どんなに長くても、夜は必ず明ける。 / シェイクスピア 『マクベス』
● 川内原発1号機でトラブル 出力上昇延期へ
九州電力は21日、11日に再稼働させた川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)の復水ポンプ
付近でトラブルがあり、21日に予定していた出力上昇を延期すると発表した。25日には原子
炉の熱をフル出力する「定格熱出力一定運転」を予定していたが、遅れる。1号機は現在、通常
の75%の出力で運転、21日中に95%へ上昇させる予定だった。現在、75%の出力を維持
したままトラブルの原因を調べているが、復水ポンプは、蒸気が発電タービンを回した後に蒸気
を冷やし水に戻して循環させる装置で、ポンプの出口で水質を監視する「電気伝導率」の数値が
上昇。伝導率は冷却水に海水などの塩分が混入した場合に上昇すると九州電力は話している(毎
日新聞 2015.08.21 11:00)。
九電によると、20日午後2時19分、発電に使った蒸気を冷やして水に戻す「復水器」と呼ば
れる装置を流れる水に異常があることを示す警報が鳴った。関連する機器や水質を調べた結果、
21日朝、復水器の中の水に微量の海水が混入していると推定したという。蒸気を冷やすために
取り込んでいる海水を流しているチタン製の細管に小さな穴が開いたため、海水が漏れ出した可能性が
あると説明し、放射能の漏れはないという。
原子炉は、加圧水型原子炉だとすると下図の「復水器」(12)ないの電気伝導度が上昇したと
いうことなのだが、原理的には一次冷却水系と二次冷却水系間の漏水があれば放射能線量が上昇
すので検知できるはずだ。
因みに、二次側圧力は157気圧(320℃)程度だとされる(詳細不明)。報告通りであれば
問題はないが、高圧高温のため、いったん炉心溶融が起これば、配管がその分破れやすく、水を
失うスピードも速く、冷却機能喪失からメルトダウンまでの所要時間が沸騰水型に比べて短いと
されている。どうだろう?
新エネルギー産業総合技術研究機構(NEDO)は、中国・国家発展改革委員会とジャガイモの
でんぷんの残りかすからバイオエタノールを製造する技術の導入に関する基本協定書を締結した
と発表(2015.08.19)。中国政府はガソリン消費量を抑えるため、20年までにバイオエタノー
ルを10%混合したガソリン(E10)を全土に普及させることを目標にしている。その目標達
成に、燃料用エタノール製造の拡大を推進する方針。一方で、米国での事例を踏まえ、食料価格
の高騰を避けるため、トウモロコシなどの食料からのエタノールを生産するプラントを新設させ
ず、非食料からバイオエタノールを製造する。
この実証事業の製造プロセスの特徴は、ジャガイモでんぷん残りかすが、でんぷん質とセルロー
スが複雑に絡み合んだ構造を持ち、一般の酵素では糖化できないのだが、今回実証に用いるアク
レモニウム糸状菌が分泌する複合酵素で、ジャガイモでんぷん残渣を分解(糖化)するため、エ
タノール製造できる。また、無水化技術は、ゼオライト膜脱水システムなど世界最高レベルの純
度を実現する脱水システム技術を適応する。
※ 特開2011-193773 改変候補遺伝子の探索方法 独立行政法人産業技術総合研究所
※ 特開2014-226574 水溶性有機物の濃縮方法及び水溶性有機物の濃縮装置
日立造船と双日を委託先とし、中国の黒龍江省における「馬鈴薯澱粉残渣からのバイオエタノー
ル製造実証事業」を14年3月まで実施。同実証事業は産業技術総合研究所が保有するジャガイ
モのでんぷん残りかすの糖化・発酵技術と、日立造船の総合プラントエンジニアリング能力と膜
分離によるエタノール化無水技術、双日総合研究所のバイオマスに関する知見活用し燃料用エタ
ノールを生産し、これらの実証実験の成果を、ショーケースとし、中国の東北地方をはじめとし
たジャガイモ産地でのバイオエタノール製造技術の普及を広げていくという。これは楽しみだ。
● 現代大量虐殺史 Ⅴ
