大きな疑似帝国をつくった遺産を日本株式会社のなかに入れ込もうとして、
地域にひそんでいる人たちの登場を阻んでいた感じがあります。
松岡正剛 『法然の編集力』
【最新蓄電池安全工学】
●熱暴走ストッパーリチウムイオン二次電池の開発
スタンフォード大学の研究は、それが過熱する前に自動的に遮断し、それが冷えたら即座に再起
動し、リチウムイオン電池を開発。シンプルなアドオン既存のバッテリー技術には、ノートパソ
コンなどの電子機器のバッテリ火災を防ぐことができる。「キルスイッチ」、または、独自にリ
セットヒューズボックスの「トリップスイッチ」機能技術のが自動的に働く。スタンフォードの
バッテリーは、自動停止し、パフォーマンスを損なうことなく、加熱と冷却の繰り返しサイクル
をやり直すことができる世界初のデザインとなっている。
スパイク状ニッケルナノ粒子をグラフェンでコーティングした粒子は、電池用電極の一方に取り
付けた弾性ポリエチレンフィルムで包埋し、フィルム中のナノ粒子が互いに物理的に接触状態で
電流が流れる。バッテリーが70℃まで加熱されると、ポリエチレンフィルムが伸びとバルーン
の皮膚のよう状態変化が起き、バッテリーをシャットダウンさせる(下図委クリック)。その後
すぐにバッテリー温度が70℃を下回ると、フィルムが収縮し、粒子が、現在は再び流れ始める
気候である。
また、フィルム上にナノ粒子の数を任意にあえることで、またはポリマー材料の別の種類を選択
することで、必要に応じて温度閾値を上昇または低下できる。
doi:10.1038/nenergy.2015.9
● 無指向性ソーラーパネルの登場
サウジアラビア科学技術のアブドラ国王大学(KAUST)と台湾の国立中央大学からの電気技術
者の研究グループは、シリコン太陽電池のためのコーティング材――溶融シリカ包装ガラスを
昨年12月に開発。ガラスコーティングは、小型、超薄ナノロッド及び材料に統合大きなハニ
カム状ナノウォールの階層構造を備えナノウォールの効率的な散乱能力と組み合わせたナノロ
ッドのサブ波長機能は、光の角度に応じて、任意の場所の間で5.2と27.7パーセントの強
化変換効率の実績を得ている。さらに、複数の角度で光閉じ込め能力に加え、ガラス表面のセ
ルフクリーニング機能をもつ――屋外の6週間後の98.8の変換効率の維持し、ほこりなどの
汚れを除去することを確認している。類似の特許出願も多数あり、後は、コストなどを含めた
試用評価の実績データ比較だけとなる。
DOI: 10.1021/acsnano.5b05564
● 折々の読書 『法然の編集力』 10 松岡 正剛 著
第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳
辺境から生まれる希望
松岡―― 一方、能囚法師とか西行法師とか芭蕉たちは、白河の関を越えるたびに世界観を
変えています。「陸奥」の入り口にも何か折り返し点に近いものがあります。能因や西行や
芭蕉はそれをしないと「日本」はわからないと思ったんでしょう。あそこへ行って戻ってく
れば何かが見えてくるという目本の歴史的な阻型をあらわしているように思います。『おく
のほそ道』はそのサークル・アーキタイプだったのでしょうね。辺境の地に行って力を得る
ということですね。
町田――私は、日本の希望はつねにマージナル(周縁的)なところから生じると考えていま
す。それが中央にやって来ては、主流となる。しかし、それが時間とともに固定した権力に
なっていくと、また辺境に希望が生まれる。この繰り返しがあるのではないでしょうか。
法然さんもすごくマージナルな人で、彼は美作(岡山県)の出身です。岡山といえば、いま
でも不便なところがありますが、平安末期の美作などといったら辺境の地だったのではない
でしょうか。そこの新興武士の嫡男として比叡山に来たわけですから、こんなのは本当にマ
ージナルな人間ですよ。しかし、だからこそ彼はのちに革新的な思想を生み出すことができ
た。親鸞さんも下級貴族の出ですね。つまり、画期的な思想を生み出す人は、自分という人
間をメインストリームではなしに、マージナルな位置に置いていた人であると私は理解して
いるんです。
松岡――岡山というのは興味ぶかいところです。法然以降の歴史を見ても、宮本式蔵がやは
り岡山ですね。柳田国男は県からすると兵庫生まれですが、備前の国に強い関心をもってい
た。法然上人、宮本武蔵、柳田岡男を一挙に語るためにはいろいろ説明が必要ですけれども、
やはり共通点を見ることはできるはずです。
武蔵は刀が使えない社会に向かっていって、革新的な武道を作りあげた。その後は柳生時
