もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の
体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となって、いるだろ
う。だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。
パリ在住の仏人映画ジャーナリスト
アントワーヌ・レリス
※ そしてこの文は、「 君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することにな
る。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望ん
だ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる・・・・・・」と綴られていく。
“Friday night, you took an exceptional life - the love of my life, the mother of my son -
but you will not have my hatred. I don't know who you are and I don't want to know,
you are dead souls. If this God, for whom you kill blindly, made us in his image, every
bullet in the body of my wife would have been one more wound in his heart.
So, no, I will not grant you the gift of my hatred. You're asking for it, but responding
to hatred with anger is falling victim to the same ignorance that has made you what
you are. You want me to be scared, to view my countrymen with mistrust, to sacrifice
my liberty for my security. You lost.
I saw her this morning. Finally, after nights and days of waiting. She was just as bea-
utiful as when she left on Friday night, just as beautiful as when I fell hopelessly in
love over 12 years ago. Of course I am devastated by this pain, I give you this little
victory, but the pain will be short-lived. I know that she will be with us every day and
that we will find ourselves again in this paradise of free love to which you have no
access.
We are just two, my son and me, but we are stronger than all the armies in the world.
I don't have any more time to devote to you, I have to join Melvil who is waking up
from his nap. He is barely 17-months-old. He will eat his meals as usual, and then
we are going to play as usual, and for his whole life this little boy will threaten you
by being happy and free. Because no, you will not have his hatred either.”
【中国の思想: 墨子Ⅴ】
公輸――墨子と戦争技術者※
尚賢――人の能力を正当に評価せよ
兼愛――ひとを差別するな※
非攻――非戦論※
節葬――葬儀を簡略にせよ
非楽――音楽の害悪
非命――宿命論に反対する
非儒――儒家批判
親士――人材尊重
所染――何に染まるか
七患――君子の誤り七つ
耕柱――弟子たちとの対話
貴義――義を貴しとなす
公孟――儒者との対話
魯問――迷妄を解く
※ シリーズとして掲載(途中も含め)した「編章節」はピンク色にしている。
尚、段行末尾の※は、以前取り上げたことがあるもので、改めて記載するもの。
● 人物評価法
魯君が墨子にいった。
「わたしには息子が二人いる。ひとりは学問好きで、もうひとりは人にほどこしをするのが好きだ。
太子にたてるには、どちらがふさわしいだろうか」
「何とも申し上げかねます。利益や名誉を手に入れようとして、わざとそうする場合もあるからです。
釣り人がじっとかしこまっているのは、魚を釣るためであって、魚に贈り物を与えるためではあり
ません。まんじゅうを鼠に与えるのも、その毒で鼠を殺すためであって、鼠を愛するからではありま