【縮原発論 21: 核ごみ廃棄処理のススメ】
目次
第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
第2章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
第3章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
第4章 世界的なウラン産業の誕生
第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
第6章 産業界のおぞましい人体実験
第7章 国連がソ連を取りこみはじめた
第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
第9章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか
あとがき
第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
世界最初の原子力発電がスタートした
このカルテルには、東西の国境がなかりた。それぞれの国が莫大な国家予算を平和利用名
目で食い荒らし、暗躍をはじめたのである。ソ連で原子力発電に大きな貢献をしたのが、1
930年代のスターリン恐怖政治の主役をつとめたアンドレイ・ヴィシンスキー検事総長で
あった。”ソ連速建国の父”レーニンの側近としてロシア革命に参加したジノヴィエフやカ
ーメネフを、スターリンの大粛清によって処刑に導いたヴィシンスキー検事総長が、外相あ
るいは国連の首席代表として世界を動かす一方、ソ連国内では原子力に没頭したのである。
ビキニ水爆から半年後、1954年9月23日、被バクした第五福竜丸の無線長、久保山
愛吉さんが急性白血病によって40歳の若さで死亡した。一般に4シーベルトを被バクすれ
ば「半数が死亡する」とされるが、久保山さんの推定被バク線量はそれを超える5シーベル
トであった。現在の年間限度1ミリシーベルトの5000倍である。彼の命を奪った最期の
直接の死因は肝臓障胃だったが、久保山さんの肝臓障害による黄疸症状は、明白な放射線障
害のひとつであった。久保山さんは「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」との遺言を
残して、この世を去っていった。この重大事件の波紋が日本全土から世界中に広がって、て
1月28日には、原水爆禁止署名運動全国協議会が、「原水爆禁止署名者が2008万人を
超えた」と発表した。当時日本の人口は8800万人余りなので、国民のほぽ4人に1人と
いう、今日まで歴史上例のない驚異的な人数であった。
核実験で子供の癌死亡率が6倍に
実は、のち1972年に日本癌学会で東北大学医学部公衆衛生学部初代教授・瀬木三雄氏
が発表した次頁のグラフに示されるように、日本全国の5~9歳の子供の癌死亡率が、全世
界の核実験によって6倍(600%)にも増えていたのである。そしてこの小児ガン罹患率
は1970年代から2000年代の現在に至っても変らず、今も6倍の高い率が続き、5歳
以上の子供の病死原因の第一位がガンなのである。大気中の核実験と原発事故によって増大
した”自然界にあふれる放射能”によって、日本でも子供たちが数えきれないほど癌に冒さ
れているのだ。
アメリカとソ運が敵対関係にあった東西冷戦時代に、全世界で大気中の核実験が528回
おこなわれたと言われるが、アメリカのブルッキングス研究所の分析によれば、その核実験
の放射能による癌の死亡者の総数は、最高240万人に達する可能性があり、すでにその多
くが死亡しているという。このようなことを発表しないアメリカのシンクタンクが1998
年末に明らかにした調査結果だから、数字の信憑性は高いが、その240万人に”原発によ
る被バク死者”も含むという疑いがある。
(中略)
中国が、ソ連のスバイだったクラウス・フックスから教えられた技術を導入して原爆実験
