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桜島レベル5の懸念

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  日本列島は異常なほど静かだっただけと言えます。/ 島村 英紀  

 

※ 百年間静かだった日本列島 1世紀に4~6回の大噴火は「通常の範囲内」

気象庁は15日午後、鹿児島県・桜島でこれまでの規模を上回る噴火が起きた場合、噴火警戒レ
ベルを4(避難準備)からさらに5(避難)に引き上げ、鹿児島市が桜島全域の住民を避難させ
る事態も想定している。桜島の南岳直下で山性地震が多発し、山体膨張を示す急激な地殻変動が
観測されたのは、海面下4~6キロにあるマグマだまりからの上昇圧力が高まっている。マグマ
の通り道である火道を広げようと岩石が割れ、地震が起きているのではとのこと。地球物理学者
の島村英紀は、「火山・地震国日本では原発は無謀」と指摘していることもあり(日刊ゲンザイ
2015.07.06)、多角的な警戒が必要だ。


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 【縮原発論 15: 核ごみ廃棄処理のススメ】   

  目次   

  第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
  第2章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
  第3章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
  第4章 世界的なウラン産業の誕生
  第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
  第6章 産業界のおぞましい人体実験
  第7章 国連がソ連を取りこみはじめた
  第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
  第9章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか 

 

    第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈

          ”マンハッタン計画”はいかにしてスタートしたのか

  すでに原子爆弾を製造するというアイデアが生まれていたので、年が明けた1942年に
 は、「極秘裡」に原子爆弾を製造するための「マンハッタン計画」か具体的にスタートした。
 そして「広島と長崎に原爆が投下されるまでの経過」は、以下の通りでありたと、書物に書
 かれてきた。さらにアメリカ人も日本人も、みな「世界大戦を終りせるために原爆か投下さ
 れた」という説明を信じてきた。
  ところが、以下の歴史は”嘘だらけ”なのである。読み進めれば、読者もすぐに「おやっ
 ?おかしい」と気づくはずだ。以下の文中から、隠れている原爆製造の犯人を見破っていた
 だきたい。



  まず初め、原爆を製造するために駆り集められた料学者たちはこう考えた。
  マッチ棒を上の図のように並べておき、左側のの一本目に火をつけると、どうなるか。
  そう、次々と燃え広がってゆくだろう。同じように濃縮ウランでも、核分裂によって飛び
 出す中性子か2個以上あれば、雪崩のように核分裂の連鎖反応を起こし、100万分の1秒
 単位で巨大なエネルギーが放出されるはずだ。
  1942年6月18日には、それまでの実験成果を「本柿的な原爆製造」に切り換えろた
 め、陸軍のなかに企1本部が設けられ、暗号名。マンハツタン工学管区(Manhattan Engine-
    ering District)と呼ばれる極秘プロジェクトがスタートした。これが一般に原爆製造で有名な
 「マンハッタン計画」とよばれるものであった。

  さらに.1ケ月後の8月17日に、ルーズヅベェルト大統領の指令のもとで、基本的な製
 造研究とは別に、先を見越して大々的に原爆を量産しようという工場計画か猛然たる勢いで
 頭を持ちあげてきた。
  陸軍省がウラン爆弾計画の全権を掌握することKなり、西部の砂漠地帯、ニューメキシコ
 州のロスアラモス研究所に、「プリンストン高等研究所」のロバートーオッペンハイマー博
 士を所長――総責任者として任命した。そして、総指揮官レスリー・グローヴス准将のもと
 でマンハッタン計画の暗号名で呼ばれる極秘の原曝製造研究が正式にスタートし、ロスアラ
 モスに続々と科学者と研究者が送りこまれた。これらの実動部隊は、まだ連鎖反応が成功す
 る前に組織がスタートするという手際のよさであった。



  原爆部隊は、当時全世界に存在する純粋ウランはわずかスプーン1杯にも満たない数グラ
 ムと言われるなかで、トン単位のウランを手に入れなければならなかった。そこで、ウラン
 原料を調達する部隊がつくられ、弾薬会社「デュポン」、電機メーカー「ウェステイングハ
 ウス」、化学会社「ユニオン・カーバイド」の三社を核として、全世界ヘウラン供給ネトワ
 ークか張りめぐらされた。

