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気分転換のランチョンマット

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    原爆投下によって「核の時代」の幕があけた。
         我々はいまだにその呪縛から抜け出せてはいない
         人類が直面する最大の課題だ。
         核兵器を減らし廃絶をめざす以外の選択肢は存在しない。
         そのためには我々はあらゆる努力を尽くす必要がある。
         戦争で核兵器を使うような悲劇は決して繰り返してはならないのだ。

                                    ロバート・ファーマン

 

                                                                    

                                                                       Robert Ralph Furman (August 21, 1915 – October 14, 2008)

 



【中国の思想: 墨子Ⅴ】
 
  公輸――墨子と戦争技術者※
  尚賢――人の能力を正当に評価せよ
 兼愛――ひとを差別するな※
  非攻――非戦論※
 節葬――葬儀を簡略にせよ
 非楽――音楽の害悪
 非命――宿命論に反対する
 非儒――儒家批判
 親士――人材尊重
 所染――何に染まるか
 七患――君子の誤り七つ
 耕柱――弟子たちとの対話
 貴義――義を貴しとなす
 公孟――儒者との対話
 魯問――迷妄を解く 

※ シリーズとして掲載(途中も含め)した「編章節」はピンク色にしている。
   尚、段行末尾の※は、以前取り上げたことがあるもので、改めて記載する要諦のもの。

   非命 -宿命論に反対する- / 『墨子』 

  天の前にすべての人間は平等である。貴族も庶民もない。身分差を認めないことは、宿命を認めな
 いことにつながる。墨子は、宿命論の上にアゲラをかく君主を痛罵し、"運が悪い"とあきらめる民衆
 を叱陀する。 

  ● 宿命論は責任回避

  宿命論者の立場を採用すれば、"天下の義"は滅びてしまう。いいかえれば、"天下の義”を滅ぼす
 人間こそ、宿命論をふりかざし、人民を苦しめるである。人民を平気で苫しめる人間は、天下を滅亡
 に追いやる。
  したがって、人民の上に立つ者は、義を曲げぬ人でなければならない。義を曲げぬ人が上に立てば
 天下はおさまり、天帝・山川・鬼神は丁重にまつられ、人民は、はかり知れぬ利益を受ける。
  むかし、湯玉が亳の地に封ぜられたとき、領地はわずか百里四方にすぎなかったが、人民を差別な
 く愛し、たがいの利益をはかり、余った物資は分かちあい、率先して天帝・鬼神をまつった。その結
 果、天帝・鬼神が豊作をもたらし、諸侯が味方し、人民がなつき、賢人が心服し、湯玉一代で天下の
 王となり、諸侯の指導者になったのである。
  また文王も岐周に封ぜられたとき、領地はわずか百里四方にすぎなかったが、湯玉と同じく善政を
 布いた結果、近隣の人民はその支配を受け入れ、遠国の人民はその徳行を慕って帰服した。文王の評
 判を耳にしたものは、みな自国を見限り、ぞくぞくと岐周へ向かった。そこまでふみきれぬもの、手
 足のきかぬものは、
  「なんとか文王の領地がここまで拡がらぬものか。そしたらわたしたちも文王の民になれるのに」
  と望んだ。こうして、天帝・鬼神が豊作をもたらし、諸侯が味方し、人民がなつき、賢人が心服し、
 文王一代で天下の王となり、諸侯の指導者になったのである。
  わたしの主張は、この事実にもとづいている。

   〈湯玉〉殷の聖王。「人が水を見ると姿が映って自分の形が見えるように、その国の人民を見れ
   ば冶まっているかどうかがわかる」といって、名宰相、伊尹を感嘆させた。また、こういう話も
   伝わっている。あるとき、湯玉が郊外に出ると、四面に網を張って烏を捕えている者がいた。湯
   王は、「それでは逃げ場がない」といって、網の三面を取り除かせた。諸侯は、この所を伝えき
   いて、「湯の徳は禽獣にまで及んでいる」と誉めたたえた。
   〈文王〉周代の聖王、西伯昌こと。諸侯はその徳を慕って争いごとはみな西伯に訴えて曲直を決
   した。あるとき虞・芮二国のあいだに争いごとが起こり、両国の人が西伯に訴えるため周に行っ
   たところ、周ではみな畦を譲り合い、年長者に譲り合っていた。これをみて、虞・芮の人は自ら
   恥じ、西伯に会わずに帰って、お互いに譲り合って争いごとを解決したという。この文王の子が
     殷の紂王を伐った武王である。

