英語に streetwise という言葉があります。「都会を生き抜くための実際的な
知恵を持った」というような意味ですが、僕には結局のところ、学術的なもの
よりも、そういう地べたっぽいものの方が性に合っていたようです。
村上春樹 『職業としての小説家』
【マイホビー奮戦記:3Dプリンタではじめるデジタルモノづくり】
デアゴスティーニの「週刊 マイ3Dプリンター」37号に入り、いよいよ心臓部のマイコン取付
けの段階――組立てペースは遅過ぎることはないが――に入ったのはいいが、上図のなべネジ(L
=16ミリ)が黒ネジじゃなく白ネジでそれも1本足らないことに気付き、メールでクレームを入
れる。梱包での様子がイメージできそうな出来事が起きた――急げば、コスト削減を優先すればか
ならずこのようなミスは起きるものだと思った。「この度は37号パーツ不足及び不良にて、お客様
には多大なご迷惑をお掛け致しました事、深くお詫び申し上げます。つきましては急ぎ代替品を手
配致します」と返事が戻ってきた。
小さな商品でも、消費者から不信を抱かれ、そっぽを向かれれば、ことの経緯や背景を抜きにして
企業生命が絶たれる。近くでは、フォルクスワーゲンのディーゼルエンジン車違法ソフトウエア搭
載、エアバック世界シェアは2位を誇るシートベルトのタカタ製インフレーター事故、東芝の不正
経理などの事例がそれだろう。ディーゼルエンジンの事件は、自動車の研究開発と産業界の再編に
まで波及しそうだ。クリーンディーゼルの落ち込みは、ポスト・ハイブリッドから電気自動車と燃
料電池車の熾烈な競争を導出しそうだ。いまのところ電気自動車が太陽光発電と蓄電池技術進展で
後者より有利ではないかと思える。話はそれたが、3Dプリンタの将来は? その答えは明確だ。
● 小指サイズの素子で水素製造 高効率14%達成
というわけで今夜も、「時代は太陽道を渡る」シリーズに移ってしまいましたが、まず、最初は、
イルメナウ工科大学らの研究グループは、太陽光により直接水を電気分解する技術で、化合物半導
体を使ったタンデム型太陽電池。超小型で太陽光から水素を製造し、エネルギー変換効率14%を
達成(2つの上図クリック)。太陽光発電から水素を生成する技術は現在、数多くの研究機関で開
発が進められ、15年8月にはオーストラリアのモナシュ大学が22.4%達成(『再エネ ステー
ジアップ』2015.08.30)、同年9月18日には東京大学と宮崎大学が集光型太陽電池で24.4%を
(『アイム・ベンチャーズ。』2015.09.21)相次いで達成するなど加熱している。
でも考えてみれば、超小型で光さえあれば水素が発生するなら、水素水製造デバイスを健康商品と
販売する事業を先行させても好いはず。免疫性を高める効果があるなら、リサイクルをセットにし
た事業を世界展開できるはずである。これはチョッとでかい山になる。きみならこのヤマを見逃さ
ないだろう!?
ミサワホームと京セラは、奈良県内に建設したモデル住宅を活用し、自家発電した再生可能エネル
ギーを優先的に使用する「エネルギー自家消費型住宅」の実証実験を10月から共同実施する。京
セラ製の太陽光発電システム(6.6キロワット)とLiイオン蓄電池システム(7.2キロワット)
を搭載し、相互連係することでエネルギーを最適に利用。蓄電システムは、太陽電池で発電した直
流電流で直接、充電する「マルチDCリンクタイプ」を採用(上図クリック)。直流から交流への
変換を不要にすることで電力ロスを抑え、充電効率を従来品に比べて約6%――この差は大きい!
