彼は、太陽は自分かつくるときを聞くために昇ったのだと思っている鶏のような人だ。
イギリスの女流作家、ジョージ・エリオット『アダム・ヒード』
He was like a cock who thought the sun has risen to hear jim crow.
George Eliot : Adam Bede
【まるっぽ豆腐革命】
参集の土曜日に「アグリの郷栗東」につれていけというので、午前10時から車で目的地の「道
の駅」に行き、ゴボウの太巻き寿司やまるっぽ豆腐、小アユの佃煮など買って、水が浜「シャーレ
」に立ち寄りミルクティーを頂き――大阪の八尾からスバルのオールドファッションカーでやって
きた同年配の方、通常は天候がよければ綾羽からライトプレーンでやってくる常連の話を聞かせて
いただきの帰ってきたのだが、話題は「全粒大豆の豆腐」で試食。全然問題なし、後はレシピ開発
や加工種の開発といったところ。日本もやっとここまできたのかと感心しながら頂いた。
豆の主な機能性成分としては、大豆タンパク質、イソフラボン、レシチン、サポニン、大豆油など
がある。そのうち大豆油は、リノール酸やリノレン酸等の多価不飽和脂肪酸を含む一方、コレステ
ロールを含まないため、動物油とは対照的に健康に良い油として評価が定着している。ところがこ
のように健康に良い大豆という評価がなされているにも関わらず、大豆加工食品市場が活性化は、
ドイツをはじめとした欧米から比較して遅れいている?(1)調味料を除く大豆加工食品市場が、
豆腐、油揚、納豆のような伝統的大豆加工食品中心で、新たな分野での利用、定着が進まず、製品
の展開幅が広がらない。(2)一方、乳業分野においては、通常牛乳の他に低脂肪牛乳から生クリ
ーム、バターに至るまで、脂質含量の異なる基本素材がラインナップしており、幅広い用途への応
用が実現している。大豆加工分野においては結局、乳業分野のように種々の食品に利用可能な基本
素材がこれまで存在しなかったということが、製品の展開幅が広がらない大きな理由の考えられる。
さらに、大豆を原料とする流動性飲料として、古くから豆乳が知られている。豆乳は、水に浸漬し
た大豆をすりつぶし、加熱してろ過することにより一般に製造することができ、飲料や食品原料・
添加剤として幅広く用いられている。この豆乳を濃縮すれば粘度を高くすることができるため、ペ
ーストかペーストに近い状態の食品原料を提供することが可能である。また、豆乳を製造する際の
ろ過の方法を工夫することによって粒度がある程度そろった食品原料を提供することも可能である
が、これらの食品原料を製造する際には副産物としておからが出ることから歩留まりが悪く、おか
らの処理や濃縮工程やろ過工程に伴う製造ラインの煩雑化などにコストがかかるという問題があり、
おからを除いてしまうため、大豆に由来する健康成分をあまねく含む食品原料とすることができな
いという問題もある。このため、全粒大豆を含み、おからを除かずに製造される食品原料の提供が
望まれている。
下図の新機構案4によると、固形分が20重量%以下であって、平均粒度が25μm以下であって、
粘度が50mPa・s以上であることを特徴とする全粒大豆ペースト化することで滑らかでザラザ
ラした粉っぽさが無く、口当たりと保形性が良好な全粒大豆ペーストを提供新規技術が提案され入
れいる。
※ 特開2015-146764 大豆粉末の製造方法及びその製造方法により製造された大豆粉末、並びにそ
の大豆粉末を含む大豆加工食品 学校法人関東学院
豆乳製素材5は、含脂大豆1より加熱抽出した豆乳2中に、豆乳2よりも高密度でありかつ脂質を
高濃度に含有した脂質含有凝集物3が分散した状態に調整された液状の豆乳製素材5であり、脂質
含有凝集物3は豆乳2由来の成分である。豆乳製素材5を基礎として、これに含まれる脂質含有凝
集物3が分離されて、クリーム状、固形バター状、ペースト状またはムース状の物として豆乳製二
次素材10が得られ、豆乳製二次素材10により豆乳製加工品20――乳化剤や増粘剤のような品
質改良剤や他の食品油脂を添加せず、半固体状(クリーム状、固形バター、ペースト状またはムー