 

【世界初のあんこ専門事業: 『餡屋』構想Ⅱ】

今月の4日のブログの『人工培土と餡屋』の続き。餡を考えていくとその概念は広大に広がることに驚い
た。それを飲茶の小籠包やたこ焼きのような「ボールフード」にしてお菓子だけでなく、惣菜、もっと拡
張し総菜の中に入れることもできる。実は、「ボールフードこと新的小籠包」(『今夜の3つのテーマ』
2014.08.29)で掲載した「多層食品製造装置」(特開2013-233138)などで餡の皮――米・小麦・海藻な
どの植物、あるいはゼラチンなどの動物由来――でくるみ、そのまま放置・乾燥・冷却・冷凍・加熱し包
装し、蒸してよし、焼いてよし、煮てよし、油で揚げてよし、それでいてサイズ(球体・楕円体・立方体・
矩形体など)フリーで、餡も多種多様で、たこ焼きのように、小麦餡に蒸蛸の賽の目切りに挿入しつくる
こともできし、アイスクリームも可能だ。そんなことを考えていたら、わたしの頭のアイデア製造機は止
まってしまった。何でもできるんだ、面白いねと。


 

 


 

    

● 折々の読書 『職業としての小説家』 29   

  インタビューなんかで「村上さんはどのような読者を想定して小説を書いているのですか?」
 と質問されることがあります。そのたびにどう答えればいいのか、けっこう迷ってしまいます。
 というのは、とくに淮かのために小説を書いているというような意識は、僕にはもともとありま
 せんでしたし、今でもとくにないからです。

  自分のために書いている、というのはある意味では真実であると思います。とりわけ最初の小
 説『風の歌を聴け』を夜中に台所のテーブルで書いているとき、それが一般読者の目に触れるこ
 とになるなんて、まったく思いもしませんでしたから(本当に)、僕はおおむねのところ、自分
 が「気持ちよくなる」ことだけを意識して小説を書きました。自分の中に存在するいくつかのイ
 メージを、自分にぴったりくる、俯に落ちる言葉を使って、そのような言葉をうまく組み合わせ
 て文章のかたちにしていこう……頭にあるのはただそれだけです。いずれにせよ、どんな人がこ
 の小説(みたいなもの)を読むのだろうかとか、そういう人たちが僕の書くものに対して果たし
 て共感を抱いてくれるだろうかとか、ここにどのような文学的メッセージが込められているのだ
 ろうとか、そんなややこしいことはとても考える余裕もなかったし、また考える必要もありませ
 んでした。ずいぶんきれいさっぱりしているというか、実に単純な話です。

  またそこには「自己治癒」的な意味合いもあったのではないかと思います。なぜならあらゆる
 創作行為には多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれているからです。つまり自
 己を相対化することによって、つまり自分の魂を今あるものとは違ったフオームにあてはめてい
 くことによって、生きる過程で避けがたく生じる様々な矛盾なり、ズレなり、歪みなりを解消し
 ていく――あるいは昇華していく――ということです。そしてうまくいけば、その作用を読者と
 共有するということです。とくに具体的に意識はしませんでしたが、僕の心もそのとき、そうい
 う自浄作用みたいなものを本能的に求めていたのかもしれません。だからこそごく自然に小説を
 書きたくなったのでしょう。

  しかしその作品が文芸誌の新入賞を取り、本になって出版され、そこそこ売れて評判になり、
 いちおう「小説家」と名の付く立場になってしまってからは、僕としても否応なく「読者」とい
 う存在を意識させられるようになりました。自分が書いたものが書物として書店の棚に並び、僕
 の名前が堂々と表紙に印刷され、不特定多数の人々の手に取って読まれるわけですから、それな
 りの緊張をもって書かなくてぱなりません。とはいっても、「自分で楽しむために書く」という
 基本的な姿勢は、それほど大きくは変化しなかったように思います。自分か書いていて楽しけれ
 ば、それを同じように楽しんで読んでくれる読者だってきっとどこかにいるに違いない。その数
 はそれほど多くはないかもしれない。でもそれでいいじゃないか。その人だちとうまく深く気持
 ちが通じ合えたとしたら、それでとりあえずは十分だろう、と。

