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アルミックと電子レンジ

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   わがままは男の罪、それを許さないのは女の罪 / 財津和夫 『虹とスニーカーの頃』  

 

 

 

  

【中国の思想: 墨子Ⅴ】
 
  公輸――墨子と戦争技術者※
  尚賢――人の能力を正当に評価せよ
 兼愛――ひとを差別するな※
  非攻――非戦論※
 節葬――葬儀を簡略にせよ
 非楽――音楽の害悪
 非命――宿命論に反対する
 非儒――儒家批判
 親士――人材尊重
 所染――何に染まるか
 七患――君子の誤り七つ
 耕柱――弟子たちとの対話
 貴義――義を貴しとなす
 公孟――儒者との対話
 魯問――迷妄を解く 

※ シリーズとして掲載(途中も含め)した「編章節」はピンク色にしている。
  尚、段行末尾の※は、以前取り上げたことがあるもので、改めて記載するもの。

   魯問――迷妄を解く- 『墨子』  

 ● 説きまわると

  呉慮が墨子にいった。
 「義は実行あるのみです。あなたのように説きまわる必要はない」
  墨子は呉慮にたずねた。
 「では、いま耕作というものを自分以外だれも知らないとする。
  まず大勢の人に耕作を教えてから、みんなで耕作するのと、人には教えず自分ひとりで耕作するの
 と、どちらが収穫が多いだろうか」
 「もちろん、大勢の人に耕作を教えてから、みんなで耕作するほうです」
 「それでは、いま、不義を行なった国を攻めるとする。
  このとき、軍鼓をたたいて大勢に知らせ、みんなでその国を攻めるのと、大勢には知らせず自分ひ
 とりで攻めるのと、どちらが戦果があがるだろうか」
 「もちろん、軍鼓をたたいて大勢に知らせ、みんなで攻めるほうです」
 「義についても同じことだ。義をわきまえる農民、兵士はきわめて少ないから、まず、かれらに義を
 説いたほうが成果があがる。義を説きまわる必要がない、とどうしていえよう。わたしが義を説いて
 まわり、大勢の人が義を知るならば、それだけ義が行なわれ、成果があがるわけではないか」


  吳慮謂子墨子曰、義耳義耳。焉用言之哉。子墨子曰、籍設而天下不知耕、教人耕,與不教人耕而獨
 耕者,其功孰多。吳慮曰、教人耕者,其功多。子墨子曰、籍設而攻不義之國,鼓而使眾進戰,與不鼓
 而使眾進戰而獨進戰者、其功孰多。吳慮曰、鼓而進眾者、其功多。子墨子曰、天下匹夫徒步之士少知
 義、而教天下以義者功亦多。何故弗言也。若得鼓而進於義、則吾義豈不益進哉。

【ベンチャーダマシ Ⅱ 】 アルミックと電子レンジ

『フランス革命と墨子思想』(2015.11.21)の「 生パスタ海老のトマトクリームの試食記」でふれたよ
うに(下写真クリック)、タジン鍋のような電子レンジ専用のパスタ皿ないかと考えていたら、テレビで
株式会社砺波商店の”落としても割れない陶器食器”が放送されていたのをみて(2015.11.21TBS)、
いつものように閃いたが、この三連休は外出続きでまとめることができなかったが、特許など検索してみ
てなるほどとその開発経緯を知ることになる。アルミ製のパスタ皿のコアに導電性樹脂に発熱・保温性樹
脂あるいは表面意匠形状樹脂に顔料などを加え(下図の特許事例参考)、電子レンジ加熱時の圧力調整付き
上蓋をセットする。このとき皿部に上蓋の嵌め会わせ溝をつけておく(詳細不記)というものだ。蛇足な
がら、着色には顔料添加法だけでなく、シリコン被膜表面をナノ加工することで光導波で選択し色を反射
させることもできる(詳細不記)。地方の企業も頼もしいですね。

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メーカのうたい文句によると――「アルミック」はアルミ合金で作られた半永久性の商品で、見た目肌触
り音も陶器と同様の食器です。 優れた抗菌効果と遠赤外線放射で、雑菌(大腸菌・病原性大腸菌O-157)
の発生を強力に防ぎ、付着した細菌の繁殖を抑え、ゆるやかに減菌し長時間効果が持続します。 熱にも
強く、損傷もなく長く使うほどお得な食器――という以下の特徴が唱われている。