に初めて成功した1964年、スタンリー・キューブリック監督が『博士の異常な愛情―
または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』という映画を公開
した。
この映画は、アメリカとソ連が、最後に核戦争を起こすまでを、狂気の核戦争を叫ぶ”水
爆の父”エドワード‘テラー博士をモデルに、徹底的に皮肉った抱腹絶倒のパロディー作品
であった。テラーはマンハッタン計画に参加したのち、戦後はロスアラモス所長オッペンハ
イマーをおしのけて水爆開発の中心的存在となった男だった。(後略)
ついにIAEA(国際原子力機関)が誕生し、WHOを支配した
かくして、日本から原水爆禁止運動が全世界に広がり、そこにソ連の原子力発電スタート、
という1一つ目の革命が起こった。そのため、これらの動きを取りこんで、原水爆反対の勢
いを世界的にコントロールするため、1957年10月26日、アメリカのAEC(原子力
エネルギー委員会)が主導して、国際原子力機関(IAEA:Intemational Atomlc Energy
Agency)が、「国連」の自治機関として誕生したのである。「原子力の平和利用を推進し、
軍事転用を防止する国際機関」という名目で股立されたのだ。
軍事転用の防止とは、すでに”原水爆を持っているアメリカとソ連とイギリス”(および
この3年後に原爆を持つフランスと、7年後に原爆を持つ中国)による原水爆の独占、とい
う意味であった。「国連安全保障理事会の常任理事国以外の国は、原水爆を持ってはならな
い」と。
これがまさに、ユタ州セント・ジョージで大量の癌死者が発生しはじめた時期であった。
言うまでもなく、この経過のなかで誕生したIAEAは、国連の安全保障理事会に従属する。
軍事的心な組織であった。IAEAのロゴが、原水爆実験を繰り返したAECのロゴと同じ
アトムマークだったことが、その正体を示していた。つまり事実上、第二次世界大戦の戦勝
国が、資本主義国か、共産主義国か、洋の東西を問わず、核兵器開発を独占するための国際
シンジケート組織であった。日本で使われている国連(国際連合)という名称は、英語で“
United Nations” である。本来は第二次世界大戦の連合国という意味であり、国際連合では
ない。そのため、安全保障理事会の常任理事国とは、その戦勝国のアメリカ・ソ連(ロシア・
イギリス・フランス・中国のことであり、横暴にも彼らだけが国連の決議に対して「拒否権」
を持っている。
国連は危機を煽るのが好きであり、彼らは核兵器に異常な愛情を持っている。国連のユニ
セフは「飢餓児童の救済」キャンベーンをテレビで展開しているが、「こんな偽善の前に、、
飢餓を生み出す兵器の取り締まりに全力を注ぎげ!」と言いたい。日本の評論家も政治家も
大体、軍事的危機を煽るのが好きである。そして危機を煽れば煽るほど、冷戦で対立する張
本人の”米ソの権威が確立される”のである。その彼らにとっては、資本主義も共産主義も
ない。東西で手を握るべき共通項となる仮面が、いまやIAEAの掲げる[原子力の平和利
用」という謳い文句であった。
これは以前からわたし(たち)が、既得権益勢力と、これと結託した「国際官僚群」と呼んでい
るものであり、5大国主導から参加国の民主的運営主導の「国連改革」が急務だと主張してきた。
その1つが"国連による刀狩り"、つまり、武器輸出の禁止、核兵器廃絶であり、日本国民は粘り
強く、ソフト・パワーに依拠した"積極的平和主義"を政府・非政府組織の双方で展開すべきもの
と考えている。
そして2年後の1959年5月28日、全世界の人類の健康を守る機関であるはずの国連
のWHO(世界保健機関)が、新組織IAEAと早くも協定を綿んでしまうという于際のよ
さだった。この協定によって、IAEAが独占的な、原子力の世界的権威と位置づけられ、
WHOは、実質的に原子力の分野で独立した医学調査を実施することが禁じられたのである。
(中略)
一体、誰が、このようK理不尽なことを仕組んだのか?
