彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救ったと伝
えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。(戦国時代の
軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編のこと)の兜(かぶ
と)を合体させて生まれたキャラクタ。
【再エネ革命渦論 183 アフターコロナ時代 184】
● 技術的特異点でエンドレス・サーフィング-
特異点真っ直中 ㊿+⑭
世界は非戦を! 世界に平和を!
自在行動概論 ④
パレスチナ問題とその歴史 「環境リスク本位制時代」を公言している私に
は、「パレスチナ問題」は、「人類消滅」を加速させる「世界大戦」の説明
要因の1つであることを踏まえ、その歴史をお温習いしておこう。
via jp.Wikipedia
1967 - 1993:第一次インティファーダ
イスラエルは東エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラ
ン高原を占領し、国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。11月に国
連安保理でイスラエルの承認、イスラエルの占領地からの撤退、中東地域の
航海自由の保障、避難民問題の解決などを決議した(国際連合安全保障理事
会決議242(英語版))。しかし、イスラエルの占領地については、英文版と
仏文版で解釈が異なり、英文版では、必ずしもすべての占領地から撤退する
必要はないと解釈できる余地があった。いずれにせよ、イスラエル、PLO及び
アラブ諸国の双方共に、この時点では安保理決議242号に従わなかった。 占
領地では再び軍政が敷かれ(イスラエル国防軍軍律)、基本的にパレスチナ
人など非ユダヤ人住民が軍律に拘束された。イスラエル軍は、一旦は占領地
で被占領民の保護を定めた1949年のジュネーヴ第4条約に従うことを宣言した。
しかし、10月22日付の命令144で、(ヨルダン川)西岸地区、ガザ地区、ゴ
ラン高原では、IDFはジュネーヴ第4条約に制約されないと布告した。これら
の土地は、ジュネーヴ第4条約に規定された占領地には当たらないという、
イスラエル側の主張に基づく。
1973年10月にエジプトとシリアがイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争(ヨ
ム・キプール戦争、ラマダーン戦争)が勃発した。石油輸出国機構10カ国は
イスラエルを占領地から撤退させるまで石油生産の5%以上を毎月削減すると
の決議を可決し、オイルショックが起こった。国際連合安全保障理事会は停
戦決議を可決した。 1974年10月、PLOが国連でオブザーバーの地位を獲得し
た。 アメリカによる和平交渉により1978年9月にキャンプ・デービッド合意
が成立し、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が調印された。これ
によりシナイ半島がエジプトに返還され、「土地と平和の交換(英語版)」
と称された。PLOやアラブ諸国は、合意をエジプトの「裏切り」と強く反発し、
エジプトはアラブ連盟を追放された(1990年復帰)。
1980年3月1日、国連安保理で、イスラエルが1967年以降、アラブ側の領土を
占領し、またユダヤ人入植地を建設した行動を全て無効とし、速やかな撤退
の要求の国際連合安全保障理事会決議465(英語版)を採択した[26]。この時
はアメリカも賛成に回ったが(棄権するつもりだったが間違えたと声明)、
イスラエルはこの決議を無視した。また、7月にイスラエルは「統一エルサレ
ムはイスラエルの不可分かつ永遠の首都である」とするエルサレム基本法を
制定し、東エルサレムの恒久的併合を宣言した。 1981年、アメリカのロナル
ド・レーガン大統領は、ユダヤ系ロビーやイスラエルの反対を押し切って、
サウジアラビアに武器を輸出した。1978年4月にシナイ半島がエジプトに返還
された。6月にイスラエルがレバノンに侵攻しレバノン戦争が起こった。PLO
はベイルートから撤退した。9月にアメリカが中東和平案を提示し、アラブ首
脳会議でフェズ憲章が採択された。 1987年にイスラエル占領地でパレスチナ
