●『吉本隆明の経済学』論 32
吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
資本主義の先を透視する!
吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも異
なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
はじめに
第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 生産と消費
第5章 現代都市論
第6章 農業問題
第7章 贈与価値論
第8章 超資本主義
第2部 経済の詩的構造
あとがき
第1部 吉本隆明の経済学
第6章 農業問題
解説
吉本隆明のファンには農業者もたくさんいた。彼らは米価問題やオレンジ輸入自由化問
題などが起きて、日本の農業が危機の時代に突入していった頃、農業の問題についての吉
本隆明の考えをどうしても聞きたいと思って、熱心に講演を依頼した。そういう申し出が
くると、彼は遠いところにでも喜んで出かけて自分の考えをしやべった。
食い入るように吉本の話に耳を傾ける農業者を前にして、しかし彼はけっして耳に心地
よい話をしなかった。先進資本主義国において、農業人口は否応なく滅少していくことに
なる,農村そのものがいずれ消滅に向かっていくだろう。これは資本主義の原理からする
とどうしても避けることのできない、必然的な過程に属するのである。その理由は農業が
天然自然を直接相手にする産業だからであり、交換価値を価値増殖の原則とする資本主義
では、農業が貧困化していくのを、いかなる政策をもってしても押し留めることはできな
い。
こういう話を聞かされた農業者はさぞかしがっかりしたことと思われるが、たとえ相手
の耳に痛いことでも、それが真実のことならば相手に語らなければならないという信念に
もとづいて、吉本隆明は農業者に熱心に語り続けた。その語りの真摯さに、私たちはいま
あらためて感動をおぽえる。
エコロジストや有機農法家の考えにたいしても、吉本隆明は一貫して批判的だった。彼
は「自然史過程」を一つの重要な判断基準としていた。大きな目で見たときそちらの方向
に進んでいくことが、まるで自然史の過程のように必然的であるものにたいしては、それ
を受け入れたヒで、出てきた問題についての対処を考えなければならないはずなのに、た
とえ自然史過程に逆行していても「オルタナティブ」なものがすぐさま可能であるかのよ
うに言う主張には、古本はいつでも突っかかっていった。たとえ緑のイデオロギーでもし
ょせんは幻想領域に属するもので、自然史過程の中でいずれ消えていくものだからである。
私は吉本隆明がこれは自然史過程であると見なしたもののすべてが、ほんとうにそうで
あるのかということについては、いくつかの疑問を抱いている。しかし彼が農業について
語ったことのほとんどが、今では明白な現実となっていることは確かである。そこからの
脱出を探ろうとするとき、吉本隆明がこの問題について得た認識はすべての出発点となる。
1 農村の終焉――〈高度〉資本主義の課題
農業の構造と変化
吉本です。ここへ来るのは四回目です。前三回は良寛の話をしにやってきました。
今回は農業問題ということで、もちろん私は農業経済の専門家でも何でもなく、素人ですけれ
ども、「修羅」の同人の方は勉強家の集まりで、おれたちも勉強したんだからおまえも勉強しろ
ということだろうと考えまして、ぼくなりに本を漁ったり、さまざまな人たちの論議を読んだり
してきました、
まず本屋さんに行ってみますと、農業問題の専門書ははなはだ少ないことがわかります、ほと
んどコーナーすらない。お医者さんでいえば結核専門医になる人がもういなくなったのと同じよ
うに、農業経済専門の領域は、たぶんもうすたれた領域になっているんたろうと思います。本来
ならば、現在みたいになぜか農業問題が素人の問で口角泡を飛ばしたり、あるいは殺しかねない
勢いで論議されているときに、農業経済問題の専門家が、まず専門的な基礎から、農業問題はこ
うなっているんだということをはっきりと発言され、意見を述べられて、そういう専門家の論議
と実証との上で現在の素人論議――私も今日やるのですが――がなされるといいと思うんです。
階の違う、産業でいえば第一次、第二次、第三次というように、つまり第一段階、第二段階、あ
るいは第一層、第二層、第三層というふうに、レイヤーの違うものの境界面にぶつからざるをえ
