あいつの顔を二度と見たくない。いいか、奴は原爆を作っただけだ。
しかしそれを爆発させた人間は、この俺なんだ。
ハリー・トルーマン
※ 「あいつ」とは、オッペンハイマー博士をさす。
【点滴潅漑とソーラーポンプ農法】
省力・軽労化のために、カンキツやその他の果樹栽培に対して、高効率かつ自動化しやすい点
滴かんがいの導入が増えている。カンキツへの導入は、雨を遮るマルチと組み合わせて緻密な
水分管理を行う「マルドリ方式」での利用などのように、温州ミカンを中心に果実高品質化や
生産効率向上を主な目的として行われ、中晩柑への導入も進みつつある。しかし、傾斜地では
適切な水源を整備できず、必要な量の水源があっても位置が低いことが多く、ポンプを使うに
も電源がない場合がある。この場面、太陽光発電を用いることで問題解決するシステムが農研
機構が開発(上図クリック)。
農地での小規模な電気機器を利用するのに使いやすい小規模な独立形システムの実用化は少な
い。そこで、ポンプで点滴チューブに水を送ろうとすると、量と圧力が同時に要求され、消費
電力約1キロワット以上の大きなポンプが必要だが、エンジンポンプでは運転の自動化が困難
で、カンキツ園で点滴かんがいを行う場合、かん水時間は1日に1時間前後で完了する。その
短時間のために大きなポンプの整備は非経済的だ。分な高さにタンクなどを設置し、小さいポ
ンプで長時間かけて揚水してから、必要なときに落差の力(自然圧)でかん水する方法で、太陽
電池利用ができる。
このシステムではライフサイクルコスト(LCC)低減のために、ポンプの間欠運転、つまり、例
えば15分動かしたら30分止めるといった間欠運転で、一気に放電することがなくなり、バ
ッテリー劣化の原因となる低電圧状態が長く続きにくくなるとともに、低電圧状態でポンプを
動かすと生じやすくポンプの劣化につながる、ポンプのオン・オフが繰り返されたり、極端な
温度上昇を起こさないようにする。上図は、連続運転の場合と間欠運転の場合とのバッテリー
電圧などの変化の模式図。間欠運転とすると、ポンプの寿命が2倍近くに伸び、バッテリーも
電圧が下がりにくくなり劣化が抑制される。
この成果報告をみて、次世代潅漑工学の点滴法は、栽培工程の最適化に汎用性があるものであ
ることを再確認した。これは面白い。
【百パーセント再エネ時代: 時代は太陽道を渡る Ⅶ 】
● オランダで高速道路用太陽光発電遮音壁の実証試験開始
オランダのアインとホーフェン工科大学のマイケル・デバイエらの研究グループは、すべての
高速道路の遮音壁をソーラーパネルに置き換えようと計画している。ことし4月から、同グル
ープは新しいソーラーパネルでオランダの高速道路A2線で2つの実証試験プロジェクトを開
始。パネルは北ヨーロッパの曇り空でも発電可能であり、周辺の半マイル内の50世帯に給電
する。このLSCパネルは、異なった色の半透明のシート状の特大ステンドグラス窓様態の遮
音壁で、両方からの光を発電できる特徴があり、都市部で歩行者やドライバーは騒音を遮断感
を低コストで、感じ取ることができる。
オランダでは、太陽光発電型舗装の実証試験結果報告されており、太陽光発電型高速道路用遮
音壁の実証試験結果が成功すれば、「太陽道構想」は実現することになる。
※ The LSC was first suggested more than 35 years ago. It is a simple device. It usually consists of a
polymeric light guide that is either filled with luminescent molecules such as organic dyes and ino-
rganic semiconducting nanocrystals (quantum dots) or topped by a thin layer containing these.
