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JR石巻線が全線開通

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●『吉本隆明の経済学』論 31 

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!      

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき   

                                                          第1部 吉本隆明の経済学    

 
 第5章 現代都市論

 1 像としての都市――四つの都市イメージをめぐって 

  第三系列と第四系列

  そうすると、都市の中であと二つ問題になる重要な系列があります。その第三番目の系列を
 「異化領域」と考えました。これは何かというと、具体的にいえば簡単なことで、ビルの中に日
 本庭園や茶室、プールをつくったり、ビルの屋上に教会やゴルフの練習場をつくったりというと
 ころが皆さんご承知のようにあります。それが異化領域です。これは第三の系列をなします。

  これはどういうことを意味するかというと、先ほどの都市論の問題でいくと、ビルの中に第一   
 次産業と第二次産業と第三次産業を包括してしまう、あるいはビルの中の第三次産業的なものが
 第二次産業的なものを包括しているとか、ビルの中に組立工業やハイテクエ業、あるいは本来地
 べたにあるべきはずの天然自然のものを包括していると考えると、第一次産業層と第二次産業層
 と第三次産業層が雑居していると考えたら一番考えやすいわけです。

  この種の領域は一見するとばかばかしいのです。つまり大げさなことをいわなくても、ビルの
 中で飲み屋さんに行くと噴水があったり金魚が泳いでいたりというところがよくあって、ばかば
 かしいといえばばかばかしいわけですが、このイメージを普遍化していくとかなり重大なことに
 なってきて、流通とかサービス業といった第三次産業的なものの中に第二次産業的なものを包括
 しているというイメージになります。あるいは組立工業とかハイテク工業を小規模で包括してい
 る、規模を大きくすれば、都市の中で第一次産業、第二次産業、第三次産業の割合がどうなって
 いるかという問題とまったくパラレル、あるいは対応するものになります。 

  たとえば東京の第一次産業、農業なら廃業を考えると、東京の農業というのはO.2%、人口
 にしても生産高にしてもその程度のものだと思います。それはどういうモデルになるかというと、
 ビルディング、建物の問題とすれば、ビルの中にちょっとした植え込みを入れてあるというイメ
 ージになります。

  その問題をもっと重要なことでいえば、国家、社会はやがてどうなっていくのか、特に先進的
 な国家、社会はどういう方向にどうなっていくだろうかと考えると、第一次産業がO.2%であ
 るというところまでは行くと考えたらよろしいと思います。つまり行く可能性はあるんだよ、東
 京という都市はそのモデルだよとお考えになったら、かなり重要な国家、社会の問題になってき
 ます。

  そして、農業あるいは第一次産業がO・2%になるということは国家、社会の理想かどうかを
 問うことになります。理想であろうがなかろうが、必然的にそうなっていく、それは防ぎようが
 ないよとお考えになるか、あるいはエコロジストみたいに、緑を犬切にすれば変わると思う人も
 いる。しかし本当はどうなのかということもありますし、どれが理想なんだという問題は直ちに
 問われてしまいます。

  どれが理想の国家、社会なんだと問われるように、どれが理想の都市なんだということは同じ
 ように問われてきます。東京は理想の都市なのか。農業、第一次産業がO・2%、それで都市と
 いうのはいいのかということになります。しかし、これが一種の究極都市のイメージに近いとい
 うのは間違いないことで、理論上、原理上は東京の農業はゼロになってしまうかもしれません。 

  そうしたら第二次産業と第三次産業の問題になって、緑はどうしてくれるんだということが問
 題になります。緑というのはその場合には、つくる以外にないんだということになってくると僕
 は思います。そんな都市は嫌らしい、とんでもない都市だからぶっ壊してしまえというエコロジ
 ストたちの主張もあります。しかし、これは直ちに重要な問題で、近未来のうちに問われるだろ
 うと僕は想定します。

  たとえば僕の暗記しているデータが間違いでないとすれば、イギリスは農業が2%ぐらい、ア
 メリカは7%ぐらい、日本は9%ぐらいです。これが減っていくということはもうどうしようも
 ない。モデルがすでにあるわけです。それはいったい国家、社会の理想なのか。農業が2%とい
 うイギリスは理想の社会なのか。皆さんがいやこれは理想じゃないと思われるなら、何を理想と
 考えるのか、どうすれば理想になるのかという問題にすぐにぶつかります。