このIAEAの創設を主導したアメリカのルイス・シュトラウス(ストロース)は、マン
ハッタン計画の残党が集結したAECで、アイゼンハワー政権時代に自らAECの No.1で
ある委員長に就任し、ネバダの大気中核実験を強行して大量の被パク者を生み出し、西部の
住民を殺してきた最高責任者であった。その男が、原子力発電の大宣伝に奔走したのである。
ロスチャイルドー族のマーチャント・バンク「ターン・レーブ商会」でパートナーと呼ば
れる最高幹部だったのが、そのルイス・シュトラウスであった。
こうした背景の中で人選がおこなわれ、すでに述べた”殺人人体実験医”ハミルトンと共
に、1936年に白血病患者に放射性ナトリウムを静脈注射した医師ロバート・ストーンが、
放射能の安全基準を定めるICRPの幹部となり、国連のWUOで放射能被曝問題の最高顧
問となったわけである。
さらにこれらと連動する形で、「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSC
EAR)が、チェルノプイリ原発事故からフクシマ原発事故の現在に至るまで、世界的な被
バク容認の組織として機能する母体となってきたのだ。
こうしてICRPに対する助成金は、IAEAから投入され、さらに経済協力開発機構(
OECD)の原子力機関をはじめ、WHO、国際放射線防護学会(IRPA-lntemalioul Ra-
diadon Protection Association)などの放射線学会、さらにはイギリス、アメリカ、ヨーロッパ
共同体(現EU)、スウェーデン、日本、カナダなど、各国の原子力マフィアが牛耳る機関
が拠出して、主に西側諸国が金銭的に支配し、被バクの安全論を普及する広告塔として屹立
するようになった。
原子力産業“Atoms‐for‐Peace”とは文字通り核兵器産業であった。
日本における被曝隠しの黒幕――医療界と七三一部隊
こうして、古い歴史から現状まで見た通り、AEC・・・・・・ABCC……ICRP……IA
EA・・・・・・WHO、さらにAECを受け継いだ組織であるNRC(原子力規制委員会)とD
OE(エネルギー省)といった巨大組織がアメリカから次々と生み落とされ”放射能の”安
全性"を宣伝する活動に「権威」として君臨してきた。
われわれは、一世紀におよぶ被害者の声から、科学的・医学的に、放射能に安全という言
葉がないことを、誰もが知っている。ところがこの「権威」たちが、"危険性"を、医学的に
根拠のない"安全性"という言葉で表現することによって、大衆を誘導してきた。それが日本
では、テレビと新聞を挙げて、今日も続いているのでおそろしいのである。
では、そのIAEA-ICRPと組んで"安全性"を頷っている、目の前にある日本の組織
を見てみよう。経済産業省(旧・通産省)は、明白な”原発推進官僚グループ”であるから、
エネルギー論を前面に打ち出して、産業顕から原子力産業を育成・統括してきた。
だが、以下の組織虻ついては、あまり広く知られていない。
「放射線医学総合研究所」(放医研)――
「日本アイソトープ協会」――
「日本財団](旧・笹川財団)――
「放射線影響研究所」(放影研)――
「文部科学省」――とは何者であろうか。
どのようにして、日本の原子力産業は、ICRPとIAEAを日本国内に手引きして、彼
らと同じようなこれらの組織を生み出してきたのだろうか。それを知るには、人間の固有名
詞を追跡するのが、最も的確な方法である。具体的には、こうである。驚いてはいけない。
実は、二次大戦中に、日本も原爆開発に取り維んでいたのである。敗戦濃厚だった大日本
帝国の軍部にとって、原曝開発こそが起死回生の"神風"であり、軍部内で二つの原子爆弾開
発計画か進められていたのだ。陸軍の「ニ号研究」と、海軍の「F号研究」であった。睦軍
