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DIYガーデニング設計事始め

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彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「ひ
こにゃん」 

【世界の工芸】


磯崎 美亜
ISOZAKI,Yositsugu
ホロホロ鳥置物 (右下)
Alcove omament,inea-fow1
1940/昭和15
23.2×22.7×9.7cm

青水辰雄                     香取 秀真
SHIMIZU,Tatsuo           ATORI,Hozuma
鋳銅蝸牛伏香炉(左下)    木菟香炉(中下)
Incence Burner,Design of Snail        Incence Burner in Shape of Horned
1947/昭和22                   Owl,cast bronze 1948/昭和23
11.3×18.3×12cm       11×7×7cm/
               みみずく香炉(右下)
               Incence Burner in Shape of Horned
               Owl,cast bronze 1953/昭和28



【小父さんの園芸奮戦記:ガーデニング設計事始め ①】


出所:タキイネット通販

先回はカバーグラスについて記載した(2022.11.03)、ハーブは有史
以前より人類に利用されてきた有用植物。欧州のものがよく知られて
いるが各国にそれぞれのハーブがあり、その土地の人々の暮らしの知
恵とともに、薬や料理、芳香、防虫などいろいろな目的に活用されて
きた。一般にハーブは花や葉の香りを楽しめる反面、見た目の華やか
さに欠けるものも多く、また生育環境があわないことから栽培のハー
ドルが少し高いものもある。そして、ハーブガーデンだからと厳密に
「有用植物」にこだわりすぎると、庭園としての美しさが半減してし
まうこともある。他の宿根草や潅木と、あるいは家庭菜園の中にと、
おおらかに取り入れ、ガーデニングを楽しみながら、ハーブとして利
用できる植物の種類を少しずつ増やしていくのも、一つの方法。肩の
力を抜いて、ステップバイステップで、自分らしいハーブガーデンづ
くりに挑戦してはどうか。

【設計の肝】
①背景も含めてデザイン
②ハーブの生育特性を知る
③夏にへこたれない植物を骨格に
④日本の暑い夏、ハーブガーデンでよくある失敗は、特に地中海性気
 候帯に自生するハーブで起こる。このハーブの中には雨が降らない
 夏に休眠するタイプがある。休眠期に入ると葉色が悪くなったり、
 草姿が乱れたりするが元気がないからといって肥料を施したりする
 と逆効果となりm益々弱ってしまう。
⑤香りのガーデンは、花や葉を摘みとって乾燥させ、ポプリやドライ
 フラワーを作る。
⑥香りのハーブガーデン----ポプリやドライフラワーになるハーブ選
 びと植え方
【種類】マウンテンミント、ローズマリー(ほふく性)、キャットミ
 ント、レモンタイプ、ラバンディン系ラベンダー、ローズゼラニウ
 ム、ローズゼラニウム、カールドン、鉢植えにワイルドストロベリー
  など
⑦群植して楽しむカラミンサの仲間➲シソ科:原産地:ヨーロッパ
 開花期:夏、高さ:30~45cm、広がり:30~45cm
⑧植えるなら耐暑性の品種:ラベンダーの仲間、
⑨コンパクトで花色が豊富:セイヨウノコギリソウ(ヤロー)の仲間
⑩花を引き立てる銀白の葉:ワームウッド
⑪キッチン・ハーブガーデン:料理のアクセントになるハーブ選びと
 植え方
【種類】モナルダ、ヘメロかリス、エキナセア、ブロンズフェンネル
 匍匐性タイム、チャイブ、バーブルセージ、オレガノ、ロシアンセ
 ージ、ヤロー、ゲッケイジュ、ミント、
⑫美しい葉や花をもつハーブに近い植物で彩る
【種類】エルサレムセージ、ヘメロカリス、キャッオミント、ロシア
 ンセージ、ダイヤーズカモミール、カールドン、エキナセアの仲間
 モナルダの仲間、ユーパトリウム・プルプレウム、マウンテンミント



これで来年度ハーブ菜園への作付け種類は決まった。次ぎに栽培方式
は、「多種及び単独密集密集栽培」の混合として、密集枠は「鉢植え」
ではなく、「底辺開放段ボール枠最適分散方式」として不用となった
段ボールを蜂口(例えばB5用紙)面積の深さ10~20㎝に押し切り裁
断し花壇及び菜園枠とし、それ以外は、玉竜や砂利によるグランドカ
ーバーと組み合わせガーデニングとする。次回は、花壇設計に移る。

 ポスター段ボール        

 

 
【完全クローズド太陽光システム事業整備ノート ⑦】
【再エネ革命渦論 067: アフターコロナ時代 266】
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コンパクトでスマートでタフな①光電変換素子と②蓄電池及び③水電
解に④水素系燃料電池、あるいは⑤光触媒由来有機化合物合成と完璧
なシステムが実現し社会に配置されようとしている。誰がこれを具体
的に想定しただろうか。その旗手に常に日本や世界の若者達の活躍が
あった。
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● 技術的特異点でエンドレス・サーフィング
   再生可能エネルギー革命 RE100 ➢ 2030 66