  この第三系列の異化領域は一見すると、ビルの中に日本料理屋があって、一杯お燗をつけて飲
 んできたよとか、そこに茶室があって、お茶会のまねごとをしてきたよといえば、僕らのちょっ
 とした仕事が終わってからの飲み代になるわけですが、この問題はそんなに簡単ではなくて、い
 かようにも重要な問題に数行することができるように僕は都市論をつくってきました。それは重
 要な問題です。だからいつでもどういうのが理想なんだということを問われています。ビルディ
 ングも、都市も、国家、社会もそれを問われているというのが現状だと僕には思えます。

  差し当たって東京という都市がモデルであるように、第一次産業、つまり農業みたいなものが
 O・2%ぐらいになってしまうのは避けがたいことだとお考えになるのが、怖いことだけれども、
 常識的だと考えたらよろしいと思います。国家、社会の問題としてもそうじやないでしょうか。
 先進国からどんどん第一次産業がゼロに近いところに行くだろう。あるいはそれをやらないなら
 第一次産業を天然、自然を相手にする産業からハイテク産業に変えるというやり方をするか、ど
 ちらかだと思います。

  そうしたら不衡はどのように生じるかといったら、東京と地方との不均衡から類推すればわ
 かるように、第三世界、アフリカとかアジアのある部分が農産物あるいは第一次産業担当地域に
 なって、先進国からだんだん第一次産業がなくなっていくというタイプの社会が、黙っておけば
 近未来のうちにできあがります。そのとき、その不均衡をどうするか。

  何か不均衡なのかというと、所得が第一に不均衡です。天然、自然を相手にする産業に従事し
 ている限り貧困から逃れられないということは、経済学上というと、僕は経済学者ではないのに
 生意気だといわれるからそういわないで経済工学と称していますが、経済工学上の定理ないし公
 理です、だから農業、農産物担当地域と漁業担当地域が世界中で貧困を背負うことになり、先進
 国から高次な社会が出現することになり、この不均衡はどうするかということになります。

  そうすると、贈与ということが経済工学上問題になってきます。つまり、交換価値ないし価値
 を主体とする経済学というのはそこでアウトになるだろう。贈与価値を主体とする経済工学上の
 考え方をしていかないと、不均衡は世界的な規模で是正できない。それは割合に近い時期になっ
 てくるでしょうと僕自身は考えています。

  そこのところで国家、社会というのはどうなったら理想なんだという問題に対する解答をいつ
 でも問われていると考えられたらいいと思います。この問題を小なる領域、小なる地域、あるい
 はビルディング内部でもいいんですが、そういうところで提起しているのが第三の系列に属する
 異化領域という場所だと僕には思われます。

  もう一つの系列の領域があります。これは皆さんがこのビルの窓から外を眺めればすぐに見ら
 れる風景がそうなんですが、隣のビルの人影を見ると事務をやっている。ここはそうでもありま
 せんが、そのビルの窓越しにJR線の電車か新幹線の列車が走っていたら、その中にまた乗客が
 立っているのが見えたというふうに、かつては一視野の中ではとうてい収まりがつかないような
 風景、何視野もなければそれだけの風景は見られないという風景が一視野の中に重なって見えて
 しまいます。もっと簡単なことをいえば、ビルの密集地域みたいなものがあります。これを第四
 の系列と考えると、これもとても重要な問題をはらんでいるんじゃないかと僕は考えました。

  およそ僕の分け方では、この四つの系列をつくると、イメージとしての都市というものを尽く
 せる。そのうち、異化領域と、視野が重なり合って過密しているイメージ、つまり過密したイメ
 ージがいつでもつくれる、いくつもの視野を想定しないとこれだけのものは見られない、そうい
 う二つの領域が、いまも重要でしょうが、これからも重要な領域になる。そしてそれだけを考え
 ればだいたい現在の都市の持っているイメージというのは尽くせると僕自身は考えて、四つの系
 列を選びました。




  異化領域と過密領域

  いま申し上げた重要だと思われる二つの系列について僕が考えたところ、もう少しぐらいは考
 えることができたので、そこのもう少しというところを申し上げてみます。第一に、どういう都
 市が平均的な都市かを想定するとします。そうすると日本の場合、都市も農村も含めて平均する
 とどうなっているか、第一次産業、つまり農業・漁業・林業のパーセンテージが人口でいくと8
 %ぐらいです。