(1)地球に優しい食器。お得でリユース可能な器です。
(2)アルミ合金製で作られたアルミックは半永久性の商品で見た目肌触り音も陶器と同様の食器です。
(3)抗菌仕様を施してあり、熱にも強く損傷もなく長く使うほどお得な食器です。
(4)アルミックはカタログの全ての色に再塗装が可能で再利用できます。



【概要】

上図の食器は、アルミニウムやアルミニウム合金からなる食器本体の表面にプライマー層と塗膜層を積層
一体化の食器で、プライマー層は、アミン変性エポキシ樹脂、シリカ粒子と分子中に窒素原子と改良剤で
構成したエポキシ塗料を硬化すると共に、塗膜層は、ポリエステルポリオールとアクリルポリオールと顔
料のベース塗料と、ポリイソシアネート化合物を硬化剤する2液型ポリウレタン系塗料を硬化することを
特徴のアルミニウムやアルミニウム合金の食器本体にこの塗料を硬化しプライマー層と塗膜層を積層一体
にした食器である。



【概要】 

漆黒呈する食器用アルミニウム複合体は、(1)アルミニウムやアルミニウム合金100重量部中に、平
均粒径が10~20ミクロンで80重量%以上が粒子径10.08~20.20ミクロンの炭化珪素粒子
140~150重量部を分散させ、(2)炭化珪素粒子を押し固めて炭化珪素をプリフォーム形成し、プ
リフォームの外周面全体からアルミニウムやアルミニウム合金の溶湯を加圧鋳造で含浸させる溶湯含浸工
程と、(3)溶湯供給部とこの溶湯供給部の内底面に連通口を介し連通するプリフォームの充填部の金型
を充填部内に配設し、上に内蓋を載置させると共に溶湯供給部の内底面上に貫通孔を有する絞り板を配設
した上でアルミニウムやアルミニウム合金の溶湯を供給加圧することで炭化珪素粒子をバインダーを用い
ず押し固めて炭化珪素のプリフォームを形成でき、漆黒を呈するアルミニウム複合体を提供するも。特に、
食器形状に形成し表面に塗装を施すことなく漆塗り調を呈する食器を得ることができる。

 

  

 

● 折々の読書 『職業としての小説家』34 

   だいたい小説というのは、あくまで身体の内側から自然に湧き上がってくるものであって、そ
 んなに戦略的にひょいひょい目先を変えていけるものではありません。マーケット・リサーチと
 かをやって、その結果を見て意図的に内容を書き分けられるものでもありません。たとえできた
 としても、そのような浅い地点から生まれた作品は、多くの読者を獲得することはできません。
 もし一時的に獲得できたとしても、そんな作品や作家は長持ちすることもなく、ほどなく忘れら
 れてしまうでしょう。エイブラハム・リンカーンはこんな言葉を残しています。「多くの人を短
 いあいだ欺くことはできる。少数の人を長く欺くこともできる。しかし多くの人を長いあいだ欺
 くことはできない」と。小説についても同じことが言えるだろうと僕は考えています。時間によ
 って証明されること、時間によってしか証明されないことが、この世界にはたくさんあります。
 
  話を元に戻します。
  大手出版社クノップフから単行本が出され、系列会社であるヴィンテージからペーパーバ″ク
 版が発売され、時間をかけてラインナップが整備されていくにつれて、アメリカ国内における僕
 の本の売り上げは徐々に、しかし着実に伸びていきました。新刊が出れば、ボストンやサンフラ
 ンシスコといった都市の新聞のベストセラー・リスト上位に着実に食い込むようになりました。
 僕の本が出版されると、それを買って読んでくれる読者層が――日本の場合とだいたい同じよう
 な具合に――アメリカでも形成されていったわけです。