せん。太子をお決めになるさいには、二人がなぜそうするのかを見極めたうえで、お決め下さい」
人物評価法 人を評価する場合、その人の具体的な行動を基準とするか、主観的な意志を基準
とするか。メカニックな現代社会においては、前者のほうが、より合理的である
とされている。しかし、人間は機械ではない。機械の機能とちがって、人間の機
能は意志によってうみだされる。したがって、その意志までさかのぼってみなけ
れば、本当の評価はできない。人の意志までさかのぼって評価すること、これが
合理的な人物評価法だ。
【黄金の湖東三山・奥永源寺】
Four tour courses for visiting Shiga, cloaked in the multihued vesture of autumn
今朝は、前日から 湖東三山の秘仏が公開されたのでそれを鑑賞することと、奥永源寺の道の駅の鮒寿司
ソフトクリームを試食するために、九時過ぎにでかける。(1)まず、天台宗は龍應山「西明寺」(西国
四十九薬師霊場 第差十二番札所、神仏霊場第136番)。シロアリ等で老朽化した総門を立て替え、平
成二十七年九月六日に落慶法要を執り行う(上下図クリック)。昨年四月四日から六月一日かけ秘仏本尊
の薬師瑠璃光如来が開帳されている(最下図クリック)。今年は暖秋の所為で、キサントフィル(黄色)
が残留したまま干上がり縮んだ状態で、本来のアントシアニン(赤色)の紅葉とならず――春の新緑のた
めの養分の蓄積ができなる―――枯れていく状態が目立っていたが、下山して不断桜を鑑賞することなく
次の本尊が聖観音、開基(創立者)行基の天台宗は松峰山「金剛輪寺」(近江西国三十三観音霊場第十五
番札所 神仏霊場第135番)へと向かう。
西明寺の新しい総門
びわこ 湖東三山 秘仏本尊ご開帳
ここでは紅葉は順調に進んでいるようで、本堂参道の両脇の無数の地蔵一体ごとに風車が添えられ不思議な空間
をつくりだしている。ここでは、秘仏本尊の聖観世音菩薩(生身の観音)ところで、今回は、本尊に奥の院に納められ
ていた大黒天半跏像― 高73センチメートル。本体と右手で握る金嚢や岩座も含め檜の一材からなる。金
剛輪寺本坊の明寿院護摩堂に安置。東寺の彩色は剥落しており、簡略で仕上げもやや荒く、全国的にも少
ない厳しい姿の大黒天像――が開帳されていたが、非常に親しみやすい仏像であると感心する。
さて、金剛輪寺は山深く石段を登るので<下山寺の足元の狂い、つまり事故が怖いと言うことで彼女に歩幅
を小さくしスキーのように重心を後ろに移しできる限り足にかかる反動吸収を行うように注意を促し外山し
、 次に本尊が十一面観音(全高3・2メートル)で、開基が聖徳太子の天台宗は釈迦山 百済寺(近江三十
三観音霊場 第十六番札所で神仏霊場 第141番)へ向かう。ここでは、二観音像(如意輪観音半跏思惟
像,聖観音座像)――美の極致:一生に一度は拝みたい仏像と呼ばれ国宝仏像群に迫る憧憬急上昇中の仏像―
―が公開されているが、永源寺に向かう。
如意輪観音半跏思惟像,聖観音座像
永源寺は、臨済宗永源寺派、山号は瑞石山で紅葉のの美しさで知られ、開山忌が、毎年10月1日に行われ
る。1361年創建。開山は寂室元光(正灯国師)、開基は佐々木氏頼(六角氏頼)。中世戦乱期に兵火に
より衰微したが、江戸時代中期に中興の祖とされる一糸文守(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や東福門院
彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。18733年に明治政府の政策により東福寺派に属したが、18
80年に永源寺派として独立し、本尊は世継観世音菩薩。寺内には彦根藩主井伊直興公の墓所がある。ここ
も前を通り過ぎ、一路、奥永源寺の道の駅渓流の郷へ、鮒寿司のソフトクリームを道の駅内の食堂で商品券
を370円(税込み)で、ミルクソフトクリームがこくが深くおいしい。これに鮒寿司シロップを振りかけ
るだけだが、酸味と塩味が加わり絶妙なこくをつくりだすから申し分ないが、ただし、コーンカップ底部に
シロップたまりこれを口にすると魚の臭みと塩分だけになるので要注意。永源寺ダムはダム周辺道路の拡幅
工事がされていて、大型トラックがすれ違うことができず渋滞するのでしばらくは要注意だ。この周辺は木
地師の集落よ政所の落ちが有名だが、池田養魚場の岩魚は通販で中もしているのでかなり古くからなじみの
土地である。また、この日、同期、宮下勇御夫婦と偶然にお会いしたが元気そうで安心した。そんなことも
あり、昼食は永源寺を素通りするだけで、甲良町の304号線沿いのローソンでパリパリの味付け海苔のお
にぎりを買い求め車の中でいただいたが、とても美味しいかった。
● 「道の駅奥永源寺渓流の里」は秋まつり前夜!
今日みられなかった、二観音像(如意輪観音半跏思惟像,聖観音座像)はこの連休寺に再度立ち寄り参観することに
する。
● 折々の読書 『職業としての小説家』32
僕の作品が本格的にアメリカに紹介され始めたのは、1980年代も終わりに近い頃で、「講
談社インターナショナル」(KI)から英語版『羊をめぐる冒険』がハードカバーで翻訳出版さ
れ、雑誌「ニューヨーカー」に短編小説がいくつか採用・掲載されたのが始まりでした。当時、
講談社はマンハッタンの中心地にオフィスを持っていて、現地で編集者を採用し、かなり積極的
に活動をおこなっていました。アメリカでの出版事業に本格的に乗り出そうとしていたわけです。
この会社は後に「講談社アメリカ」(KA)となります。詳しい事情はよくわかりませんが、講