は1941年4月に、陸軍航空本部が理化学研究所(理研)に原子爆弾の開発を委託し、直
ちに"原子核物理学の父"仁科芳雄に、原爆製造に関する研究を指示した。これが、仁科の名
を取った「二号研究」であった。理研には、仁科芳誰のもとに、朝永振一郎(のちのノーベ
ル物理学賞受賞者)たち多数の物理学者が揃っており、東京帝国大学、大阪帝国大学、東北
帝国大学の研究者も参加したが、マンハッタン計画の45万人に対して、実勅人員はわずか、
20人余りでしかなかった。1942年ごろから本格的にウーフンの採掘と、濃縮実験やナ
チス・ドイツヘのウラン輸送依頼などで研究を進めていたが、1945年3月10日の東京
大空襲で理研が焼失し、すべてが一瞬で泡と消えた。
海軍では、海軍大臣傘下の艦政本部が、京都帝国大学の教授に「原子爆弾の可能性の研究」
を委託し、核分裂(fission)に因んで「F号研究」と命名した。京大グループには湯川
秀樹(のちのノーベル物理学賞受賞者)たちがいた。そしてウランを調達するために、右翼
の国粋大衆党総裁・笹川良一(のちのA級戦犯容疑者)の仲介で児玉誉士夫が海軍航空本部
嘱託となり、上海に軍需物資調達のための組織「児玉機関」をつくり、児玉と関係したアジ
ア産業が朝鮮でウランに目をつけ、1944年には上海でウランを入手して、これを遠心分
離機で濃縮を試みたが、最終的に何の実りもなく失敗に終った。
やがて敗戦から9年後、奇しくも1954年3月1日にビキニ環礁で巨大な水爆が打ち上
げられた翌日、3月2日に、改進党の代議士・中曽根康弘を中心とする保守三党が原子力予
算三億円を衆議院に提出して、これが成立した。内訳は、ウラン235の数字に因んだ原子
炉建設費2億3500万円のほか、ウラン資源調査費、資源や利用開発のための費用などで
あった。参議院でもこれが自然成立し、これにより日本の原子力開発がスタートしたのであ
る。国会に初めて原子力予算が上程されたこの古い昔の出来事は、頭から完全に忘れ去られ
てよいのだろうか。
この予算成立からわずか4ケ月後の1954年7月1日に、防衛庁(現・防衛省)が設置
され、戦後の日本に初めて、実質的な軍隊として危険な武器をにぎりしめ、自衛隊が発足し
たのである。つまり、1946年のチャーチルの”鉄のカーテン”演説享冷戦の幕が切って
落とされ→南太平洋の原水爆実験開始→1950年の朝鮮戦争開戦→米軍が朝鮮戦争に33
万の兵を韓国に投入。ネバダの原爆実験開始、という流れに組みこまれ、米軍およびAEC
(原子カエネルギー委員会)と共に歩む今日までの歴史を刻みはじめた国が「日本」であっ
た。朝鮮戦争の死者は、数々の推定が出されているが、1953年7月27の休戦までの、
3年間で100万~500万人という膨大な数であった。
その結果、この累々たる死者を踏みつけにして進められたのが、米軍から日本産業界に発
注された軍需品の「朝鮮特需」であった。それが戦後日本の経済復興の起爆剤となり、占領
地・沖縄における米軍基地のすさまじい危険性を放置し、日本自身が山のように近代兵器を
買い集め、製造し続けることになった発端であった。
1954年に日本の国会に初めて原子力予算が上程されたその年に、A級戦犯容疑者とし
て、笹川良一、岸信介らと具に巣鴨刑務所に収容されていた正力松太郎が読売新聞社の社主
に復帰した。全世界で大気中の核実験がおこなわれ、地球全土で核実験反対の猛烈な運動が
展開されたこの時期、彼らがいっせいに復帰できたのは、占領軍のアメリカが、日本人の戦
争犯罪者を軍事的に利用する下心のためであった。
朝鮮戦争の勝利のために全力を注いでいた日本占領軍のGHQ(連合軍本部)は、195
1年9月8日にサンフランシスコ対日講和条約と日米安全保障条約を締結して、形だけは、