※ 色素増感型(?)半導体化合系物量子ドット太陽電池。カドミニウム・セレンを含有される
のでクリアすべき問題が残るだろう。
【縮原発論 16: 核ごみ廃棄処理のススメ】
目次
第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
第2章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
第3章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
第4章 世界的なウラン産業の誕生
第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
第6章 産業界のおぞましい人体実験
第7章 国連がソ連を取りこみはじめた
第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
第9章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか
第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
原爆によって天文学的な利益を得た巨大財閥
彼ら黒幕にとって、人道上の大きな問題となる”原爆による放射能の肉体的な被害”が
判明したあと、絶対に人目にふれないよう、隠されなけれぱならなかったことは確かであ
る。
加えて、この裏では、大変な事態が進行していた。IBMの創設者トム・ワトソンが、
二次大戦の直前、1937年夏にモルガン財閥によってアメリカ財界代理人としてヨーロ
ッパに送り出され、ドイツの首都ベルリンを訪れた。そこで開催された『国際商業会議所」
の総会で彼がNo.1の会頭に選出されたのである。そのあと彼はヒットラーと親しく会談し、
さらに当時のドイツエ業界を支配していた「IGファルベン」の社長シュニッラー男爵
と協力を約束し合った。ヨーロッバ全土からアウシュヴィッツ強制収容所に送られてくる
ユダヤ人を管理し、選別する作業を自ら買って出たIGファルベンは、この虐殺収容所に
君臨した経営鴎関のひとつであった。これら会談者のなかにヒットラーの経済相ヤルマー
ル・シヤハトの顔も見られた。彼が「モルガン商会」と一次大戦後のドイツ賠償取り引き
をしたのだ。ワトゾンとシャハトの親密さは当時の新聞にくわしく報道されていた。
ワトソンがヒットラーと会ったこの1937年夏は、前年の1936年10月19日に
ナチスがヨーロッパ全土をドイツの軍隊によって支配する「戦争準備四ケ年計画」を発表
し、すでにヨーロッパで大戦が起こることが明らか祀なっていた時期である。その投資総
額の3分の1をIGファルペンに割り当て、IGファルベンのナチス化がなされた翌年の
出来事だ。
こうしてナチス最高幹部に資金援助を約束したモルガン財閥の代表者が、IBMのトム・
ワトソンで、この功績によって、ワトゾンはヒットラーから十字功労賃を授けられ、その
ちょうど一年後にアメリカの自動車王ヘンリー・フオードがヒットラーから十字功労賞を
受けた。
彼らアメリカの二大財閥は、アメリカ国民やルーズヴェルト大統領と違って、二次大戦
が起こっても、1911年末にハワイの真珠湾攻撃が起こるまで、ヒットラーのナチスを
敵とみなしていなかったのだ。アメリカエ業界は、ドイツエ業界と手を組んでいたのであ
る!
なぜか?
1931年にドイツの選挙でナチスが第一党に躍進した時、この選挙資金を提供したド
イツのタルト・シュレーダー男爵は、自らナチス党員という肩書きを持ち、ナチスの「突
撃隊」で幹部をつとめていた。ドイツの工業家を焚きつけて選挙資金を集めた彼は、それ
をそっくりハインリッヒ・ヒムーフー(後年の秘密国家警察ゲシュタポ隊長)に手渡して
いた。さらにモのシュレーダーは、アメリカのウオール街にも逸出して支店を開設し、フ
ソュレーグー銀行一を設立していたが、この銀行の重役がエイプリー”ロックフ予フーで、
彼此石油王ジョン・D・ロックフ予フーの弟ウィリアムの孫であった。エイブリーはその