  そして二〇〇〇年を過ぎて、作品で言えば『海辺のカフカ』(アメリカでは二〇〇五年に出版)
 のあたりから、僕の新刊は「ニューョーク・タイムズ」の全米ベストセラー・リストに、あくま
 で末席からではありますが、顔を出すようになってきました。つまり東海岸・西海岸のりベラル
 傾向の強い大都市エリアだけではなく、内陸部をも含んで、僕の小説スタイルが全国的に受け入
 れられるようになってきたということです。『IQ84』(二〇一回がベストセラー・リスト(
 フィクション・ハードカバー)の二位になり、『色彩を持だない多崎つくると、彼の巡礼の年』
 (二○一四)が一位になりました。でもここまで来るにはずいぶん長い歳月を要しました。一発
 で派手にどんと当てたわけではない。ひとつひとつ作品を地道に積み重ね、ようやく地歩を固め
 ることができたという感じです。またそれにつれて、ペーパーバックの旧作も活発に動くように
 なってきました。好ましい流れが作り出されたわけです。



  でも最初の段階でより目立ったのは、アメリカ国内での動きよりは、むしろヨーロッパ市場に
 おける僕の小説の発行部数の増加でした。ニューヨークを海外出版のハブ(中軸)に置いたこと
 が、どうやらヨーロッパでの売り上げの仲びに繋がったようでした。それは僕にも予測できなか
 った展開でした。正直なところ、ニューヨークというハブの持つ意味がそこまで大きいとは考え
 なかった。僕としてはただ「英語なら読める」という理由で、またたまたまアメリカに住んでい
 たという理由で、アメリカをとりあえずホーム・グラウンドに設定しただけなのですが。

  アジア以外の国で、まず火がついたのはロシアや東欧で、それが徐々に西進し、西欧に移って
 いったという印象があります。一九九〇年代半ばのことです。実に驚くべきことですが、ロシア
 のベストセラー・リスト十位の半分くらいを僕の本が占めたこともあったと開いています。
  これはあくまで僕の個人的印象であり、確かな根拠・例証を示せと言われても困るのですが、
 歴史年表とつきあわせて振り返ると、その国の社会の基盤に何かしら大きな動揺(あるいは変容)
 があった後に、そこで僕の本が広く読まれるようになる傾向が世界的に見られたという気がしま
 す。ロシアや東欧地域で僕の本が急速に売れ始めたのは、共産主義体制の崩壊という巨大な地盤
 変化のあとでした。これまで確固として揺らぎなく見えた共産党独裁のシステムがあっけなく崩
 壊し、そのあとに希望と不安をないまぜにした「柔らかなカオス」がひたひたと押し寄せてくる。
 そのような価値観のシフトする状況にあって、僕の提供する物語が新しい自然なリアリティーの
 ようなものを急速に帯び始めたのではないかと思うのです。

  またベルリンの東西を隔てる壁が劇的に崩壊し、ドイツが統合国家となって少ししたあたりか
 ら、僕の小説はドイツでじわじわと読まれるようになったみたいです。そういうのはもちろんた
 だの偶然の一致に過ぎないかもしれません。でも思うのですが、社会基盤・構造の大きな変更が、
 人々が日常的に抱いているリアリティーのあり方に強い影響を及ぼし、また改変を要求するとい
 うのは当然のことであり、自然な現象です。現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、
 人の魂の中で(あるいは無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代
 にあっても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語の
 リアリティーのシフトを、いねば裏打ちのように要求します。

  物語というのぱもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の
 現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場
 所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その二つのシステム
 (現実社会のシステムとメタファー・システム)をうまく連結させることによって、言い換える
 なら主観世界と客観世界を行き来させ、相互的にアジャストさせることによって、人々は不破か
 な現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。僕の小説が提供する物語のリ
 アリティーぱ、そういうアジャストメントの歯車として、たまたまグローバルにうまく機能した
 のでぱないか――そんな気がしないでもありません。もちろんこれは、繰り返すようですが、僕
 の個人的な実感に過ぎません。しかしまったく的外れな意見でもないだろうと考えています。

  そう考えれば、日本という社会は、そのような総体的ランドスライド(地滑り)を、欧米社会
 よりもむしろ早い段階で、ある意味では自明のものとして、自然に柔らかく察知していたのでは
 ないかという気もします。僕の小説は欧米よりも早く、日本で――少なくとも日本の一般読者に
 ――積極的に受け入れられていたわけですから。それについては、中国や韓国や台湾といった東
 アジアのお隣の国々についても同じことが言えるかもしれません。日本以外でも、中国や韓国や
 台湾の読者たちぱかなり早い段階から(アメリカやヨーロッパで認められる前から)、僕の作品
 を積極的に受け入れ、読んできてくれました。