  農業についていってみると、その8%ぐらいのうちの14%が専業の農家です。ですからかなり
 少ない農業人口になってしまいます。あとは兼業の農家です。兼業農家というのは二つあって、
 主たる働き手が正規の会社勤めをしている農家が第一種です。第二種は主たる働き手でも従たる
 働き手でもいいんですがパート、アルバイトで働いている農家です。現在の日本の農業の大部分
 は兼業農家で、専業農家は8%X14%、つまり8%のうちの14%に過ぎない人口が農業をやって
 います。

  よくよく考えると大変心細いということになりますから、論理としてだけいえば、農業の自給
 自足とか農業の自由化を阻止するといういい方はまったくナンセンス、成り立たないわけです。
 だいたい専業農家は8%の14%だけしかいないわけで、それで日本国なら日本国の食料を自給し
 ようというのは夢のまた夢、架空の論議であるということがわかります。これはだんだん減って
 いく一方であり、その種の論議というのは原理的にいえば問題にも何にもならない論議になって
 きます。僕の基準はちっとも保守党的ではないんですが、その手の論議をやっているのはうんざ
 りなんだと僕には思えます。つまり原理的にはもうそうなっているのです。

  第二次産業、つまり製造業とか建設業などが人口でいって33%ぐらいです。第三次産業、つま
 りサービス業とか流通業・娯楽業・教育などの産業が人口でいって57%、生産額でいえば60%ち
 ょっととなっています。
  だからいってみると、異化領域という場合、もし一つのビルの中に自然的な地べたに元来ある
 べきものと製造業・組立業的なものとサービス業・流通業的なものが、8%、33%、57%という
 割合で含まれているとすれば、それが日本の平均的なビルのあり方だということになります。ま
 たそれと対応するように、都市においてもそういう割合であったならば、それは日本における平
 均的な都市のあり方だということになると思います。

  その平均的ということは中性点、中立な点であり、よくもないし悪くもない点だということに
 なります。しかし別な意味から言えば、平均的な点というのが一番正常な判断力が存在できる点
 だということもできます。一つのビルの中の構成割合が平均的なパーセンテージから偏っている
 とすれば、そのビルはいいビルかもしれないし悪いビルかもしれません。それを判断するのは違
 う分析をしなければいけませんが、それが平均的から偏っているのは間違いないことだといえる
 と思います。ですから平均というのはよくも悪くもないということですが、逆にいうと、これが
 基準ですよ、常識ですよということになります。

  そして大なり小なり現実の都市というのは平均からずれるようにできあがっているし、マイナ
 スのずれが平均のほうに近づきつつあるか、そのどちらかのかたちが現在の日本の全体の社会で
 占めている感じ方、状態ではないかと思われます。それが現在の都市の領域だと思います。 
  ですから異化領域を考える場合、ビル=都市という一つの外枠、モダンな言い方をすればパラ
 ダイムをつくって考えれば、都市における異化領域の問題というのは考えやすくなります。都市 
 の枠組みもまったく同じように存在すると思います。それが現在の平均的な都市からのずれの問
 題です。

  ビルの将来がどうなるかについて極端にいえば、第三次産業層、第三次段階が100%近くを
 占めてしまうビルになっていくかもしれませんし、そうではなくて第一次産業だけがなくなって
 しまうビル、現在の構成が割にそれに近いと思いますが、そうなってしまうかもしれませんし、
 さまざまな形態が考えられます。

  現在、第三次産業あるいは第三次段階が100%を占めているビルというのは少しはあります
 たとえば東京タワーはそうだと思います。もう少しましな一つのビルが一つの観光会社であると
 か、同時に一つの都市の作用で、そこに二四時間ではないけれども人口が5万とか10万いるとい
 う都市ができあがっていって、近い将来その数は増えていくだろう。それをとどめる力はまず存
 在しないのです。

  たとえばナチス・ドイツならナチス・ドイツで、ヒトラーが国家権力を握ったとき、一般法律
 のほかに、総統合みたいな臨時法令をつくって、この都市はこうでなければどうとか、こうすべ
 しという人工的なことをやって、都市のあり方とかビルディングのつくり方に対して統制を加え
 た事実があります。あまり望ましくない政府ができて、そうやれば強制はできるでしょうが、そ
 れとてそんなに長続きするものではありません。文明の一種の自然の方向性というものを変える
 ことはできないので、多少遅くするか早くするかという違いがあるくらいで、僕はそういう勢い
 は止められないと思っています。