なくなっているから、その種の設計とかプランができてしまうということがあります。つまり、
高度だと思っていて、たしかにある面は高度なんですが、別な面から見ると、一種の稚拙化か起
こっているといっていい。
ですから一人の人はシュルレアリスムの方法が有効だと思うみたいなことをいっていますが、
シュルレアリスムみたいに無意識を解放すれば稚拙化かそういう面から起こるのは当然だともい
えます。しかしシュルレアリスムの問題ではなくて、イメージの問題としていえば、超シュルレ
アリスム、ハイパーリアリズムという問題になっていく。つまり、現在およびこれからの無意識
をつくるということの問題がイメージの先端的な問題なんだと僕には思えます。
この先端的な問題と理想的な問題とは必ずしも一致しませんが、理想というのは先端的であれ
ばいいか、新しければいいか、全部間違っているから間違っていないやつを選べばいいかといっ
たらそんなことはないので、いつでも一般人的なもの、平均人的なもの、あるいはそのときの平
均都市的なものを絶えず他者としてこっちに持っていなければ、どんな先端的な試みも危ういで
しょうね、と僕自身は考えています。
僕が自分なりの考え方で都市論をやってきて、いま自分なりにはわかってきたと思えていると
ころはそこらへんまでで尽きてしまいます・だいたいお話しできたと思っていますから、一応こ
れで終わらせていただきます。しかし、現在やかましく論議されている農業問題とか、農業問題
に円高がどういう影響を与えるかとか、米の自由化の問題とかについて、専門家で発言されてい
るのは、ほとんど皆無だと思います。皆、専門家ではないのです。
日本は現在、高度資本主義社会ですけど、そのなかで農業あるいは農村がどうなっていくのか
という歴史的な推移の問題があります。それからもうひとつ、農業問題はまた都市問題とからま
っています。
農業に問題が生じたのはなぜかといいますと、一般に農家は農業耕作と兼業で織物を織るとか
養蚕をするとか、あるいは手工業的に細工物をつくるとかいう兼業でやっていました。その規模
と需要がだんだん多くなってきて、一家あるいは農村だけでは賄いきれなくなって分業が起こり、
農業を専門にやるものと織物や紡績を専門にやるものとが分化してきました。その分化した人た
ちが、便利な立地条件のところにかたまりで移っていきます。そして手工業からだんだん機械工
業へ発達していって、それが都市になったのです。
つまり手工業と農業を同一の人が同一場面でやれたときには、農業問題はなかったのです。問
題が起きたのは、分業が起きて、農村と都市とが利害相反するようになったからです。専門が分
化されてしまって、農業をやる人が機械工業に従事することはできないし、機械工業に従事して
いる人は農業に今さら従事することはできない。そのくらい、専門が分化してしまったことが、
農村問題を歴史的に発生させたもとです。
つまり、農村と都市との対立、それから工業と農業との対立が農業問題を発生せしめたもので
すから、農業問題は都市問題と切り離すことができないのです。遂にいいますと、都市問題の論
議をやるんなら、農業問題を切り離すことができないという歴史的な関係にあります。
これも専門家が専門上のことをはっきりさせ、そして現在の段階がどういうところにあるか、
全体の歴史的な段階がどういうところにあるかということを基礎に据えて論議がされるべきです。
つまり切実な現在の問題とか、そのときどきの円高ドル安が起こってから急にクローズアップさ
れてきた問題とか、歴史的な推移、文明の推移、あるいは人類の歴史の推移とかの大きな流れの
中で、現状に起こる切実な問題を論議されるべきです。それで対立が起こるなら起こるというあ
り方ならば、とても論議がしやすいし、通じやすいのです。
しかし、現在日本でなされている論議は、ぼくが読んだかぎりでは、専門家の発言はほとんど
ゼロです。とくに専門の研究者の発言はゼロに近いとおもいます。発言しているのはたいてい素
人です。素人は宙に浮いた論議になるか、専門的な基礎がないところでの論議になるか、そうじ
ゃなければ、あまりに切実過ぎている問題を全体の問題に広げてしまう、両方がそういう論議で
対立してしまいます。その対立の中には、冷静で学問的に文明の推移、歴史的な推移を考える姿
勢はありません。都市との対立の問題や、つぶれるかつぶれないかという切実な利害の問題とか