代ですから、将軍家の指南役にならざるをえない。そのために、日本で本当に相手を役さな
い武道の型を生んでいく、その原型です。
子ども時代の柳田は近くのお寺で地獄絵を見て、あんなに怖いものはないということで日
本の闇の底辺というものを感じた。その一方で、遠野に行って佐々木喜善から土の奥から語
られたような物語を聞き出して、農商務省の役人でありながら辺境の民俗学を徹底的につく
っていく。法然という人の系譜は、こういう人たちのなかにもすこし感じます。
町田――岡山というのは不思議な場所で、黒住教や金光教など新宗教の発祥の地でもあるし、
臨済宗の栄西も岡山の出身です。いろんな精神的なリーダーが岡山から出ています。
松岡――日本の民蕎運動は柳宗悦たちによって準備されますが、その理論のルーツは、岡山
の金重一族という備前焼の名門にあります。富本憲吉やバーナード・リーチもそうですが、
かれらは金重家で研究されていた釉薬や土などのアーカイブや技術を学んでめざめるんです
ね。岡山という土地はマージナルであるとはいえ、やはり何かがひそんでいる。
町田―― 一見したところ山国ですけれども、かつては吉備王国があった場所で、吉備真備
や和気清麻呂のような文化人も出ています。帰化人もたくさんいたはずですし、文化度はか
なり高かったと思います。
松岡――吉備王朝はさっきの出雲王朝とつながっていたかもしれませんしね。
町田――そのとおりです。私の持論は、かつての目本には各地に数箇所の朝廷(王国)があ
って、それがだんだんと淘汰されて大和朝廷に統合されていった、というものです。日本の
各地にはかなりハイレベルな文化が花咲いていたはずです。
そこで私が期待しているのは、かつて明治維新のうねりが薩摩・長州・土佐の下級武士た
ちからおきてきたように、現在の東京一極集中の中央集権国家のなかで、新しい政治や産業
の動きがマージナルなところから出てくることです。
松岡――日本にはマージナルな人間が活躍する伝統がずうっとありましたからね。そう考え
ると、戦後の日本で辺境の人々があまり立ち上がってこなかったのは大きな謎です。ひとつ
考えられるのは、戦前に満州帝国という大きなマルチ帝国に日本の関心が移ってしまったせ
いかもしれませんが。その後の歴史を見ても、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、小泉純一郎まで
その系譜が引きずられてきたわけですから、何かを満州が呑みこんだのかもしれない。大き
な疑似帝国をつくった遺産を日本株式会社のなかに入れ込もうとして、地域にひそんでいる
人たちの登場を阻んでいた感じがあります。
町田――おっしやるとおりで、こんな中史集権国家はかりそめですよ。東大に来て政府の中
枢に入るような人や官僚になる人は、じつは地方出身の人が多いはずなんですが、彼らはメ
カニズムとしての東京に呑みこまれてしまっている。霞ヶ関や永田町に入るとすべてが変わ
ってしまうのでしょ。
玉桂寺
松岡――冒頭から法然が置いてけぼりのようになっていました。いま町田さんが言われた「
辺境」というキーワードとからめながら、そろそろ法然さんのことを考えてみたいと思いま
す。1989年、滋賀県の甲賀郡にある玉桂寺の阿弥陀像胎内から、源智の願文と、それに
結縁した4万6000人の名簿が出てきました。源智というと、法然の側近中の側近ですね。
その名簿のなかに、「エソ370人」と書かれた箇所がありました。その「エソ」というの
が何を意味するのかはまだ確定されていませんが、研究者はだいたい東北の「蝦夷」のこと
だろうと推測しています。
源智がこの願文を書いて阿弥陀像の胎内に納めたのは、法然が亡くなってまもないころとい
うことはわかっています。となると、法然‐に人が生きておられた時代に、蝦夷の東北の人
たちのところまで浄上牧の信仰が広がっていたか、あるいは京都や近江まで蝦夷の人たちが
来ていたということになる。ちなみに、ここでいう蝦実とは、アイヌという意味ではありま
せん。当時の蝦夷というのは、ほとんど販北や陸奥住民のことです。
いずれにせよ、法然の周辺に東北蝦夷の人たちが関ゲしていたとなると、これは画期的なこ
とです。法然のまわりには外側から辺境の民が集まってきている印象を強くもちます。
町田――それが事実ならすごいことです。というのも、奈良・平安の仏教では、救いのサー
クルに入れたのはほんとうに選ばれた人たち、それこそ朝廷の公卿とか貴族だけだった。そ
れを一気に崩してしまったところに法然さんの革命性がある。男でも女でも「10は10人
ながら、百人は、百人ながら往生す」と言ってしまったわけですから。
法然さんの存命中に、東北の地まで専修念仏の輪が広がっていたかどうかは判断がつきま
