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未来のど根性カエルTシャツ

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  滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗しきれるものではない。

                                                小野寺 百合子     

 


【未来のど根性カエルTシャツ】

● 衣類のように柔らかく、丈夫なトランジスタ

松山ケンイチ主演の実写化テレビドラマの「ど根性ガエル」がし話題となっている。そん
なTシャツが近未来に「可撓性薄膜ロボット」として出現するかもしれない。そんな夢を
実現するかのような技術開発に成功したと産総研が発表した(上図ダブルクリック)。こ
の発明は、上図(右上)のような、ソース、ドレイン、ゲートに用いる電極に導電性単層
カーボンナノチューブ(CNT)ゴム複合材料、チャネルに半導体的性質の単層CNT、絶縁
層にイオンゲル、基板にシリコンゴムを用いたサイドゲート型トランジスタ。硬い金属や
酸化物を一切使わず、全ての部材が衣類に近い柔軟性をもつ。トランジスタとしての特性
は上図(右上)のようにオン電流は-50マイクロアンペア、オンオフ比は104で、既
報のフレキシブルトランジスタと同等の性能をもつ。

また、上図(右中)に、柔らかさと丈夫さの指標、トランジスタの構成材料と各種金属、
プラスチック、衣類素材それぞれのヤング率と許容弾性ひずみ量を示す。ヤング率は材料
に加わる力と変形との比で、柔らかさの指標で、許容弾性ひずみ量は材料が壊れずに許容
できるひずみの大きさで丈夫さの指標であらわす。トランジスタの構成材料の導電性単層
CNTゴム複合材料、イオンゲル、シリコンゴムは、衣類に近い柔らかさと丈夫さを示す。

そんな物性をもち、上図(下)のようににハイヒールで踏まれても(圧力:約2.5メガ
パスカル)前後のトランジスタ特性を示すという。また、このトランジスタは、全ての部
材が一体化し変形することで、界面での応力やひずみの集中が抑制され、オン電流、オン
オフ比などのトランジスタ特性にほとんど変化がないという優れもの。柔らかいセンサや
エネルギーデバイスや有機エレクトロルミネセンス表示器と薄膜ワイヤレス通信器と統合
し、医療用の人体圧力分布センシングシステム、ヒューマンモニタリングシステムやデジ
タルサイネージなどの薄膜音響ディスプレイとして応用できる。未来のど根性カエルTシ
ャツ――衣類のように身に付けることができ、身体に負担を与えないウェアブル」なデジ
タル薄膜電子通信機器事業の発展に貢献する。


   

【オールバイオマスシステム完結論14: 保安伐採樹木の利用】

高齢者の企業内事業(企業内シルバー人材センタ)として、緑化美観事業があったが、街
路樹の美観と配電設備の保安のための伐採事業を外化展開できないかと考えことがあった。
勿論、事業外化であるいじょう、道路分離帯の除草やなどを含め回収バイオマスのエネル
ギー変換事業計画を構想したが、3・11東日本大震災前ということもあり、サスペンド
にあったが、株式会社 トーエネックが保安伐採業務(電力会社の配電設備の保安の樹木を
伐採する業務)で伐採した樹木を、木質バイオマスとして有効活用する取り組みを6月よ
り開始している。

同社は(上写真クリック)これまでは、保安伐採業務で伐採した樹木を所有者から処分を
依頼された場合、廃棄物処分していたが、木質バイオマスとして活用。木質バイオマスは
バイオマス発電所などの燃料に使用する。現在は、保管場所を保有しているなどの条件か
ら3つの事業場(一宮・津・桑名)でこの取り組みを実施。今回の取り組みでは、年間約
4百トンを見込んでいる。今後は、現在の3事業場の運用方法などを基に、伐採樹木を木
質バイオマスとして取り扱う事業場数を増やしていくという。