を、ぜんぶいっしょくたに論議するのが素人の論議――ぼくもそうですけど――の特徴です。
ある面では、殺しかねないくらいきわどい言葉で論議が飛び交わされるんですけど、本当は両
方とも全体のことは何も見てないとか、具体的な現地のことも見てないのが現状だとぽくは考え
ます。
ぼくも素人としての反省があるものですから、本当なら、専門家の論議しないことを素人が口
をだすのはよくないことなんで、しないほうがいいのですけど、素人であるにもかかわらず、割
合に切実に考えています。「修羅」同人の方が非常に切実にそういうことに関心をもって、自分
たちが勉強しておられる。そしておまえだって都市論みたいなことをやってるんだから、まんざ
ら農村の問題も関係なくはないだろう。本来ならば一緒に論ぜられるべき農村の問題についても、
勉強不足では話にならないから、おまえも勉強しろ、勉強した成果をしゃべろということで、素
人だけどしゃべることになったのです。
ただぼくは、割に内省する素人ですから、多少ほかの素人の方の論議と違うだろうと考えてい
ます。それ以上のことは、ぼくは専門家に及ぶはずがないのです。それから、個々の切実な現場
におられる方にこちらが学ばなければならないほどの素人ですから、切実さがそこに触れること
は、あまりできかねるかもしれません。しかし、唯一のとりえは割合に広い視野をもっていると
いうことでしょう。それから割に内省的ですから、もしかすると皆さんがいかに切実であり、い
かに現場におられようと、あるいは専門家の方がおられるかもしれないけど、何か少しくらいは
得るところがあることを、お話できるかもしれないと考えてやってきました。もしかするとでき
ないかもしれませんが、それは了解を願うということをあらかじめお断りしておきます。
まず、ぼくなりにできるだけ冷静に、現在起こっている農業問題をみてみます。口角泡を飛ば
して論議がされ、対立がある場所に、あらゆる進歩的勢力が入るかとおもうと、保守的な勢力が
そこに流れ込み、それからエコロジストがなだれ込んで、余計なことをいうものですから、もう
むちゃくちゃで、てんやわんやになって、あんちくしょう殺しちゃえというくらいの論議になっ
ている局面もあります。それから、さきほどぼくの前に話された方のように、現場におられて切
実なところでやっておられても、きわめて冷静に抑制的にお話になられる方もいます。
ぽくも本を読んでびっくりしたんですけど、もう殺しかねまじき発言をする人がいます、それ
がみんな素人とか、ほかからなだれ込んだ政治運動家くずれとか、市民運動くずれとか、エコロ
シストくずれとか、全部がそこに入ってきて、本当の農家の人とか、本当の都市サラリーマンは
どこにいるんだというふうに、どちらもどうしようもない感じです。しかし、対立だけは鮮やか
に浮かび上がってきて、その論議たるやちょっとあほじゃないかという論議しかない、そういう
現状です。
そこでぼくなりに、現代の農村、あるいは農業の問題はどうなっているか、勉強した範囲で入
っていきたいとおもいます。都市論から入ってもいいんですけど、遠回りになりますから、農業
の具体的な問題をできるだけ冷静に話して、もし時間が許すならば、最後に、現在、目角泡を飛
ばしてやられている農村対都市、農村チャンピオン対都市チャンピオンの対立の仕方に触れて、
その問題点をぼくなりの観点から批判してごらんにいれようとおもいます、
農家の経済
まず、ぼくが依ったデータは、『農業白書』の昭和六一年度胆です。そこから、適当に重要だ
とおもうところだけ、ぼくなりにピックアッブして、アレンジしてもってきました。ぼくが一生
懸命現場をあたって調査して出したデータでも何でもありません。書店に行かれれば、どこでも
売ってますから、それをご覧になれば、冷静なデータが出ています。そのなかで、ご自分の切実
だとおもうデータをよくご覧になれば、問題の所在はわかるんじやないかと思います。ぼくは専
門家ではないし、また別にそういうことを隠す立場ではないので、何に依ったかというのをはっ
きり申しあげます。いろんなものを読みましたけど、結局、『農業白書』のデータが割合に高度
で妥当性があるとぼくには思われました。そこから入っていこうとおもいます。
皆さんのほうで、そんなことはおめえがいうまでもなく、切実な問題だというのはみんな知っ
ているんだという場合は、ここでもう一回復習するという感じで、そうじゃなければ、あいつは
間違ったことをいってるとか、そういう感じで聞いてくがさればよろしいとおもいます。
