焼いてご飯にのせるだけで充分美味しいですが、特有の旨みは
パスタをはじめあらゆる料理の具材や調味料としても生かされている。長野圏には柿のゆべしのごと
く、蕪に挟めばへしこのミルフィーユにチェンジ。パスタにからめれば、チーズいらずのアンチョビ
風スパゲティに変身。勿論、うどん、ラーメン、丼にも仕えという保存食になり。世界の魚介類のチ
ーズとして展開できそうな"若狭のへしこは日本の伝統食品宝"である。
● 鮎がスイートフィッシュなら、ぐじはタイルフィッシュ
若狭焼きで有名な若狭ぐじ(甘鯛)を御食国(みけつくに)、若狭焼きとは、一汐した若狭ぐじを鱗
を付けたままじっくり焼き上げたもので、京料理では若狭焼きの善し悪しが、板前の腕前の目安とさ
れるほどの伝統のある料理方法。若狭ぐじは和名をアカアマダイという。英語でタイルフィッシュと
飛ばれるほど、タイルのようにきらきら輝き美しい魚。福井県では夏場に刺し網漁で漁獲される他、
延縄(はえなわ)釣りで一年中漁獲される。その角張った頭の形から「屈頭魚(くつな)」と呼ば
れていまたが、それがなまり「くじ」「ぐじ」と呼ばれるようになる。若狭湾で獲れたすべてのぐじ
を「若狭ぐじ」と呼ばず「若狭ぐじ」と呼ばれるのには幾つもの高いハードルを越え命名される。
● 『吉本隆明の経済学』論 26
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第4章 生産と消費
2 消費論
Ⅰ
ヘーゲルの自然概念のかなめにあるのは、観察する理性にとって自然が段階化するという点で
あった。この段時化によって自然は無機物や植物や動物に区分される。わたしたちが現代つかっ
ている概念でいえば、ヘーゲルの段階化は、位相的な構造と順序の構造の結合を意味している。
無機物は存在がそのものであり、それだけであるようなものだ。植物は存在が個別的であるだけ
の存在だ。動物になると存在は個別的でありながら種としての区分をうけいれている。これは位
相的な構造にあたっている。もうひとつ段所化は順序の構造をふくんでいる。生命の在り方とし
て無機物・植物こ動物は順序的だとみなされる。また動物のうえに人間(ヒト)という順序を加
えることもできる。もうひとつヘーゲルの段階化にはたいせつな特徴があった。これらの段階化
された存在は、じぶんのまわりの外部の自然にたいして部分的な関係しかもちえないということ
だ。
いいかえれば段階化は自然との関係の部分化を意味した。ヘーゲルがあげた例をとれば、鳥類
は天空がなければとぶことができない。だが天空という自然は鳥類がとぶためだけにあるわけで
ない。だから鳥類の自然にたいする関係は部分的なものだ。おなじように魚類にとって水はなく
てはならない生存の環境だ。だが水は魚類の生存のためだけにあるのではない。そこで魚類の水
にたいする関係は全面的なものではない。これは獣類をとってきてもおなじだ。段階化された存
在(自然)と、それ以外の自然との関わりは、こんなふうにいつも部分的なものだ。
マルクスはヘーゲルの段階化の概念のうえに人間(ヒト)をかんがえた。順序でいえば動物的
の上位に人間的をおいたといってもいい。そして人間とそれ以外の自然との関わりは部分的では
なく全面的で普遍的なものとみなした。すくなくとも可能性としては人間だけが外部の自然にた
いして、全面的な普遍的な関係をつくるものとかんがえようとした。これは道にいってもいい。
じぶん以外の自然にたいして全面的で普遍な関係をもちうるものを人間(ヒト)と定義した。こ
こで普遍的な関係は特定の構造でなくてはならない。マルクスはどうかんがえたかといえば、こ
の普遍的な関係は、こまかくいえば直接に生存(生活)の手段である自然としても、また生存(
生活)の行動の対象や材料や道具としての自然についても、全面的に自然を人間の非有機的な(
無機物としての)肉体にしてしまい、またじぶん自身はそのとき有機的な自然(肉体)になって
しまうという〈組み込み〉の関係によって、普遍的な関係は生みだされるとかんがえた。たとえ