わたし構想した段階では、(1)天候が悪くても、落ち葉などの自動回収車や(2)街路
などの高木の自動伐採回収自動車、(3)回収したバイオマスの前処理、(4)回収バイ
オマスのエネルギー変換――(1)バイオディーゼル燃料化、(2)バイオエタノール化、
(3)バイオマスボイラー、(4)バイオマス発電なども含めた――事業を構想していた
が、同社の知財にはそれらに関連するものはないが、この事業化の展開如何では、面白く
なりそうだ。

 

【パーキンソン病克服論: 重篤度の可視化】 

パーキンソン病は、脳が出す運動の指令がうまく伝わらず、スムーズに動けなくなる病気。
1817年、ジェームズ・パーキンソン医師が初めて報告し、それにちなんでつけられた。
50~60歳代で発症することが多く、ゆっくりと進行し、日本人の約千人に1人がこの
病気にかかると考えら、また、高齢者に多い病気とされるが、若い人でも発症するといわ
れる。パーキンソン病の主な症状は「手足がふるえる(振戦)」「筋肉がこわばる(筋固
縮)」「動きが遅い(無動)」「バランスがとりづらい(姿勢反射障害)」の4つです。
その他にも、トイレが近くなったり、よく眠れないなどの症状もある。これらの症状は、
千差万別で、病気の程度によっても変わる。

東北大学の小山内実准教授らの研究グループは、神経変性疾患の一種「パーキンソン病」
の症状の重さを可視化する手法を開発。脳の領域を磁気共鳴断層撮影装置(MRI)で観
察し、同病の重篤度と関連して、神経活動が増加する領域を発見。同病の(1)発症メカ
ニズムの解明や(2)早期診断法の開発につながる可能性がある。神経活動に伴って造影
剤が細胞内に蓄積することに着目。同病のモデルマウスをMRIで観察し解析。同病は世
界で2番目に患者数が多い難治性の脳・神経疾患で、現状では、死後の脳組織を検査する
以外に同病を確定的に診断する方法はなかった。

 

 

 
 【縮原発論 14: 核ごみ廃棄処理のススメ】   

  目次   

  第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
  第2章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
  第3章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
  第4章 世界的なウラン産業の誕生
  第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
  第6章 産業界のおぞましい人体実験
  第7章 国連がソ連を取りこみはじめた
  第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
  第9章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか 

     第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈

                                     原子爆弾のアイデアが誕生した

  いよいよ、原水爆の開発が、いかに現代の原子力産業に受け膠がれ、社会を蝕んで
 きたか、モの道理を探ってみなければならない。実は、現代人のわれわれが気づかな
 いすべての答が、”この少し前に起こった重大な出来事”にあったのだ。
  歴史の時計に夜光塗料を塗って、再び時計の紺を逆回りにして、くわしく追ってみ
 よう。
  1938年12月、ドイツ人の化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトーフス
 マンが、ウランに中性子という粒子を照射した時、ウランよりも原子量が半分ぐらい
 の小さな原子バリウムが生まれたことを確認し、その原因が「ウラン原子が割れた核
 分裂」であることを発見した。

  この世界的な大発見は、大西洋を渡ってアメリカのプリンストン大学教授ニールス
 ・ボーアに伝えられ、そこからエンリコ・フェルミに伝えられた。フェルミはイタリ
 アの物理学者で、この1938年にノーベル物理学貢を受賞した。だが、ノーベル貢
 受賞式K参列するためスウェーデンのストックホルムを訪れると、そのままユダヤ大
 のラウラ夫人と共に、ファシスト独裁者ムッソリーニの迫害から逃れるためアメリカ
 に亡命していたのである。

  このハーンとシュトラスマンが発見した「原子の核分裂一という現象の発見は、全
 世界の物理学者にとって、きわめて重大なことを意味した。なぜなら1905年に、
 ドイツ生まれの、当時スイス国籍だったアルベルト.アインシュタインという人物が
 E=mc2 という式を発表していたからである。アインシュタインは、相対性理論に
  よって、「質量とエネルギーが相互に変換され、この時、E=mc2 の式で表わされ
  る関係がある」ことを示していたのだ。
 このE=mc2の式の記号は、