ス状)の形態で生クリームのようなテクスチャーを有し、脂質含量が比較的高い新たな豆乳製食品
素材及びその製造方法が製造(下図参照)方法が提案されてる。
● ポストまるっぽ豆腐革命
このようなことを考えていくと、無害な。オーガニック大豆以外の植物性タンパク質や脂質、粟・
薭などの炭水化物のペースト化が可能となり牛食肉偏重食文化を根底的に変えていく近未来図がみ
えてくる。そして、そのトップランナーがクールジャパンであることも間違いないだろうと考えて
いる。
● 折々の読書 『法然の編集力』 2 松岡 正剛 著
【目次】
第一部 法然の選択思想をよむ
忘れられた仏教者
六字名号の伴/宗教は「編集」されてきた/法然に吹く風
専修念仏への道
父の遺旨/浄土思想との出会い/末法を生きる/法然の読暦法ノ専修念仏の確
信/山から町へ/乱想の凡夫として
法然のパサージュ
兼実の「仰せ/「選択」とは何か/法然のブラウザトプリテラシーとオラリティ
「選択」の波紋
南都北嶺の逆襲/浄土でつながる……多重な相互選択/親鸞と空也
第二部 絵伝と写真が語る法然ドラマ
法然誕の地ノ突然の夜討ちノ時田の遺言/比叡山入山∠宝ヶ池越しに比叡山
を望む/18歳での遁世/浄土信仰の象徴/一向念仏則に帰す/吉水での説
法/念仏宛洋の地/善導との夢中対面/大原問答/大原問答の地/九条兼実
の帰依ノ朗婉の計画ご弟fの死罪/遊女教化/法然の臨終/法然の眠る場所
第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳
大震災を経て/辺境から生まれる希望/仏教の土着化/日本仏教の系譜/仏
教とイメージ/法然の引き算/仏教を再読/「悪人」とは誰か/仏教におけ
る死
宗教は-‘編集’されてきた
そのきっかけは、私が「編集」という方法の重要さに気がつき、編集方法のすぐ
れた思想的実践者を古今東西にさがすようになったことにあります。一九八〇年前
後のことでした。
一般に「編集」というと、雑誌や映画やテレビなどで川いられるエディティング
技法をさす用語ですが、私の場へ目はそんなふうに狭めて兄てはいない。もっと「
編集」の意味と作用を拡張しています。ごくごく簡単にJ‥ってしまえば、いろい
ろな情報を受けとめる方法のすべてが’編集゛なのです。ですから、日記やブログ
を書くことも、俳句を詠むことも、シンガーソングライターすることも、会社での
会議も新商品の開発も、ラグビーの試合や各種のレフェリングも、すべてが「編集」
であると考えているのです。
フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースは、その研究において「プリコラー
ジごという概念を用いました。ブリコラージュというのは「修繕する」「取り繕う」
[直すにといった意味をあらわします。こんなものが重要だなんて誰も気づいてい
なかったのですが、冲詰変叱や婚姻制度を研究していたレヴィ=ストロースは、先
行して成立するものが、そのあといかに加にされ、変更され、修繕されていったか
を見ることが、文化や人類の活動の奥にひそむ先駆的な「構造」を見抜くうえで大
事であると気がつきました。人類の歴史はブリコラージュされてきた、という見方
たです。
私がいう「編集」の重要性も、ブリコラージュの重要性と同じようなところがあ
ります。
ただ私は、ブリコラージュの適用範囲を冲話や習慣だけではなく、歴史から現ぴ
におよぷ情報や知識の全般に拡張したのです。
たとえば、生命はATCGの塩基配列で成りなつ情報高分子であるわけですが、
これは生命というしくみが情報編集のしくみであることを暗示しています。神経系
や消化管や運動器官を分けたのも、体の中と外を行きかう情報をたくみに編集した
工夫によるものです。歴史だって編集です。人煩が言個と文字をもって文明と文化
をきずいたということは、「人類の歴史は情報編集の歴史だった」ということなの
です。このように、多くの出来事は、もとをたどればすべては「情報」であり、そ
れはなにがしか「編集にされることによって価値づけられてきた、というのが私の
考えなのです。