元素を可視化する放射化イメージング
これまで難しかった薬物動態の可視化、診断・治療の応用に期待

11月9日、早稲田大学などの研究グループは、様々な元素の分布を可
視化する革新的手法「放射化イメージング」を提案し、その原理を実
証しました。これまで可視化ができなかった薬物でも体の外からイメ
ージングすることが可能となり、診断・治療の新しい可視化ツールと
して幅広い応用できる。


表1.薬物の体内動態を可視化する、様々な手法の比較
【要点】
1.薬物に熱中性子を照射すると、原子核が活性化しX線ガンマ線を
 出す放射化に着目
2.独自開発の広帯域カメラを使用し、金ナノ粒子や抗がん剤などの
 放射化イメージングに成功
3.これまでイメージングできなかった薬物の生体内での動態観察の
 実現につながる、診断・治療のための新しい可視化ツールとして期
 待
[概説]
薬物を必要なときに必要な量だけ病巣に届ける「ドラッグデリバリ
ーシステム(以下DDS)」の開発が、いま世界中で行われている。D
DSを高度化すれば、注射や薬を飲む回数を減らしたり、副作用を少な
くしたりすることが可能となる。

一方で、薬物はひとたび体の中に入るとその動態は不明であり、狙っ
た通りに薬物が病巣に届いたか、また目的の治療が行われているかを
「その場」で確認するのは困難です。マウスなど小動物では、薬物に
蛍光色素を標識してイメージングするのが一般的ですが、可視や赤外
の蛍光は人体を透過することができません。これに代わる手法として
、鉄やガドリニウムといった磁性体金属を標識し、MRI(磁気共鳴画
像診断)でイメージングする手法も提案されているが、この場合、そ
もそも使える元素が限られ、外部から強力な磁場をかける必要があり、
また投与量が多い場合には毒性や副作用の懸念がある。
この場合、そもそも使える元素が限られ、外部から強力な磁場をかけ
る必要があり、また投与量が多い場合には毒性や副作用の懸念がある。
(上表1参照)

□ 今回の研究で新たに実現しようとしたこと
投与された薬が体の中のどこにどれだけ集積しているか、移動してい
るかがわかると、病気の診断や治療、さらには新しい薬の研究開発に
役立つ。今回の研究では、抗がん剤として用いられるシスプラチン、
DDSキャリアとして期待される金ナノ粒子とプラチナナノ粒子、造影
剤として用いられるガドテリドールを試料としました。これらの薬物
はそのままではイメージングできない。

そこで、薬物に熱中性子をぶつけると一部の原子核が活性化し、高エ
ネルギーの光であるX線ガンマ線を出す「放射化」現象に着目。ここ
で生ずるX線ガンマ線は薬物に含まれる元素に固有のエネルギーをも
ち、また半減期と呼ばれる特徴的な時間スケールで減衰。つまり、エ
ネルギーと時間の両面から、「何」が「どれだけ」含まれるかを高精
度で可視化することができると考えた。これまで行われてきた放射化
分析では、スペクトル情報のみを用いて ppm(ppmは濃度の単位で100
万分の1)以下といった極微量な元素を正確に同定する。ここに独自の
イメージング技術を加えることができれば、薬物の種類だけでなく空
間分布を追跡できる、全く新しい可視化技術が構築できる。たとえば、
抗がん剤の一種であるシスプラチンに熱中性子を当てると、一部のプ
ラチナ原子(Pt-196)が活性化し、質量数を1つ増やしたPt-197 が
生成されます。Pt-197は不安定なため、77keV(keVはエネルギーの単
位でキロ電子ボルト)のX線を出しつつ、半減期20時間で崩壊。すなわ
ち、このX線をイメージングすることで、RIを新たに修飾せずに、シス
プラチンの体内動態を可視化することができるはず。また、がん周辺
の血管には、正常では存在しない多くの隙間が存在する。ナノ粒子は
直径が数十ナノメートル(ナノメートルは10-9 m)と小さく、がん周
辺のみで血管壁を抜けて組織中へと透過する性質(EPR効果:図1)が
知られている。そこで、ナノ粒子に抗がん剤など薬剤を修飾すれば、
有効なDDSキャリアとして働くことが期待できる。たとえば金ナノ粒
子を熱中性子で放射化した場合、金(Au-197)の質量数が1つ増え、
Au-198が作られます。Au-198は不安定なため半減期2.7日で崩壊し、
その過程で412keVのガンマ線と、961keVのβ線(電子)を放出(図
1)。このガンマ線をイメージングすることができれば、抗がん剤な
ど薬物動態を体の外からイメージングすることが可能となる。