  E=エネルギー
  m=質量
  c=真空中の光速度=2.9979 × 1010 cm/sec である。

  その後分ったことだが、ウラン235の原子核が中性子を受けて核分裂すると、分
 裂して生まれる原子の質量の合計は、ウランの原子核をつくっている陽子と中性子の
 質量の合計よりも小さく(軽く)なる。これは、質量mがエネルギーEに変換され、
 エネルギーとして放出されるからである、と考えることができた。つまり、原子核が
 分裂すること虻よって、とてつもなく巨大なエネルギーが出るのだ、ということが、
 アインシュタインの式に含まれている光速度Cから推論されたのである。しかもウラ
 ン1キログラムに含まれる原子の数は2・5×10の24乗、つまり、2,500,000,000,
 000,000,000,000,000個もあるから、核分裂の熱量の大きさは、TNT火薬に換算す
  ると、桁違いの巨大なエネルギーである、と。


※ 質量とエネルギーの換算式

 ← Click here!

因みに、体重50キログラム人間の構成物質の総消滅エネルギーは、
4.493775894E+18ジュール。
TNT火薬なら1,074.038216メガトン分に相当。


  ここに、原子爆弾という兵器のアィデアが誕生したのである!
  翌1939年の3月には、コロンビア大学の工学部長からアメリカ政府に、「これ
 までにない破壊力を持つ原子爆弾という兵器をつくってみてはどうか」と、進言がな
 された。
  1939年10月11日には、すでにユダヤ人弾圧が続くヨーロッパを逃れてアメ
 リカに来ていたユダヤ人アィンシュタィンが8月2日に署名した書簡が、フランクリ
 ン・ルーズヴェルト大統領に出され、「ナチス・ドイツが原子爆弾を製造している可
 能性がある」ということを警告した。

  アィンシュタイン書簡の要旨は、次のようであった。
 
  ―エンリコーフェルミとレオ・シラードの研究によれば、ウランの連鎖反応によっ
   て新しいエネルギーを生み出すことができ、これによって、とてつもなく大きな
   威力を持った新型の爆弾を製造することが可能である。アメリカにはそれに必要
   な大量のウランはないが、ウランの重要な産地は、カナダと、チェコスロバキア
   と、ペルギー領コンゴ(アフリカ)にある。
   そのためには、ウランの確保と、資金の確保が必要である。
   ドイツでは、国務次官の息子ワィツゼッカーがこの研究に関与している―

  よく読めば、不思議な手紙である。兵器の製造を勧告する科学者が、最初からこの
 ようにウランの確保と、資金の確保が必要であると、まるで実業家のような言葉を記
 していた。それが、アインシュタイン書簡の特徴である。アインシュタインにこの手
 紙を書かせたのは、書簡に登場するレオ・シラード本人であり、彼は、H・G・ウェ
 ルズのSF小説から原爆の着想を得たと言われている。実際には、シラードが書いた
 手紙陀アインシュタインが署名しただけである。すでにシラードは、核分裂を連鎖反
 応によって連続的におこなわせることが可能であることを、この3月に実験によって
 確認して、ウーフン爆弾の誕生について見通しがついていた。

         しかしシラードに手紙を書かせたのは誰だったのか?

  第二次世界大戦が勃発して、原爆製造計画が始動した!
  その手紙が大統領虻手渡される前の月のことだったが、1939年9月1日、ドイ
 ツがポーランドに侵攻して弟二次世界大戦が勃発し、2日後にイギリスとフランスが
 ドイツに戦布告したのだ!!
  翌月10月11日に「8月2日付けのアインシュタイン書簡」を受け取ったルーズ
 ヴェルト大統領が、翌日の12日にウラン爆弾の製造にかかるよう命令を発し、その
 作戦頭脳としての”ウラン諮問委員会(Advisory Committee on Uranium)”が設立され、
 超極秘計画がスタートした。この”超極秘”というのは、ルーズヴェルトが急死した
 あと大統領に就任した副大統領トルーマンでさえ、ルーズヴェルトが死ぬまで、まっ
 たくこの作戦を知らされなかった、という意味である。しかしそれより驚くべきこと
 に、前線の最高指拝官をつとめた太平洋戦争のマツカーサー将軍も、ニミッツ海軍提
 督も、ノルマンディ上陸作戦を指揮したアイゼンハワー将軍も、最後の最後まで、い
 よいよ原爆が使用される時期を迎えるまで、この作戦計画を知らなかった。