  このうちウェスティングハウスか、マンハッタン討画の正式スタートから3ゲ月後に、早
 くもミトンという大量の純粋ウランを本部に届けた。ウランが6トンになったところで、研
 究所をコロンビア大学からシカゴ大学に移して、燃料が組み立てられた。このシカゴ大学は、 
 創設者が「石油王ジョン・D・ロックフェラー」その人であり、「モルガン・パーク・セミ
 ナリー」も設立され二大財閥の傘下にあった。
  全財界のトップの科学者が見守るなかで実験ぱ大急ぎで進められ、翌月のことだったが、
 この実験炉で世界で初めての”核分裂の連鎖反応”が成功し、歓喜の声が渦巻くなか、ここ
 にようやく原子爆弾の可能性が実証されたのであった。
 
  真珠湾攻撃から一年後にあたる1942年12月2日に、イタリアの物理学者エンリコ・
 フェルミと、ハンガリーの物理学考レオ・シラードが、シカゴ大学で世界最初の原子炉「シ
 カゴ・パイル1号」を完成して臨界に達し、史上初めて原子核分裂の連鎖反応を維持するこ
 とに成功したのである
  166頁の図のように、核分裂の連鎖反応が持続された時、これを「臨界一という。原子力
 発電用の原子炉では、原爆のような超高速の雪崩となる連鎖反応を起こさないように、核分
 裂するウラン235の濃縮度を低くしておき、一定のエネルギーが放出される臨界状態を持
 続するようにして、熱エネルギーを取り出す。
  
  このシカゴ大学では、重水を使わず、黒鉛によって中性子のスピードを減速して核分裂を
 起こさせ、その核分裂で飛び出す中性子を、天然ウランのなかの「核分裂しないウラン23
 8」にぶつけて「プルトニウム239」を生み出すというメカニ。スムであった。その反応
 に初めて成功したのである。
  ブルートニウムは、自然界には存在しないが、地球上で最大の原子であるウランに中性子
 を吸収させると新しい巨大原子に成長し、危険な核分裂を起こしやすい原子に変ることが分
 っていた。これを、地獄の魔王プルートンに因んで、プルトニウムと命名していたのである。

  この新部隊の実験は、すでにウランを手がけているシカゴ大学とデュポン社の手に委ねら
 れた。

  同じ1942年12月から、最初のブルトニウム生産炉が東部テネシー州オークリッジに
 建設されたが、その後、兵器商人デュポン社が中心となって、プルトニウム生産用の大型炉
 がアメリカ北西部のワシントン州ハンフォードに、山と砂漠に囲まれて人目につかない場所
 を選んで建造され、Cのプルトニウムを使って最初の原子価弾を製造することになった。
  砂漠のロスアラモス研究所にウランとプルトニウムを大量に送りこむため、こうしてふた
 つの秘密工場が建てられ、オッペンハイマー所長を力づけた。

  オークリッジエ揚がウラン濃縮を担当して、主として次のメンバーが活躍した。
  カリフォルニア大学」と「コロンビア大学」が研究部門、「ゼネラルーエレクトリック(
 GE)」、「テネシー・イーストマン」、「M・W・ケロッグ」「ユニオン・カーバイド」
 が製造部門を担当した。
  プルトニウムを製造するワシントン州ハンフォードエ場では、主として次のメンバーが活
 躍した。「ハーヴァード大学」と「シカゴ大学」の研究部門、「スタンダード石油開発」「
 デュポン」などの製造部門、である。

  こうしてロスアラモス――オークリッジ――ハンフオードが三位一体となって、マンハッ
 タン計画が着々と成果をあげていったが、このブロジェクト全体を指揮する企画本部がその
 上に立ち、これは次の5人のメンパーで構成されていた。
  議長が「スタンダード石油開発」の副社長イーガー・マーフリー、委員は「ウエスティン
 グハウス」、「M・W・ケロッグ」、「ユニオン・カーバイド」、「マサチュセッン工科大
 学]で構成されていた。

  これらのメンバーが1943~44年のあいだにフル回転で活動すると、延べ46万人と
 いう膨大な数の人間を動員し、22億ドルの大金を注入された3つの工場は、悪魔に取り憑
 かれたように気勢を上げながら、原爆材料を生み出しはじめた。この金額は、当時と、フク
 シマ原発事故が起こった2011年時点のアメリカ国家予算に対する比率で比較すると、今
 日の748億ドル、およそ10兆円に相当するという信じ難いものであった。

  しかし原爆の製造に成功する前に、1945年4月12日にルーズヴェルト大統領が急死
 してしまい、副大統領のトルーマンが大統領に昇格し、4月30日にヒットラーが自殺して
 翌月、5月7~8日にドイツ軍が連合国への無条件降伏文盲に調印したのだ。
  一日も早く原爆を、と願う科学者の努力も虚しく、最後にはヨーロッパの敵がふと消えて
 しまったのだ。イタリアはすでに2年前の1943年7月25日にファシスト政権が崩壊し、
 ムッソリーニ首相が逮捕され、9月8日にイタリアが降伏していた。ここに、ドイツが無条
 件降伏してしまった。