 1990.06.17

 『風の歌を聴け』に続く『1973年のピンボール』、そして短編集『中国行きのスロウ・ボー   
 ト』『カンガルー日和』あたりはだいたいそういうナチュラルに楽観的なというか、かなり気楽
 な姿勢で書いています。当時僕は他に仕事(本職)を持っていましたし、モちらの収入でとくに
 不足なく生活していけました。小説は言うなれば「趣味みたいなもの」として余暇に書いていた
 わけです。

 1993.05.19

  ある高名な文芸批評家(もう亡くなっていますが)は「この程度のもので文学だと思ってもら
 っては困る」と僕の最初の小説『風の歌を聴け』を酷評しましたが、それを目にして「そりゃ、
 そういう意見もあるだろうな」と僕は素直に思いました。そう言われても、とくに反撥も感じな
 いし、腹も立ちません。その人と僕とでは、「文学」というもののとらえ方が、もう最初から違
 っているわけです。その小説が思想的にどうかとか、社会的役割がどうかとか、前衛か後衛かと
 か、純文学かどうかとか、僕としてはそんなことはまったく考えてもいません。こっちとしては
 「書いていて楽しければそれでいいじゃないか」みたいな姿勢から始まっているわけですから、
 そもそも話が噛み合うわけがないんです。『風の歌を聴け』の中に、デレク・ハートフィールド
 という架空の作家が出てきて、その作品のひとつに『気分が良くて何か悪い?(What's Wrong
  About Feeling Good?)』というタイトルの小説がありますが、まさにそれが、当時の僕の頭の真
 ん中に腰を据えていた考え方です。気分が良くて何か悪い?
 今にして思えばシンプルというか、ずいぶん乱暴な考え方ですが、当時はまだ若かったし(三
 十代の初め)、学生運動のうねりを通過してきたばかりという時代的な背景もあり、反抗精神み
 たいなものもそれなりに強かったから、そういういうなれば「アンチ・テーゼ」的な、権威とか
 エスタブリッシュメントとかに楯突くような開き直った姿勢を、僕としては基本的に維持してい
 ました(いくぶん生意気で子供っぽくはあるにせよ、それはそれで結果的によかったんじやない
 かと、振り返ってみて思うんですが)。

 そういう姿勢が徐々に変化を見せてきたのは、『羊をめぐる冒険』(一九八二)を書き出した頃
 からです。このまま〈気分が良くて何か悪い〉みたいな書き方ばかりしていたら、職業作家とし
 て、たぶんどこかで袋小路にはまり込んでしまうだろうということは、自分でもおおよそわかっ
 ていました。今のところその小説スタイルを「斬新なもの」として受け止め、気に入ってくれて
 いる読者だって、同じようなものばかり続けて読まされれば、そのうちに飽きてくるでしょう。
 「ええ、またこれかよ」みたいなことになるはずです。もちろん書いている僕白身だって飽ぎて
 きます。

  それにだいたい僕は、そういうスタイルの小説を書きたくて書いていたわけではありません。
 正面から四つに組んで長編小説を書くための文章技術をまだ持ち合わせておらず、とりあえずそ
 ういう「すかす」ような書き方しかできなかったから、そういうタイプのものを書いていただけ
 です。その「すかし方」がたまたま目新しく新鮮であったということです。ただ僕としては、せ
 っかくこうして小説家になれたのだから、もう少し深く大柄な小説を書いてみたいと考えていま
 した。でも「深く大柄な」といっても、文芸的にかしこまった小説、いかにもメインストリーム
 な文学を書きたいということではありません。書いていて自分で気分が良くて、しかも同時に正
 面突破的な力を有した小説を書きたかった。僕の中にあるイメージを断片的に、感覚的に文章化
 するだけではなく、僕の中にあるアイデアや意識を、もっと総合的に立体的に文章として立ち上
 げていきたいと考えるようになったわけです。

   1980.10.28

  僕はその前の年に村上龍の長編小説『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで、「これはすご
 い」と感心したのですが、でもそれは村上龍にしか書けないものです。また中上健次のいくつか
 の長編小説を読んで、やはり深く感心しましたが、それもまた中上さんにしか書けないものです。
 いずれも僕が書きたいものとは違います。当然のことながら、僕は僕として独自の道を切り拓い
 ていかなくてはなりません。それらの先行する作品に込められたパワーを具体例として念頭に置
 きながら、僕にしか書けないものを書いていかなくてはなりません。

