我々は途方もない変化の時代に生きている オバマ米国大統領
● ”Automist Smartscan ”ノズル噴射型消火システム
ロンドンのPlumis 社の自動ノズルミスト噴射消火システム。天井設置のスプリンクラー方式
より遙かに少ない水量で消化できる(毎分5.6リットル、スプリンクラー方式より約90%以上少
ない水量)。こういった設計思想は農業・医療・工場・運搬分野などにも応用できそうで、結構大
きな世界市場になるだろう。
● HumanEyes社製三次元円盤型カメラ"Vuze"で360度撮影
『デジタル革命渦論』はまた1つ、カメラ・ビデオを変えることとなった。
● ペロブスカイト結晶構成する原子を視覚化
有機‐無機複合物質であるペロブスカイト材料は、次世代型太陽電池には欠かせない材
料。このペロブスカイト材料の特性を理解することは、太陽電池の耐用年数を延ばし、
品質を向上に欠かせない。沖縄科学技術大学院大学のヤビン・チー准教授らの研究グル
ープは、有機‐無機ペロブスカイト材料の原子分解能について世界に先駆けて調べ、そ
の成果を米国化学会誌(Journal of the American Chemical Society)に発表(8 Jan. 2016)。
この成果はから、メチルアンモニウム分子が回転すること、およびそれらの分子の回転
によって明らかに異なる特性を持つ2種類の表面構造を生み出すことを発見。また、回
転とは別に、このメチルアンモニウム分子は隣接する臭素イオンの位置に影響を及ぼし
その結果、原子構造にさらなる変化をもたらし。この構造により材料の電子的性質が決
定されることから、原子の幾何学的位置は太陽電池を理解するための不可欠な要素とな
る。
さらに、走査型トンネル顕微鏡の画像により、分子およびイオン(欠落している原子)
の転位により引き起こされた局所的な欠陥もあきらかになると考えられている。これら
の欠陥により、伝導性などの電気特性が変容するなど、機器の性能に影響が及ぼされる
ともあり、ペロブスカイト材料の構造は温度感応性が高く、凍結した結晶を室温下で観
察では、必ずしも完全同一構造が観察されるわけでないが、原子レベルでのペロブスカ
イト結晶を包括説明には、実際的な結晶挙動の理解に役立つ。現時点での発見は、有機
‐無機結晶表面における分子とイオン間の相互作用を解明できるものと期待されている。
● 折々の読書 『法然の編集力』 8 松岡 正剛 著
第一部 法然の選択思想をよむ
「選択」の波紋
南都北嶺の逆襲
さてところで、これはどの一冊ではあっても、この『選択本願念仏集』が世に出
ると、各方面から徹底的な批判が浴びせられました。いずれも身のすくむほどの批
判です。それも宗教界の大向こうからの弾劾のような批判でした。いいかえれば、
法然が説く教えは、それほど革新的だったということです。法然自身も、易行によ
る往生が可能だとする専修念仏が、危険思想と見なされうることを感じていた節が
ありました。
聖道門から離れていった法然の思想と行動を鍛初に批判したのは、当然のことな
がら「山」としての延暦寺や「寺」としての興福寺でした。とりわけ問題となった
のは法然その人というよりも、好き勝手な専修念仏論をふりまわす弟子たちだった
ようです。
元久元年(1204)、延暦寺の僧たちが集まって専修念仏の停止を計画し、天台
座主の真性に訴えます。これが「元久の法難」の開始でした。かつて身を寄せた古
巣からの批判を浴びることになった法然ですが、これに強く抗弁することばしてい
ません。これまでにものべたように、決然という人は他の宗派宗旨を論難する気が
まったくないのです。これはもう法然の編集的信念とでも呼びたいほど徹底してい
ます。
とはいえ、叡山の声に無視を決めこむわけにもいきません。法然は弟子たちを集
めて自粛自戒を求め、弟子の法蓮房総信空に「七箇条制誠」を書かせました。これ
はいま読んでもなかなか考えさせるもので、「智慧がないのに好んで論争するな」
といったことが七箇条にわたって告げられています。「七箇条制誠」には190人
もの弟子が著名していて、なかには綽空(のもの親鸞)の名を確認することもでき
ます。
また、法然が阿弥陀仏ばかりを選んで神仏諸尊を軽んじている(無視している)
という非難も火の手にあがります。これまた法然は、比叡を守る神仏に誓約文(『
送山門起請丈』)を送って対決を避けています。
一方、興福寺のほうも黙ってはいなかった。元久二年(1205)、各宗の僧と
結託して「八同心」の訴状をつくり、六点にわたって法然とその一門を批判したの
です。八宗とは、奈良仏教の南部六宗(法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・