"日本の独立"と、日本国憲法の。不戦’を認めながら、この安保条約によって米軍が占領地・
沖縄に駐留できることを日本に約束させ、ここから全世界に出撃できる後方基地を確保した。
そしてネバダの咳実験と連動しながら、一日本の夥しい数の戦争犯罪者を免責し、一度解
体した戦時中の軍事財閥を復活させる」という一連の取引きを進めたのである。
さらにこの取引きに前後して、生きている中国人たちに細菌実験をおこなった石井四郎ら
"悪魔の七三一部隊"の犯罪者たちを免責した。アメリカ軍部は、細菌戦争や毒ガスのデータ
を人手するため、七三一部隊からひそかに聞き出した戦時中の日本の細菌資料をアメリカに
持ち帰ったのだ。この七三一部隊の残党が原発に関与してくるのである。この戦犯免責の機
会に力を得た正力は、さらに衆議院議員に転じ、初代の原子力委員長に就任して、戦前の隠
然たる勢力を回復させることに成功した。日本の原子力開発は、アメリカのAECの息がか
かったこのような人脈によって急速に進められた。
そして1954四年に、ビキニ環礁で第五福竜丸被バク事件が起こった翌日、野党・改進
党の中曽根康弘、斎藤憲三の両代議士が学界や世論を無視して、原子力予算案を衆議院に突
如提出し、与野党三党(自由党・日本自由党・改進党)の共同修正案として衆議院を通過し
て、日本の原子力開発がスタートを切ったわけである。しかしこの時代はまだ水力発電と石
炭火力の時代であり、ようやく石油火力に向かおうとしていた時期なので、電力会社は電力
需要の急拡大をまかなうことに必死で、原子力にはまだほとんど関心がなかった。
ビキニ水爆実験による「第五福竜丸被バク事件」をきっかけとして、わが国に原水爆禁止
の大運動が展開された時代……1957年7月に、放射線医学総合研究所(放医研)が設立
された。「放射線の人体への影響、放射腺による人体の障害の予防、診断と治療、放射線の
医学的利用に関する研究開発などの業務を総合的におこない、放射線医学に関する科学技術
の水準の向上を図る」、との名目であった。
そして、がっては原子力の平和利用を主張していた物理学者・武谷三男氏が『原水爆実験』
(1957年)、『安全性の考え方』(1967年)などを出版して、アメリカの原水爆実
験による放射能汚染の放置を痛烈に批判し、さらに『原子力発電』(1976年、いずれも、
岩波新書)で原発の危険性を論破した。
亀井文夫監督が1957年にドキュメンタリー映画『世界は恐怖する――死の灰の正体』
を描いたなかに、日本放射性同位元素協会の良心的な科学者たちが登場していた。当時これ
ほど放射能の危険性を全世界に訴えた日本の科学者たちが、中曽根の原子炉予算の国会提出
後、なぜ突然、原子力に走りはじめたのか?「学者がぐずぐずしているから、札束でほっぺ
たをひっぱたいてやれ」という中曽根のひとことでメンバーが大幅に入れ換えられ、良心的
な科学者が学界から追放された、とされている。天才物理学者・武谷三男氏が、この危険な
暴走する原子力政策に異議を唱えて彼らと訣別したのが、この時代であった。
それまで核実験の放射能汚染を追跡してきた科学者集団は、日本放射性同位元素協会に代
って、1971年に名称が日本アイソトープ協会となり、X線や医療用放射性物質を"善玉"
として見せることによって.巧みに日本中にバラ色の原子力という夢をまく役割を果たしは
じめた。この国民洗脳テクニックは、アメリカとヨーロッパで使われて成功した方法をそっ
くり輸入したものであった。
この項つづく
彦根市の特産「彦根梨」が収穫の最盛期を迎えている。彦根梨は熟した時期に摘み取るため、糖度
が高いのが特徴。市内では21軒の農家が「筑水」「幸水」「豊水」の3品種を栽培。今年は気温が高く、晴
天が続いたため実が多くつき、甘みも十分。