  第三次段階あるいは第三次層だけでできあがったビルそのものが一個の都市をなします。たと
 えばプランだけなら現在でも二つか三つ出ていると思いますが、超超高層ビルみたいなものをぶ
 っ建てて、そこで一つのビルが二、三〇万の人口を持った都市としてつくってしまう。上から下
 へ、下から上へ行くにはリニア装置がついたエレベーターで行くとか、プランだけはあると思い
 ますが、その手のワンビル・ワン都市、そういうビルがつくられ、そういうふうになっていく可
 能性も割合に近い将来に多くなると僕には思われます。[一部欠]それは追々増えていくだろう
 しいかようなこともできるだろうと思っています。

  もう一つはビルだけではなくて、都市自体を人工都市としてつくってしまうというかたちもで
 きあかつていくだろう。そこでもどういうのが理想的な人工都市なのかということが直ちにいろ
 んなところから問われると思いますが、一番わかりやすいのは第一次段階の産業と第二次段階の
 産業と第三次段階の産業を人工都市の中でどう案配し、どういう割合でつくるかです。

  現在でも人工都市に類似したものが存在しないわけではありません。その場合には、現在ある
 のは全部が消費都市だと考えたほうがいいようなものです。たとえば東京ディズニーランドであ
 ったり、大阪の西武がやっているつかしんであったり、全部が消費都市というかたちで、人工都
 市のモデルをつくっています。しかし、もしも郊外とか山を切り開いて、そこで理想的な人工都
 市をつくれということになったとした場合、どういう割合でどうつくればいいかということは直
 ちに問われると僕には思われます。

  そういうふうに考えて人工都市が設計されつくられたということは現在までのところ、日本で
 は存在しません。日本ではせいぜい建築家というのがいて、建築家の良心に訴えて、緑が大切だ
 と思う建築家はこういう設計をしてというかたちでつくられている都市とかいわゆるニュータウ
 ンといったものはありますが、それは必ずしも理想的につくられているわけではなくて、設計者
 とか施工者の良心でもってつくられています。

  たとえば現在みたいに縁が大切と社会的に言われていると、建築設計家もそういうことを考え
 たり、建築家としての理論的な問題というのももちろんあるわけで、その理論的な問題に照らし
 て自分の理念にかなう建物を設計してつくるとか、それに伴って街区や都市をつくるというもの
 はありますが、本当に理想的な人工都市とはどういう都市を指していうのかという問題について
 きちっと考えられてつくられた都市というのは存在しません。存在しないから理想的なものとは
 何なんだということは決めるのがなかなか難しいけれども、これは専門家の衆知を選りすぐって
 というふうに持っていけば、割合に簡単に弾き出すことはできるでしょう。つまり弾き出した設
 計をして、かつそれを実行するということがなされていないというだけで、弾き出すことは容易
 にできると僕には思われます。

  どんな国家社会が理想的な社会かというのも弾き出すことだけならば、専門家が寄り集まれば
 できると思います。理想的な国家、社会はこうだとわかっているつもりのやつが寄り集まって変
 な国家をつくって失敗したりしていますから、主観的に、知識人的に、あるいは知的にこれが理
 想なんだと言っても、そんなことはちっとも当てにならないので、理想の設計という場合、他者 
 というのがいるわけです。


  理想の設計には他者=一般大衆が必要

  どこに他者を想定するか。僕の場合には非常に単純です。つまり平均人、川崎徽さんの言葉を
 使えば、一般大衆です。理想の国家、社会をどうつくるかという場合の他者としては、一般大衆、
 それが唯一、他者になりうると僕は考えています。その他者を絶えずにらまえて知的な理想を弾
 き出さないと、要するにソ連とか東欧みたいに失敗します。あれは主観的な善意とかインテリの
 うぬぼれだけでやってしまったから、一般的な他者あるいはいうことを聞く大衆だけを目当てに
 してつくるからああいうことになるので、そうじゃない、いうことを聞くか聞かないかわからな
 い一般大衆、つまり平均人、そういう人を他者として照らし出さなければ、仮に弾き出しても失
 敗すると僕には思われます。国家、社会はどういうのが理想なのかという場合、一酢難しいのは
 そういうことのような気がします。