 「なんということだ。われわれは何をやってきたのだ。いや、待て、まだ日本が残っている。
 まだ降参するなよ。頭の上に一発でかいやつをお見舞いするまで」
  こうして原爆製造研究はそのまま進められ、ついに合計3個の原子爆弾が完成し、7月に
 はテストの準備が完了した。


              原爆の実験に成功、そしてヒロシマ・ナガサキ


  そして1945年7月16日の早朝5時30分、ハンフオードで生み出されたプルトニウ
 ムを使って西部ニューメキシコ州の最南端、メキシコ国境に近いアラモゴルドで人類最初の
 原爆実験がおこなわれた(167頁の地図参照)。
  アメリカで最初に原爆が作裂した瞬間の閃光と轟音は、すさまじいもので、そこに立ちの
 ぽったキノコ雲の威力は、いかなる科学者の予測も超える大きなものであった。
  のちに原曝の父と呼ばれるロスアーフモス所長オッペンハイマーは、その閃光を目にした
 瞬間、「この世の終りだ」と感じたという。この記念すべき場所は、三位一体《トリニティ
 》と名づけられた。

  そして翌17日、原爆成功のニュースを胸に秘めて連合国の米英ソ首脳のポツダム会談に
 臨んだのが新大統領トルーマンであった。彼ら首脳は26日にポツダム宣言を発表して日本
 の無条件降伏を求めたが、日本があっさりそれを無視した。それから10日後であった。
  ポール・テイベッツ大佐は、夜になるとそっとB29に近づき、その爆撃康の機体に自分
 の母親の”エノラ・ゲイ”という名前をペンキで書いた。翌朝、彼は同乗のパイロット、ロ
 バート・ルイスと共にこの飛行頭に乗りこむと、操縦席に貼ってある女優リタ・ヘイワース
 のピンナップ写真にウィンクしてから、サングラスをかけ、広島へ向かって飛び立っていっ
 た。この機体が抱いていたのは、オークリッジエ場のウランを使った原爆だった。

  アラモゴルドの実験から三週間後8月6日、広島に15キロトンのウラン原爆リトル・ボ
 ーイか投下された。 
  爆心地は100万℃という灼熱の温度に達し同時にすさまじい爆風が起こって、熱風が地
 を払い、強烈な放射線が人間の体を射抜いた。広島市では、年末までに14万人の命が消え
 た。生き残った人たちにも、膨大な数の被傷者と、黒い雨と、降り積もる死の灰の汚染によ
 る被曝考が生み出され、放射線の後遺症が今日まで人々を苦しめ続けている。

  続いて三日後の8月9日、ハンフオードエ場で製造された22キロトンのプルトニウム原
 爆フアット・マンが長崎に投下された。長崎でも年末までに7万4000人の向がこの世か
 ら消し去られ、すさまじい被害の状況は広島と同じであった。特に死の灰が流れた渓谷地帯
 では、大量の白血病が発生した。
  トルーマン大統領はオッペンハイマーが興奮する様Fを観察しながら、連れの者にこう言
 りた。
 「あいつの顔を二度と見たくない。いいか、奴は原爆を作っただけだ。しかしそれを爆発さ
 せた人間は、この俺なんだ」
  しかし、彼らは、原爆を本当に使う必要があったのか?

 


                 なぜ広島・長崎に原爆が投下されたか

  アメリカ政府はなぜ日本に原爆を投下しなければならなかったか?
  原爆投下に先立つ2ケ月前、6月1日のアメリカの委員会では、原爆をできる限り速やか
 に「日本に対して」使用すべきこと、そして曝弾の性質については予告せずに使用すべきこ
 と、が全会一致の勧告として採用されていたのである。
  ヨーロッパでなく日本に投下されたのは、原爆があまりに危険であるため、海によって隔
 離された島だから日本に投下されたのか?日本の国内で広島・長崎に原爆が投下されたのは
 そこに重要な軍需基地があったからだ。

