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Channel: 極東極楽 ごくとうごくらく
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ジャジーな風に吹かれて

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    貧乏――あらゆる病気の中でもっとも恐ろしく、かつ、もっとも患者の多いもの。  

                      米国の劇作家 ユージソ・グラヅドストーソ・オニール


                                                                             
                                                             October 16, 1888 – November 27, 1953
     


             Poverty――that most deadiy and prevalent of all diseases     /  Eugene G.O'Neill                                                                                                                     
  ※ dead4y「恐ろしい」。prevalent「普遍的な」つまり「流行の(病)」

 

 

 

 

【中国の思想: 墨子Ⅴ】
 
  公輸――墨子と戦争技術者※
  尚賢――人の能力を正当に評価せよ
 兼愛――ひとを差別するな※
  非攻――非戦論※
 節葬――葬儀を簡略にせよ
 非楽――音楽の害悪
 非命――宿命論に反対する
 非儒――儒家批判
 親士――人材尊重
 所染――何に染まるか
 七患――君子の誤り七つ
 耕柱――弟子たちとの対話
 貴義――義を貴しとなす
 公孟――儒者との対話
 魯問――迷妄を解く 

※ シリーズとして掲載(途中も含め)した「編章節」はピンク色にしている。
  尚、段行末尾の※は、以前取り上げたことがあるもので、改めて記載するもの。

   魯問――迷妄を解く- 『墨子』 

 

 ● ひとりで働いても

  魯の国の片田舎に呉慮という男が住んでいた。冬には陶器をつくり「夏には畑仕事をしてヽ自分を
  なぞらえていた。
  墨子はその贈をきいて、会いに出掛けた。
  呉慮は崇子をみるなり、
 「義は実行あるのみです。あなたのように説きまわる必要はない」
 「すると、あなたの考えでは、人のために自分の労働力を提供したり、財産を分け与えたりすること
 が義なのですか」
  と墨子はたずねた。

 「そうです」
 「では、あなたのいわれる通りだとして、計算してみよう。
  たとえば、中国の人を飢えさせまいと、わたしが精いっぱい畑仕事をしたところで、せいぜい農夫
 一人分の仕事しかできない。とれた穀物を国中の人に分けたところで、一人当り一升もゆきわたらな
 い。たとい、一升ずつゆきわたったところで、腹を空かしている人全部を救うことはできない。
  また、国中の人を寒さにふるえさせまいと、わたしが精いっぱい機を織ったところで、せいぜい女
 工一人分の仕事しかできない。織った布を国中の人に分けたところで、一人当たり一尺もゆきわたら
 ない。一尺ずつゆきわたったところで、それだけでは、寒さにふるえている人全部を教うことはでき
 ない。

  また、諸侯を外敵から款ってやろうと、わたしが武器をとり、精いっぱい戦ったところで、兵士一
 人分の働きしかできない。一人分の働きで、大軍をふせぎえないことは、わかりきったことだ。
  それよりはむしろ、先王の道や聖人の教えを学んで、それを、上は王侯貴族、下は農民、兵士にい
 たるまで、あらゆる人に説くほうが、はるかに効果がある。王侯貴族がわたしの説いたことを実行す
 れば、国はきっと秩序がととのうし、農民や兵士がそれを実行すれば、きっとまじめに働くようにな
 る。自分ひとりで畑仕事や機織り仕事をするより、このほうがはるかに効果がある、とわたしは思う」

   集団効果 墨子は労働を重視し、ストイックに自己を規制する。が、かれは自己満足的な "修養"
                にとどまっているわけではない。集団効果ということを、十分に心得ていたのだ。

 