  それから現実的な条件としては、かつては一般大衆というのを想定しても、もしかすると明日
 お米を食べられないかもしれないぜという意昧合いの貧困が想定できたわけですが、現在の日本
 もアメリカも欧州も一般大衆というのは、お前の生活程度はどのくらいだと思うかというアンケ
 ートをすると、80~90%近くの人が自分は中流だと主観的にいうわけです。具体的にいえば、僕
 もビーピーしていますし、ピーピーしている人は多いと思うんだけど、僕がピーピーしているか
 ら俺は下層だといったら怒られてしまうと思うんです(笑)。ですからそういうこととは少し違
 います。

  しかし、自分は中層で中流だといっている人が日本国民の80~90%いるというのは恐るべき社
 会であって、これで平均人といってはかにすると、相当大変な人たちの固まりだということにな
 って、これを他者として想定しない限り、理想の国家、社会というのはどうなんだというその理
 想というイメージがつくれないし、理想の都市とは何だというのをもし人工的につくってみせろ
 といわれた場合でも、よくよくそのことを考えなければつくれない。つまり本当の難しさはそこ
 にあると思いますが、一通りの理論でいえば、平均人、平均都市というものを他者として理想の
 都市の設計を考えれば、それはだいたいにおいて大過ないというデータが出てくると僕には思わ
 れます。それはつくられていませんが、つくろうと思えばつくれるんじゃないでしょうか。

  つくれる場所は日本だって二つあります。一つは日本では都市、街というのはだいたい後ろが
 山で、前が海で、平地の真ん中に川が流れて海に注いでいて、山間というか山と河岸壁のところ
 に平地が広がっている所です。そうでなければ、かなりの標高のある低い山に囲まれた一種の盆
 地、海抜の割に高い盆地ですが、日本の街ができる地勢というのは犬ざっぱにいえばその二つし
 かありません。

  森林を伐採するのはけしからんというけど、日本の場合、山岳地帯というのはべらぽうに多い
 んです、だから森林を伐採して平地にしてということは、僕はそれ自体が悪だとちっとも思って
 いません。日本というのは山と海とに囲まれた狭い地域とか山の中の盆地というところに街がつ
 くられていて、その面積は、皆さんがデータをお調べになればすぐにわかりますが、非常に少な
 い領域です。

  ですから人工の都市をつくる可能性はたくさんあります。もちろん海のほうに広げるというの
 は安直ですから、東京でもやられているし、一番見事にやられているのは福岡だと思います。そ
 ういう意味合いで都市として発展すると思えるのは千葉ですが、そういうところは現にやられて
 います。しかし、そうではなくて、人工的な都市をつくれという場合には、内陸部で山を削ると
 いうことになっていくのではないでしょうか。

  それくらい日本の街というのは全体領域としていえば挟いし、森林が伐採されているといいま
 すが、森林の伐採されている度合いはきわめて少ないことが皆さんがデータを広げてご覧になれ
 ばすぐにわかります。それほどイメージが違ってしまうんです。社会的通念としていわれている
 イメージと、皆さんが本当に目をさらしてデータを調べてというふうにされたら、まるでイメー
 ジは違ってしまうと思います。異化領域の問題としてそれをもっと広げていくと、その問題とい
 うのは存在すると僕には思われます。


  過密領域

  それから視野が重なっていく過密領域、重畳領域ということになりますが、これには過密重畳
 現象のあまり、イメージのいくつかの特色が表れます。それをいくつか挙げておきましたが、一
 つは重畳現象があまりにひどくて極端で、視野を行使すれば十人分の視野ぐらいはすぐに集まっ
 て重なって見えてしまうというかたちになってくると、イメージと現実とが同一化して、溶け合
 ってしまうという現象が起こります。錯覚としてなら皆さんも体験されたことがあるでしょうし、
 僕も体験したことがあります。おやっと思って、これは現実のビルの窓から見ている光景とは思
 えないよとあるときある瞬間に感じたということは誰にでもあるでしょうが、現実とイメージと
 の溶け合いが起こってしまうというのが一つ重要なことです。

  僕が唯一こういうのを具体的な視野で見だのは、後楽園の遊園地で観覧車に乗って、ジェット
 コースターが走っているそっちのほうを見たときの視野が典型的にそうです。後楽園内部の建物
 とか、ジェットコースターのレールもそうですが、そういう設備と、その周りを取り巻いている
 三、四階の低いビル、その向こうの後景に見える割合に高いビル、そういうものとの区別がまっ
 たくつかなくなることがとてもよくわかります。