談社の小会社で現地法人ということになると思います。
エルマー・ルークという中国系アメリカ人が編集の中心になり、ほかにも何人かの有能な現地
スタッフ(広報や営業のスペシャリスト)がいました。社長は白井さんという方で、目本式なう
るさいことはあまり言わず、アメリカ人スタッフにできるだけ自由に活動させてくれるタイプの
人でした。だから社風もけっこうのびのびしていた。アメリカ人スタッフはずいぶん熱心に僕の
うになったので、ニューョークに出かけたときにはブロードウェイにあるKAのオフィスに寄り
彼らと親しく話をしたものです。目本の会社というより、雰囲気はアメリカの会社に近かった。
全員が生粋のニューヨーカーで、いかにも元気が良くて有能で、一緒に仕事をしていて面白かっ
た。その時代のあれこれは、僕にとって楽しい思い出になっています。僕もまだ四十歳になって
間もない頃だったし、いろんな面白いことがありました。今でも彼らの何人かとは親交がありま
す。
アルフレッド・バーンバウムの新鮮な翻訳のおかげもあって、『羊をめぐる冒険』は予想以上
に評判が良く、ニューヨーク・タイムズ」も大きく取り上げてくれたし、ジョン・アップダイク
は「ニューヨーカー」に長い好意的な論評を書いてくれたのですが、営業的には成功には程遠
かったと思います。「講談社インターナショナル」という出版社自体がアメリカではまだ新参だ
ったし、僕自身ももちろん無名だったし、そういう本は書店が良い場所に置いてくれません。今
みたいに電子ブックとか、ネ″ト販売みたいなものもあればよかったのかもしれませんが、そん
なのはまだ先の話です。だからある程度話題にはなったけれど、それがそのまま販売には直結し
なかった。この『羊をめぐる冒険』は後にヴィンテージ(ランダムハウス)からペーパーバック
版が出て、そちらは着実なロングセラーになっていますが。
続いて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』を出し
本の出版をバックアックしてくれました。僕も少しあとになって、ニュージャージー州に住むよ
うになったので、ニューョークに出かけたときにはブロードウェイにあるKAのオフィスに寄り
彼らと親しく話をしたものです。目本の会社というより、雰囲気はアメリカの会社に近かった。
全員が生粋のニューヨーカーで、いかにも元気が良くて有能で、一緒に仕事をしていて面白か
った。その 時代のあれこれは、僕にとって楽しい思い出になっています。僕もまだ四十歳にな
って間もない頃だったし、いろんな面白いことがありました。今でも彼らの何人かとは親交があ
ります。
John Hoyer Updike (March 18, 1932 – January 27, 2009)
アルフレッド・バーンバウムの新鮮な翻訳のおかげもあって、『羊をめぐる冒険』は予想以上
に評判が良く、ニューヨーク・タイムズ」も大きく取り上げてくれたし、ジョン・アップダイ
クは「ニューヨーカー」に長い好意的な論評を書いてくれたのですが、営業的には成功には程遠
かったと思います。「講談社インターナショナル」という出版社自体がアメリカではまだ新参だ
ったし、僕自身ももちろん無名だったし、そういう本は書店が良い場所に置いてくれません。今
みたいに電子ブックとか、ネ″ト販売みたいなものもあればよかったのかもしれませんが、そん
なのはまだ先の話です。だからある程度話題にはなったけれど、それがそのまま販売には直結し
なかった。この『羊をめぐる冒険』は後にヴィンテージ(ランダムハウス)からペーパーバック
版が出て、そちらは着実なロングセラーになっていますが。
続いて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』を出し
る余裕もありませんでした。とにかく知り合いのつてを頼って、いろんな人と面談し、「この人
なら」と思う相手を選んだだけです。
思うに、この三人が僕に興味を持った理由は三つあるみたいです。ひとつは僕がレイモンド・
カーヴァーの翻訳者であり、彼の作品を日本に紹介した人間であったということです。この三人
はそのままレイモンド・カーヴァーのエージェントであり、出版社代表であり、担当編集者でし
た。これは決して偶然ではないと僕は思っています。亡きレイ・カーヴァーが導いてくれたとい
うことなのかもしれません(そのときは彼が亡くなってまだ四、五年しか従っていませんでした)。
二つ目は僕が『ノルウェイの森』を日本で二百万部(セット)近く売っていたことが、アメリ
カでも話題になっていたことです。二百万部というのはアメリカでも、文芸作品としてぱなかな
かない数字です。モのおかげで僕の名前もある程度業界的に知られており、『ノルウェイの森』
がいねば挨拶の名刺がわりみたいになっていたわけです。
三つ目は僕がアメリカで作品を徐々に発表し始め、それがそこそこ話題になっており、ニュー
カマーとしての「将来性」を買われたこと。とくに「ニューョーカー」誌が僕を高く評価してく
れたことは、影響が大きかったと思います。ウィリアム・ショーンの後を継いで同誌の編集長を
していた「伝説の編集者」ロバート・ゴ″トリーブがなぜか僕を個人的に気に入ってくれたよう
で、彼自らが社内を隅々まで案内してくれたことも、僕にとって素敵な思い出になっています。
「第11回 海外へ出て行くフロンティア」
村上春樹
今夜は、沢山の作業量と湖東三山・奥永源寺の彼女とのツアードライブで、ミッドナイト作業は目がかすみ、
三山いや散々、いやいや、サ・ン・ザ・ンとボ・ロ・ボ・ロ状態で終止符。