どこから入ってもよろしいんですけど、まずはじめに、現在の農業の構造と農家の経済はどう
いうふうになっているかという問題から申しあげてみましょう。
『白書』のデータはどういうふうにとってあるかというと、前の年の同期に比べて増犬している
か減っているかという率を、昭和58年度から六一年度までピックアップしています。どういう
ことをいっているかといいますと、まず①の「農業就業入口」(図15参照)です。昭和58年度
の農業就業人口はマイナス4%です。これは、57年度に比べて就業人口が4%減ったという意
味です。
その次は、「農家の戸数」です。58年度の農家の戸数は前の年より約1%減っています。「排
地面積」は前の年よりO・何%か減っています。それから「農業所得」――これは総所得だとお
もいます―総所得は前の年に比べて4%増えました。それから「農外所得」――農家で農業以外
のことで得られた収入――は前の年に比べて3%ぐらい増え、いちばん増えたのは、出稼ぎとか
年金とか年金扶助とかその他の雑収入で、それは一戸当たり前の年に比べて8%ぐらい増えてい
ます。
これを金部ひっくるめた一戸当たりの総所得は、だいたい4%ちょっと増えています。59年
度は、「就業人口」は前年度から2%滅って、合わせるとどんどん減っているという意味になり
ます。
みんなマイナス点になっていますから、現在に近づくほど減っていることを意味します。「農
家の総所得」もだんだん減りつつあります。前の年に比べて増えているんですけど、率としては
減りつつあるというのがこのグラフからわかります。
つまり、農家の所得は概して前の年に比べて年々増えていっ・ています、しかし、よくよく考
てみると、これをそのまま延長すれば、来年はまたもっと減るかもしれません。再来年はもっと
減るかもしれませんよ、ということを意味しているかもしれません。何か特別な異変が起これば
別ですけど。それでも前の年に比べてマイナスにはなっていない。増えていることは確実に増え
ている。増える率も減りつつありますけど、現在、依然として農家の総所得は増えつつあります。
しかし年々、現在に近づくほど、あるいは未来に近づくほどかもしれませんけど、減りつつあり
ますよというデータになっています。
これはとても切実なんじゃないかという気がします。つまり、一面では農家の所得は増えてい
ます。対立する都市のサラリーマンから、農家の所得は増えているじゃないかといわれている理
由だと思いますけど、農家の人から見れば、いや、増えてる増えてるというけど、だんだん心細
くなっているんだ、増え方が少なくなっているんだぞという問題だとおもいます。このことは、
現在のさまざまな論議の中で、感情論を抜きにしてみれば、相当切実な問題なんじゃないかとお
もいます。
これは『白書』に書いてあることで、目新しいことじゃないんですけど、よくよくグラフを読
んでご覧になると、切実なことがいろいろわかります。感情論ではごちゃまぜにしていることが、
本当は分けて考えなきやいけないのです。
農業人口は減りつつあるし、農業就業人口も減りつつあります。それから農家の戸数も減りつ
つあります。年々増えた兆候はないですから、とても重要なことを暗示しています。もっと未来
になったら、なおさら減っていくんじゃないかということが、このグラフの自然の推移からいえ
るのです。
これは論議の問題でもなく、こうなるのが理想だという問題でもなく、現状および過去とこれ
からの問題として、自然の推移をとれば、農家の戸数はだんだん減っていくだろうし、人目も減
っていくだろうということです。収入は依然として増えつつあるけど、収入の増え率は減りつつ
ある、といえます。これは具体的な推移の事実の問題です。ここには、どんな感情論も入る余地
がないのです。このデータが正確であるかぎり、感情論は入る余地がなく、そういう趨勢は、ち
ゃんと頭に入れておかないといけないのです。そのうえで、所得をもっと増やさなければいけな
いとか、農家の人目を増やさなきやいけないという論議とか、農家の所得は多過ぎるから減らせ
という論議とか(竹村健一さんの論議にはそういうとこがあります)、こうあったらいいという
目標とか見解が起こるのです。起こり方はさまざまでもいいけど、まず一般的な推移から推察で
きることは、はっきりさせておいたほうがいいので、そのうえで論議がなされるといいとおもい
ます。
その意味で、これは重要なものだと考えます。