律宗)に平安仏教の天台宗と真言宗を加えたちのですから、新興勢力の法然浄土に
対して危機感を覚えた仏教保守集団が大同団結した、といっていいかもしれません。
結託して朝廷に訴えたのです。
解脱房貞慶による起草といわれる九箇条は、批判点としてはよくできている印象
を受けます。これを読むと法然思想の特色がかえって浮き出すところがあるので、
現在『興福寺奏状』として伝わる九箇条を次に掲げておきます。
①新宗を立てる失II勝手に浄上京を々りのっているではないか。
②新像を図す失上芯仏者のあいだで阿弥陀仏図に光明を描きこんでいるでは
ないか。
③釈尊を軽んじる失――釈尊が阿弥陀仏に名号を与えたのに、その釈尊につい
てちやんと言及していないではないか。
④万善を妨げる失――『法華経』の読誦に敬意を払っていないではないか。
⑤霊神に背く失――宗廟大社を憚らずに、ちゃんと呻を拝んでいないのではな
いか。
⑥浄土に暗き失――持戒や読誦によっても浄土に生まれうる可能性を摘んでし
⑦念仏を謝る失――観仏の重要性を無視しているのではないのか。
⑧釈衆を損じる失――賭博や女犯や肉食などの破戒を勧めているではないか。
⑨同士を乱す失――法然の言説では戒・定・慧の三学が廃れ、王法と仏法の衰
退を招くではないか。
なかなか当を得た批判です。念のため、すこし説明を加えておきますと、②の「
新像」とは「摂取不捨曼陀羅」といわれるもので、いまでは浄土宗や浄土真宗の仏
壇のなかでおなじみになっている阿弥陀如来立像の図のことです。
⑧で女犯が攻撃対象になっているのは、法然が女人往生の可能性を認めたためでし
た。じつは、これもまた法然が「編集」してみせた、日本仏教史上の重大な転換点
でした。
中世以来、日本仏教は女性を臓されたものとして見ていました。それを「五障三
従」という]語にあらわすことができるのですが、女性は梵天工・帝釈天・魔王・
転輪聖王・仏の五つになることはできず、劫くは父、嫁しては夫、老いては子、こ
の三つに従わなければならないとされたのです。しかし、仏になることができない
となりますと、女性が成仏することは適わないということです。そこで考えられた
のが、女性はまずもって男に生まれ変わる必要があるという咎え方です。これを『
変成男子』といいました。このように、仏教には女性に対してきわめて差別的な側
面があったのです。
しかし法然は、そんなことは阿弥陀の本願に示されていない、と主張した。法然
が説いた専修念仏の教えは、陰刻や職業はむろんのこと、件別も問わずに往生でき
る道だったのです。この「女人往生¨の可能性については、親鸞も同じ態度を引き
継ぎ、その思想を完成させました。ここでその中身に深く立ち入ることはしません
が、女性蔑視を脱した入間的仏教観が、汪然の専修念仏に萌芽していたことは強調
しておきたいと思います。
そのほかの『興福寺奏状』にあげられている批判点についてはふれませんが、い
ずれもかえって法然が「多重微妙選択」をしていたことを浮き彫りにします。法然
の専修念仏はこれらをバウンダリー(境界)すれすれで擦り抜けているのです。も
っと端的にいうのならば、選択本瀕とは、数多い仏教教説の境い目の真上に成立し
ていたものだったのです。だから「山」も[寺」もお前はどっちにいるのかと揺さ
ぶったのでした。
それでも去然自身はどんな批判にもめげることがないのです。そろそろ法然教団
としてのかっこうもつき、弟子も増えてきたので、本来ならば組織防衛のために反
論や反撃に出ても良い時期だったのですが、そういうこともしなかった。ただし、
廷は、「山」や「寺」からの要望となると、ある程度は聞き入れざるをえません。
そういう時代なのです。結局、法然には朝廷から宣旨が出され、厳重注意をうけて
しまいます。
それだけではありません。こういうときにはいろいろと不首尾がおこるもの、弟
子の法本房行空や安楽房遵西にちょっとした勇み足もあり、ついにはそこを突かれ
て、安楽が六条河原で処刑されるという最悪の事態にまで発展してしまいます。
弟子の不始末は、むろん法然にも及びます。建水二年(一二〇七)、法然を土佐に
配流するという宣旨が下りました。これが「建永の法難」です。このとき法然は
七五歳で、流罪にあたっては還俗させられ、なんと「藤井元彦」という俗名さえつ
けられてしまいました。まことに屈辱的だったことでしょう。法然の専修念仏はつ
いに停止されてしまいます。法然の強力な外適者であった九条兼実も、この前後に
亡くなってしまいます。
後鳥羽上皇が法然に帰洛を許すのは、やっと四年後のことでした。法然は建暦二