 魯國的南郊有一個叫吳慮的人,冬天制陶夏天耕作,拿自己與舜相比。墨子聽說了就去見他。吳慮對
 墨子說:「義啊義啊,責在切實之行,何必空言!」墨子說:「你所謂的義,也有以力量給人效勞,
 以財物分配給人的方面嗎?」吳慮回答說:「有。」墨子說:「我曾經思考過:我想自己耕作給天下
 人飯吃,十分努力,這才相當于一個農民的耕作,把收獲分配給天下人,每一個人得不到一升粟。假
 設一個人能得一升粟,這不足以喂飽天下饑餓的人,是顯而易見的。我想自己紡織給天下的人衣服穿,
 十分努力,這才相當于一名婦人的紡織,把布匹分配給天下人,每一個人得不到一尺布。假設一個人
 能得一尺布,這不足以溫暖天下寒冷的人,是顯而易見的。我想身披堅固的鎧甲,手執銳利的武器,
 解救諸侯的患難,十分努力,這才相當于一位戰士作戰。一位戰士的作戰,不能抵擋三軍的進攻,是
 顯而易見的。我認為不如誦讀與研究先王的學說,通曉與考察聖人的言辭,在上勸說王公大人,在下
 勸說平民百姓。王公大人采用了我的學說,國家一定能得到治理;平民百姓采用了我的學說,品行必
 有修養。所以我認為即使不耕作,這樣也可以給饑餓的人飯吃,不紡織也可以給寒冷的人衣服穿,功
 勞勝過耕作了才給人飯吃、紡織了才給人衣穿的人。所以,我認為即使不耕作、不紡織,而功勞勝過
 耕作與紡織。」吳慮對墨子說:「義啊義啊,貴在切實之行,何必空言!」墨子問道:「假設天下的
 人不知道耕作,教人耕作的人與不教人耕作卻獨自耕作的人,他們功勞誰的多?」吳慮答道:「教人
 耕作的人功勞多。」墨子又問:「假設進攻不義的國家,擊鼓使大家作戰的人與不擊鼓使大家作戰、
 卻獨自作戰的人。他們的功勞誰的多?」吳慮答道:「擊鼓使大家作戰的人功勞多。」墨子說:「天
 下平民百姓少有人知道仁義,用仁義教天下人的人功勞也多,為什么不勸說呢?假若我能鼓動大家達
 到仁義的要求,那么,我的仁義豈不是更加發揚光大了嗎!」 

  

● 折々の読書 『職業としての小説家』33

   結果的にはこの三人の出版人(ビンキー、メータ、フィスケットジョン)と結びついたことが、
 ものごとがうまく運んだひとつの大きな要因になっていると思います。彼らはとても有能で、熱
 意に溢れる人たちだったし、広いコネクションと、業界に対する確かな影響力を持っていました。
 それからクノッブフの社内(名物)デザイナーであるチップ・キッドも、最初の『象の消滅』か
 ら最新の『色彩を持だない多時つくると、彼の巡礼の年』まで、僕のすべての本をデザインして
 くれて、それはかなりの評判になりました。彼のブック・デザインを目にするのを楽しみに、僕
 の新刊を持っている人たちもいます。そういう人材に恵まれたことも大きかったでしょう。

  Chip Kidd (born September 12, 1964)

  もうひとつの要因は、僕が「日本人の作家」であるという事実をテクニカルな意味合いで棚上 
 げし、アメリカ人の作家と同じ土俵に立ってやっていこうと、最初に決心したことにあるのでは
 ないかと思います。僕は自分で翻訳者を見つけて個人的に翻訳してもらい、その翻訳を自分でチ
 とりました。そうすれば、エージェントも出版社も、僕をアメリカ人の作家と同じスタンスで扱
 うことができます。つまり外国語で小説を書く外国人作家としてではなく、アメリカの作家たち
 と同じグラウンドに立ち、彼らと同じルールでプレイするわけです。まずそういうシステムをこ
 ちらでしっかり設定しました。

  そうしようと決めたのはビンキーに最初に会ったとき、「英語で読めない作品は自分には扱え
 ない」とはっきり言われたからです。彼女は自分で作品を読み、価値を判断し、そこから仕事を
 開始します。自分で読めない作品を持ち込まれても、仕事にならないわけです。エージェントと
 しては、まあ当たり前のことですね。だからこちらでまず納得のいく英語翻訳を用意することに
 しました。

  日本やヨーロッパの出版関係者はよく、「アメリカの出版社は商業主義で、営業成績ばかり気
 にして、地道に作家を育てようとしない」というようなことを言います。反米感情というほどで
 もないけど、アメリカ的なビジネス・モデルに対する反感(あるいは好感の欠如)のようなもの
 を感じることはしばしばあります。たしかにアメリカの出版ビジネスにそういう面がまったくな
 いというと、それは嘘になります。「エージェントも出版社も、売れているときはちやほやする
 けど、売れなくなると冷たい」と文句を言うアメリカ人の作家に何人も出会いました。たしかに
 そういうところもあるでしょう。でもそんな面ばかりではありません。気に入った作品に対して、
 またこれぞと思う作家に対して、エージェントや出版社が目先の損得抜きで力を傾注している例
 を、僕はあちこちで目にしてきました。そこでは編集者の個人としての思い入れや、意気込みが
 重要な役割を果たすことになります。これは世界中どこだってだいたい同じようなものじやない
 かと思います。