人の抵抗運動である(第一次インティファーダ)が発生した。12月14日、反
イスラエル・反PLOを主張する、抵抗運動組織ハマースが発足した。 1988年
7月31日にはヨルダンがイスラエル占領下のヨルダン川西岸地区への領有権
主張を取り下げ、PLOが唯一正統なパレスチナ人の代表であると宣言する。
同年11月15日、第19回パレスチナ民族評議会(PNC)でパレスチナの独立宣
言を行なった。
前日の11月14日には、安保理決議242号、338号に基づく政治解決を求める決
議を採択した。これにより、パレスチナの主流派は安保理決議242号を承認し、
イスラエルの承認を前提として(二国家解決)、同決議に基づく国境線によ
るパレスチナの領有権を求める路線が確立した[。
1990年、湾岸戦争でイラクがクウェートに侵攻した。イラクのサッダーム・フ
セイン大統領は、イスラエルのパレスチナ占領を引き合いに出し、クウェー
ト占領を正当化しようとした。かねてからフセインと親交のあったPLOのヤ
ーセル・アラファート議長(パレスチナの大統領)はイラクを支持したため
クウェートを含むアラブ諸国の反発を買い、援助も削減あるいは打ち切られ
苦境に陥った。
1993 - 2000:オスロ和平プロセス
1991年10月、マドリードで中東和平会議開催。しかし、PLO指導部はイスラエ
ルの反対で排除され、パレスチナはPLO色の薄い人物を、ヨルダンとの合同代
表団という形で参加させたに留まった。
1993年9月13日調印、イスラエルとPLO、パレスチナ人の暫定自治の原則宣言
にワシントンD.C.で調印(写真参照)(オスロ合意)成立。
その結果、1994年5月よりガザ・エリコ先行自治が開始され、自治政府も組織
されはじめた。PLOのアラファート議長とイスラエルのイツハク・ラビン首相、
シモン・ペレス外相がノーベル平和賞を受賞した。 1995年9月24日、ワシン
トンで「暫定自治拡大合意(英語版)」(オスロ合意Ⅱ)がPLOとイスラエル
の間で調印された。ヨルダン川西岸は、パレスチナ自治政府が治安・行政の
双方を担当する「A地区(日本外務省の呼称は「A地域」、以下同)」、パレス
チナが行政、イスラエル軍が治安を担当する「B地区」、イスラエル軍が治安
・行政共に担当する「C地区」に分割された。「C地区」は、将来の交渉で順
次、パレスチナへの移管が行われる計画だった。
1996年1月にパレスチナ評議会の選挙が行われた。その矢先の1995年11月4日
に和平に尽力したイスラエルのラビン首相はテルアビブにおいてカハネ主義
者のイガール・アミルに射殺された。イスラエルでは原則として労働党が「
和平推進」(エルサレムとヨルダン川西岸の戦略的に重要な土地を併合)、リ
クードが「和平反対」(パレスチナ全土を併合)とみなされてはいる。しかし
イスラエルがシナイ半島からの撤退に基づく対エジプト和平を推進したのは
右派政党のリクードのメナヘム・ベギン政権であった。また、パレスチナ暫
定合意や対ヨルダン和平を推進したのは左派政党の労働党のラビン政権では
あるが、ラビンは政界で活動する以前はイスラエル軍の参謀総長として第三
次中東戦争を指導していた。 1996年、イスラエルに対する、アラブ・イスラ
ム原理主義者(ハマース、イスラーム聖戦、ヒズボラ)によるテロが激化。
1997年1月17日、ヘブロン・プロトコル、自治拡大。
1998年10月23日、ワイリバー覚書、自治拡大。
2000年7月には、キャンプ・デービッド2000年サミット(英語版) 首脳会談
後のアラファート議長が、イスラエル側の「西岸地区の91%の支配権を認め
る、ただしこれとは別に西岸地区の1割の面積を当分の間(6〜21年)イスラ
エル側の支配下に置く」とする和平案を拒否した。イスラエルのエフード・
バラック首相は「寛大な申し出を拒否した」と非難した。
パレスチナ側が拒否をした理由として、一つは単純に準備不足があった。ア
ラファートはアラブ諸国と協議の後に結論を出そうとしたが、イスラエルと
アメリカは本会談で結果を出そうと結論を急がせていた。もう一つは、パレ
スチナ側は、安保理決議242及び338の受諾自体を譲歩と認識していた。しか
しイスラエルは、安保理決議242に基づく領土の「譲渡」を完全に行う必要は
なく、オスロ合意でパレスチナ側も受け入れたと認識した、認識のズレがあ
った。その結果、東エルサレムの帰属やパレスチナ難民帰還問題など、各論