その次に取りあげたのは、労働者と比較した「農家の家計費」はどうなっているかということ
です。農業以外の一般労働者、工場労働者とか製造業の労働者とかの家計費を100として、農
家の家計費を45年度から60年度まで掲げてあります(図16参照)。45年度を除いて、農家
の家計費のほうが都市労働者の家計費より多いということがわかります。個々の方々が、いやお
れのとこは少ないとか、おれのところはもっと多いという人もおられるでしょうけど、これは総
所得の平均ですから、平均では農家の総家計費のほうが多くなっているのが現状です。だけど、
内訳をいいますと、専業農家の家計費は、本当は工場労働者とか製造業の労働者より少ないので
す。100に対して、90くらいです。
それから、第一種兼業農家というのがあるでしょう。第一種兼業農家というのは、皆さんのほ
うがよく知っているわけで、いうのが恥ずかしい気がしてしようがないけど、ときどき内職に近
所の工場に働きに行くとか、事務所に働きに行っているのが第一種です。第一種兼業農家の家計
費も工場労働者の家計費の平均より少なくなっています。第二種兼業農家というのは、うちは農
家で農業もやるけど、定期的にちやんとした全日制の勤めに行っている農家です。第一種兼業農
家の家計費は、都市労働者の家計費より多くなっています。
ここのところが竹村健一さんの論議を見ると、非常に癇にさわっているところ、感情論になっ
ているところだという気がします。
しかし、よくよく内訳を見てみれば、本当に専業に農業をやっている人の家計費は少なくなっ
ています。これも論議の事実的な基礎をはっきりさせる場合に、非常に鮮やかなイメージを与え
るものだとぼくには思われます。これはおもしろいのです。反竹村健一とか、反大前研一という
人たちの中で、家計費が多いということと生活が豊かであるということは別じゃないかという論
議をする人もいます。いろいろですけど、現在みたいな素人論議と感情論と、変な政治運動家崩
れみたいなのが入ってきて、やたらに都市と農村の対立をあおっているのがありますけど、そう
いうとてつもないやつの論議を聞く前に、まずちゃんと事実としてこういうことがいえますよと
いうことをはっきり押さえておいたうえで論議されたほうがよろしいんじゃないでしょうか。
それから、そういう問題に付随して、現在、食生活はどういうふうに変わりつつあるかという
ことをちょっと申しあげたいとおもいます(図16参照)。これはぼくがいわなくても、皆さんが
実感でおわかりですし、『白書』にもとってもよく書いてあります。現在の食生活は、まず年齢
によって多様化しています。もし食生活の消費に対応するように農業をするほうが経済的に有利
だとしたら、とくに都市なんかそうですけど、年齢層によってずいぶん主食と副食の食生活は多
様化しているといえます。
ここらへんは、ぼく自身、実感でとてもよくわかるのです。自分のうちでも、子供は一食ぐら
いはどうしてもパンあるいは洋食の主食じゃないとだめだみたいになっています。そこらへんは
妥協できるのです。子供のほうも妥協して、こちらの年代用の主食とおかずに合わせることもで
きるから、まず争いは起こらない。しかし別々にします。時間も別だし、食べるのも一食ぐらい
は別だ、みたいなことは起こっています。
それから、ぼくのところでも切実になるだろうなと思えるのは、ソースの好みがまるで違うの
です。ぼくらはソースというと黒い色をしててダボダボという、おしょうゆみたいな色をしてい
るものしか思い浮かばないけど、子供たちが作ったり食ったりしているのは、洋食からくるソー
スで、実に多様なソースです。ぼくらはちょっと嫌だなというか、こいつはどうも口に合わない
なという、何となく全部お酢が入っているみたいな感じと外観が気持ち悪くてしょうがねえなと
か、あまり妥協できないところがあって、違うものをかけて食べたりします。だけど、こっちが
年とって足腰立たなくなって、子供が食事を作る場合、ソースというのは、もう決裂だなという
感じです。将来を考えると、暗流としてくるので、ソースの多様性ということでは、もう若い世
代とわれわれとは全然違っている。年齢・階級によって食品の多様性と、それから格差が連うと
いうことが、現在起こりつつあります。
それから、みんな関連しているのですけど、さまざまな食料・加工品が出回っています。これ
は農業の問題でいえば、農産物加工の問題と対応する気がします。
また、家計費と関係しますけど、加工食品を買っておかずにする、あるいはもとから作ること