せん。しかし、もし蝦夷といわれるような人たちにまで法然の教えが浸透していたのなら、
これは画期的なことです。それまでの彼らは仏教にふれたこともなく、土着のアニミズム的
な信仰をもっていたわけですからね。
松岡――浄上教と辺境という点でいえば、越後に配流された親鸞は、常陸へとおりて東国一
帯に布教していますね。親鸞が京都に戻るのはそれから数十年もたってからのことですから、
それまでは北関東や東北あたりでも苦行していたと思われます。つまり、浄土宗や浄土真宗
は辺境の民々やいろいろ蔑まれたような人々のなかにも、ものすごい勢いで入っていったの
ではないでしょうか。
町田――教えがそれほど単純なんです。仏典を読みなさいとか戒律を保ちなさいということ
を条件にしていない「南無阿弥陀仏」という六字の々名号をたった一遍でも称えれば極楽へ
行けますよ、という単純明快なものですから、それまで仏教の「ぷ」の字も知らなかった山
岳民族でも「あれっ」と思ったのでしょうね。
仏教の土着化
松岡――それでは、そろそろ本格的に法然の話へと移りたいのですが、冒頭にあったお話に
あった文明史の視点、あるいは「文化の祖型」という観点を転用しながら話をすすめましょ
う。
法然は、善導の浄土論から阿弥陀仏の第十八願のところを「選択」しました。ですから、
阿弥陀一仏を信仰するという教えになっている。しかし、そこにはたいへん難しい間題がひ
そんでいます。すなわち、日本宗教史のなかで浄土宗は一神教を立てたのかという議論です。
日本の宗教や信仰観念は多神多仏で、神仏習合的なのですが、浄土宗の阿弥陀信仰は、ユダ
ヤ教、カトリック、イスラム教などと同じようにづ即数的であると指摘する向きもある。こ
の問題については第一部の論考ですこし論じたのですが、私は浄土宗が一神教を立てたとは
考えません。とはいえ、なかなかややこしい議論であることに変わりはないと思います。町
田さんは、法然の研究者という立場から、どういうように見られますか。
町田――私はかつてハーバード大学の神学部にいたのですが、あの大学の神学者たちは浄土
教、とくに親鸞が大好きなんですね。なぜかといえば、おっしやるようにかなり一神数的な
性格をもっているからです。キリスト教と兄弟たくらいに思うのでしょう。私が学生のころ、
親鸞にすごく興味をもって日本に行ったという教授が何人もいましたが、残念ながら法然さ
んについての知識はあまりもちあわせていませんでした。英語による法然研究書がなかった
ことが原因ですが。
松岡――蓮如の時代には一向衆が政治的な力を発揮しましたね。一向一揆が頻繁におきると
いうことは、かなりフアンダメンタリズム(原理主義)的な信仰形態でもあったということ
になるわけですか。
町田――ええ、浄土教の一神教的な要素が政冶化したのが一向一揆という現象です。東西を
問わず、一神教には権力闘争に変容していく歴史的必然性があると思います。
ところで私が法然さんのどこをいちばん買うかというと.、彼のイマジネーションなんで
す。聖徳太子から彼に至るまでの六百年には、ひとつの仏教神話があった。八正道を守って
三宝を篤く教えば救われるという神話が、ちやんとつくられていたのです。それはかなり原
始仏典にもとづいた仏教のオーソドックスな教えです。
ところが、12世紀末に法然が単身登場してきて、その神話を壊してしまった。戒律はい
りません、三宝を敬う必要もありません、自分で声に出して,南無阿弥陀仏」と称えれば浄
土に行けますよという教えです。言ってみれば、新しい神話をつくってしまった。神話をつ
くる力とは、彼のイマジネーションによるところが大きいわけです。
比叡山時代の法然は「智慧第一の法然坊」といわれていたくらい聡明な人間で、一切経は
五回読んだと自分でも言っているくらい、とにかく膨大な知識をもっている。その膨大な知
識にもとづきつつも、だんだんと狭めていって善導に収束していった。しかも、善導のなか
で「摂取不捨」のところだけをぱっと引き出してくる。これは天才的な「誤解」であり「曲
解」ですよ。それで日本の宗教を変えてしまったわけだから、払はすごいイマジネーション
のもち主だと思っています。
松岡――そう、そのとおりです。私はそれを「法然の編集力」だと見て、そのプロセスやエ
ディティングの方法をいろいろ調べてみました。しかし、多仲冬仏という日本的な風土のな
かであえて一神数的なファンダメンタルなものをつくりえたというのも、そのイマジネーシ
ョンによるものなのでしょうか。
町田――それは社会状況もあると思います。保元の乱やダ冶の乱あたりに、社会が本当に混
乱した。それこそ都が現在の三陸海岸のような状況だった。その後も善和の大飢饉があるし、