ば、道具や装置をあつかうばあいでも、農耕のように、ほとんど素手で耕すばあいでもおなじだ。
道具や装置をつかって素材に手をくわえても、素手で地面に種子をまいても、人間は自然(物)
を非有機的な肉体にしているのだし、このとき人間の方は筋力(の行使者)という有機的な自然
に、じぶんを変化させていることになる。
マルクスにとって、すぐにもうひとつの問題があらわれる。人間がまわりの自然とのあいだに
この〈組み込み〉の関係にはいったとき、べつの言葉でいえば自然にたいして行動にうつったと
き、この非有機的な肉体である自然と、有機的な自然であるじぶんの肉体との〈組み込み〉の領
域から価値化されてゆくということだ。また価値という概念はここの領域のほかからは生みださ
れないとみなされた。経済的なカテゴリーの言葉からこの関係を記述するとすれば、生産という
概念をつかうか消費という概念をつかうほかに、この普遍的な関係はいいあらわせない。そして
じっさいにマルクスは、生産という概念をつかって人間とのこりのぜんぶの自然との〈組み込み〉
の普遍性をいいあらわそうとした。その極端ないい方の断片をいくつかあげてみる。
宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なありかたにすぎず、生産の
一般的法則に服する。
歴史全体が、自然史の、人間への自然の生成の、現実的な部分である。人間にかんする科学
が自然科学をそのもとに包括するように、自然科学はのちにまた人間にかんする科学をその
もとに包括するだろう。すなわち、それは一つの科学となるであろう。
思惟自体の基盤、思想の生命発現の基盤、すなわち言語は、感性的自然である。
(マルクス「経済学と哲学とにかんする手稿」)
こういった断片的な文句は、マルクスの汎生産と汎自然とががっちりと組み込まれているとこ
ろを、よく象徴している。たとえば宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術などが生産の特殊
な在り方だといわれると、嘘がいわれているのではないとしても、おおいに蹴いてしまう。そし
て蹟く方が正常だといっていい。だがこのばあい生産という言葉は、自然と人間のあいだの関係
という概念を経済学的な範時におきなおしただけの言葉なのだ。いいかえれば生産=関係を意味
している。つよい直観的な論理がはたらいているので、たくさんの補いをつけなければならない
としても、見事な判断になっている。だがわたしたちが言葉通りうけいれれば、だめなところが
でてくる。もうひとつある。この方がたいせつなのだが、一種の論理のはぐらかしをうけた奇異
な感じをいつもともなう。比喩的にいえば〈組み込み〉の概念が、二つのものがひとつに合体さ
れたものであるため、余地、空隙、遊び、分離がなく、対立した概念がシステミック(組織がら
み)に結合している印象をうけてしまう。人間とそのほかのぜんぶの自然との普遍的な関係は、
人間の働きかけの面からは生産といっていいように、働きかけによって有機的な自然となった肉
体(筋力)という面からいえば、消費にほかならない。じじつマルクスの消費の概念は生産にく
つついた裏にあたっている。マルクスは書いている。
消費は直接にまた生産でもあるが、それは、自然界において諸元素や化学的諸成分の消費
が植物の生産であるのと同じである。たとえば消費の一形態である食物の摂取によって人間
が自分自身の肉体を生産することはあきらかである。しかしこのことは、なんらかのやり方
で人間を、なんらかの面から生産するものであれば、どんな種類のほかの消費についてもい
えることである。消費的生産。しかしながら消費と同一のこの生産は、第一の生産物の破壊
から生ずる第二の生産であると経済学はいう。第一の生産では、生産者が自分を物と化し、
第ニの生産では、かれによってつくられた物が人間となる。だからこの消費的生産は――た
とえそれが生産と消費との直接の統一であるとはいえI-本来の生産とは本費的にちがうも