はしないということが、都市では多くなりつつあります。これらの変化を消費の変化に対応させ
て農業の構造を考えるなら、こういう点が都市サラリーマン、都市の一般大衆の消費の形と対応
がつくといえそうな気がします。そんなことはいうまでもなく、日本の農業がやりつつあること
には違いないんですけど、このへんまでいわれてしまえば、非常に明瞭に農業のやり方とか構造
は、どう変わったら対応できるかという問題が出てきそうな気がします。
それから、消費者の要求の変化や消費の仕方が多様化している、つまり食べ方がいろいろにな
っているし、加工の仕方、あるいは加工製品の要求の仕方がいろいろになっているということ。
もうひとつは、有機農法と関連するんでしょうけど、食品による健康に注意するようになった
ということが、都市の生活者でもいえます。これは栄養のバランスの面からも添加薬品について
も注意するようになったということです。これも農業の問題と関連します。健康・保健に気をつ
けた農産物、あるいは農産物加工品の製造は、一種のモダンな問題です。
つまり、昔の農業はよかったという観点、エコロジカルな観点からだけではなくて、現代的な
要求として健康・保健に注意するということに対応する健康食品といいますか、原始農業の問題
じゃなくて、現代的な問題としてあるとおもいます。だから、一種の食品加工業と同じ意味で、
健康食品、あるいは健康農産物の生産とか製造とかが問題になると思います。エコロジストがい
うような意味あいだけではなくて、非常にモダンな農業問題としてあるといえそうです。
もうひとつあります。それは、ふるさと食品とか世界中のグルメ食品とかに対する要求とか嗜
好が増加しつつあるということです。これも感情論でいうと、ふるさと食品は郷土の産物であり、
エコロジストが強調するように、濯日ながらの」ということにウエイトがあることになります。
しかしそれだけじゃなくて、非常に現代的でモダンな問題として、都市の一般大衆の消費の中で
要求が出てきつつあるという問題です。これも両面から考えることが必要です。
世界グルメ食品みたいなのを好んで輸入して食べるということは、食品輸入が国内の農業経済
を撹乱するだけではないのです。世界のグルメ食品に対する嗜好が、都市の一般大衆の消費の中
で起こりつつあるというモダンな問題として、切実な問題として起こりつつあるということです,
これもそういう両方の基礎から考える余地があります。
これらの食生活の変貌は、都市ほど著しいでしょうし、都市の中でも、大都市ほど著しいでしょ
しう。
これらの消費に見あうように農業構造を変えることが、農業問題として切実であるならば、こ
ういう問題に対して、充分に対応する方向を探る余地があり得るんじゃないかと思われます。そ
の場合、ふるさと食品が対立の▽万に属し、世界グルメ食品は対応の一方の側に属するというよ
うな対立の仕方は、あほの対応の仕方だとぼくはおもいます。そうじゃないのです。これらは両
義性があるのです。非常にモダンな問題であるとともに、非常に昔からの問題です。
食品輸入ということでは、国内の経済に影響を与えるでしょう。しかし、その食品を日本の国
内の農業および付随産業がそれとおなじかそれよりいいものを作れるようになったらいいので、
これもやはり切実な問題としてかんがえる余地があると理解します。
農業の生産構造の変化
農業の生産構造の変化はどうなっているかという問題を申しあげます。要するに『白書』が指
摘するところそのままなので、皆さんの実感にも合うのじゃないかとおもいますし、ぼくらの理
論的な推定にも合います。
ひとつは、農業生産が、家畜の飼育みたいな施設型の部門と、稲作のような土地利用部門の農
業とふたつに分化することが非常に著しくなった。
これが現在の大きな趨向だといえます。そしてこれは特に日本が西欧並みの高度成長を遂げて、
西欧並みの社会に突入したといわれかけたころから、施設型の農業と土地利用型の農業の分化、
分業の傾向が著しくなったのです。これらもよくよく考えれば、別段だれがいおうとそうなって
いるという常識的なことで、ちっとも目新しい問題じやないといえそうです。
それからもうひとつは、稲作みたいな土地利用型の部門で、大多数の零細兼業農家と大規模農
家との分化が非常に進んできました。これは『白書』が指摘していますし、ぼくらも常識的にそ
うかんがえます。これは非常に切実で重要な問題でしょうけど、ある意味では資本主義社会で農