名もフソュレーダー・ロックフエーフー投資商会」を設立して、ナチスと手を組んでいた。
一方、二次大戦中のIBMすなわち「国際事務機」(lntermtional Business Machine)と称
するこの会社は、米軍が高度な機械戦争に突入したので弾道兵器の設計などで巨額の受注
があって、原爆製造に関してもモルガン財閥の「ベル電話」と共にマンハッタン計画に参
加し、兵器会社「レミントン・ランド」と特許を交換し合ったモルガン財閥傘下の軍需産
業に豹変していた。IBMの売上げは、戦争の幕が切って落とされた時に4千万ドル足ら
ずだったのが、幕を閉じた時には1億4000万ドルを超え、350%の伸びという驚異
的な数字を記録した。利益と資産も、ほぼ同じ膨張ぷりを示し、「デュポン」さえ圧倒す
るほどだった。IBMの社名にある”国際ヒジネス”は、この時代に全米の産業が取りこ
まれた戦争だったのである。
二大財閥にとっては、ナチスによる大戦争がヨーロッパ全域にひろがってゆくと、ヨー
ロッパに軍需品を送りこむ1941年の武器貸与法の成立によって、アメリカ国内での火
薬銃砲、爆弾、軍艦、軍用機、タンク、ジープなどの軍需品生産額が急増し、ますます好
調に伸びていたからである。ホワイトハウスの二階にある”リンカーンの間”に泊まり込
んでいたモルガンーロックフェラー財閥の代理人ハリー・ホプキンズが、武器貸与調整官
としてロンドンに兵器を送り続けた。ロンドンには、アメリカ大陸を横断するユニオン・
パシフィック鉄道の会長アヴェレル・ハリマンが海外武器貸与主席行政官として派遣され、
この鉄道王はロックフェラーの盟友として大戦を鼓舞し続けた。アメリカニ大財閥の戦争
目的は、ドイツ側の勝利でもイギリス側の勝利でもなかった。兵器産業の莫大な収入が目
的だったのである。
ここで描かれている帝国主義国間戦争とは「総生産力の消耗戦」と一括りにでき、これを回避
する手法(政策・戦略)は「武力戦争を絶対悪」とし、すべての武断戦争に加担する勢力を解
体する「ソフトパワーの結集」の一本道しかないとの再確認を導出させるかのようだ。それは
さておき、読みすすめていこう。
モルガン、ロックフェラー、デュポンなどの戦争工場は、この二次大戦で果たしてどれ
ほどの収入を得たのか。
アメリカの戦費総額は2450億ドル、今日のほぽ122兆5千億ドル(1千5百兆円)
に達した。二次大戦前の50年間にアメリカ政府が使用した国家予算の総額を超えてしまっ
たのである。半世紀分を一気に呑みこんたこの総支出の7割近くが、モルガン財閥とロッ
クフェラー財閥の総売上げだったと見てよい。彼らが両手に握った札束は、この世界戦争
のために全地球上で使われた支出総額のうち、実に7分の1を占めるものでもあった。
日本への原爆投下を勧告した人間は誰だったか
そこで、日本への原爆投下を勧告した委員会のメンバーを見ると、次の6人であった。
【議長】へンリー・スティムソン陸軍長官――彼はマンハッタン計画を担当した大統領補
佐官でもあった。モルガン商会と、ロックフェラー財閥のチェース・ナショナル銀行を
上客とする弁護士事務所を経営する有数の資産家であった。
【議長代理】ジョージ・ハリソン――「ニューヨーク生命保険」の社長で、同社の幹部重
役オーウェン・ヤングはモルガン商会の特権者であり、1942~45年までモルガン
財閥のゼネラル・エレクトリック(GE)の会長としてオークリッジ原爆工場を経営し
ていた。
【委員】ジェームズーバーンズーモルガン商会の鉱山会社「ニューモント鉱業」の重役で
あった。同社は「アメリカ金属』系列で、ここがアフリカの鉱山を支配し、重役が初代
石油王の孫ローランス・ロックフェラー支配下の「カナダ・インターナショナル・ニッ
ケル」社長であった。この会社が、カナダからウランを調達した。
【委員】ヴァネヴァー・ブッシューロックフェラー家の「スタンダード石油」とモルガン
財閥の「ゼネラル・モーターズ」と「デュポン」からの献金によって成り立つ「マサチ
ュセヅツエ科大学(MIT)」の幹部であった。日本・ドイツ・イタリアが宣戦布告する