で折り合うことができなかった。また、航空交通管制や水利権において、イ
スラエル側が現状維持を主張したことも対立点となった。
註:インティファーダとは、アラビア語の動詞اِنْتَفَضَの動名詞に関連する名
詞で、「揺れ、震え;覚醒、目覚め;蜂起、反乱」の意。現代では主に民衆
蜂起の意味で用いられている。英字表記はIntifada, Intefadah, Intifadahなど
2000 - 2005:第二次インティファーダ
「ガザ地区等撤退」および「ヨルダン川西岸地区の分離壁」も参照
2000年9月30日、アル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ
)発生によりPLOとの和平交渉が決裂した。 双方の市民には平和運動や交流
活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動がある。パ
レスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としているが、武力の弱さ
をおぎなうためとしてテロ戦略を採用する武装組織も存在し、若者や女性を
頻繁に自爆テロ攻撃に使っている。 一方で、イスラエル政府も占領中のヨル
ダン川西岸地区に入植者を送り込み、一般市民を不法な領土拡張政策に利用
している。イスラエル人の入植者達がパレスチナ人住民のオリーブ畑に放火
した後、畑を耕して自分たちの土地として既成事実化している。またパレス
チナ人住民はイスラエル軍も放火に加担していると証言している。
2000年9月30日、アル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ
)発生によりPLOとの和平交渉が決裂した。 双方の市民には平和運動や交流
活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動がある。パ
レスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としているが、武力の弱さ
をおぎなうためとしてテロ戦略を採用する武装組織も存在し、若者や女性を
頻繁に自爆テロ攻撃に使っている。 一方で、イスラエル政府も占領中のヨル
ダン川西岸地区に入植者を送り込み、一般市民を不法な領土拡張政策に利用
している。イスラエル人の入植者達がパレスチナ人住民のオリーブ畑に放火
した後、畑を耕して自分たちの土地として既成事実化している。またパレス
チナ人住民はイスラエル軍も放火に加担していると証言している。
最近ではパレスチナ人の自爆テロは、イスラエル側が建設した分離壁(下記
参照)によって困難になっており、パレスチナの各武装組織はカッサームロ
ケットによる砲撃に重点を移しつつある。その結果、イスラエルの民間人に
多数の犠牲者がでている。これに対しイスラエル側は攻撃ヘリコプターによ
る爆撃、ブルドーザーによる住居破壊(イスラエル軍のブルドーザーは、米
国キャタピラー社の特注品である)、戦車による砲撃などでパレスチナに反
撃している。 また、2002年4月にイスラエル軍のジェニーン地区侵攻でパレ
スチナ人の虐殺が行われたとパレスチナが主張したが、イスラエルはそれを
否定し、国連の査察受け入れを拒否して国連査察団が現地に入ることなく解
体してしまうなど、イスラエルは国連や第3国からの介入を基本的に拒否して
いる。
2002年2月にサウジアラビアのアブドゥッラー皇太子がイスラエルが全占領地
から撤退すれば、国家として承認するという中東和平の提案をした。
3月27日には、アラブ連盟で「アラブ和平イニシアティブ(アラブ和平構想)
」の採択が行われ、満場一致で可決された。主な内容は以下である。
--------------------------------------------------------------------
【自爆テロの歴史】
自爆テロ(じばくテロ、英: suicide terrorism kamikaze)とは、犯人自身も死
亡する事を前提としたテロリズムであり、自分が死に、また仲間も巻き添え
にすることを承知の上で殺人・破壊活動などを行う。攻撃の内容がテロリズ
ムに当たるのかどうかを特に問わない場合はsuicide attack “自殺攻撃”と呼
ばれている。 ここでは爆弾を用いたものに限らず、犯人自身が必然的に死ぬ