  どこの国であろうが僕の見る限り、出版関係の仕事に就こう、編集者になりたいという人は、
 そもそもが本好きです。アメリカだって、ただ単にお金をいっぱい儲けたい、贅沢に経費を使い
 たいと考えるような人は、まず出版関係にはやってきません。そういう人たちはウオール街に行
 くか、マディソン街(広告業界)に行くかします。特殊な例を別にすれば、出版社の出す給料は
 それほど高額なものではないからです。だからそこで働いている人の間には多かれ少なかれ、「
 私は本が好きだからこそこの仕事をやっているんだ」という自負があり、心意気があります。い
 ったん作品が気に入れば、損得抜きで身を入れて仕事をしてくれます。

  僕はアメリカ東部(ニュージャージーとボストン)にしばらく住んでいたこともあって、ビン
 キーやゲイリーやサニーと個人的につきあい、親しくもなりました。遠く離れた場所に住み、長
 い歳月にわたって仕事を共にするわけですから、やはり時々は顔を合わせていろんな話をし、一
 緒にご飯を食べたりもします。そういうところはどこの国だって同じです。すべてエージェソト
 まかせで、担当者とほとんど額も会わせず、「まあ、適当にやってください」という丸投げ的な
 姿勢では動くものも動きません。もちろん作品自体に圧倒的に強い力があれば、それでもかまわ
 ないわけですが、正直なところ僕にはそこまでの自信はありませんし、何ごとによらず「自分に
 できるだけのことは、できるだけやってみる」という性分なので、できる限りのことは実際にや
 ってみたわけです。日本でデビューした当時にしていたことを、もう一度アメリカでやり直した
 ことになります。四十代にしてもう一回「新人状態」にリセットされたというか。

  僕がこのように積極的にアメリカのマーケ″トを開拓しようと思い立ったのは、それまでに日
 本国内でいろんなあまり面白くないことがあって、「日本でこのままぐずぐずしていてもしょう
 がないな」と実感するようになったことが大きいと思います。当時はいわゆる「バブルの時代」
 で、日本で「物書き」として生活をしていくことは、さしてむずかしいことではありませんでし
 た。人口は一億を超え、そのほとんどすべてが日本語を読むことができます。つまり基礎的な読
 書人口はかなり多いわけです。それに加えて日本経済は世界中が目を見張るほど好調で、出版界
 も活 況を呈していました。株は上昇の一途で、不動産も高騰して、世の中にお金がだぶついて
 います から、新しい雑誌が次々に創刊され、雑誌にはいくらでも広告が集まってきます。書き
 手としても原稿依頼には不自由しません。当時は「おいしい仕事」もたくさんありました。「世
 界中、どこでも好きなところに行って、いくらでも経費を使って、好きなように紀行文を書いて
 ください」 みたいな依頼もありました。知らない人から「このあいだフランスのシャトーをひ
 とつ買ったので、そこに一年ばかり住んで、のんびり小説を書いてみませんか?」というゴージ
 ャスな中し出もありました(どちらも丁重にお断りしましたが)。今から思えば信じられないよ
 うな時代です。小説家にとって主食とも言うべき小説自体はさほど売れなくても、そのようなお
 いしい「おかず」で十分生活していけたわけです。

  しかしそれは四十歳を目の前にした(つまり作家としてとても大事な時期にある)僕にとって、
 歓迎すべき環境とは言えませんでした。「人心が乱れる」という表現がありますが、まさにその
 とおりでした。社会全体がざわざわと浮ついていて、すぐお金の話になります。じっくり腰を据
 え、時間をかけて長編小説を書こうというような雰囲気じゃありません。こんなところにいたら、
 知らないうちにスポイルされてしまうかもしれない――そういう気持ちが次第に強くなってきま
 した。もっと張りつめた環境に身を置いて、新しいフロンティアを切り拓いていきたい。自分の
 新しい可能性を試してみたい。そう考えるようになりました。だからこそ僕はハ○年代後半に日
 本を離れ、外国を中心に生活するようになったわけです。『世界の終りとハードボイルド・ワン
 ダーランド』を出版したあとのことです。



  もうひとつ、日本国内における僕の作品や僕個人に対する風当たりがかなりきつかったという
 ことがあります。僕は基本的に「欠陥のある人間が欠陥のある小説を書いているんだから、まあ
 なんと言われても仕方あるまい」という風に考えていますし、実際に気にしないようにして生き
 てきたのですが、それでも当時はまだ若かったし、そのような批判を耳にして、「それはあまり
 にも公正さを欠いた言い方ではあるまいか」と感じることはしばしばありました。私生活の部分
 にまで踏み込まれ、家族も含めて、事実ではないことを事実のように書かれ、個人攻撃されるこ
 ともありました。どうしてそこまで言われなくてはならないんだろうと、(不快に思うよりはむ
 しろ)不思議に感じたものですが。