業が資本主義経済、あるいは資本主義経営の型に大なり小なり影響を受けていかざるを得なくな
ったとき、製造業の労働生産性と農業の労働生産性を枯抗させようとすると、大規模化と機械化
とを、だれでも考えていくわけです。そうすると、大規模化・機械化が可能な地域と、それが可
能でない地域、農家との分化が著しくなってきます。
これらは農業政策、つまり政府とか国家の問題として、とても重要な問題なんだとおもいます。
ただはくらからいわせれば、これはある意味で資本主義経済をとっているかぎり、どうしてもこ
ういうふうになるよなという問題だとおもいます。これをどこまで公正化するかという問題は、
政治家とか政府とか、つまり国家の問題だとおもいます。国家はよくよくこういうことをかんが
えなきやいけないという問題に当面しているんだとおもわれます。
今申しあげたことを、地域差的に申しあげてみます。こういうブロックの分け方がいいかどう
かわかりませんが、北海道では畜産と野菜の割合が多く、比較的上地が広いから、大規模な農家・
農業という趨向になりつつあるといえます。東北地区では、米作・稲作を主軸にして、畜産・野
菜・果物の割合が多い、そういう趨向に向かいつつあるし、またそうするのが有利だろうといえ
ます。北陸地区、新潟県とか石川県では、稲作が主体で、この規模を拡大するという課題と趨向
とをもちつつあるんじゃないかといえます。中国・四国地区では、稲作を少なくして、野菜とか
果物の割合を多くするという課題を控えているといえそうです。中国・四国地方の農家は一戸当
たりの耕地が割合に零細なところが多いので、地域的な特徴を生かしてどうやっていくかという
問題があります。
高度経済成長でどうなったかという大ざっぱな特徴はつかめますけど、それぞれの地域で抱え
込んでいる課題は、それぞれ異なっているということが、まずいえそうです。地域、ブロックで
異なっているといえます。これは昔からの、弥生時代からの伝統的な地域差、天候差もあります
から、ひとりでにできてしまった規模とやり方があるのです。それでも、こういう地域ブロック
でそれぞれの課題は違っているといえますし、もっと微細に、詳細にいえば、それぞれの中の小
地域でまた違う。もちろん個々の農家によって、抱えている課題はそれぞれ微妙に違っている、
そういうこともいえそうです。
本当は、そういう問題も全部人ってこなければ論議にならないのでしょうけど、残念ですが、
ぼくらみたいな素人では、想像力でしか、農家のここら辺につっかえている本音とか、どうした
いとおもっているかということを把まえることができないのです。これは外からの視線、上から
の視線というか、世界視線というか、そういう見方からすると、地域差もあり、地域の中でも抱
えている課題には微恙があり、個々の農家ではまた微差がある。そのことは想像力の中でちゃん
と論議に入っていなければいけない気がします。
そうしますと、農業生産構造の変化ということから、特別な点を挙げられるのかということを
改めていってみます。まず一点は、農業の労働生産性という問題です。農業の生産性は、都市の
労働者とか製造業の労働者の労働生産性とか、先進資本主義国の労働生産性とほぼ匹敵するよう
になってきています。まだ及ばないのですけど、おおよそ匹敵する。つまり国内の農業の労働生
産性が、先進国の農業の労働生産性に追いつきつつあり、だんだん同じような伸びになってきて
いるといえます。
第一部 吉本隆明の経済学
全産業に農業生産高の占める割合が相対的に逓減するのは自然過程であり、それを「貧困化」と規定
するかどうかわたし(たち)にとってどうでもよい(=従属価値)ことっだし、農業生産高の分配を
めぐる内紛あるいはその外化(転化)――所得補償など税金による補填制度や輸入関税問題など――
は極めて政治的課題にすぎない。また、農業従事者人口の逓減などは極めて社会的課題であり、さら
には、限界集落の増加による農地の荒廃面積の逓増などは、極めて国土保全や環境問題に影響するも
のだと考えているし、その対策および費用捻出問題も高度な政治問題と考えているが、しかし、農産
業が魅力のないものかと聞かれれば「わたし(たち)が考える営農法に変えれば?魅了的な富かな産
業に変貌するだろう」と。これは歳がえのない過信のような話ではあるがそのように答える。
(この項続く)
Boom in Hiroki Kuroda of the Hiroshima Carp!