  それらの東アジアの国々においては欧米に先だち、社会的ランドスライドが人々のあいだで、
 既にリアルな意味を持ち始めていたのかもしれません。それも欧米のような「何か事件が起こっ
 て」という急激な社会的変動ではなく、時間をかけたよりソフトな地滑りとして。つまり経済的
 に急成長を遂げるアジア地域においては、社会的ランドスライドは突発事件ではなく、この四半
 世紀ほどに関して言えば、むしろ恒常的な継続状況であったということになるかもしれません。

  もちろんそんな風に簡単に断言してしまうことにはいささか無理があるでしょうし、そこには
 他の要因も様々にあるはずです。しかし僕の小説に対するアジア諸国の読者の反応と、欧米諸国
 の読者の反応のあいだに少なからぬ相違が見受けられるのも、また確かです。そしてそれは「ラ
 ンドスライド」に対する認識や対応性の相違に帰するところが大きいのではないかと思います。
 また更に言うなら、日本や東アジア諸国においては、ポストモダンに先行してあるべき「モダン」
 が、正確な意味では存在しなかったのでぱないかと。つまり主観世界と客観世界の分離が、欧米
 社会ほど論理的に明確ではなかったのではないかと。しかしそこまでいくと話が広がりすぎるの
 で、その論議はまた別の機会に譲りたいと思います。

   Lost Chapters in The Wind-Up Bird Chronicle:A Translation and Commentary

  また、欧米諸国でブレークスルーできた大きな要因のひとつとして、何人かの優れた翻訳者に
 巡り合えたことが大きいと思います。まずハ○年代半ばに、アルフレッド・バーンバウムという
 シャイなアメリカ人の青年が僕のところにやってきて、僕の作品を気に入って、短いものをいく
 つか選んで翻訳しているのだがかまわないだろうかと尋ねました。それで「いいですよ。ぜひや
 ってください」ということになり、そういう訳稿がだんだん溜まってきて、時間はかかりました
 が、何年か後に「ニューヨーカー」進出のきっかけになったわけです。『羊をめぐる冒険』と『
 ダンス・ダンス・ダンス』も、「講談社インターナショナル」のためにアルフレ″ドが訳しまし
 た。アルフレ″ドは非常に有能で、意欲溢れる翻訳者でした。もし彼が僕のところにそういう話
 を持ってこなかったら、自分の作品を英語に翻訳するなんて、その時点では思いつきもしなかっ
 たことでしょう。自分ではまだまだそういうレベルに達していないと考えていたので。




  その後、プリソストン大学に招かれてアメリカに住むようになったときに、ジェイ・ルービン
 に出会いました。彼は当時ワシントン州立大学の教授で、後にハーヴァードに移ります。非常に
 優秀な日本文学の研究者で、夏目漱石のいくつかの作品の翻訳で知られていましたが、彼も僕の
 作品に興味を持ち、「できれば何かを訳してみたい。もし機会があれば声をかけてくれ」と言っ
 てくれました。僕は「まず、気に入った短編小説をいくつか訳してみてくれますか」と彼に言い
 ました。彼はいくつかの作品を選んで訳したのですが、とても立派な翻訳だった。何より面白い
 と思ったのは、彼とアルフレッドの選ぶ作品がまったく違っていたということです。両者は不思
 議なくらいバごアィングしなかった。複数の翻訳者を持つというのは大事なことなんだなとその
 ときに痛感しました。

  ジェイ・ルービンは翻訳者としてきわめて実力のある人で、彼が最新の長編小説『ねじまき鳥
 クロニクル』を訳してくれたことで、アメリカにおける僕のポジションはかなり確固としたもの
 になったと思います。簡単に言えば、アルフッドがどちらかといえば自由奔放な翻訳、ジェイは
 堅実な翻訳ということになります。それぞれにそれぞれの持ち味があったわけですが、アルフ
 レッドはその頃自分の仕事が忙しくなって、長編小説の翻訳までは手が回らなくなっていたので、
 ジェイが現れたことは僕にとってすごくありかたかった。また『ねじまき鳥クロニクル』のよう
 な(僕の初期の作品に比べて)構造が比較的緻密な小説は、ジェイのようにあたまから正確に逐
 語的に訳してくれる翻訳者の方が、やはり向いていたと思います。それから彼の翻訳について僕
 が気に入っているのは、そこに巧まざるユーモアの感覚があることです。決して正確・堅実なだ
 けではない。