  それは今から振り返ってみれば、同時代日本文学関係者(作家・批評家・編集者など)の感じ
 ていたフラストレーションの発散のようなものではなかったのかという気がします。いわゆるメ
 インストリーム(主流派純文学)が存在感や影響力を急速に失ってきたことに対する「文芸業界」
 内での不満・彭屈です。つまりそこではじわじわとパラダイムの転換がおこなわれていたわけで
 す。しかし業界関係者にしてみれば、そういうメルトダウン的な文化状況が嘆かわしかったし、
 また我慢ならなかったのでしょう。そして彼らの多くは僕の書いているものを、あるいは僕とい
 う存在そのものを、「本来あるべき状況を損ない、破壊した元凶のひとつ」として、白血球がウ
 ィルスを攻撃するみたいに排除しようとしたのではないかIそういう気がします。僕自身は「僕
 ごときに損なわれるものなら、損なわれる方にむしろ問題があるだろう」と考えていましたが。

  「村上春樹の書くものは所詮、外国文学の焼き直しであって、そんなものはせいぜい日本国内
 でしか通用しない」というようなこともよく言われました。僕は自分の書くものが「外国文学の
 焼き直し」だなんてちっとも思わなかったし、むしろ自分は、日本語のツールとしての新しい可
 能性を積極的に追求し模索しているつもりでいたので、「そう言うのなら、僕の作品が外国で通
 用するかしないか、ひとつ試してみようじやないか」という挑戦的な思いは、正直言ってなくは
 ありませんでした。僕は決して負けず嫌いな性格ではありませんが、納得のいかないことは納得
 がいくまでとことん確かめてみたいと思うところはあります。

  それにもし外国を中心に活動できるようになれば、そういう日本国内のややこしい文芸業界と
 関わり合う必要性も少しは減ってくるかもしれません。何を言われても知らん顔で聞き流してい
 ればいい。僕にとってはそういう可能性もまた、「ひとつ海外でがんばってみよう」と思う要因
 になりました。考えてみれば、日本国内で批評的に叩かれたことが、海外進出への契機になった
 わけですから、遂に既されてラ″キーだったと言えるかもしれません。どんな世界でもそうです
 が、「褒め殺し」くらい怖いものはありません。

  僕が外国で本を出していちばん嬉しかったのは、多くの人々(読者や批評家)が「村上の作品
 はとにかくオリジナルだ。他の作家が書くどんな小説とも違う」と言ってくれたことです。作品
 自体を評価するにせよ、しないにせよ、「この人は他の作家とは作風がまるで違う」という意見
 が基本的に大勢を占めていました。日本で受けた評価とはずいぶん違っていたので、それは本当
 に嬉しかった。オリジナルであるということ、僕自身のスタイルを持っているということ、それ
 ぱ僕にとってのなによりの賛辞なのです。

  しかし海外で僕の作品が売れるようになると、というか売れていることがわかってくると、日
 本国内で今度は「村上春樹の本が海外で売れるのは、翻訳しやすい言葉で、外国人にもわかりや
 すい話を書いているからだ」と言われるようになってきます。僕としては「それじゃ、前と言っ
 てることが真逆じゃないですか」といささかあきれてしまうんだけど、まあしょうがないですね。
 ただ風向きを測り、確かな根拠もなく気楽に発言する人が世の中には一定数いるんだと考えるし
 かありません。

                                               「第11回 海外へ出て行くフロンティア」

                                        村上春樹 

                                                          この項つづく 

 

 
Ferdinand Joseph LaMothe (October 20, 1890 – July 10, 1941)

【ジャジーな風に吹かれてⅠ:ジェリー・ロール・モートン】

 


● 『ジェリー・ロールモートン』

最高傑作と折り紙付きの26年録音の7曲を中心に、27年の2曲、28年の5曲、29年の3曲を
集大成したアメリカ編集のベスト盤。十二歳からピアニストとして楽旅、各地で採集したワークソン
グ、ブルース、ミンストレル・ソング、賛美歌、カリビアン音楽を融合させて創造したジャズの原型
が楽しめる。モートンは優れたフィールドワーカーであり「シャズの創始者」と自ら吹聴している。



  

● 『コンプリート・レッド・ホット・ペッパーズ』

ニューオリンズでクレオールとして生まれた。当時ニューオリンズは文化的にはフランス、スペイン
の影響が依然強く残るカリブ文化圏の国際都市で、音楽の溢れる街だった。彼はそこで生まれたラグ
タイム・ピアノに軍楽隊のブラスを加えて、ジャズの初期のスタイルを様式化し広め、38年、国会
図書館が初期ジャズの保存と記録を106面のレコードに残している。

  

  


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