  しかし広島・長崎には、2種類の人かいたはずだ。強制連行された中国人や朝鮮人もいた。
 何も知らない子供たちもいた。膨大な数の罪もない市民が、広島や呉にあった軍港の存在に
 巻きこまれたのである。長崎の三菱軍需工場も、巨大であった。広島・長崎のほかには、京
 都・小倉・新潟が目標地点として挙げられたが、マンハッタン計画の総指揮官グローヴスが
 一番望んでいたのは「原爆の成果を充分に確かめられる」京都であった。しかしスティムソ
 ン陸軍長官の強い反対で京都が目標からはずされ、2発目の標的となった福岡県小倉は、爆
  弾投下の日の天候不良のため、長崎が被爆地となった。

  以上のように語られてきたが、「日本との戦争を早く終らせるために、広島・長崎に原爆
 が役下された」という原爆開発→製造→投下までの経過は、真実を伝えているだろうか。

  ここまで述べてきた経過を思い返してみよう。最大の驚きは、ドイツがポーランドヘ侵攻
 する半年も前に、つまり第二次世界大戦がはじまる前に、アメリカで”原子曝弾の製造”が
 勧告され、このプロジェクトがスタートしていたという点である。また日本の真珠湾攻撃と、
 ドイツ、イタリアからアメリカヘの宣戦布告がなされる前に、全世界へ平和を呼びかけてい
 た中立国アメリカが”ウラン委員会”を設立して原爆の製造に取りかかっていたのだ。ドイ
 ツ、イタリア、日本が全世界に狂気の挑戦をはじめたため、このファシスト三国を倒すため
 に原爆が開発された、というのではない。原爆の開発には、別の目的がすでに存在していた
 はずである。

  次いでウェスティングハウスが、直ちに当時の保有量の100万倍ものウランを届けられ
 たのはなぜなのか、という謎が湧いてくる。必要だから直ちに調達した、というのは出来す
 ぎた話だ。この疑問もまた、かなり以前から原爆とウラン原料確保の準備が進められていた
 事実を示唆している。
 
  第三の疑問として、まだ連鎖反応が成功しないうちにロスアーフモスでの「量産計画」に
 スタートし、工場スケールのプランがぶち上げられている点が目につぐ。これは、何とか実
 験を成功させようと考えはじめたばかりの科学者には思いつかない発想である。彼ら科学者に
 とっては、量産どころではなく、原爆を製造できるかどうかが最大の関心事であったはずだ。
 誰かが背後プロジェクトに知恵をつけ、一気に巨大工楊への道を拓いたのではないのか。

  しかし、では、この原料として使われたウランは、どこの鉱山から持ってきたのか、それ
 がまず問題である。ウランの鉱脈を発見し、作業者が地底から掘り出さなければならない。
 異常なスピードでウランを調達した人間は誰なのか。
  時の財務長官モルゲンソーの母の一族″グッゲンハイム・トラスト”こそ、ベルギー領コ
 ンゴに入りこんでいたロスチャイルド財閥のウラン採掘業者であヮた。モルゲンソーの妻の
 姓が、長崎原爆の名につけられたフアットマンであった。オツベンハイマー所長もロスチャ
 イルド一族であった。

  いや、このマンハッタン計画全体を動かした人間がどこかに潜んでいるはずだ。その答を
 求めるほうが重要である。世に通っている話では、シーボーグ、フエルミ、シーフードらの
 科学者たちが原爆を開発したという。しかし彼ら科学者には実験する能力と理論のほかに
 は何もなかったのだ。

  彼らを使用した雇い人は、本当にアメリカ「政府」だったのか? 
  そして最後に、本当にこの原爆を広島と長崎に投下する必要があったのか……
  頭の上に、いきなり原爆が落ちてくるはずはない。

  というのは、ドイツが敗北していなかった1944年9月11日からの第二次ケベック会
 談において、ルーズヴェルト大統領とチャーチル首相が、「原爆が完成した場合には、日本
 に対して使用する」という決定を下していたのである。ノルマンディー上陸作戦からパリ解
 放の歓喜に沸く時期であったから、確かにドイツの敗北は軍事的に決定的だったからという
 説明がある。しかしドイツが降伏したのは、この8ケ月後のことである。またこの時期、”
 標的にされた日本”の敗北が軍事的に決定的だったことも、ドイツと同じであるから、これ
 では「日本が選ばれた理由」として納得できる脱明にはならない。

  マンハッタン計画でウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのが、ロ
 スチャイルドー族のイギリス人チャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にアメリカのス
 パイ組織OSS(後年のCIA)を設立した大物でもあった。のちに世界的なマーチャント・
 バンク「ハンプローズ銀行」の会長となり、イングーランド銀行と南アの巨大な鉱山利権を
 支配した男である。グローヴスの自伝『原爆はこうしてつくられた』(恒文社)には、ウラ
 ン調達の場面でこのイギリス人チャールズ・ハンブローがしばしば登場する。