  では、それを知っていたのは、誰であったか。
  開戦から8ケ月後の1940年4月には、イギリス空軍が原子爆弾の可能性を調査
 する委員会を設立して検討したところ、”てつもない爆発力を持つ爆弾”の製造が可
 能である、との結論を得た。これがアメリカ政府に伝えられ、アメリカが原爆に本腰
 を入れるようになった。

  そこでイギリス政府はただちに、この特殊爆弾の製造研究の開始を命じたが、同時
 に敵国ナチス・ドイツもそれを製造できるだろう、いやむしろすでに製造に着手して
 いるおそれがある、との危機感を抱いた。というのは、先に述べたように、開戦前年
 にウランの核分裂を発見したハーンとシュトラスマンがドイツ人だったからである。
 加えてドイツは、ウランの咳分裂の連鎖反応を突き止めたらしく、チェコスロバキア
 にあるウラン鉱山をナチスがすでに制圧していたのだ。

  そこでイギリスは、数百人の研究員をつぎこむかたわら、原爆製造に必要な重水が
 ヨーロッパでただ1箇所、北欧ノルウェーのノルスク・ヒドロ社で製造されていたた
 め、ナチスに先手を打って、その重水をすべて買い占め、フランスヘ持ち運ぼうとし
 た。この重水は、放射陸物質の重水素に酸素が結合した重い水であった。なぜ重水が
 必要であったか?

  天然ウランの中には、「核分裂するウラン235」がわずかにO・7%しか含まれ
 ていない(残り99・3%は、核分裂しないウラン238である),このウラン23
 5は、速度の遅い中性子を受けると、核分裂を起こしやすくなる。そこで現在の全世
 界のほとんどの原子力発電では、まず天然ウーフンのなかに微量しかない「核分裂す
 るウラン235」を数%濃縮する。そして、核分裂で飛び出す高速度の中性子を 普
 通の水のなかを通して速度の運い中性子に変え(減速し)、これをウラン235にぶ
 つけて核分裂が起こりやすくしている。

  このウラン235をさらに90%以上の高濃度に濃縮すれば、核分裂の連鎖反応を
 一瞬で効率よくおこなわせ、原子爆弾をつくることができるのだ。ところが当時は、
 まだそのウラン235を濃縮する技術がなかった。そのため原爆を製造するのに、重
 水を使えば普通の水と同じように中性子のスピードを遅くできるばかりでなく、重水
 は水素の原T核に中性子を持っているため、普通の水より中性子を吸収しにくい(核
 分裂を邪魔しにくい)ので、濃縮していない天然ウランを使っても核分裂の連鎖反応
 が可能になる」として、この重水がどうしても必萎だったのである。

  ところが、開戦翌年の1940年6月10日に「重水を持つノルウェー」がドイツ
 に降伏してしまい、6月14日には、ドイツ軍がパリヘ無血入城していたのだ。こう
 してノルウェーとフランスが次々とナチスに占領される危機の中で、イギリス郡部は
 かろうじてイギリスのケンブリッジ研究所へ重水を運びこむことに成功した。しかし
 それだけでは安心できないので、1943年2月には、ノルウェーの工場にゲリラ部
 隊が潜入して、ドイツ兵が警護する重水工場の重要な部分を破壊して、ドイツが原爆
 を製造できないようにした。

  一方アメリカ軍は、この類型爆弾の製造に適した大量のウランを確保する見通しが
 なかったが、ヨーロッパでは、それを確保できそうだった。アインシュタイン書簡に
 書かれていたように、アフリカのコンゴ(現ザイール)にウランの豊富な鉱山があり、
 鉱山会社のウニオン・ミニエール社が支配し、そこをベルギーが植民地としていた。
 すでにこうした事情を察知していたのが、イギリスの海軍大臣チャーチルであった。
 彼の一族がウニオン・ミニエール社の重役室に入っていたため、チャーチルは早くも
 手を回してウランを確保しようとした。