宗教だって同じです。世界のあらゆる宗教は『編集』と無縁に成立することは
ありません。たとえば古代ペルシアのゾロアスター(ザラスシュトラ)は諸般の神
々を公‥]と「悪」の系譜で編集しなおして光神アフラ・マズダと闇の神アングラ・
マイニュとを対比させました。ここには古代宗教に特有の二元的編集術をみてとる
ことができます。なんでも二分法で分類してしまう是非を問うことはここではおき
ますが、ユダヤ教などはあきらかにその影響を受けています。
世界最大の宗教であるキリスト教はどうでしょうか。十字架にかけられたイエス
は、なにか著作を残していたわけではありません。しかし、その亡骸からキリスト
教という花が咲いたのは、パウロやペテロをはじめとする伝道者が強烈なエディタ
ーシップを発揮したことに資するところが大きいのです。とりわけイエスが死んで
から三日後によみがえったと強調する編集術がみごとでした。キリスト教はユダヤ
教の一派から生まれた宗教ですが、この[イエスの復活」によって完全に独立をは
たしたととらえることができます。しかも、ご存じのように「新約聖書」は、マタ
イ伝やマルコ伝といった福音書、あるいはローマ人やコリント人などの信徒に宛て
たパウロの「手紙」によって構成されているわけですから、いわばメールやブログ
を束ねて聖書にしていったようなもので、とても果敢な情報編集を重ねてきた宗教
といえるでしょ。
仏教も例外ではありません。ゴータマ・ブッダは八〇歳のときに入滅なさるわけ
ですが、イエス同様、ブッダ自身が書いた書物はひとつもありませんでした。
しかし、ブッダの教えは十大弟子のマハーカーシャパ(家居迦葉)やアーナンダ
(阿難陀)らによってまとめあげられていきます。語り継がれるだけだった「生き
た言葉」が、しだいに言語すなわちテキストによっていちいち記録され、スートラ
(経典)になっていくという流れです。その端緒は第一次仏典結集にあるわけです
が、「結集」とは人々の記憶のなかに散在するブッダの河葉を集めて、そこに舞台
や起承転結を加えてまとめていく過程なのですから、これは「編集」以外のなにも
のでもありません。それがおよそ百年おきにおこなわれ、第四次仏典結集まで続け
られているのです。
これらの例を鑑みても、経典は例外なく編集されていると見たほうがいいのです
が、さらに日本仏教の場合は、サンスクリットやパーリ語の経典ではなく、それが
いったん中国語に漢訳されたものを読んできたという歴史があります。安世高や支
婁迦臓、さらにはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)といったシルクロードを渡ってき
た訳経憎が『妙法蓮華経』や『維摩経』や『華厳経』などを中国語に翻訳してきた
のですし、その後の唐代になって、玄奘や義浄らの手によって大きな仏典はあらか
た漢訳されてきたのです。日本仏教はそれを読み継いできたわけですから、中国仏
教と並べて論じないわけにはいきません。しかも中国仏教は、道教や儒教の教義と
まじりあいながら発展してきたので、経典の漢訳をすすめるにあたっては、当代の
文化や国家思想にあわせた「意訳」という編集がおこなわれていました。
ですから、日本の仏教がほかならぬ漢訳仏輿とともに歩んできたことの意味は、
決して無視できません。その歴史をたどるだけでも一冊の本が書けてしまいますか
ら、ここで論じることはいたしませんが、い宗教は編集されてきた」という経緯を
ここに確認しておきたいと思います。さて、いくつかのわかりやすい例をあげてき
ましたが、宗教を成り立たせている要素もつまるところ「情報」であり、誰かが何
らかの意図をもって「編集」してきたのです。宗教者や宗教改革者とは、すなわち
宗教編集者であるということもできるのです。そして、そういった脱点で鎌倉新仏
教の祖師たちを眺めてみると、これまでとはすこし異なった風景が見えてくるので
す。
たとえば、法然と親鸞の関係についてよく聞く話のひとつに、「法然が準備した
ものを弟子の親鸞が完成させた」というものがあります。具体的な例をあげるとな
ると、「悪大正機説」がそれにあたるでしょうか。阿弥陀仏は悪人の教済こそを本