――高めている。
停電時には自動で自立出力に切り替わり、太陽光発電システムから蓄電システムに最大3kWの充電を
行い、自立出力を最大3kW使用できる。なお、モデル住宅は、ミサワホームが標準化している高性能
断熱材仕様に樹脂サッシを採用することで建物の断熱性を高め、地窓・高窓の開閉やシーリングフ
ァン・エアコンのオンオフを自動制御して排熱と涼風を取り込む涼風制御システムや、室内の風通
しを良くする南北通風設計、西日を遮る日よけスクリーンなどの省エネ設備を導入。今回の実証デ
ータを基に、自家発電したエネルギーを使用して災害時にも自宅生活を継続できる住まい方や仕様
を提案していくと語る。また、太陽光では、発電コストが既存の系統電力の電力価格と同等になる
「グリッドパリティ」の達成が間近なことから、来年以降、平常時にも極力、エネルギーを買わな
い住まい方について、実証実験を進めていく。
僕が文芸誌「群像」の新入賞を取り、作家としてデビューしたのは三十歳のときですが、そ
の頃にはいちおう、もちろん十分とは言えないまでも、それなりの人生経験を積んでいました。
それは普通の人、平均的な人とはいささか趣を異にする種類の人生経験でした。普通の人はま
ず学校を卒業し、それから職に就き、そのあと少し問を置いて、一段落してから結婚するよう
です。そういうわけで、とにかく最初に結婚したんですが(どうして結婚なんかしたのか、説
明するとずいぶん長くなるので省きます)、会社に就職するのがいやだったので(どうして就
職するのがいやだったのか、これも説明するとずいぶん長くなるので省きます)、自分の店を
始めることにしました。ジャズのレコードをかけて、コーヒーやお酒や料理を出す店です。
僕は当時ジャズにどっぷりのめり込んでいたので(今でもよく聴いていますが)、とにかく
朝から晩まで好きな音楽を聴いていられればいいや、というとても単純な、ある意味気楽な発
想でした。でも学生結婚している身だから、もちろん資本金なんてありません。だから奥さん
と二人で、三年ばかり仕事をいくつかかけもちでやって、なにしろ懸命にお金を貯めました。
そしてあらゆるところからお金を借りまくった。そうやってかき集めたお金で、国分寺の駅の
南口に店を開きました。それが一九七四年のことです。
ありかたいことに、その頃は若い人が一軒の店を開くのに、今みたいに大層なお金はかかり
ませんでした。だから僕と同じように「会社に就職したくない」「システムに尻尾を振りたく
ない」みたいな考え方をする人たちが、あちこちに小さな店を開いていました。喫茶店やレス
トランや雑貨店、書店。うちの店のまわりにも、僕らと同じくらいの世代の人がやっている店
がいくつもありました。学生運動崩れ風の血の気の多い連中も、そこらへんにうろうろしてい
ました。世の中全体にまだ「隙間」みたいなものがけっこう残っていたんだと思います。そし
て自分に合った隙間をうまく見つければ、それでなんとか生き延びていくことができた。なに
かと荒っぽくはあったけれど、それなりに面白い時代でした。
僕が昔うちで使っていたアップライト・ピアノを持ってきて、週末にはライブをやりました。
武蔵野近辺にはジャズ・ミュージシャンがたくさん住んでいたから、安いギャラでもみんな(
たぶん)快く演奏してくれた。向井滋春さんとか、高瀬アキさんとか、杉本喜代志さんとか、
大友義雄さんとか、植松孝夫さんとか、古潭良治郎さんとか、渡辺文男さんとか、これは楽し
かったですね。彼らの方も僕の方も、みんな若くてやる気まんまんだったし。まあお互い、残
念ながらほとんどお金にはなりませんでしたが。
好きなことをしているとはいえ、ずいぶん借金を抱えていたので、モれを返済していくのが
大変でした。銀行からも借りていたし、友だちからも借りていた。でも友だちから借りたぶん
はすべて、数年できちんと利子を付けて返済しました。毎日朝から晩まで働き、食べるものも
ろくに食べないでちゃんと返した。当たり前のことですけど。当時は僕らは、僕らというのは
僕と奥さんのことですが ずいぶんつつましい、スバルタンな生活を送っていました。家には
テレビもラジオもなく、目覚まし時計すらなかった。暖房器具もほとんどなく、寒い夜には飼
っていた何匹かの猫をしっかり抱いて寝るしかありませんでした。猫の方もけっこう必死にし
がみついていました。
銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩
いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティ
ーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている
額のお金でした。その翌日までに入金しないと不渡りを出すことになっていたので、まったく
命拾いをしたようなものです(僕の人生にはなぜかときどきこういう不可思議なことが起こり
ます)。本当は警察に届けなくてはいけなかったんだけど、そのときはきれいごとを言ってい
るような余裕はとてもありませんでした。すみません……と今から謝ってもしょうがないんで
すが。まあ、別のかたちで、できるだけ社会に還元したいと思っています。
苦労話をするつもりはないんですが、要するに二十代を通して、僕はかなり厳しい生活を送
っていたんだということです。もちろん僕なんかよりもっときつい目にあっていた方は、世の
中にいっぱいおられると思うんです。そういう人からすれば、僕の置かれた境遇なんて「ふん
そんなの厳しいうちに入らないよ」ということになるだろうし、また間違いなくそのとおりだ
と思います。しかしそれはそれとして、僕としては僕なりに十分きつかった。そういうことで
す。
でも楽しかった。それもまた確かなことです。若かったし、いたって健康だったし、なんと
いっても一日好きな音楽を聴いていられたし、小さいとはいえ一国一城の主だった。満員電車
に乗って通勤する必要もないし、退屈な会議に出る必要もないし、気にくわないボスに頭を下