図1. 金ナノ粒子を熱中性子で放射化した場合の応用例。EPR効果に
より、ナノ粒子はがんに選択的に取り込まれやすいため、412keV ガ
ンマ線をイメージングすることで、がんへの薬物伝達の様子を確認で
きる。同時に発生するβ線は、がんへの殺傷効果が期待できる。

このように「放射化イメージング」はこれまで困難とされた様々な薬
物を簡単かつ迅速に可視化する新しい手法として期待できるが、一方
で元素ごとにどのようなX線やガンマ線を放出するかは全く異なる。
現在、核医学診断で用いられる SPECTは概ね 300 keV以下のガンマ線
のみ、またPETは 511keVのガンマ線のみを対象としたイメージング手
法のため、可視化できる薬物の種類は限られてしまう。つまり、既存
の可視化装置では難しい、広エネルギーのX線やガンマ線を同時に可
視化できる新しいカメラの開発が不可欠となる。

□ 開発した手法と、それによる実証結果
まず、そのままではイメージングできない薬物を十分に放射化できる
ことを示すことが重要。本研究では、理化学研究所の小型中性子源シ
ステム RANS-II※2を用いて熱中性子照射の予備実験を行い、薬物ご
とに必要な熱中性子の照射量と生成される核種について詳細な調査を
行った。続いて、より強度が高い京都大学複合原子力科学研究所の研
究用原子炉 (KUR※3)において中性子照射実験を行った。試料はろ紙
しみ込ませた状態で揮発し、金ナノ粒子、シスプラチン、プラチナナ
ノ粒子、造影剤の一種であるガドテリドールそれぞれについて照射を
行い、薬物から放出されるX線ガンマ線スペクトルを取得しました。
照射条件と試料の一例を表2に、得られたスペクトルを 図2に示す。
測定にはエネルギー分解能の高い、高純度ゲルマニウム検出器を用い
ました。金ナノ粒子は 412keV、 シスプラチンとプラチナナノ粒子は
77 keV、ガドテリドールは 364keV に強いピークを出すことが確認で
きる。この実験結果により、薬物が放射化されたことが実証された。

表2: 熱中性子を照射した薬物サンプル



図2.表2: 熱中性子を照射した薬物サンプル

薬物動態を把握するためには、薬物がどのように移動しているのかを
カメラで捉える必要がある。そのためには薬物の位置を正確かつ短時
間で撮像し、逐次その位置を測定することになるため、高感度でX線
ガンマ線をイメージングできるカメラが求められる。これらの元素特
有のX線ガンマ線を可視化するため、独自に開発した「ハイブリッド
・コンプトンカメラ」を用いたイメージングを試す。数百keV以上の
ガンマ線はエネルギーの一部を電子に渡し、自らは別な方向へ散乱さ
れる「コンプトン散乱」と呼ばれる反応を起こします。コンプトンカ
メラでは「散乱体」と「吸収体」で電子と散乱ガンマ線、両方の運動
学を同時かつ正確に解くことで、入射ガンマ線の到来方向を決定する
ことができるが、エネルギーの低いX線はイメージングできない。ハ
イブリッド・コンプトンカメラは散乱体の中心に 3×3mm 程度のピン
ホールを開けることで、数十キロ電子ボルトから数メガ電子ボルトの
撮像を一度に可能とする装置です。図3に示す通り、すべての薬剤に
ついて20分以内の短時間でイメージングに成功しました。これらの短
時間でのイメージングを繰り返すことで、薬物の移動を把握すること
ができる。

図3.中性子で放射化した各種薬剤のガンマ線画像。ハイブリッド
コンプトンカメラ(※)で撮影。

□ 研究の波及効果や社会的影響
一般に薬物はひとたび体の中に入るとその動態を追跡することは困難
病巣に薬物が正しく届いたか、また狙い通りの治療が行われているか
を体の外から簡単に確認することができれば、様々な展開が期待でき
る。今回の提案である「放射化イメージング」は、従来用いられてき
た (1)蛍光色素 (2)MRI (3)RI薬剤による可視化の、どの手法と
も異なる。強いて言えばX線ガンマ線を用いたイメージングという観点
では(3)と似ているが、SPECTやPETに特化した、特殊なRI薬剤による
修飾は必要なく、より汎用的かつ直接的に、薬物そのものの動態イメ
ージングが可能です。とくに熱中性子を照射する場合、反応の前後で
原子の質量数が+1増加(たとえば、Pt-196がPt-197に変わる例と、
Au-197 が Au-198に代わる)。ここで質量数が増えても、元素そのも
のが同じであることが重要です。そのため、薬剤としての集積状況が
変わることがなく、その元素自身がX線ガンマ線を出すトレーサーと
して機能するわけです。さらに、多くの放射化プロセスではX線やガ
ンマ線だけでなく、β線を同時に放出することも注目すべき事実。た
とえば前述の金ナノ粒子では、放射化により生成された Au-198 は中
性子過剰であり、半減期2.7日で電子を放出して陽子に変わろうとし
ている。この際、余ったエネルギーである412keVのガンマ線とともに
961keVのβ線を放出。β線はがんの治療効果が期待され、治療・診断
を同時に行う両面性を秘めている。