年(1222)の11月にようやく入洛して、東山大谷に落ち着きます。弟子たち
はこれでふたたび教団に力がみなぎるだろうと期待するのですが、大谷に入った
翌々月の1月25目、一段と声を高くして四時間の念仏を称えた法然は、『観無量
寿経』仏身観の一節をつぶやいて人滅します。八○歳でした。
浄上でつながる
専修念仏批判は、法然の入滅後にもやむことかありませんでした。じつに多くの
仏教者たちが、法然を論難しています。とりわけ有名なのが、公胤と明恵と日蓮に
よる批判です。
天台宗の公胤は『浄土決疑鈔』を著して、『興福寺奏状』における④と⑦に関連
する箇所を批判します。『法華経じを転読しても極楽浄土に生まれるはずなのに、
なぜ法然は大乗読誦を廃したのか、という批判です。
承安三年(1173)に生まれた明恵は、みずからが見た夢を記録した『夢記』
でも知られる華厳宗数個です。私は大フアンでした。ところが、その一方で明恵は
厳格な戒律を守りぬく理想主義的な修行僧でもあったため、釈迦への回帰こそをモ
ットーとしていましたから、どうにも曲がったことが許せないところがありました。
明恵にとっては、阿弥陀の絶対他力を拒じてて心に念仏をするなどという法然の「
易」を、そのまま看過することはできなかったのです。
法然の死語になりますが明恵は『催邪輪』を著して専修念仏を避難します。主だ
った論点は、法然は菩提心を忘れているのではないか、聖道門の僧たちを群賊に特
えるようなことはしてはいけない、そういうことをするのは邪心があるからだとい
うものです。
これはこれで、まともなクリテfックだと思います。しかし、法然がそのように
既存仏教の教義を批判してきたわけではないことは、これまで何度も確認してきた
とおりです。この両者の対婉は、彼岸に生きようとする法然、現匪に生きようとす
る明恵、といった対比に置き換えることができますが、両者の主張を比較検証した
いのならば、町田宗鳳さんの「法然対明恵――鎌倉仏教の宗教対決』(講談社選書
メチユ)を読むといいでしょう。
一方、「法華経』に帰依した日蓮の場合は、なにも法然のみを批判したわけでは
ありません。当時の浄土宗も禅宗も真言布教も律宗も、すべてを痛烈に非難したの
です。それが「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という、たいへんユニーク
な弾劾キャッチフレーズにあらわれています。それにしても、これほど巧みな比喩
はなかなか思いつきません。日蓮の独創が、天下のの宗派に向かって咆吼している
という感じがします。
念のため、その日蓮が法然のどこを問題にしたのかというと、大きいところでい
えば二点です。まずは、もっと「法華経しを学習しなさい、国を教うのは念仏なん
かではなくて『法華経』である、ということです。もうひとつは、浄土は穢土と地
続きの娑婆から寂光土に移るプロセスそのものにあるのだから、ピカピカの阿弥陀
さんが君臨する極楽浄土なんてものは幻想だというものでした。いささか意地悪に
みれば、これもまたある程度は当たっているところがあります。
しかし何度も言うようですが、法外はその上うなクリティック・リアルなところ
にはいないのです。目本の匡救は古代以来、現世主流あるいは現伊利益王族にその
特色を広げていきましたが、法然は鎌倉時代の発端にいながらも、そういうリアリ
ズムの地平には立たなかったのです。法外にリアリズムがあったとすれば、それは
当初からハイバーリアルなもので、いわけ政庁のリアリズムです。
ですから、初期の法外の念仏集団も、心ずしもリアルな数回ではなかったと見る
べきだと思います。法然の弟了たちは届犬を一人ひとりのネヅトワーカーとする
上うな結衆、すなわち念仏聖や念仏衆によっているのであり、集団にとって何か紐
帯だったのかといえば、そこにある阿弥陀一仏信仰だけなのです。法然の集団に「
つながり」があるとすれば、それは彼岸の浄土においてこそアクチムアルにつなが
っているのです。
それゆえ念仏衆たちはたんに地域ごとに区分けされて、白河門徒、紫野門徒、嵯
弥陀の「阿」の字がつけられることはありました。藤原定家は、その日記『明月記』
のなかで「近年天下に空阿弥陀仏と称する者あり。件の僧、党類を結び、多くの檀
越を集か。天下の貴賤争って結縁す」などと記しています。
でも、こういう法然の選択感覚と紐帯感覚こそが、生前は重源・九条兼実・慈円・
熊谷直実らの理解を坪び、証空・弁長・親鸞・長雨・湛空らをその門下に輩出させ
たのです。のちのことになりますが、一遍の「踊念仏」が派生したのも、ここから
でした。
多重な相互選択
ただ一心に「南無阿弥陀仏」と弥えれば、往生が約束される――。