  僕はその命題に対する回答を出すべく『羊をめぐる冒険』の執筆に取りかかりました。今ある  
 文体をできるだけ重くすることなく、その「気持ちよさ」を損なうことなく(言い換えればいわ
 ゆる「純文学」装置に取り込まれることなく)、小説自体を深く重いものにしていきたい――そ
 れが僕の基本的な構想でした。そのためには物語という枠組みを積極的に導入しなくてはなりま
 せん。僕の場合、それはとてもはっきりしていました。そして物語を中心に据えれば、どうして
 も長丁場の仕事になってきます。今までのように「本職」の余暇に片手間でできることでぱあり
 ません。ですからこの『羊をめぐる冒険』を書き始める前に、僕はそれまで経営していた店を売
 却し、いわゆる専業作家になりました。当時はまだ文筆活動よりは、店からの収入の方が大きか
 ったんですが、それを思い切って捨てることにしました。生活そのものを、小説を書くことに集
 中させたかったからです。自分の持っている時間をすべて小説の執筆にあてたかった。いくぶん
 大げさに言えば、後戻りできないように「橋を焼いた」わけです。

  まわりの人はほとんど全員「そんなに早まらない方がいいよ」と反対しました。店はけっこう
 はやってきたところだったし、収入も安定しているし、今それを手放すのはあまりにもったいな
 いじゃないか。店の経営は誰かにまかせて、自分は小説を書いていればいいじゃないか、と。た
 ぶん当時はみんな、僕が小説だけで食べていけるとは思っていなかったのでしょう。でも僕には
 迷いはありませんでした。僕は昔から「何かをやるからには、全部とことん自分でやらないと気
 が済まない」というところがあります。「店は適当に誰かにまかせて」みたいなことは、性格的
 にまずできません。ここが人生の正念場です。思い切って腹をくくらなくてはならない。とにか
 く一度でいいから、持てる力をそっくり振り絞って小説を書いてみたかった。駄目なら駄目でし
 ょうがない。また最初からやり直せばいいじやないか。そう思いました。僕は店を売却し、集中
 して長編小説を書くために東京の住まいを引き払いました。都会を離れ、早寝早起きの生活を送
 るようになり、体力を維持するために日々ランニングをするようになりました。思い切って、生
 活を根っこから一変させたわけです。

  このときから僕は、読者の存在をはっきり念頭に置かざるを得なくなったということになるか
 もしれません。でもそれがどういう読者なのか、具体的に思いめぐらしたりはしませんでした。
 というのは、あえて思いめぐらす必要もなかったからです。そのとき僕は三十代前半でしたし、
 僕の書いたものを読むのはどう考えても同じ年代か、あるいはもっと下の年代です。つまり「若
 い男女」です。当時の僕は「新進の若手作家」(という言葉を使うのはいささか恥ずかしいけど)
 であり、僕の作品を支持してくれるのは、明らかに若い世代の読者たちでした。そして彼らがど
 ういう人々なのか、何を考えているのか、いちいち思いめぐらすまでもありません。作者である
 僕と読者とは、当然のことのようにひとつになっていました。それは振り返ってみれば僕にとっ
 て、著者と読者の「蜜月」と呼んでいいような時期だったのでしょう。

  『羊をめぐる冒険』はいろんな事情があって、掲載誌「群像」編集部からは当時けっこう冷や
 やかな扱いを受けた(と記憶している)のですが、幸いなことに多くの読者の支持を得て、評判
 も上々で、本も予想以上に売れました。つまり僕は専業作家として、まずは順調なスタートを切
 ることができたわけです。そして「自分のやろうとしていることは、方向として間違っていない」
 という確かな手応えを得ることもできました。そういう意味で『羊をめぐる冒険』こそが、長編
 小説作家としての僕にとっての、実質的な出発点であったわけです。

  それから歳月が経過し、僕は六十代半ばになり、新進の若手作家というところからずいぶん遠
 く離れた地点までやってきました。とくにそんなつもりもなかったんですが、時間が経てば人は
 自然に歳を取ります(しょうがないですね)。そして僕の本を手に取ってくれる読者層も、歳月
 とともに変化しました。というか、もちろんしたはずです。でも「じゃあ今現在、あなたの本を
 手に取っているのはどういう人だちなのですか?・」と尋ねられると、僕としてぱ「いや、まっ
 たくわかりません」と答えるしかありません。本当にわからないのです。