図4.放射化した金ナノ粒子とアスタチンによる、セラノスティクス
の開拓

□ 課題と展望
放射化による薬物動態イメージングは、ごく微量とはいえ放射性薬剤
を生成し、生体内に投与することを前提とする。
(1)半減期が数日程度と短く、長く留まらないこと
(2)放射化によって有害な物質が生成されないこと、が条件となる。
 金ナノ粒子やプラチナナノ粒子では、単一元素(金やプラチナ)の
 塊のため心配ないが、一般の薬剤は様々な元素から構成される。

たとえば、抗がん剤であるシスプラチンの化学式は[Pt(NH3)2Cl2]であ
り、プラチナのほかに窒素、水素、塩素が含まれます。この場合、必
ずしも狙った元素(たとえばプラチナ)のみが放射化するとは限りま
せん。また、放射化の過程で原子核の反跳などにより、分子の化学結
合が壊れる可能性も想定する必要がある。

図5では高速液体クロマトグラフィー(HPLC)で測定したシスプラチ
ンの紫外―可視吸収スペクトルを、中性子照射前後で比べた。もっと
も強度が強いピークがシスプラチン分子に対応し、その強度・位置共
にほとんど変化がありません。一方で、その前後にあるごく小さなピ
ークに差が見られ、これらが放射化で壊れた分子による影響と見られ
る。これら余剰な副産物は、HPLCで取り除くことができますが、今後
は様々な薬剤の放射化による性質改変を併せて調査が予定されている。



図5.熱中性子を照射する前(左)と照射後(右)での HPLCによる紫
外―可視吸収スペクトルの比較
[関連論文]
雑誌名:Applied Physics Letters
論文名:Activation imaging of drugs with hybrid Compton camera: A proof-
of-concept study

掲載日(現地時間):2022年11月7日(月)
掲載URL:https://doi.org/10.1063/5.0116570
✔ 取扱厳重要注意ですね・54年前にわたしも放射線検査装置を構想
  した記憶がよみがえる。



中世期最大の詩人のひとりであり、学問と識見とで当代に数すくない
実朝 の心を訪れているのは まるで支えのない奈落のうえに、一枚の
布をおいて坐っているような境涯への覚醒であった。本書は、中世初
の特異な武家社会の統領の位置にすえられて、少年のうちからいやお
うなくじぶんの〈死の瞬間をおもい描かねばならなかった実朝の詩的
思想をあきらかにした傑作批評。

【目次】
1 実朝的なもの
2 制度としての実朝
3 頼家という鏡
4 祭祀の長者 5 実朝の不可解さ
6 実朝伝説 7 実朝における古歌
8 〈古今的〉なもの
9 『古今集』以後
10.〈新古今的〉なもの
11 〈事実〉の思想
実朝における古歌 補遣
実朝年譜
【著者略歴】 吉本隆明(1924-2012年)は、東京生まれ。東京工業大
学電気化学科卒業。詩人・評論家。戦後日本の言論界を長きにわたり
リードし、「戦後最大の思想家」「思想界の巨人」などと称される。
おもな著書に『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現
象論』『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』『宮沢賢治』『夏
目漱石を読む』『最後の親鸞』『アフリカ的段階について』『背景の
記憶』などがある。
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Ⅲ 頼家という鏡 ⑤