  つまり、人工的な一種のキンダーランド、子ども子どもした稚拙な場所が町中にあるとすると、
 それはある視覚から見ると、町中のほうが遊園地の続きなのか、それとも遊園地のほうが町中の
 続きなのかは区別がつかないというふうに、景観を体験することができます。僕は少なくとも観
 覧単に乗ったその視覚から見た後楽園の遊園地というのはそういうふうに見えて、大変興味深い
 場所だと思っています。

  その手のことはある瞬間あるとき誰も体験するということはもちろんそうなんですが、重畳領
 域における作用、あるいはそれに視覚あるいは視覚的イメージが慣れていく作用というのは、イ
 メージと現実のものとの区別がだんだん溶け合ってしまう体験だと思われます。これは現在では
 技術的にもっと高次な体験を機械的にすることができる装置ができていると思いますが、機械的
 な装置ではなくて、具体的に現実の都市の中の場面として重畳した領域というのは、イメージと
 具体的あるいは現実的な街との境界が溶け合ってしまう、わからなくなって同一化するというこ
 とが起こります。

  もう一つ起こることがあります。この都心でもある場所からある視覚であれば必ず、境界が溶
 け合ってしまって、映画でも見ているようだなという感じを体験することはできるのではないか
 と思います。




  感心した長島温泉

  僕が境界の溶出ということでもう一つ体験しだのは、名古屋から三十分ぐらい行ったところに、
 長島温泉という俗悪無類のといわれている温泉場があるんですが、そこはびっくりしたところで
 す。たとえば旅館がビルになっていて、もちろん温泉が中に引いてありますし、共同浴場もあり
 ますというふうにできている。そして共同浴場から手ぬぐいを引っかけて部屋まで帰る途中の両
 側にスタンドやバー、飲み屋があったりして、そこでお湯に入った帰りがけに一杯ビールを飲ん
 でということが通路からすぐにできる。また朝は朝市がビルの中に立って、海産物とか干物とか
 第一次産業の産物をそこのビルの中で買うこともできるし、もちろん見ることもできるというふ
 うになっていました。

  それからド駄を突っ掛けたら怒られてしまうから靴を履いて庭からドりると、庭の続きが後楽
 園遊園地みたいなキンダーランド、遊園地になっていて、ジェットコースターもあれば観覧車も
 あり、子どもと大人が遊ぶ何でもあります。おまけにヘリコプターの基地まであって、一人二千
 百白円か三千円を出せばヘリコプターでそこから飛び立って、あたりを三、四分見せて戻ってく
 る。それがちゃんと庭続きにそういうふうになっているということで、そこでも境界が溶けてな
 くなっているわけです。

  僕はそれに大変感心しました。温泉場といえば深山幽谷の山の中の湯、お風呂場で人里離れて
 たまにはゆっくりしたいなとも思いますが、長島温泉的にあそこまでやれば、これはどうしよう
 もないよというくらい、すごいものだなと思いました。金は取られるわけですが(笑)、うまく
 できていて、サービスから何から、不愉快とか不便に思うことは何一つない。深山幽谷の温泉場
 もいいけれども、その場合には多少何とかが不便だなとか、ここで一杯飲めたらな、でもそれは
 ちょっとできないなとか、ここで何々を食べたいんだけど、それは無理だなとか、いろいろ制約
 がある。つまり第二次産業、第三次産業を犠牲にして深山幽谷で休むわけですが、こっちのほう
 はそういう意味合いでは至れり尽くせりです。とにかく文句をつけさせるところは、金だけです
 ね(笑)。全が高すぎるよと文句をつければ別ですが、それ以外には何もない。

  これは一つの極限の見事さで、ここまでやるなら感心する以外ないよ、一種の未来都市、未来
 像だよという感じです。そういうことばかりいってよくこのごろは怒られるわけですが、歌詠み
 の会があって、おしゃべりするので名古屋に行ったんです。今日はこれからどうされるんですか
 と言うから、ほかは一杯でそこしかなかったんだとか言いながら、長島温泉に行くんだといった
 てくれば似ている言葉を突き出すこともできますし、似ているといえばいえそうなところもある
 でしょうということだと思います。