のである。生産が消費と、消費が生産と一致する直接の統一は、それらのものの直接の二元
性を存続させる。
(マルクス「経済学批判序説」)
植物という自然の段階について、代謝の活動をここでは消費、すなわち生産だという〈組み込
み〉の関係におき直している。自然界にたいして植物は諸元素や化学的な成分を提供されるよう
に働きかける。そしてじぶんは酸素を提供しながら生長する。自然界は消費したのだし、植物は
じぶんを生産したのだ。人間も段階として、おなじことをやっているというのが、このばあいの
マルクスが言いたいことだ。 生産は同時に消費の行為であり、また逆に消費があるときかなら
ず生産をモチーフとしていて、人間の行為はそれ以外のあらわれ方はしない。こういう生産と消
費がシャムの双生児のようにひき離せない概念は、はじめにヘーゲルの自然の段所化をうけいれ、
そのうえに人間とそれをとりまく自然とのあいだの相互行為をシステミック(組織がらみ)な〈
組み込み〉として普遍化を企てたとき、どうしても避け難いものだった。
古典派以後の経済学の概念では生産人という概念は生産行為に関係づけられ、消費人という概
念は消費の行為に関係づけられ、それぞれが別の人間であることも、また同一の人間の別べつの
局面での行為であることもできる。それは無意識に前提にされている。だがヘーゲルーマルクス
的な考え方では、段階は観察する理性に関係づけられ、生産と消費の〈組み込み〉の関係は、人
間の行為(行為的理性)に関係づけられるので、同一の人間の内部での区別にしかすぎない。
具体的な例でいえば、ある一人の生産にたずさわる人間が、仕事以外の時間にレストランに出
かけて料理を喰べた。この消費行為の局面では、かれは消費人だということになる。これはある
一人の人間は生産にたずさわり、別の一人の人間がレストランで料理を喰べたとかんがえてもお
なじことだ。だがマルクスのかんがえ方ではそうならない。ある一人の人間が職場で物の生産に
たずさわった。このときかれは物を生産し、同時に生産する行為によって身体(のエネルギー)
を消費したことになる。またある一人の人間がレストランヘ行き、料理を喰べて金銭を支払った。
かれは消費行為をしたのだが、同時にそのことによって栄養を補給し、気分を安らかにするこ
とで、かれの身体を生産したのだ。すくなくとも明日また職場で生産にたずさわれるほどに身体
を生産したことになる。
わたしにはヘーゲルーマルクス的な生産と消費の概念のほうが妥当なようにおもえる。生産人
と消費人を人間のべつの局面とかんがえることは、近似的には差支えないようにおもえるが、あ
くまでもげんみつにいえば、ヘーゲルーマルクス的な概念で生産と消費をかんがえざるをえなく
なる。ただ人間は生産の場面でそれにたずさわっているときには、疲労がひどくこたえないかぎ
りは、身体を消費していることには無意識だし、消費の場面では遂に、料理を喰べることによっ
て、玉突きや、パソコン遊びをやることによって……身体や精神を生産していることは無意識に
なっている。もうすこし留保すべきことがある。ヘーゲルーマルクス的な生産と消費は、どうか
んがえても〈組み込み〉の息苦しさ、ぬきさしならない関係の感じがつきまとって、どこかで風
穴をあけなくては我慢ならない気がしてくる。
もうひとつあげれば、生産の行為の裏に身体の消費が附着していることは、その行為が理性的
な内省の機会をもつか、あるいは身体の消費のあげく病的な症候を呈すれば気づくことができる
が、生産の局面とそれに対応する消費の局面とが時間的にか空間的にあまりに隔っているばあい
は、消費がいいかえれば身体の生産にあたることは、直接には指定できないことになる。このば
あいには生産はすなわち消費であり、消費はすなわち生産であるというマルクスの概念は、一般
的な抽象論の次元にうつされてしまう。そしてこのことは生産と消費の高度化にとって避けるこ
とができないといっていい(図5参照)。
第一部 吉本隆明の経済学
(この項続く)