  十月十四目、己酉。鶴ケ岡八幡ならびに二所(箱根・伊豆権現)、
  三鴫明神、日光、宇都宮、鷲宮、野本宮以下の諸社に神馬を献
  奉。
  十月廿五目、庚申。将軍実朝は荘厳房行勇を招請して法華経を
  伝受させた。近習の男女もこの仏儀をうけた。
  十一月三日、丁卯。晴。はじめて神馬を石清水ハ幡宮に献奉。
  十一月十五目、己卯。鎌命中の寺社奉行を定めた。仲業、清定
  執筆として記す。
   鶴ケ岡八幡宮
    江間四郎 和田左衛門尉 清図書允
   勝長寿院
    前大膳大夫 小山左衛門尉 宗掃郭大
   永福寺
    畠山次郎 三浦兵衛尉 善進士
   阿弥陀堂
    北条五郎 大和前司 足立左衛門尉
   薬師堂
    源左近大夫将監 千葉兵衛尉 藤民部丞
   右火将家の法花堂
    安達右衛門尉 結城七郎 中条右衛門尉
  十二月一日、乙未。実朝将軍の発願として鶴ケ岡八幡上、下官
  で華法八講を行う。講師は安楽坊である。
  十二月十四日、戊申。実朝将軍、永福寺以下の御堂に参詣。建
  仁四年(元久一年)
  一月五日、己巳。晴れ、風しずか。実朝将軍はじめて鶴ケ岡八
  幡宮に参詣。八幡の官寺において法華経を供養。
  一月八日、壬申。くもり。御所の心終会。導師真智房法橋。
  一月十四日、戊寅。はれ。実朝将軍二所参りのための精進をは
  じめる。
  一月十八日、壬午。快晴。辰の刻に、鶴ケ岡八幡宮の別当阿開
  架尊暁は、実朝将軍の折詰のために、二所に進発した。征馬四
  郎主が奉幣の使いとして一緒に出発した。まず御所に参り、南
  底にひざまずいた。実朝将軍は南階から下りて、庭にたち、伊
  豆箱根三嶋の方にむかって、二十一回拝した(各七回)。次に
  四郎主がそこをたち、鶴ケ岡八幡宮に参詣したのも、進発した。
  二月九日、契印。晴れ。鶴ケ岡八幡宮の御神楽の吉例。防火膳
  大夫大江広元が奉幣使である。
  三月三日、丙寅。はれ。鶴ケ岡八幡宮神事法会。駿河守不時が
  奉幣使である。
  三月十五目、戊寅。幕府において天台止観の談義はじまる。
  三月に廿七日、庚寅。実朝将軍、勝長寿院に参拝。
  四月十八日、辛亥。実朝将軍は夢のお告げにより、岩殿観音堂
  に参詣した。
  五月五目、丁卯。くもり。観ケ岡八幡宮の臨時祭。広元が奉幣
  使。
  五月十六日、戊寅。尼御台所牧子、金剛寿福寺で仏事を修する。
  祖父母の追善のため。
  六月一日、壬辰。実朝将軍の発願で、今日中に愛染明王の像三
  十三体を造立され、供養の儀がある。導師は荘厳房行勇。
  六月廿日、辛亥。臨時祭であるので実朝将軍が観ケ岡八幡宮に
  参詣。神馬二匹を献奉する。