  それからフィリでフ・ゲイブリエルがいて、テッド・グーセンがいます。彼らはどちらも腕利
 きの翻訳者で、やはり僕の書く小説に興味を持ってくれました。その二人とも、若い頃からのず
 いぶん長いつきあいになります。彼らはみんな最初、「あなたの作品を翻訳をしたいのだが」と
 か「既に翻訳をしてみたのだが」という風に接近してきてくれました。それは僕にとってはとて
 もありかたいことでした。彼らと巡り合い、パーソナルな繋がりを築くことによって、僕は得が
 たい味方を得たように思います。僕自身が翻訳者(英語↓日本語)でもあるので、翻訳者の味わ
 う苦労とか喜びとかは、我が事として理解できます。だから彼らとはできるだけ密に連絡を取る
 ようにしているし、もし翻訳に関する疑問みたいなものがあれば喜んで答えます。条件的な便宜
 もできるだけはかるように心がけています。

  やってみればわかるけれど、翻訳というのは本当に骨の折れる厄介な作業です。でもそれは一
 方的に骨の折れる厄介な作業であってはならない。そこにはお互いギブアンドテイクのような部
 分がなくてはなりません。外国に出て行こうとする作家にとって、翻訳者は何より大事なパート
 ナーになります。自分と気の合う翻訳者を見つけるのが大事なことになります。優れた能力を持
 つ翻訳者であっても、テキストや作者と気持ちが合わないと、あるいは持ち味が馴染まないと、
 良い結果は生まれません。お互いにストレスが溜まるだけです。そしてまずテキストに対する愛
 がなければ、翻訳はただの面倒な「お仕事」になってしまいます。

  もうひとつ、あえて僕が言い立てるまでもないのでしょうが、外国では、とくに欧米では、個
 人というものが何より大きな意味を持ちます。何ごとによらず、誰かに適当にまかせて「じゃあ、
 あとはよろしくお願いします」ではなかなかうまくいきません。ひとつひとつの段階で、自分で
 責任をとり決断していかなくてはならない。これは手間暇かかることですし、ある程度の語学力
 も必要になります。もちろん文芸エージェントが基本的なことはやってくれますが、彼らも仕事
 が忙しいし、正直言ってまだ無名の作家、あまり利益にならない作家のことまでは十分手が回り
 ません。だから自分のことはある程度自分で面倒をみなくてはならない。僕も日本ではまずまず
 名前を知られていたけれど、外国マーケットでは最初はもちろん無名の存在でした。業界の人や
 一部の読書人を別にすれば、一般のアメリカ人は僕の名前なんか知らなかったし、正確に発音も
 できなかった。「ミュラカミ」とか言われていました。でもそのことで遂に意欲をかきたてられ
 たところはあります。この未開拓のマーケットで、白紙状態からどれだけのことができるか、と
 にかく体当たりでやってみようじやないかと。

                                                「第11回 海外へ出て行くフロンティア」

                                        村上春樹 

わたしは、腹立たしくなれば自棄食いに走るが、思いが胸いっぱいに詰まれば、歯をかみしめ、唇を
左右に広げそれから左側にゆがめきつく下向きに押し込める癖がある。時として涙することがある。
この章では思い存分筆を進めているねぁ~と、頬を伝う涙はなかったものの胸に込み上げてくるもの
があった。

                                                          この項つづく 

 

 ● 今夜の一曲

この曲は「わがまま」というタイトルでアルバム『Someday Somewhere』に収録される予定になってい
たが、シングル曲候補となり、歌詞の一部と曲のを大幅にアレンジしたのち、曲名を「虹とスニーカーの
頃」と改め79年7月5日に発売されたチューリップの通算16枚目のシングルとして発売された。体調
を崩したまま中国と日本を往復していたころだが、”わがままは――― 男の罪―――それを許さないのは
女の罪/若かった―――何もかもが―――あのスニーカーはもう捨てたかい―――のAメロが印象的なお
気に入り一曲。 

  

 

 


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