前に原潜開発を始動させた”ウラン委員会”の議長として、マンハッタン計画の企画本
部をロックフェラー=モルガン連合によって組織した人物でもある。
【委員】カール・コンブトン――ヴァネヴァー・ブッシュの上司で、「マサチュセッツエ
科大学」の総長だった。真珠湾攻撃の1ケ月前に”ウラン委員会”に移管された時に委
員長をつとめ、ロックフェラー=モルガン連合が原爆をつくるように、一切の契約を担
当した。
【委員】ジェームズ・コナント――ハンフオード原爆工場を動かす死の商人、モルガン財
閥のデュポン吐顧問であり、この時は、モルガン家から莫大な資金援助を受け、モルガ
ン商会を管財人とする「ハーヴァード大学”の総長であった。彼はこの当時、ロスアラ
モスの原爆製造グループを指揮するグローヴス准将に直接の政治的支援を送る重要組織
「国家防衛研究委員会」の委員長もつとめていた。
(中略)
レスリー・グローヴスーマンハッタン計画のリーダーをつとめた准将で、戦後1948
年にはレミントン兵器から誕生したトマス・モルガン支配下の軍需産業スベリー・ランド・
グループの副社長となった。マンハッタン計画の総指揮官としてグローヴスが任命された
のは、陸軍省の巨大なピルを建設した指拝官としての手腕を買われ、抜擢されたからであ
った。のちにそれを見て謹もが国防総省をペンタゴン(五角形)と呼ぶようになったビル
の建設監督、それがグローヴスであった。大戦中の1943年1月に完成したその迪物自
体が巨大な秘密基地であり、工事費が1ケ月で当時の6億ドルという天文学的な出費の製
品であったため、軍事予算に関して多くの秘密を握った男であった。
クロフォード・グリーンウォルトーマンハッタン計画の中心人物となった委員だが、実
はモルガン財閥のデュポン家マーガレッタ・デュポンと結婚した兵器財閥の御曹司であっ
た。彼は、戦後Kデュポン社の社長・会長を歴任して、ハンフオードエ楊などでの原爆製
造で莫大な利益を獲得した。
これらの人間の肩書きと素性に表われている通り、原爆投下のすべての目的が、財閥が
得る巨額の収入にあったことは動かし難い事実である。
第6章 産業界のおぞましい人体実験
日本敗戦そして東西冷戦の時代から大々的に核実験がスタート
1945年8月14日――日本がこの日にポツダム宣言の受諾を連合国に伝えて無条件
降伏し、8月15日が終戦記念日となった。しかしこれは日本人の記念日である。アメリ
カ・ヨーロッパの軍需財閥にとって、8月15日は格別深い意味を持つ日ではなかった。
軍需ビジネスは戦争によって工場が肥大化した分だけ、戦後もそれを維持しなければな
らなかったので、一日も休みなく作業を続ける必要があった。核兵器開発はここで終った
わけではなく、広島・長崎への原爆投下は、単なるプロローグにすぎなかった。
歴史を終戦で区切ると、われわれが目撃している彼らの事業の正体を見失うことになる。
世界大戦の後こそが、彼らの稼ぎ時たったからである。
終戦翌年の1946年1月1日に、マンハッタン計画部隊をそっくり継承して、原子カ
エネルギー委員会(AEC――Atomic Energy Commission )の活動がスタートしたのであ
る(AECの正式な発足は、アメリカ議会が「原子力法」を成立させた8月1日であった)。
そしてこの年に「アメリカ放射線防護委員会」(NCRP――U.S&National Commiltee on
Rediatjon Protection)が誕生して、AEC傘下の医学部門となった。これがlCRP(国際
放射線防護委員会)の前身であった。
ネバダなどで戦後の核実験を総指揮したこのAECは、一般に日本で「原子力委員会」
と訳されているが、原水爆の核兵器を統括しただけでなく、名称には”エネルギーE”の
言葉がすでに使われていた。つまり、のちの原子力発電(平和利用)のエネルギーをすで
に射程に入れており、AECのロゴは原子核のまわりを電子がまわっている図、のちに”
原子力の平和利用”のシンボルーマークとして使われたものであった。このあとGE、ウ
ェスティングハウスの電気製品(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が全世界の憧れとなる時代に、