  実朝のこの奇怪なほどひんぱんな社寺めぐりと、折詰と法会へ
 の心くばりはなにを意味しているのか。夢をみれば観音参りをし、
 天変地異があれば、方位を気にして方違えの忌をおこない、ちょ
 っとした病気にかかれば祈祷をあげる。すくなくとも実朝を幕府
 の統領たらしめている根拠は、政治的な宰領でもなければ、軍事
 的な号令でもない。ただ迷信と暗い夢幻の世界にあらわれる地獄
 絵にしたがって、神仏の法会をおこなうことに重きをおいている。
 こういう中世的なうすくらい世界に同化しうるために、実朝は適
 任であったかもしれない。坂東を中心にした武者たちの世界は、
 命をやりとりする水商売の世界であり、そこに必然的に縁起をか
 つぎ、奇怪な迷信に帰依し、仏道にすがるという心的な契機があ
 らわれた。そして武門のこういう迷蒙の世界を収攬するのに、実
 朝は〈人格〉的に適していたといってよい。いつも夢か現かわか
 らない世界に観念を遊行させ、ひ弱な身体と説い感受性とひかえ
 めな温厚さをもったこの若い将軍には、そういう迷信の世界がそ
 れほど住みにくい世界ではなかったのである。
  関東の在地武家居における〈惣領〉-〈庶子〉の族制では、惣
 領はT旅の軍事格と祭祀格とをT俘に担う存在であった。この形
  態は、主として古代の海入部に特有な形態が伝承されたとみてよ
  いとおもわれる。鎌會幕府のもとに結集し、源氏三代の将軍を象
  徴としていただいた武家居の基盤は、おおざっぱにふたつにわけ
 ることができる。ひとつは、北条氏や三浦氏や千葉氏に象徴され
 るように、古代に駿河、伊豆半島、房総半島に、南シナや東南ア
 ジアの沿岸から本土の太平洋の突端をかすめて定着した海入部の
 習慣にしたがう出身者である。もうひとつは、比企氏などに典型
 的にあらわれているように、武蔵に定着し、関東平野を拓いた帰
 化人の系統につながるものである。このいずれも、繩文文化いら
 いの担い手であった丘陵地の土着尺と混合し、複合的な信仰と文
 化と倫理的な規範とをつくりあげていったとみられる。頼朝が流
 配時代と幕府の創生期に保護をもとめ拠点としたのは、これらの
 在地豪族たちであった。
   伊豆半島の頚部には北条氏が、また三浦半島には三浦氏や分族
 である和田氏が、房総半島には、安房に朝夷氏が、上総には上総
 氏が、下総には千葉氏があった。武蔵には高麗氏の分流である比
 企氏や、秩父氏がひかえていた。これらの在地武士団を土着のも
  のとみるか、地方官として赴任したまま居着いてしまった豪族と
 みるか、神寺護衛の家入たちの武装した集団とみるかは、あまり
 に不明なところがありすぎてわからない。ただ、いずれにせよ海
 辺の沖積地に集落をつくった海入部の末流を基盤にするか、丘陵
 部と沖積湿地帯の境い目に、狩猟や農耕を生業として集落をつく
 った原住あるいは帰化移入の部民の末流を基盤にするものであり、
 その祭祀形態はかなりな古層を保存していたとみてよい。そして
 ここでも不明な部分にわけ入ることになるが、山間あるいは丘陵
 部における祭祀形態と、沿海部における祭祀形態は、表面的には
 差異があるようにみえても、おなじ原初にゆきつくとみなされる
 こともおおい。
  中世初期の武門のあいだでは、〈惣領〉が同族の政治的なある
 いは軍事的な統括権とともに祭祀権の持ち主であり、この持ち主
 は容易に祭神自体に転化して〈現神〉に擬せられるという習俗を
 もっていた。これはたぶん伊豆半島や三浦半島や房総半島などに
 定住した海入部の保存してきた共同体のしきたりであるが、諏訪
 の神家党のように、山間部でもこの形態を保存するものもあった。
 坂東の水稲耕作をおしえたのは帰化系の開拓者だったろうがその
 影響が実朝の頻ぱんな社寺詣でをかんがえるとき、つよく印象さ
 れるのは、北条、三浦、和田、土肥、千葉、朝夫など半島の沿岸
 にちかく割拠していた門族の遺習であるとみてよい。鎌倉幕府の
 宗教的中心になったのは〈権現〉・〈明神〉・〈八幡〉信仰で、
 海入部や土着の国神系の祭神であったが、中世初期には神仏習合
 の風潮から、鎌倉でも栄西によってもたらされた禅・法華・阿弥
 陀信仰のような大陸の同時代仏教信仰と習合している。しかし、
 もとをただせば、西海道や南海道の海入部の信仰に帰着するもの
 とかんがえることができる。
  『吾妻鏡』の元久元年一月十四日の項に、箱根・伊豆権現のい
 わゆる二所詣での前に「将軍察二所の御精進始」とあるが、この
 「御精進」は、南島や薩南でおこなわれているのとおなじような
 くお浜下り〉の休浴潔斎を意味している。また一月十八日の項で
 『吾妻鏡』は「将軍察南階より下御、庭上に於て伊豆筥根三嶋の
 方に向ひて、廿一反拝し給ふ(各七反)、次に四郎主其所を起す、
 鶴岳宮に参るの後、進発せらる」とあるのをみると、幕府の統領
 のもつ祭祀権が、はなはだ土俗的な共同体の神信仰に類似してい
 るさまをしることができる。
  実朝は祭祀権に関するかぎり、北条時政、政子、義時などから
 も、大江広元からも脅やかされることはありえなかったといって
 よい。諒察の氏神である鶴ケ岡八幡宮の祭祀は、擬制的な氏子と
 しての幕府の家人や宿将たちにとっても、帰依と信仰の対象であ
 った。関東武家居におけるこの擬制的な氏神と氏子、あるいは頭
 察と村落共同体の成員という関係が強固でありえたのは、〈権現〉・
 〈明神〉・〈八幡〉の信仰の時間的な系列が、国神系や、海入部
 系の共同体信仰として同一の祖形にゆきつくものだったからであ
 る。すこしかんがえると、奇妙な気がするが、実朝の二所詣では、
 い安房に朝夷氏が、上総には上総氏が、下総には千葉氏があった。
 武蔵には高麗氏の分流である比企氏や、秩父氏がひかえていた。
 これらの在地武士団を土着のものとみるか、地方官として赴任し
 たまま居着いてしまった豪族とみるか、神寺護衛の家入たちの
 武装した集団とみるかは、あまりに不明なところがありすぎてわ
 からない。ただ、いずれにせよ海辺の沖積地に集落をつくった海
 入部の末流を基盤にするか、丘陵部と沖積湿地帯の境い目に、狩
 猟や農耕を生業として集落をつくった原住あるいは帰化移入の部
 民の末流を基盤にするものであり、その祭祀形態はかなりな古層
 を保存していたとみてよい。そしてここでも不明な部分にわけ入
 ることになるが、山間あるいは丘陵部における祭祀形態と、沿海
 部における祭祀形態は、表面的には差異があるようにみえても、
 おなじ原初にゆきつくとみなされることもおおい。
  中世初期の武門のあいだでは、〈惣領〉が同族の政治的なある
  いは軍事的な統括権とともに祭祀権の持ち主であり、この持ち主
  は容易に祭神自体に転化して〈現神〉に擬せられるという習俗を
  もっていた。これはたぶん伊豆半島や三浦半島や房総半島などに
 定住した海入部の保存してきた共同体のしきたりであるが、諏訪
 の神家党のように、山間部でもこの形態を保存するものもあった。
 坂東の水稲耕作をおしえたのは帰化系の開拓者だったろうが、そ
 の影響が実朝の頻ぱんな社寺詣でをかんがえるとき、つよく印象
 されるのは北条、三浦、和田、土肥、千葉、朝夫など半島の沿岸
 にちかく割拠していた門族の遺習であるとみてよい。鎌倉幕府の
 宗教的中心になったのは〈権現〉・〈明神〉・〈八幡〉信仰で、
 海入部や土着の国神系の祭神であったが、中世初期には神仏習合
 の風潮から、鎌倉でも栄西によってもたらされた禅・法華・阿弥
 陀信仰のような大陸の同時代仏教信仰と習合している。しかし、
 もとをただせば、西海道や南海道の海入部の信仰に帰着するもの
 とかんがえることができる。
 『吾妻鏡』の元久元年一月十四日の項に、箱根・伊豆権現のいわ
 ゆる二所詣での前に「将軍察二所の御精進始」とあるが、この
 「御精進」は、南島や薩南でおこなわれているのとおなじような
 くお浜下り〉の休浴潔斎を意味している。また一月十八日の項で
 『吾妻鏡』は「将軍察南階より下御庭上に於て伊豆筥根三嶋の方
 に向ひて、廿一反拝し給ふ(各七反)、次に四郎主其所を起す、
 鶴岳宮に参るの後、進発せらる」とあるのをみると、幕府の統領
 のもつ祭祀権が、はなはだ土俗的な共同体の神信仰に類似してい
 るさまをしることができる。
  実朝は祭祀権に関するかぎり、北条時政、政子、義時などから
 も、大江広元からも脅やかされることはありえなかったといって
 よい。諒察の氏神である鶴ケ岡八幡宮の祭祀は、擬制的な氏子と
 しての幕府の家人や宿将たちにとっても、帰依と信仰の対象であ
 った。関東武家居におけるこの擬制的な氏神と氏子、あるいは頭
 察と村落共同体の成員という関係が強固でありえたのは、〈権現〉
 ゆきつくものだったからである。すこしかんがえると、奇妙な気
 がするが、実朝の二所詣では、いつも精進潔斎のあとでおこなわ
 れ、はなはだ必死な趣きを呈している。これは実朝じしんが信心
 深かったというよりも、祭祀指をゆだねられたひとつの共同体の
 統領が、たれよりも潔斎をかさね信仰を維持しなければ、祭祀に
 よってはしめて強固な共同体を形成している諸門族が、神判意識
 をたぶんに保存した成敗の裁定を守らなくなるという畏れに根ざ
 している。この意味で、鎌倉幕府の祭祀の長者・実朝の威力は、
 北条氏といえども侵すことはできないものであった。 源宗の氏
 神である鶴ケ岡ハ幡宮について、『北条九代記』はつぎのような
 由来をのべている。 
 