げる必要もない。そしてまたいろんな面白い人、興味深い人に巡り合うこともできました。
もうひとつ大事なことは、僕がそのあいだに社会勉強をしたということです。「社会勉強」
というと、ストレートすぎてなんだか馬鹿みたいですが、要するに大人になったということで
す。度も固い壁に頭をぶっつけ、危ういところをやっとの思いで切り抜けました。ひどいこと
を言われたり、ひどいことをされたりしたし、悔しい思いをしたこともありました。当時は「
水商売」というだけでけっこう社会的に差別されたものです。身体を酷使しなくてはならなか
ったし、たいていのことは黙って耐えるしかなかった。たちの悪い酔っ払いを、店から蹴り出
さなくてはならないようなこともあったし、強い風が吹いたらじっと首をすくめているしかあ
りませんでした。
とにかく店を維持し、借金を返していくということのほかには、ほとんど何も考えられなか
った。
でもそういう苦しい歳月を無我夢中でくぐり抜け、大怪我することもなくなんとか無事に生
き延び、少しばかり開けた平らな場所に出ることができました。一息ついてあたりをぐるりと
見回してみると、そこには以前には目にしたことのなかった新しい風景が広がり、その風景の
中に新しい自分が立っていた――ごく簡単に言えばそういうことになります。気がつくと、僕
は前よりはいくぶんタフになり、前よりはいくぶん(ほんの少しだけですが)知恵がついてい
るようでした。
何も「人生でできるだけ苦労をしろ」と言うようなつもりはありません。正直言って、もし
苦労しないで済むのなら、そりゃ苦労しない方がずっといいだろうと思います。当たり前のこ
とですが、苦労なんてぜんぜん楽しいことではないし、人によってはそれですっかり挫けてし
まって、そのまま立ち直れないケースだってあるかもしれません。でも、もし今あなたが何ら
かの苦境の中にあって、そのことですいぶんきつい思いをなさっているのだとしたら、僕とし
ては「今はまあ大変でしょうが、先になってそれが実を結ぶことになるかもしれませんよ」と
言いたいです。
慰めになるかどうかはわかりませんが、そう思ってがんばって前に進んでいってください。
今から思えば、仕事を始めるまでの僕は、ただの「普通の男の子」でした。阪神間の静かな
郊外住宅地に育って、とくに何か問題を抱えるでもなく、問題を起こすでもなく、あまり勉強
をしなかったわりには、学業成績もまずまずというあたりでした。ただ本を読むのは昔から好
きで、ずいぶん熱心に本を手に取っていました。中学・高校を通じて僕くらい大量の本を読む
人間はまわりにいなかったと思います。それから音楽も好きで、浴びるようにいろんな音楽を
聴いていました。当然のことながら、なかなか学校の勉強をする時間まではとれなかった。一
人っ子で、基本的にぱ大事にされて(要するに甘やかされて)育ち、痛い目にあったことはほ
とんどありませんでした。早い話、救いがたいまでに世間知らずであったわけです。
僕が早稲田大学に入学し、東京に出てきたのは一九六〇年代の末期、ちょうど学園紛争の嵐
が吹きまくっていた頃で、大学は長期にわたって封鎖されていました。最初は学生ストライキ
のせいで、あとの方は大学側によるロックアウトのせいで。そのあいだ授業はほとんどおこな
われずおかけで(というか)僕はかなり出鱈目な学生生活を送ることになりました。
僕はもともとグループに入って、みんなと一緒に何かをするのが不得意で、そのせいでセク
トには加わりませんでしたが、基本的には学生運動を支持していたし、個人的な範囲でできる
限りの行動はとりました。でも反体制セクト間の対立が深まり、いわゆる「内ゲバ」で人の命
があっさりと奪われるようになってからは(僕らがいつも使っていた文学部の教室でも、ノン
ポリの学生が一人殺害されました)、多くの学生と同じように、モの運動のあり方に幻滅を感
じるようになりました。
そこには何か間違ったもの、正しくないものが含まれている。健全な想像力が失われてしま
っている。そういう気がしました。そして結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕
らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあ
り、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけ の魂の力が、モラル
の力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだの
は、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しか
しその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉
が一人歩きをしてしまってはならない。
それで僕はもう一度、より個人的な領域に歩を進め、そこに身を置くことになりました。本
や音楽や映画や、そういう領域にです。当時、新宿の歌舞伎町で長いあいだ終夜営業のアルバ
イトをしていて、そこでいろんな人と巡り合いました。今はどうか知りませんが、当時の深夜
の歌舞伎町近辺には興味深い、正体のわからない人々がずいぶんうろうろしていたものです。
面白いこともあり、楽しいこともあり、けっこう危ないこと、きついこともありました。
いずれにせよ僕は、大学の教室よりも、あるいは同質の人々が集まるサークルのような場所
よりも、むしろそのような生き生きとした雑多な、あるときにはいかがわしい、荒っぽい場所
で、人生に関わる様々な現象を学び、それなりに知恵を身につけていったような気がします。
英語に streetwiseという言葉があります。「都会を生き抜くための実際的な知恵を持った」と
いうような意味ですが、僕には結局のところ、学術的なものよりも、そういう地べたっぽいも
のの方が性に合っていたようです。正直言って、大学の勉強にはほとんど興味が持てませんで
した。
「第二回 小説家になった頃」
村上春樹 『職業としての小説家』
この項つづく