  ところがナチス・ドイツは、すでに開戦翌年の1940年5月10日に、ベルギー、
 オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に、最後通告を発したとみるまに奇襲攻
 撃をかけて侵攻し、占領していたのである。したがって連合国側は、コンゴのウラン
 も”ベルギー経由”では入手できなかった。イギリスのチェンバレン首相は、ヒット
 ラーの野望をおさえようとドイツに対して宥和政策をとってきたが、このベネルクス
 侵攻事件によって辞任に追いこまれ、この5月10日に戦争麺チャーチルが首相の座
 に就いたため、この時から挙国一致内閣が組織され、本物の世界戦争がはじまったの
 である。ルーズヴェルト大統領とチャーチル首相の重大な関係が確立されたのがこの
 時だった。

  こうして連合国側とナチス・ドイツ側はそれぞれ、さまざまな知恵を使って、原爆
 製造計画で秘かに先を争っていた。1940~41年にかけて、ナチス空軍がイギリ
 スの16都市を空襲し、首都ロンドンも百万軒の住宅が大被害を受ける危機となった。
  そのため、イギリスの原爆研究所もナチスの空爆の危険祀さらされてきた。こうし
 てイギリスは、大西洋を渡って研究組織をそっくりアメリカに移すことになった。
  そして開戦から一年半後の1941年2月23日、アメリカの化学者グレン・シー
 ボーグ博士たちが、カリフォルニア大学バークレー校で、サイクロトロンと呼ばれる
 粒子加速器を使って、ウランに重水素を衝突させる方法により、世界で初めてプルト
 ニウムを合成・分離した。そして2月28日には、このプルトニウムもまた核分裂を
 起こすことを証明した。ここに新たな原爆材料が誕生したのだ!

  だがこの時、アメリカは中立を言言したままで、まだ世界大戦には、参戦していな
 かった。

                   真珠湾攻撃で一変した全世界

  ところがその年の慕、1941年12月8日(日本時間午前2時)、狂気に取り憑
 かれた大日本帝国の軍隊がマレー半島に上陸を開 始して、アジア全土の侵略をはじ
 めた。そして午前3時には、ハワイの真味湾ヘの奇襲攻撃を開始したのだ(ハワイ時
 間こ1月7日午前8時)。このパール・ハーバー攻撃によって、アメリカの艦船を大
 量に破壊し、軍人2326人が死亡1900人が負傷したのである。
  奇襲というより大虐殺であった。
  真珠湾攻撃から一夜明けた12月8日、激怒したルーズヴェルト大統領がアメリカ
 議会に日本への宣戦布告決議を揚出し、上院が満場一致で可決し、下院は賛成388
 対反対1で議会を通過し、アメリカとイギリスかただちに日本に宣戦布告した。

  真珠湾攻撃のニュースに驚いたのは、誰よりもヒットラーとムッソリーニだったの
 である。というのはこの4年前の1937年11月6日に日本・ドイツーイタリアが
 ”三国防共協定”を調印し、1940年9月27日にもベルリンで、外相・松岡洋右
 (103頁の系図――安倍晋三の一族)がヒットラー政権と”日独伊三国同盟”に 調印
 して、ファシズム枢軸体制を確立していたから、当然ドイツとイタリアも「日本と組
  んでアメリカに攻撃した仲間」とみなされることになり、アメリカという大国を敵に
 して戦争しなければならなくなったからである。
  ヒットラーとムッゾリーニが丸二日間も考えたあと、ようやく苦悩の果てに出した
 結論は日独伊三国同盟による世界制覇の野望へと変り、三日目にアメリカヘの宣戦を
 布告したのである,