莫大な利権を生み出す原子力発電に邁進する組織だったので、本書ではAECを原子カエ
ネルギー委員会と呼ぶ。
AECが発足して3週間後の1月24日に、「国連」にAECをそっくりコピーした原
子力委員会が設置され、マンハツタン計画部隊が要求した通り、アメリカの原爆独占を認
めたのである。
この国連草案を起草したアメリカの委員会メンバーは、日本への原爆投下を勧告した委
員会とほぼ同じで、次の通りである。
(中略)
さらにこの代表団の作業を引き継いだ強力な国連代表が、ロックフェラー財団のNo.1理
事長理事長ジョン・フォスターダレス、すなわち戦後日本の再軍備を具体化した男であっ
た。モルガン財閥の鉄鋼トラストとスタンダード石油トラストをつくったのもロックフェ
ラー財団のダレスであった。この年、1946年の秋に、ジョン・D・ロックフェラー2
世が国連本部のために、ニューヨークの土地を6ブロックも買い取って寄贈し、そこに国
連ビルが建てられることになった。
全世界が焼け野原となった戦後のこの時点で、地球上の経済力の7割を握っていたの
がアメリカであり、国連は、こうしてアメリカの二大軍需財閥の資金によってスタートし
すべての国がアメリカの言いなりになる戦後世界が誕生したのである。
国連に原子力委員会が設置されて1ケ月余りあとの1946年3月5日、イギリスのウ
ィンストン・チャーチル首相が、アメリカ大統領トルーマンに招かれ、ミズーリ州フルト
ンの大学で有名な演説をおこなった。その中で、「バルト海の(ポーランドの)シュテッ
ティンからアドリア海の(イタリアの港湾都市)トリエスーアまで、ヨーロッパ大陸を横
切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパと東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべ
てその向こう側にある」と、”共産主義国・ソ連による鉄のカーテン”演説をおこなった。
今度は「ソ連は敵である」と、爆弾発言を放って全世界を挑発したのだ。
なぜ”前”首相だったかと言えば、チャーチルの戦争好きは、イギリス国内であまりに
も有名であった。軍需大臣として戦車という動く兵器を戦場で自ら考案したのがチャーチ
ルであれぽ、航空大臣としてイギリス空軍の生みの親もチャーチルであり、海軍大臣時代
には史上空前の海軍予算を使って軍需産業に莫大な金を投じたのもチャーチルであった。
そのためイギリス国民は、ドイツ降伏後に、「もう戦争屋はいらない」と言って、日本敗
戦直前のイギリス総選挙で労働党が勝利し、チャーチルが、戦後またしても戦争の火付け
役として登場したのである。
これを受けて一週間後の3月13日に、ゾ連の独裁者スターリンが共産党機関紙”プラ
ウダー記者に「チャーチルは戦争挑発者である」と批判して、「東西冷戦の時代」に突入
したのだ。
われわれの時代、1989年11月9日に、東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」
が崩壊するまでのエネルギー委員会(AEC)で生物医学班の、ボスをつとめ、1952
~58年にはAECの医学顕問をつとめてセント・ジョージなどでの住民被曝を野放しに
しおそるべきことに、1955~63年に原爆の放射線影響科学委員会の「国連代表」と
なる人物であった。
原爆実験を実施したAECは、マンハッタン計画の参加者をそのまま引き継いだ部隊で
あり、彼らが、南太平洋と、本書冒頭に述べたネバダ州で、原水爆実験の総監督をつとめ
たのだ。彼らは、原水爆の実験を大々的におこなう必要があった。
なぜなら核実験は、二つの目的を持っていた。ひとつは、高度な破壊力のある兵器を作
るための軍事的開発である。しかしもうひとつは、核爆弾を一発爆発させるごとに大量の
札束を吹き飛ばす莫大な利益であった。
1950年1月26日にアメリカは行動を起こし、韓国と軍事協定を結んだ。こうして
朝鮮戦争の開戦準備ができると、5日後には、トルーマン大統領が水爆の製造を指令して