  このミステリーを解くことによって、放射線被バクの危険性が、今日までなぜ歪曲されて
 きたか、という最後の答が得られるのである。なぜなら、原水爆が軍需産業屹莫大な利益を
 もたらすならば、この軍需産業が、放射能被バクを隠蔽する犯人だという結論が、はっきり
 と見えてくるからだ。


               原爆によって天文学的な利益を得た巨大財閥

  すでに、これまでK記述した歴史のねかに、すべて、そのヒントがある。
  実は、アメリカの全産業は、石油を独占したロックフェラー財閥(スタンダード石油)と、
 鉄道と鉄鋼を支配したモルガン財閥(モルガン商会)が、1929年のウオール街”暗黒の
 木曜日”の株価大暴落によって起こった大恐慌後に、ほとんどの大企業を支配してしまった
 のである。この大恐慌が全世界に広まって、ドイツでは翌1930年に300万人、193
 2年に560万人という大量の失業者を生み出し、失業率が30%に達しで、このドイツ民
 衆の不満と怒りがナチズムを育てる素地となったことは、よく知られている。一方、恐慌の
 震源地アメリカでも、同じように企業と銀行の連鎖的な倒産が相次ぎ、大不況が大衆を襲っ
 ていた。ところがロックフェーフー財閥とモルガン財閥の企業だけは、不況のなかで倒産す
 る企業を次から次へと買い占めて、ますます巨大化していたのである。

  モルガン財閥の場合、支配した当時の資産1億ドル前後という超大企業だけを拾いあげて
 も、14の銀行、4つの生命保険会社、7つの鉄道会社、8つの電気・電話・ガスなどの公
 益事業、12の自動車・鉄鋼などの工業メーカーが数えられた。たとえばこのなかに世界一
 の鉄鋼会社USスチール、全米を支配するファースト・ナショナル銀行、巨大鉱山業者フェ
 ルプスーダッジ.アメリカ電話電信(ATT)、国際電話電信(ITT)、ゼネラル・エレ
 クトリック(GE)などの怪物が入っていた。さらりフンクを落として大企業クーフスで数
 えると都合444社がモルガンの支配下に置かれてしまったのである。



  一方、”スタンダード石油銀行”と呼ばれたナショナル・シティー銀行とチェース・ナシ
 ョナル銀行をはじめとして、ロックフェラー財閥も巨大な独占を成し遂げ、287社を支配
 してしまった。これを大恐慌後の全社合計の資産額で示すと、モルガン家が776億ドルロ
 ツクフェラー家か449億ドル、およそ7対4の比率でモルガンのほうが倍近い資産になる
 が、重要なのは、このわずか二家族の支配した資産総額が1225億ドルに達していたこと
 だ。1930年のアメリカ国家予算(歳入額)が40億ドルの時代に、その30倍を二大財
 閥が支配したのである。現代に換算するなら、69兆ドル、8000兆円規模になろうか。

  史上空前の独占だったこの数字は、「アメリカの大企業上位200社を並べたとき、資産
 総額の65%をモルガンとロックフェーラーで支配した」ということを意味する。実に65
 %の独占である。戦中のアメリカの「軍需産業のすべて」を握っていた。なかでも原爆の製
 造に直接係わるデュポン社とゼネラル・エレクトリ。ク(GE)をモルガン家が握り、ウェ
 スティングハウスをロックフごフー家が握っていたことによって、一一大財閥が原爆によっ
 て得られる利益は、途方もない金額になろうとしていたのである。

                                   この項つづく



 

● エアコン掃除DIY

朝から初盆ということで先祖供養とお経を唱え、エアコンの点検掃除を行い、官民協会地の2次
除草の準備をする。エアコンの点検は、除湿効果がいまひとつ悪いということで緊急で、フィル
タの掃除と凝縮水トレイをポイントに行う。内部清浄とフィルタ掃除の自動機能はあるが、それ
だけでは不十分であることを確認。彼女の提案で次世代形クーラーを考案する必要があることも
確認(これは残件扱い)。もう1つの課題は、3日(月)に除草奉仕したのだが、雑草の生命力
がすごくて、舗装アスファルトの割れ目の刈り上げ部から新たに成長したため、アミノ酸系除草
草剤処理の「ラウンドアップ」を選択したが、安全性の点でサスペンド(保留)に(下図クリッ
ク)。
  

  

 
※ 本日、断念ながら「ころんた栽培」、「胡椒栽培」の2つは失敗に終わったことを総括する。

 

 


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