  僕のところには読者から数多くの手紙が寄せられますし、また何かの機会に読者の何人かに直
 接お目にかかったりすることもあります。しかしその人たちは年齢も性別も住んでいる地域も実
 にばらばらで、僕の本が主にどのような人々の手に取られているのか、具体的なイメージが湧い
 てきません。僕にはちょっと見当がつかないし、たぶん出版社の営業の人たちにも実態はよくわ
 かってないんじゃないかという気がします。男女の割合がちょうど半々くらいで、女性読者に美
 しい方が多いということを別にすれば-それは嘘じゃありません―――これという共通した特徴
 が見当たらないのです。昔は都市部でよく売れて、地方ではあまり売れないというような傾向も
 あったみたいですが、今ではそこまではっきりとした地域差みたいなものはありません。

  それでは読者の像が全然わからないまま、おまえは小説を書いているのか? と言われそうで
 すが、考えてみればまったくそのとおりかもしれません。僕の順には具体的な読者像というもの
 が浮かんでこないのです。
  僕の知っている限り、作家の多くは読者とともに年齢を重ねていくようです。つまり作者が年
 を取れば、読者も一般的に言って、それに合わせて年を取っていくということです。ですから作
 者の年代と読者の年代は、おおよそ重なっていることが少なくないようです。これはわかりやす
 いといえばわかりやすいですね。そういうことであれば当然ながら、自分とだいたい同じ年代の
 読者を想定して小説を書くことになります。でも僕の場合はどうやらそうじゃないみたいです。

  それからある特定の年代、特定の層を最初からターゲットにしている小説ジャンルもあります。
 たとえばヤング・アダルト小説は十代の少年少女を、ロマンス小説は二十代、三十代の女性を、
 歴史小説・時代小説なんかは中高年男性をおおむねターゲットにして書かれています。これも話
  もちろん自分が楽しめれば、結果的にそれが芸術作品として優れているということにはなりま
 せん。言うまでもなく、そこには峻烈な自己相対化作業が必要とされます。最低限の支持者を獲
 得することも、プロとしての必須条件になります。しかしそのへんさえある程度クリアできれば、
 あとは「自分が楽しめる」「自分が納得できる」というのが何より大事な目安になってくるので
 はないかと僕は考えます。だって楽しくないことをやりながら生きる人生というのは、生きてい
 てあまり楽しくないからです。そうですよね? 気分が良くて何か悪い――という出発点にまた
 立ち戻る、というか。

  それでも「おまえは本当に自分のことばかり考えて小説を書いているのか」とあらためて正面
 から尋ねられると、僕だって「いいえ、もちろんそんなことはありません」と答えることになり
 ます。前にも言いましたように、僕は一人の職業的作家として、常に読者を念頭に置いて文章を
 書いています。読者の存在を忘れることは――もし忘れたいと思ったところで―――不可能です
 しまた健全なことではありません。


                           「第十回 誰のために書くのか?」
                            村上春樹 『職業としての小説家』


そうかノンポリ作家ではなかったのか、心得違いをしていたことに気付かされたが80前後は仕事で
中国出張していた関係で、ベトナム戦争、オイルショック、文化革命、ロシアマルクス主義、毛沢東
主義など真正面から取り組んでいたと思って者に違和感を感じていたが大略、「団塊世代」と一括で
きそれも解消させた。さて、毎日、情報処理や調査研究、あるいは蔵書の整理(【我が家の焚書顛末
記】に追われ、しばらく読書できずいたが、無理から前に進めてみた。とはいえ、夜になると「霞目」
が酷く誤字脱字、ミスタイプが増える中の作業となるが、螺旋を書かないとデスク周辺の図書の山積
は解消されない。
                                                                                


                                      この項つづく

 

● 気分転換のランチョンマット 

いつものスクエアやレクタングラのランチョンマットからパープルサークルに変え気分転換し朝食をとる。これだ
と、コンパクトにテーブル置けじゃまにならないし、広く敷くには、サテライトサイクル(コースタ)を使ったり、もう
一枚増やし食事している。

 

 


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