   頼朝は大庭平大泉首に申しつけて、鎌倉小林郷の北の山をえ
  らんで、営所を造営し、鶴ケ岡のハ幡営を造成した。頼朝はこ
  の間精進潔斎をおこなった。ところでこの営社の所在地のこと
  については、本所から新地に遷すのは神慮にかなうかどうかわ
  からない、ただ神の判断におまかせしようと、頼朝白身が宝前
  でおミクジをひいたが、三度まで〈小林の郷に遷るべきである〉
  という結果があらわれた。〈これは神も遷宮をみとめられたの
  だ、危くおもうことはない〉とかんがえ、華やかな造りとはい
  えないが、質素な宮殿を形式にかなうように修造した。さてこ
  の鶴ケ岡八幡宮というのは、むかし後冷泉院のとき、伊子守源
  朝臣頓首が前によって安部貞任を征伐するため東国に下向した
  とき、発願のすじあって、康平六年の秋、ひそかに石清水のハ
  幡を勧請し、営所を鎌倉の由井郷に建てたものである。その後
  永禄元年二月に頼義の長男睦奥守源朝臣義宏が修理かくわえ、
  あがめ祀った。いまこれを小林の郷に遷すこととなった。もと
  の営所を下の若営とよび、今の鶴ケ岡を上の若宮という。

   頼義にどんな発願のすじがあったのかはわからない。一般的
  には〈若宮〉とよばれるものは、分社とか末社とかの意味をも
  っていない。試みに『民俗学辞典』の説明をかりる。