新しい産業を始動させ、6月25日に朝鮮戦争が勃発した。1953年7月27日まで、
日本が巻きこまれる「三年間の大戦争」へが続いたのである。
AECは頭のてっぺんから爪先まで、ロックフ予フーとモルガンの企業から送りこまれ
た人材で埋められていた。いま彼らが手に入れようとしていたのは、ソ連(ロシア)の共
産主義者の危機を煽り立て、それによって国民の懐からペンタゴンに流れこむ国防予算の
金塊だった。財務長官が原水爆K割り当てた予算は、次の通りで、原水爆業界に流れこん
だ札束は気が遠くなる金額(1千兆円)であることが分る。
(中略)
しかしこの途方もない金額は、いわゆる一次予算と呼ばれるもので、ここには追加予算
が含まれていない。それが、年度によって異なるがほぼ2倍から3倍となっていたのだ。
ここの間、「スタンダード石油」の大株主や「モルガン商会」の投機業者が続々とAEC
のトップを占めていた。
人名録に残されたヒロシマ.ナガサキABCC創設者シールズ・ウォーレンの履堅書を
見ると、彼自身が「広島と長崎の原爆被バク者を調査した」とある。つまり、原爆実験と
広島・長崎の原爆被バク者のモルモット調査は、同じ人間の手でおこなわれたのである。
ABCCは、原爆投下から5年後の1950年8月時点での原爆破バク生存者だけを調
査対象とした。そのため原爆投下から5年以内に死亡した最大の被害者を調査対象から除
外してしまった! 加えてABCCは、曝心地から2・5キロメートル以内の人だけを被
バク者として調査し、実際には同様に被バクしている2・5キロメートル圏外の人を原爆
被バク肴にカウントしなかった。10キロメートル以上でも大量の被バク症状が出ていた
にもかかわらず!あらゆる手段を使って放射能被害を小さくしてしまったのだ。
ABCCによる被バク調査における決定的な医学上の間違いは、①広島と長崎の原爆被
バク考の体内で進行していた内部被曝を無視し、②放射能汚染した地域にある残留放射線
の影響を完全に無視したことと、③被パクの後遺症を”癌と白血病”だけに限定したとこ
ろにあった。いや実際虻は、彼らはその調査をしていたはずだが、その結果を一切(意図
的に)公表しなかったのである。
さらにシールズ・ウォーレンは、1950年から60年にかけて――全世界で危険な大
気中の核実験が最も多くおこなわれた時代に――「国連」の放射線科学委員会のアメリカ
代表をつとめ、そのあとも国連の世界ほ健機関(WHO)の要職にあって”医療者の鑑”
のような顔をとりつくろってきたのである。なぜ?という数々の謎が浮かんでくる。
ヒロシマーナガサキABCCを受け繕いだ日本の原子力第二・第三世代
一方で、広島・長崎の被バク者をモルモットにして観察してきたアメリカのABCC(
原爆傷害調査委員会)が、1975年4月に日本に受け継がれで改組され、放射線影響研
究所(放影研)となった。この略称「放影研」は、放医研(放新緑医学総合研究所)とま
ぎらわしいが、異なるので注意。改組された時代は中東に石油危機が起こったオイルショ
ック直後であり、全世界に原子力ブームが起こって、いよいよアメリカが日本に大量に原
子炉を売りつけるチャンスを迎えていた。
GEが、ウェスティングハウスが、莫大な利益を狙って、ABCCの主導権を日本人に
持たせる形をとったのである。ここから、日本の原子力第二世代が誕生することになった
のだ。
つまりこの時、ABCCの受け皿となったのが、1948年1月からABCCの調査プ
ログラムに正式に参加していた厚生省(現・厚生労働省)の国立予防衛生研究所(予研―
―現・国立感染疸研究所)であった。だが、予研にはなぜか、戦時中の細菌・化学戦研究
のために生体解剖などをおこなった大日本帝国陸軍の犯罪者”七三一部隊”の残党が大量
に流れこんでいた。原子力時代を主導した科学技術庁事務次官・梅澤邦臣の次兄・梅沢浜
夫がいたのが、この予研であった(この関係は、のちにくわしく述べる)。
このおぞましい殺人部隊の犯罪を、細菌戦資料の提供を交換条件に、東京裁判で免責し
たのは、戦後の米軍であった。