私が本橋の冒頭で掲げたこの一文は、法然かたどり着いた教えをあらわすのに必
要十分な∵又であると思います。しかしそれほどまでにシンプルに姥える教義が成
立した背景には、混沌に満ちた末法の世があり、父の時国の死があり、膨大な読書
経験があり、法然の編集力があったわけです。その編集力のことを、法然は「選択」
という二百に代表させたのです。
それについては、『選択本願念仏集じの第よハ砂において、三つの経典からのだい
へん興味ぶかい「選択」が引かれています。よくよく私の説明文を読んでいただ
くとわかるように、これらは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』からの鏡像
的な選抜になっているのです。
『無量寿経』
①選択本願――法蔵比丘がかつて選択していた選択
②選択讃嘆――釈尊が念仏を讃じたという選択
③選択留教――その選択を削めておくという選択
『観無量寿経』
①選択摂取――阿弥陀仏が衆生を選んでいるという選択
②選択化讃――その選んだ衆生を阿弥陀仏が選ぶという選択
③選択付属――それを後世にまで選択をのこすという選択
『阿弥陀仏教』
①選択証誠――選択されたものが証明されるという選択
②選択我名――阿弥陀仏が「わたしを選択したのですね」と言っているという選択
八つにわたる選択です。まことにもって複雑絶妙な選択の相互作用です。とくに
阿弥陀仏をめぐっての「選択するもの」と「選択されるもの」の相互鏡像関係が絶
妙です。阿弥陀仏が衆生を選び、その衆生が阿弥陀仏を選んでいるというその関係
そのものが、未来的に選択されているわけですが、その阿弥陀仏をして「私を選択
したのですね」と言わしめている無数の凡夫としての「南無阿弥陀仏」が、そこに
またまた全対応しているという、多重相互選択作用なのです。
この阿弥陀をめぐる多重相互選択作用をあれこれ感じていると、従来の法然研究
に、法然の専修念仏は日本古来の多神多仏を排しているのはなぜか、阿弥陀一仏信
仰にしたのはなぜかという指摘があるのですが、そういう問題の立て方が挟すぎる
とも思えてきます。
というのもこの問題は、多神多仏の目本に阿弥陀数ともいうべき一神教が生まれ
たのはなぜなのかということになるのですが、法然の阿弥陀信仰は、宗教学にいう
一神数的信仰ではなくて、そもそもがずっと多様で多重な相互選択的なものだった
と思えるからでした。それは一神数的なるものを日本で宛生させたということを意
味するのではないのです。
私は法然に、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教に比肩するようか一神教性を見
いだせないのです。法然は、複合的で複写的な選択インターフェースの多重性にお
いて、何かの多様性をしきりに見ようとしてきたと考えたい。きっと、法然は「そ
れ」を選択した人ではなく、「そこ」へ選択していくパサージュ(通路)を用意し
た人だったのです。
親鸞と空也
最後に、語りのこした二つのことに少々よれておきたいと思います。ひとつは法
然のあとの親鸞のことですが、親鸞の「悪大正機説」はすでに法然に発していたと
いうことです。
もともと『選択本願念仏集』の第一言縦は、「極悪最下の人のために極善最上の
法を説く」という内容になっています。そればかりか「三心料簡および御法語』に
は、次のようにありました。「参入なおもて往生す、況や恋人をやの事。私にいう。
弥陀本願は自力を以て生死を離るべくに方便あり、舌人のためにおこし給わず。極
重悪人無他方便の輩を哀んでおこし給えり」と。
これらを見ると、法然の仏教は早くか「悪人成仏」を唱えていたといえますし、
私は親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も、おそらく法然が発
していたした言葉を親鸞が書きとめたか、憶えていたのだろうと思うのです。
もうひとつは法然の前の空也のことです。空也は「市聖」とも「阿弥陀聖」とも
呼ばれた日本最初の念仏ネットワーカ一です。それだけではなく、まだわからない
ことがたくさんあるのですが、容行の実践、阿弥陀一仏仁仰の先駆、「南無阿弥陀
仏」の唱導、他力の提唱など、法然のプレモデルとしての活働かさまざまに特色さ
れるのです。空也は法然より230年も前の聖ですから、空也のことがもっとあき
らかになってくれば、その後の源信から法然に及んだ念仏重視の浄土信仰の実態が
見えてくるとも予想されるのです。
いずれにしても、法然の前の空也のこと、法然の後の親鸞のこと、私もさらに追
慕して「編集」しなければならないと思っています。
この項つづく