   若宮 大きな神格の支配下に置かれる前提の下に、はげしく
   崇る霊魂を神として斎いこめたもの。全国に若宮という名の
   神社はすこぶる多く、中には八幡若宮なりとしてまとまった
   解説をなすものも多いが、概して非業の死を遂げた考が崇り
   をなすのを怖れて、巫女神職のすすめにしたがい、神として
   祀るに至ったという由来のが最も多く、祭を怠れば直ちに崇
   り、その活動のはげしさは到底和やかにして偉大な神霊とは
   比べものにならぬほど人間的で、いねばまだ神になりきれぬ
   段階ともいうべき性格のものである。それを郷村の鎮守神と
   し、屋敷神・氏神としているのは甚だしく不可解であるが、
   恐らく神の御子または御猶子の観念が拡張して、春風配下と
   いう低位のものまでを合むことになり、大きな神格がこれを
   統御したまう力を信ずる余りに、崇りを現じたものこそ若宮
   の神霊にふさわしく考えられ、若宮として祭るは大神の勧請
   にも似た趣を呈するに至ったものと思われる。(以下賂)

  そこで源泉の氏神である鶴ケ岡八幡若宮は、擬制的に幕府の泉
 人たちにとっても荒々しい武門の神として氏子的な信仰をあつめ
 るものとなった。源泉第二位の寺社である勝長寿院は、寿永二年
 (一一八三年)の冬に、後白河法皇から左馬頭義朝ならびに鎌田
 兵衛政情の首級を東の獄門からとりだして鎌倉に送られたものを、
 頼朝が寺殿を建立し、二人の首級を葬ったものとされている。い
 ずれも武門勢力のせめぎあいの怨念を銀塊し、悼むために祀った
 氏神であった。
  実朝は、三代目の征夷将軍として名目的には、鎌倉幕府の政示
 指と祭祀指を一身に統括する位置にあった。しかし、忠実に適切
 に行使できたのは祭祀指にかぎられたといってよい。そしてこの
 面では実朝は理想にちかい役割を演じた。
  ひとつの共同体の男系の首長が、政治指と祭祀指とを記録に統
 合するという形態は、すでにはるか以前に大和朝廷では実質上放
 棄された権力形態である。その意味では、実朝が演じた役割とそ
 の体制は、きわめて前時代的な遺制で、おそらく海人部・国神系
 統の部民に根をおいて、おくれた地域にだけ流通していたものに
 ちがいなかった。そして祭祀形態としてこの形を遡行すれば、ひ
 とつは出雲の国の美保社を中心とする神人共同体と、北九州宗像
 神を中心とする神人共同体へゆきつき、もうひとつは房総・伊豆・
 伊勢・熊野から瀬戸内海こ除南をかすめてゆく神人共同体とにゆ
 きつくことができる。そしてそれは朝鮮半島を経由するといなと
 にかかわらず、南シナや東南アジアの沿岸にちかい種族の祭祀共
 同体にさかのぼるかもしれない。
  この種の共同体では、祭祀権が政治権よりも優位であった太古
 では、首長はまず〈現神〉としてあらわれ、時代がくだるにつれ
 て、政治権者としてあらわれる。そして時として、祭祀権者と政
 治権者が、兄弟(あるいは姉妹)によって分割されることもあっ
 た。しかし、実朝がかろうじて具現したように、首長が祭祀権に
 追いつめられ、幕下の武将が政治権を掌握するという形態は、そ
 の共同体の崩壊する象徴としてしかあらわれるはずがなかったの
 である。
  中世の世界は、迷蒙と信仰とが風にふるえる芦のように、人間
 の心を徴妙に暗く覆った時代だといえば、自然信仰も、原始宗教
 も、大陸の道教や密教系の仏教の信仰も、ひとつに習合して人間
 の天上をくまなく支配している状態をいいあてることになるのか
 もしれない。しかしここで当面しているのは、ほかのことでは冷
 静で無惨で現実的である関東武家層が、神判にちかい未開な〈法〉に
 動かされたり、第T級の詩人であり、学識に富んでいた実朝が、
 ほとんど休む暇もなく鎌倉の里中の社寺に参詣して目をおくって
 いる、なんともいいようのない不可解さである。何故こういうこ
 とになるのかという問いが、まだ、つづけられなければならない
 所以である。
                                       吉本隆明著『源実朝』
                                         Ⅲ 頼家という鏡
                                               筑摩書房刊

                       この項つづく


Jhon Lennon  Imagine



喪中葉書が届く。池田修治 享年74。蛍雪時代の朋友の一人。池田・
青木・田邊・そしてわたし。都工時代の三銃士でもある。日本ペイン
トの開発技術者であったが、彼に、木工と磁器塗液で新しい食器を作
れないかと定年後に話しを持ちかけたのが仕事上、これが最初で最後
となり、2019年のフィナーレ同窓会が最後となり年賀状が唯一の音信
となった。さらば!修治くん。やはり、君には谷村新司の『昴』が唄
が葬送にぴったりだと想う。四天王寺での初回忌には青木と一緒に弔
わせてもらうよ。
                            合掌


● 今夜の寸評:(いまを一声に託す)

 


 


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