また、戦後からすぐ、広島・長崎の医学者と医師の肩書きを持つかなりの日本人か、AB
CCの調査に協力して、アメリカ人と共同で、悲しむべきことに母国・日本人の被爆・被
曝の被害者隠しに努めはじめた。それら人間の後継者が、「放射線はこわくない」と言い
続けある者は長崎大学の教授になっていった。
1978年に日本の原子力委員会に非公式の「原子力国際問題等懇談会」が設けられた
席に、不思議な人物ぷ登場した。それが、このアメリカABCCを受け継いで、広島・長
崎の原爆被爆者の放射線の影響を調査する”日米共同研究機関”――放影研の理事長とし
て1981年から君臨した重松逸造であった。国際疫学協会理事として、薬害のスモン病、
カドミウム汚染公害のイタイイタイ病の研究班長となり、驚くべきことに、いずれもこれ
らの薬害・公害で医学的に明白になっていた原因物質を「シロ」と判定し、被害者の苦し
みを泥靴で踏みつける重大な疫学犯罪を重ねてきたのが、その重松逸遊であった。
1986年にチェルノプイリ原発事故が起こると、国際原子力機関(IAEA)が組織
したチェルノブイリ原発事故の被害を調査する団長となった犯罪者・重松は、チェルノブ
イリ汚染の被曝現地を訪れながら、1991年にIAEAの”国際チェルノブイリ・プロ
ジェクト報告書”を国際科学者集団の長として作成し、「住民にはまったく大きな放射能
被害がない」と報告して、「原因は放射能恐怖症である」とのイメージをふりまき、全欧
界から怒りを買った。そして現在まで、広島と長崎に研究所を有する放影研が、アメリカ
から資金提供を受けてきた。
ICRPの委員でもあったこの重松逸造のチェルノブイリ現地調査を支援したのが、笹
川財団であった。言うまでもなく、戦時中にウラン調達に暗躍したA級戦犯容疑者であっ
た右翼の国粋大衆党総裁・笹川良一が、戦後に、満州侵略主導者・岸信介、特高警察主導
者・正力松太郎らの戦犯と共に釈放されたのは、アメリカが彼らを利用しようとする目的
があったからであり、笹川良一の笹川チェルノプイリ医療協力事業が、重松逸造のパトロ
ンとなったのは当然であった。笹川チェルノブイリ医療協力事業によるデタラメ検診結果
の報告書が、WHO(世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関)に提出され、「高い
評価]を得てきたのだ。
AEC(原子カエネルギー委員会)~ICRP~IAEAの長い手が日本に伸びて、原
子力産業が動かされる姿がはっきりと見えていた。重松逸造は厚生労働省に隠然たる勢力
を持ち、フクシマ原発事故の翌年、2012年2月6日に94歳で死去した。しかし……
1995年に笹川良一の死後、笹川財団は、日本財団に改称して曽野核子に継承された。
その笹川財団傘下で、重松逸遊と組んだのが、チエルノブイリ被曝現地派遣専門家のリ
ーダーとなった長崎大学の長瀧重信と山下俊一であり、この二人が第1章に述べた通り、
フクシマ原発事故の放射能被バクを放置したのだ。そして笹川良一の息子・笹川陽平が現
在まで山下俊一を讃えてきた・・・・・・原子力第三世代の登場である。
長崎大学の長瀧重信こそ、重松逸遊を継いで放影研理事長となった人物であった。長瀧
瀧戦後日本の原子力リーダーとなった茅誠司か原子力推進のために生み出した日本アイソ
トープ協会の常務理事でもあり、ABCCと茅誠司と笹川財団の流れを汲む長薦か、福島
県内の児童20ミリシーベルト無害論を述べて、原子力安全委員会の決定にお墨付きを与
え、現在まで東日本の子供の検診を拒否してきたのは、こうした人脈があったからである
フクシマ原発事故渦中の2011年、まだ事故直後のおそるべき高濃度の放射能が東日本
全域を襲っていろというのに、4月10日の会議で、原子力安全委員会の久住静代委員が
東日本全城の高い放射能汚染地域について、年間の積算総量限度をいきなり「20ミリシ
ーペルト」にしようと提案して、これを原子力安全委員会が決定したことを第1章に
述べたが、この久住も、放影研で臨床研究部司郎長の時代から重松逸遊の部下であったの
だ。
次回は、第6章から7章に入る。
この項つづく