  かくのごとくクレオール化か起こると、どちらにも似ていない第三の言葉ができるわけです。
 その第三の言葉ができた場合には、言語学者にいわせれば、一種の稚拙化か起こるそうです。こ
 れは日常体験することができます。たとえば韓国人でも中国人でも日本語を使うと、「私、中国
 人」とか「私、韓国人」というでしょう。また日本人が韓国人や中国人に日本語を説明するとき、
 ちゃんと日本語でいえばいいんだけど、ときどき「私、日本人」というふうに、助詞とか助動詞、
 動詞を抜かしていいたくなるということがある。それは稚拙化の一種で、二つの違った言語が境
 界面でぶつかってきたところに起こる一つの現象です。


  稚拙化の表れ

  僕の理解の仕方では、これらの先鋭的、前衛的な建築設計家たちが設計して実現しているもの、
 それから部分的にいえば入王都心、人工地域みたいなもので現在やられているモダンあるいは超
 モダンなプランというのは、一般的に概していえば稚拙化の表れだ。段階の違う境路面にぶつか
 らざるをえなくなって、ぶつかったあげく稚拙化か起こっていると理解するのが一番いいと思い
 ます。

  現在の建築というのは、名だたる建築家たちが設計したと称せられているもの、稚拙化といっ
 てしまえばいいきれてしまうみたいなものが多いんです。それは問題意識を煮詰めていくと、段
 階の違う、産業でいえば第一次、第二次、第三次というように、つまり第一段階、第二段階、あ
 るいは第一層、第二層、第三層というふうに、レイヤーの違うものの境界面にぶつからざるをえ
 なくなっているから、その種の設計とかプランができてしまうということがあります。つまり、
 高度だと思っていて、たしかにある面は高度なんですが、別な面から見ると、一種の稚拙化か起
 こっているといっていい。

  ですから一人の人はシュルレアリスムの方法が有効だと思うみたいなことをいっていますが、
 シュルレアリスムみたいに無意識を解放すれば稚拙化かそういう面から起こるのは当然だともい
 えます。しかしシュルレアリスムの問題ではなくて、イメージの問題としていえば、超シュルレ
 アリスム、ハイパーリアリズムという問題になっていく。つまり、現在およびこれからの無意識
 をつくるということの問題がイメージの先端的な問題なんだと僕には思えます。

  この先端的な問題と理想的な問題とは必ずしも一致しませんが、理想というのは先端的であれ
 ばいいか、新しければいいか、全部間違っているから間違っていないやつを選べばいいかといっ
 たらそんなことはないので、いつでも一般人的なもの、平均人的なもの、あるいはそのときの平
 均都市的なものを絶えず他者としてこっちに持っていなければ、どんな先端的な試みも危ういで
 しょうね、と僕自身は考えています。

  僕が自分なりの考え方で都市論をやってきて、いま自分なりにはわかってきたと思えていると
 ころはそこらへんまでで尽きてしまいます。だいたいお話しできたと思っていますから、一応こ
 れで終わらせていただきます。

                                 第一部 吉本隆明の経済学 
 

この項で吉本は重要なことを言っている。科学技術力あるいは産業の高度化により、第一次産業の相
対的な生産高の退潮により、所得格差拡大を指摘し――そうすると、贈与ということが経済工学上問
題になってきます。つまり、交換価値ないし価値を主体とする経済学というのはそこでアウトになる
だろう。贈与価値を主体とする経済工学上の 考え方をしていかないと、不均衡は世界的な規模で是
正できない。それは割合に近い時期になってくる――と。ところが農業をコアとした第一次産業の高
次化が加算的に起こるdだけでなく、相互浸潤的に多乗的に進行するゆえ、農業生産高の退潮は一定水
準で下げ止まり、従って、市場経済性が機能維持し交換価値機能が簡単にはなくならないとわたし(
たち)は考える。もうひとつ、「日本の場合、山岳地帯というのはべらぽうに多いんです、だから森
林を伐採して平地にしてということは、僕はそれ自体が悪だとちっとも思っていません」との彼のエ
コロジスト感を述べているが、人間の環境に与える影響力評価あるいは生態学的な見識には不満であ
った。                     
                                                   
                                                       
                                          (この項続く)  



● JR石巻線が全線開通


東日本大震災で被害を受けた宮城県のJR石巻線が、2015年3月21日に4年ぶりに全線開通した。不通
だった宮城県女川町の女川‐浦宿がつながり、朝6時12分に女川駅から一番列車が出発。津波で被害
を受けた女川駅も再建されたという朗報だ。

   


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