  時のアメリカ大統領ルーズヴェルトの本心はどうだったのか。いまや全米のアメリ
 カ人が真珠湾奇襲攻撃をした卑劣な日本人への憎悪を燃やしているのだ。この日をこ
 そ、ルーズヴェルトは待ち望んでいた。”真珠湾攻撃”の予報は、すでに暗号文が解
 読されて、アメリカには分っていた。”奇襲”されるまで待ったのは、事情があった
 からである。
  その証言者としてイギリス首相ウィンストンーチャーチルがいる。彼の著書『大同
 盟』には、次のような記述がある。

  ――ルーズヴェルトは、中立を守っているアメリカを戦争に介入させるよう強く望
    んでい た。しかし彼はその方法を知らなかった。そのため日本軍の真珠湾攻
    撃は、アメリカ国民全体を一致団結させ、ルーズヴェルトの戦争介入の責任を
    大きく軽減させたのである。
    
  また、アメリカ陸軍参謀総長のアルバート・ウェデマイヤー将軍は、自著『ウェデ
 マイヤーは報告する!』のなかで次の事実を明らかにしている。

  ――輿痛罵攻撃の前日、日本の暗号文を解読した結果、ルーズヴェルトは奇襲を事
    前に知っていた。大統領顧問が予防措置をとるよう進言したが、ルーズヴェル
    トはその必要なしと答え、「民主主義のためには、立派な記録を残せるよう事
    態の進展を待たなければならない」と語った。

  その事態の進展とは、一体何だったか。

  奇襲四日前の”シカゴ・デイリー・トリビューン”には、一面トップに「ルーズヴ
 ェルトの戦争計画」がスクープされ、大統領がいかに戦争を待ち望んでいるかが報道
 されていた。
  その罠に落ちるように、大日本帝国が奇襲したのである。日本の真珠湾攻撃と、ド
 イツのアメリカ宣戦布告の日から、全世界の事情は一変した。
  ルーズヴェルトは、歴史的には、二次大戦のファシに”日独伊三国同盟”軍を打ち
 破りた崇高な人物として讃えられてきたが、それだけが彼の姿ではない。実際には、
 大統領顧問がアメリカ最大の財閥モルガン商会の会長トマス・ラモントであった。そ
 の一方で、財務長  官には隣家の友人であるユダヤ人、ロスチャイルド財閥のヘン
 リー・モルゲンソーJrが就いて、大統領の資金バトロンとなっていたため、ドイツ
 におけるユダヤ人弾圧と虐殺に対して、大統領も激しく憤ってアメリカ参戦を望んで
 いたのだ。

  また、大統領の息子であるフランクリン・ルーズヴェルトれは、アメリカ軍需産業
 の総元締めをつとめる全米一の爆弾製造会社デュポン京の娘エセル・デュポンと結婚
 し、モルガン商会と共同事業をおこなう関係にもあった。さらに、もうひとりの息子
 ジェームズ・ルーズヴェルトは、モルガン家とロックフェーフー家の盟友である鉄道
 王ハリマン家の閔閥に入っていた。こうした関係から、ルーズヴェルトは、モルガン
 財閥が所有する全米一の大企業USスチールとも提携し、大統領選挙ではロックフェ
 ラー財閥のスタンダード石油、モルガン財閥の死の商人デュポン、ゼネラルーエレク
 トリック(GE)などの軍需企業がルーズヴェルトを支援した。つまり、ヒットラー
 やチャーチルと同じように、ルーズヴェルトも非常に好戦的な人間であったのだ。
  その国に戦争を仕掛けたのが、大日本帝国だったわけである。

                                この項つづく

 

【近代史再考:ヤルタ密約】

ヤルタ密約は、以下の概要からなる。   

(1)1945年2月4日~8日ルーズベルトとスクーリンが会談。
  スクーリンは対日参戦の条件を提出、ルーズベルトはそれを了承、チヤーチルも後に署
  名し3考で「極東問題に間するヤルタ協定」が取り交わされた。極秘で1年間公表せ
  ず。「中ソ友好同盟条約」はこの密約から出発。
(2)スターリンの要求(前年12月14日スターリンと米国駐ソ大使ハリマンの予備会
  談で提示済み)