願とするという教えは、法然が先行して説いていたのですが、一般的には、親鸞の
説として流布されています。
もちろん私には、ひとつの思想の萌芽を敷街して完成させた親鸞の偉業を軽んず
る意図はまったくありません。私はかつてもいまも親鸞にめろめろです。とはいえ、
その基本のシナリオと約束事を用意した法然の革新性を決して見過ごしてはいけな
いと思うのです。
では、なぜ法然は革新的な信仰方法に気がつけたのか。詳しいことはあとで説明
いたしますが、まずもって法然の生きた時代が亀裂を生じやすいところにきていた
ということが言えます。
第一には、平安後期の仏教が比叡山を中心に制度化されて、そろそろ制度疲労が
おこっていた。第二には、「末法の世」が到来するとされていた。第三には「武者
の世」が近づいていた。これらの動向が重なって亀裂が生じやすくなっていたので
す。そのようなとき、法然が仏教の編集可能性に気がついたのです。法然登場の意
義はここにあるのです。
日本仏教の主流が京都の王朝仏教に切り替わるにつれて、しだいに比叡山を中心
にした守旧派のパフォーマンスやコンプライアンスが重視されるようになっていき
ました。律令国家として制度化された仏教をいかに確立するか。それが平安仏教に
とっての切実な課題だったのです。それをなしとげたのが最澄、円仁、円珍、安然.、
良源と続いた天台宗(台密)で、みごとな思想と制度の組み合わせに成功するので
すが、そのあと円傍系が園城寺(ニ井か)派になって、山門(延暦寺派)と対立す
るなど、いろいろ硬直化もします。天台思想はとても興味深いものなのですが、し
かし当時の叡山は宗教的パワーポリティクスと無縁でいられなかったのです。
というのも、平安後期になると、さすがの藤原氏による社会文化にも綻びが目立
ってきます。そこへもってきて末法の世になった。仏教史観では、ブツダの教えが
力を発揮する「正法」の世から、しだいに悟りが得にくくなっていく「像法」の世
をへて、ついには仏教の心が乱される,末法にの世になると予想されているのです
が、その末法の世に入った。
計算法がいろいろあるのでアジア共通の末法入りの年代は決定できませんが、日
本では1052年の永承七年に末法の世が始まったとされて、その噂が広まります。
これは慌てます。おまけに叡山のセンター機能にもヒピが入っています。このよう
な事態のなか、旧来の仏教をどうやって転換するのか。事態がだんだん深刻になる
なか、そこに法然が登場してくるのです。
法然が前半生で「武者の世」の痛哭の洗礼を受けたことや、叡山に入ってどんな
学習に徹したかということは、のちにお話しするとして、法然が最終的に決断した
ことが何だったかというと、経典から決定的な編集中枢を抜き出すことと、どんな
凡夫にもこれからの世の信仰に向かえる方法を伝えようということでした。これを
時代的に大きくいえば、いかにして「悟りの仏教」から「救いの仏教」へと切り替
えるかということです。このことを突き詰めて、仏教を「編集」しなおして、断固
として専修念仏を「選択」したのが法然だったのです。
ちなみに弟子の親鸞は、法然の「編集」に同調するようにして、よりピュアな言
説で説得力を増すことができました。法然と師弟関係にはありませんが、栄西、道
元、日蓮たちも同様です。先行して日本仏教の「編集」を試みた人物がいたからこ
そ、後続に思想のうねりがおきたと見るべきなのです。
この項つづく
【再エネ百パーセント時代:片貝別又発電所水力発電稼働】
北陸電力が新設の水力発電所としては規模の大きい「片貝別又(かたかいべつまた)発電所」を富
山県の魚津市に完成させた(上図)。魚津市内を流れる片貝川の上流と下流を水路でつなぎ、3百
メートルの落差を生かして発電する。発電能力は最大で4400kWだが、まず12月11日から3千キロワ
ット以下の出力で営業運転に入った。北陸電力は20年度までに水力による発電量を07年度と比
べて1億kWh拡大する計画を推進中だ。出力が3万キロワット未満の中小規模の水力発電所を新設す
るほか、老朽化した水力発電所の設備を更新して出力を増強しながら発電量を増やしていく。