ことを承知の上で行う攻撃やテロリズム全般を扱う。
【概要】
一般に、「自爆テロ」と日本語に訳されているのは、英語で「suicide terrorism」
、もしくは世界共通語「kamikaze カミカゼ」と呼ばれているものである。
通常、人というのは、自身の身を守るもので、テロリズムを行う犯人も、計
画を立てる時、何かを攻撃するにしても自分は(自分だけでも)生き残ろう
とするが、自爆テロというのは、そうした常識に逆らうもの、常識を超えた
ものである。 世のさまざまな警備策(セキュリティ)というのは一般に人は
自分の身を守るものだという前提の上に組み立てられていることが多い。た
とえば、逃げ道がない場所では犯行はしづらいだろう、とか、人が何らかの
物を床に置いてそそくさとそれから遠ざかるように立ち去ったら(その段階
になって)人の命に危険を及ぼす可能性のある不審物と見なして調べたり除
去する、とか、もしも怪しげな人物がいたら心理的に威嚇すれば遠ざけるこ
とができる(はずだ)、といったような警備上の常識的な判断の中にも、“
犯人も(通常の人のように)自身を守ろうとするものだ”という前提が暗黙
裡に置かれている。 通常、誰かが爆弾を爆発させて誰かを攻撃する計画を
立てる場合でも、通常は当然のように「起爆させる犯人自身が生き残って逃
走する」こと大前提に置いた上で考えるもので、その結果、タイマーを作動
させて爆弾の遠くに離れるか、あるいは遠隔操作で起爆させるか、ドローン
などで目標まで爆弾を運ばせてから爆発させる必要がある、と考えることに
なる。ところが、犯人や仲間が死ぬことを承知の上で行動するとなると、そ
うしたタイマーや遠隔起爆装置やロケットの類は必要ない、ということにな
り、犯人は単純に犯行の場で自身の手で爆弾を起爆させればいい、というこ
とになる。すると、通常のセキュリティ(防御、警備)の常識・前提が覆っ
てしまい、警備する側の常識的な想定を超えたものになり、警備に一種の「
盲点」や「穴」のようなものが出現することになる。対処する側は時に自身
の命をかけることになる[1][2]。 自爆テロというのは、貧しくて高度な教
育を受けていない人のグループでも実行でき、金のかかる電子装置などを用
意しなくても確実に攻撃目標を攻撃できてしまうので『貧者のスマート爆弾
』とも言われている。もともと英語のsuicide bombing(自爆)を日本語訳
した言葉だが、原語が軍施設や兵士に向けられた攻撃・破壊活動も含む。
suicide bombingを機械的に「自爆テロ」と訳したことによる混乱も見られる
(#用語の相違参照)。
風蕭々と碧い時
John Lennon Imagine
● 今夜の寸評: 優勝は?!タイガース vs バッッファローズ
胸さわきの旅はいま始まって
時の流れのままにこころを遊ぱせ
この私は誰を訪ねるあてもなく
まるで詩人のように景色に染って
ああなんて街それそれ美しいの
ああなんて人それそれ生きているの
昨日今日日月日変わり行く私
紅くいろづくときめきを誰に告けましょう
風そよけぱひとリ胸抱きしめて
愛の不思議を思う吐息をもらして
この涙はきっと感じるよろこぴね
揺れる瞳に映る季節に恋いして
ああなんて街それそれ美しいの
ああなんて人それぞれ生きているの
朝に舞う夢黄昏に出会い
ほんの一時のためらいを誰に言いましょう
昨日今日日月日変わり行く私
紅くいろづくときめきを誰に告げましょう
三都物語(さんとものがたり)は、1990年(平成2年)に開始された西日本旅
客鉄道(JR西日本)のキャンペーンの一つで、同社の登録商標(第2637104号
ほか)である。1989年、京都・大阪・神戸観光推進協議会が設立されて三都
物語のキャンペーンの支援が行われた。協議会は2020年時点でJR西日本と京
都市、京都市観光協会、大阪市、大阪観光局、神戸市、神戸観光局で構成さ
れ、三都物語以外に三都スペシャルキャンペーンなど三都を冠した名前を使
ってキャンペーンが行われている.「三都物語」(さんとものがたり)は、
1992年6月25日にリリースされた谷村新司の楽曲で28枚目のシングル。かつて
運転されていたトワイライトエクスプレスの大阪行きでは、車内放送にて札
幌駅発車直後には1番が、大阪駅到着直前の車内放送では2番と最後のリフレ
イン部が流されていた。 全曲 作詞:多夢星人(阿久悠)作曲:谷村新司
編曲:佐孝康夫