私が小説を書く理由はひとつだけです。
個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、
光をあてる事です。
村上 春樹
● 散乱光でアルツハイマー病を解明
愛媛大学の座古保教授らの研究グループは、ナノサイズの金粒子を利用しアル
ツハイマー病の原因物質を高感度で検出手法を開発。同病の原因と考えられて
いる「アミロイドベータたんぱく質(Aβ)の塊」に、直径40ナノメートル
の金粒子を結合し光照射し観察。1リットル当たり7ピコモルの低濃度でAβ
の塊を検出したと発表。
従来技術は、抗原抗体反応を利用したエライザ(ELISA)法が今回の測定
法と同程度の検出感度を持つものの、Aβの濃度が分かるだけで、Aβの単体
分子か塊かを見分けられなかった。そこで、光照射の散乱光から微細な構造を
鮮明に観察できる「暗視野顕微鏡」で、金ナノ粒子を使い観察できるようにな
った。この方法は、Aβだけ結合する抗体を表面に修飾した金ナノ粒子を作製
することで、ヒト由来のAβの塊に金ナノ粒子を添加させると、Aβの塊の大
きさに応じた強度の散乱光が検出できる(上図クリック)。
● マイナンバー導入怪奇劇
財務省案は、マイナンバーの個人番号カードを、還付金を受け取るために必須
とし、軽減税率対象品目を購入する際、マイナンバーカードの個人認証を必要
とし、すべての食料品購入をクレジットカード決済と同じ仕組にする。
(1)17年4月から10%へ消費再増税を行う。
(2)その際、「酒類を除く飲食料品」の消費増税分に相当する給付金を事後
的に払う。
(3)購入の際にマイナンバーカードを提示されたものだけを還付対象(年間
で4千円)とし上限を設ける。
還付方法には、(1)簡素な給付金、(2)領収書(インボイス)(3)ナン
バーカード管理の3通りのうち、世界標準は(2)のインボイス方式、(3)
は管理コストが一番高いとされている上、「軽減ポイント蓄積センタ(仮称)」
という天下り機関で管理されようとしている。わたし(たち)の主張は、(1)
低所得者への戻し税方式であり、(2)マイカードの納税者番号制化―課税完
全把握、(3)カード情報保護の法整備(折々に、ブログ掲載してきているの
で参考)。補足しておくとカード取扱管理業務は民営委託。また、金融関係等
の取引相手方は登録制(→悪用防止・ブラック企業の排除)。こう考えていく
と「消費税引き上げ隠し」(財務官僚=霞ヶ関)と「マイナンバー潰し」(富
裕層有権者=永田町)の双方が複雑に錯綜しているようにも見えるし、中途半
端な制度のように見えるため、摩訶不思議、政治不信。
「これは村上さんが、どうやって小説を書いてきたかを語った本であり、それ
はほとんど、どうやって生きてきたかを語っているに等しい。だから、小説を
書こうとしている人に具体的なヒントと励ましを与えてくれることは言うに及
ばず、生き方を模索している人に(つまり、ほとんどすべての人に)総合的な
ヒントと励ましを与えてくれるだろう――何よりもまず、べつにこのとおりに
やらなくていいんだよ、君は君のやりたいようにやるのが一番いいんだよ、と
暗に示してくれることによって。」と翻訳家で東京大学教授(昨年退任)の柴
田元幸が本書の帯でこのように述べている――紀伊国屋書店から村上春樹の新
著『職業としての小説家』が届いた。早速、読み始める。
小説について語ります、というと最初から話の間口か広くなりすぎてし
まいそうなで、まずとりあえず小説家というものについて語ります。その
方か具体的だし、目にも見えるし、比較的話か進めやすいのではないかと
思います。
僕か見るところをごく率直に言わせていただぎますと、小説家の多くは
――もちろんすべてではありませんが――円満な人格と公正な視野を持ち
合わせているとは言いかたい人々です。また見たところ、あまり大きな声
では言えませんが、賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向や、奇妙な生活
習慣や行動様式を有している人々も、少なからずおられるようです。そし
て僕も含めてたいていの作家は(だいたい92パーセントくらいじゃない
かと僕は踏んでいるのですか)、それを実際に口に出すか出さないかは別
にして、「自分がやっていること、書いているものかいちばん正しい。特
別な例外は別にして、他の作家は多かれ少なかれみんな間違っている」と
考え、そのような考えに従って日々の生活を送っています。こりした人々
を友人や隣人として持ちたいと望む人は、ごく控えめに表現して、それほ
ど数多くないのではないでしょうか。
作家同士が篤い友情を結ぶという話をときどき耳にしますが、僕はそう
いう話を聞くと、だいたい眉に唾をつけます。そういうこともあるいはあ
るのかもしれないけれど、本当に親密な関係はそんなに良くは続かないん
じゃないかと。作家というのは基本的にエゴイスティクな人種だし、やは
りプライドやライバル意識の強い人か多い。作家同士を隣り合わせると、
うまくいく場合より、うまくいかない場合の方かずっと多いです。僕自身、
何度かそういう経験をしています。
有名な例ですが、1922年にパリのあるディナー・パーティーで、マ
ルセル・プルーストとジェームズ・ジョイスか同席したことかあります。
でも二人はすぐ近くにいたにもかかわらず、最後までほとんどひとことも
口をきかなかった。まわりの人々は、20世紀を代表する二人の大作家か
どんな話をするんだろうと、固唾を呑んで見守っていたのですか、きれい
に空振りに終わってしまいました。お互い自負心のようなものが強かった
のでしょうね。よくある話です。
しかしこれにもかかわらず、職業領域における排他性ということに関し
ていえば――簡単に言えば「縄張り」意識についていえばということです
が――小説家くらい広い心を持ち、寛容さを発揮する人種はほかにちょっ
といないのではないかという気かします。そしてそれは小説家か共通して
持っている、どちらかといえば数少ない美点のひとつではあるまいかと、
僕は常々考えています。
もう少しわかりやすく具体的に説明しましょう、
仮にある小説家か歌がうまくて、歌手としてデビュ-したとします。あ
るいは絵心かあって画家として作品を発表し始めたとします。その作家は
まず間違いなく、行く先々で少なからぬ抵抗を受け、また揶揄嘲笑の類を
浴ぴせられることになるでしょう。「調于にのって場違いなことをして」
とか「素人芸で、それだけの技術も才能もないのに」みたいなことをきっ
と世間で言われるでしょうし、専門の歌手や画家からは冷たくあしらわれ
ることになりそうです。ひょっとしたら意地悪くらいされるかもしれませ
ん。少なくとも先々で「やあやあ、よく来たれ」みたいな暖かい歓迎を受
けることはほとんどないはずです。もしあったとしてもそれはきわめて限
定された場所における、きわめて限定されたかたちのものになることでし
ょう。
僕は自分の小説を書く傍ら、これまで三十年ばかり積極的に英米文学の
翻訳をしてきましたか、最初の頃は(あるいは今でもまだそうなのかもし
れませんが)けっこう風当たりがきつかったみたいです。「翻訳というの
は素人か手を出すような簡単なものじゃない」とか「作家の翻訳なんては
た迷惑な道楽だ」みたいなことをあちこちで言われたみたいです。
小説家が賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向や、奇妙な生活習慣や行動様式
をもつ人々が92%もいるというこの数字に取り憑かれ、村上春樹の『色彩を
持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の五角数を、あるいはジョンソンの立
体やウランの原子番号や伏見天皇などついつい連想するほど唐突であり、以降
の表現の深さに寄り道ほどに時間を費やしてしまう。さて、残りはまたの日の
楽しみに。
この項つづく