 ①千島諸島とサハリン島(樺太)南部のソ運への返還(ポーツマス条約以前の状態へ)
 ②絹唄、天運港、周辺地の昇租借。
 ③満州の鉄道租借
 ④外モンゴル、「モンゴル人民共和国]の独立承吼
       
 尚、中国の蒋介石は事前にツンボ桟敷。理由は日本への秘密「漏洩」の危険性のため。。
また、スターリンの要求の理由。ソ運国民を説得するための大義名分として「アメリカは
参戦を懇願する立場に置かれ、スターリンは請け負う考として高価な報酬を求めて来た」
とする。

(3)密約調印:ソ米英3国は、ドイツが降伏して2、3ケ月後、以下の条件で、ソ連が
  連合国側に耕して対日戦争に参加することで合意。

 ①外モンゴル(モンゴル人民共和国)は現状のままとする。
 ②ソ連はかつてロシア帝国が有していた権利を回復する。この権利は1904年日本の背信
  的攻撃によって破壊されたものである。

 (甲)サハリン島南部およびそれに連なる各島はソ連に返還される。
 (乙)大連商港は国際港として開き、ソ連は開港における優越的権利をf呆障される。
   また網槙はソ連の海軍基地としての租借権を回復される。
 (丙)中東鉄路原詩鉄面及び天運に通じる南淡鉄路(南満州鉄道)は、中ソ双方による
   合弁会社によって経営し、ソ連の優越的権利が保障される。中国は満州において完
   全なる主権を有する。

 ③千島諸島はソ遂に引き渡される。

 ただ、上述のモンゴル、旅順、大連、並びに中東・南満鉄路の諸点に関しては、必ず中
国の蒋主席の同意を必要とする。ルーズベルト大統領はスターリン元帥から通告のあり次
第、蒋主席の同意を得るよう施策を講じる。
3大国首脳は、日本が撃破された後に、ソ連の以上の要求が必ず実現されることについて合
意した一方、ソ連は中国が日本より受けている束縛から解放するために、軍隊をもって援
助すべく、中国国民政府と中ソ友好条約を締結する用意があることを表明する。
     
   ヨシフ・スターリン/フランクリン・ルーズベルト/ウィンストン・チヤーチル

                            1945年2月11日


ソ連はドイツ降伏の後、三ヶ月をめどに対日参戦する。情報士官・小野寺信は亡命ポーラ
ンド政府のユダヤ系情報網から、ヤルタ会談の密約を入手。それは杉原千畝が亡命ユダヤ
難民に与えた「命のビザ」への見返りだった。その情報を東京の参謀本部に打電したがヤ
ルタ密約電を受け取りながら、参謀本部の中枢が抹殺してしまった(『消えたヤルタ密約
緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い―』岡部 信 新潮社)。崩壊直前ながら、ドイ
ツはインテリジェンス・サイクルが回り、しっかりした分析、情報共有ができていたのに
対し、参戦を決めていたソ連に仲介和平の望みを託した日本は、目前の和平工作で頭がい
っぱいになり、ソ連参戦情報をノイズ(雑音)と受け止め、抹殺したのだろう。日本は国
家として情報を分析、判断する能力が低かったとは、作家で元外務省分析官の佐藤優は、
こう語っている。

また、小野寺情報を握り潰した人物として、瀬島龍三、梅津美治郎など名前が挙がってい
る。歴史に「もしも」はないが、ヤルタ密約をめぐる情報を政府部内で共有できていれば、
広島、長崎への原爆投下を回避でき、ソ連の対日参戦、そして北方領土の占領を防げたと
作家・外交ジャーナリストの手島龍一の指摘があり、また、『私のシベリヤ抑留記』(小
池書院)の著者・高橋秀雄は、「日本軍将兵は武装解除の後に平和的に家庭に帰す」(
『ポツダム宣言』)が有るにも関わらず、日本政府から、将兵の帰国要求申し入がなく、
63万余の将兵が長年に渡って、酷寒の地シベリアでの強制労働、飢餓を味わうことにな
った述べている(「政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~
ポツダム宣言8」)。蓋うに、事実は小説より奇なり、である。

 


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