台風、大火、疫病と、次々に天災がやってきた。
松岡――そして末法も始まっている。
町田――そう。ほとんど理屈も通らないような吐会状況だったから、どうしても一神数的な
表現をせざるをえなかったと思います。
しかしだからこそ、私は法然が本当の意昧での仏教の日本化、土着化を成しえたと思って
います。仏教以前の日本人にあったのは、水中他他界観あるいは山中他観です。死ぬと誰で
も常世に行く。それは山のあなたかもしれないし海のあなたかもしれないけれど、いずれに
せよ常世に行って帰ってくる。縄文時代の遺跡を発振すると、亡くなった人はみな浅く埋め
られていて、胎児のように屈葬されています。つまり、常世に行ってすぐ帰ってくることを
期待しているのです。そして、そこでは生前の倫理的資質をいっさい問題にしていない。そ
いつが悪者だったか善人だったかを間わずに、人は死ぬと常世に行って帰ってくるという単
純な往来です。
法然さんは、この縄文時代以漱の他県政を仏数のなかに収り込んだという見方ができる。
先祖返りです。仏教において「往生」や「成仏」は一般条件づけされましたが、その条件を
取っ払ってしまったような面がある。
松岡――それもなかなか興味深いですね。その後の南都六宗や中国仏教や密教によって「死」
がいろいろと理論化されたけれども、縄文的な日本人の他界観がもう一度法然さんによって
示された、と。浄土数のなかに、屈葬からそのまま常世に行けるような縄文的感覚を見いだすのは
おもしろい。法然は善導から「散善」を選ぶことを学んでいますね。「定善」を捨てた。こ
れはまさに屈葬的ですね。なにかうまくいっていない大にも浄土が近づくという、ある意味
では底辺的で先祖返りの思想です。稲作的ではなく、縄文的なものがある。
町田――狩猟棟梁長旅がもっていた他界観と同じですよね。私がいつも感心するのは、「人
はとこで死ぬかわからん」という法然さんの言葉です。大通りで早馬にはねられて死ぬかも
しれない。あるいは便所の中で死ぬかもしれない。昔でも脳や中とか脳梗塞はあったはずだ
からそういう病気でとつぜん死ぬかもしれない。でも、そんなことは関係ないんだ、と言い
切ってしまっている。すごいことですよ。
松岡――念仏するときに口が臭くてもいいでしょうかと尋ねられて、そんなことはしようが
ない、というようなことも何度か言ってますよ値。ニラを食べて念仏したらだめでしょうか
と聞くと、いやそんなことはない、とも答える。私は法然が自分を含めた信仰の原点を「乱
想の凡夫」として立ち上げたことはとても大きかったと思うのですが、これは散善の思想の
根底ですね。
町田――法然という人はすごいブラグマティストなんです。けっして理想主義者ではない。
私からしたら道元さんがまさに理想主義者で、現実からち上っと癩離している。よほどの好
き者でなければ、永平寺に入って何年も座禅を続けることはできないと思います。ところが
法然さんは、一般の飢え阿しんでいる人でも実践できる仏教をある意味「発明」した。たし
かにその種は善導にあったけれど、じつは善導の思想というのは中国ではそれほど広がらな
かった。
松岡――あまり読まれてもいなかった。それはどうしてだと思いますか。
町田――中国が、強固な官僚制にもとづく階級社会だったからでしょうね。それと、日本み
たいに黄泉の国に行って帰ってくるという、ある意味では単純な他界政がなかった。中国の
死生観には儒教がかなり深くからんでいるから、ご先阻とか家族の阻害を篤く供養しないと
良いところへは行けない、という考えがあるのです。
松岡――水平的な他県政をもたない、とも言えますね。道教ですら仙界が他界ですよね。こ
れもやはり水平ではない。
町田――ええ。だから、浄土教が花開くための文化的土壌として日本は最適の場所だった。
材料は善導が用意してくれたけれども、その教えをいいとこどりして日本の土に種をまいた
のが法然なのです。
この項つづく
これまたスケールの大きいオフロードキャンピングカーである。さてどのように使うか?考える
だけでもわくわくする一品だ。
●
スリーディープリンタの組み立ても残すところ2、3週間となったが、今回の部品組み立ての不
具合――ネジ穴のサイズが小さすぎて慎重に組み立ていったんは完成したかのようにみえたが―
―最後の最後で破損してしまった。すぐさまサポートセンターに電話すると、設計ミスで申し訳
ないが改良部品送るということだった。これで2回目だ。「信用が崩れるのは一瞬」だとはこれ
までの体験から肌身に刻まれているが、「仏の顔も三度まで」のアフターケアーであることも学
んできたことだが、数時間これでロスすることになる。わたしの時間単価は高いんだからねぇ~。
知っていて欲しいんだから?^^;。