山を越え、野を越え、牛と私は村里の近くにきた。今まで雲に覆われた月も、そのまろ
やかな姿を雲の間から見せ始めた。牛はおとなしくなり、私は牛の背の上で心も軽く、
歌を歌ったのである。楽しきかな人生である。
「騎牛帰家」(『十牛図』)
● 折々の読書 『法然の編集力』 13 松岡 正剛 著
第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳
「悪人」とは誰か
松岡――さて、ここでふたたび法然さんに戻ってお話ししたいことがあります。まずは「悪」
についてです。よく親鸞が悪大正概説を説いたといわれていますが、これはあきらかに法然の
ほうが先に言っていることですね。それでは、いったい法然によって何が「悪」と見られるよ
うになって、それを現代でどう継ぐべきなのか。まずはそのあたりから町田さんのお考えをお
聞かせください。
町田――勘違いされている方も多いようですが、悪人正機説における「悪人」というのは、何
か倫理的に悪いことをした大という意味ではありません。自分の中の「悪」に気がついた大の
ことを「恋人」というのです。
信仰のなかに「恋」を取り入れることは、一神教にはないものです。たとえば、キリスト教
信仰の中心にあるのは、父と于と聖霊を.休猷するハ泣.体説ですが、サタンという存在はこ
の三位一体から疎外されているから、キリスト教には-悪にの居場所かおりません。
ところが、ユングに言わせればそれは間違いで、同位.体こそが正しいとド張します。三角形
ではなくダイヤモンド型ですね。この理解において、神は,完璧なる存在」ではなくて「完全
なる存在」です。パーフェクションではなくコンブリージョン。そうすると悪は陣の一部とな
るので、これを疎外してはいけない。
松岡――ドストエフスキーなどは気がついていましたね。
町田――そうそう。ユングは臨床セラビストとしてそのことに気がついた。人間の意識と無意
識の分裂が精神不安定を呼ぶのだから、意識と無意識の統合が精神を安定させるし、そこで、
はじめて全人性というものが出てくると指摘した。となると、ダイヤモンドのド半分の三角形
のサタンの部分が無意識の領域なので、これを無現したり抑圧してはいけない。これは心理学
的には臨床からあきらかなことだ、と。ところが、キリスト教はいまだにLヤ分の三角形が善
であり光の世界だといっている。これに対してユングは、闇の世界も当然あるわけだから、こ
れを信仰のなかに取り込むべきだと言ったわけです。
私はここからヒントをもらって、法然や親鸞が言った「悪人」というのは、ダイヤモンド全
体を白分のなかに見ている人のことだと解釈した。親鸞はみずからのことを「蛇蝸のごとくな
り」と言ったけれども、彼は自分のなかに潜むサタンをちゃんと貼ている。そういう自分かい
て、どうしようもないものと思い、業の深さを感じる。そこに気がつかないと、「悪」を抱え
る自分でも救ってくださる阿弥陀さんがおられるという信仰の世界には入っていけないはずで
す。この自覚ができる人のことを「悪人にとよぶのです。だから、みずからを善良な人間、親
切な人間、嘘をつかない人間だとjっている人は、自分という人間を上半分の三角形のなかで
皮相な自己理解をするしかできない人だと思います。
松岡――その「悪」の理解は刺激的ですね。私も日本における「悪]は[過ぎたるもの」とい
う意昧だったと見ています。トウー・マッチです。この時代の「悪」とか[悪人」は、憎々し
いとか憎むという使い方くらいなのに、そのトウー・マッチな「悪」というカテゴリーを信仰
のなかに入れてしまったというのは画期的です。
町田――法然という人は「悪」というものを徹底的に見つめました。それはもちろん、自分の
なかの「悪」だけではなかったでしょう。彼の生きた時代は、人間の「悪」が露骨に出ている
時代だった。目の前で殺し合いをしている、路上で強姦もしている、そんな光景を毎日のよう
に見ていたわけですから、このとてつもない光景が救われるためにはどうしたらいいのかと徹
底的に考えることができた。
その思索の末にたどり着いたのが悪人正機説ですから、これは一神教を信じる人たちにもぜひ
聞いていただきたい。彼らは、信仰のなかに「悪」をもたない、いい換えれば、信仰をもつ者
はみな善人だと考えている。そうすると、このすばらしい信仰を共有しないやつはサタンだか
ら、原爆を落としてもいいとかミサイルをぶち込んでもいいという発想ないんです。
松岡――「悪」が敵になってしまう。
町田――仮怨敵をつくって攻撃する、そして軍事力や経済力を高めていく。これが近代文明の
本質ですからね。なので、もし文明のパラダイム・シフトがあるならば、まさに「悪人」を取
り込むようなコミュニティをつくっていく必要がある。
松岡――おっしやるように、キリスト教において[悪」が下半分に隠されてしまっていて、き
っちりと信仰のなかに組み込まれなかったのは大きな問題ですね。だからドストエフスキーや
メルヴィルやトーマス・マンのような天文学も出てきたのですが、ところが、そこでもうひと
つ問題になってくるのは、「悪」が行為として裁かれる対象になってしまっていることです。
仏教では「悪人」であるかどうかは、カルマとしての「悪」をどう感じるかが問題になってい
ます。誰にでもあるものが、いまは自分のところにやってきて宿ってしまった。そういう「悪
」ですから、必ずしも行為としての「悪」、裁かれる[悪」であるとはかぎらないのです。悪
人正機説という独自の思想が生まれた理由は、ここにあるような気がします。
町田――そのとおりです。しかし、本来はキリスト教だってそういうものだったかもしれない。
キリスト教には、群衆が姦淫を犯した女性を.石打ちの刑にしようしているところにイエスが
やってきて、「このなかで罪のない人から彼女に石を役げなさい」という話がありますね。そ
の言葉を間いた群衆がひとり去り、またひとり去り、ついにはだれも石を投げることができな
かった。そしてイエスは黙って地面の砂に字を書いた、という話です。ここからもあきらかな
ように、やはり、イエスという人は自分の罪に気がついていた。姦淫を犯した女性と同じだけ
の罪と弱さを自分の中に見つめてきた。だからこそ彼女を裁けないのです。
松岡――ところが、その後の歴史を見るとそうではないですね。政治的な都合で宗教会議と異
異端裁判をやりすぎた。やはり法然が「善」と「悪」を同質的にとらえたことは、世界の宗教
史上でもきわめて画期的なことでした。そもそも日本における「善知識」とか「善」というの
はヨーロッパ的な「善」や「悪」とはちがってきますね。「善」と「ブッドネス」とば意味合
いがちがってきますね。「善」と「グッドネス」では意味合いがちがう。さきほどのダイヤモ
ンドでいえば、仏教における「善」は三角形ではなく、もうすこしネットワーク的な広がりを
もっているように思います。
町田――倫理的な「善」とはすこし異なります。「善知識」というのはサンスクリット語の直
訳だったと思いますが、プラジョーナ(智慧)に目覚めた人という意味に近いでしょうか。
松岡――法然は『一紙小消息』のなかで「罪人なお生まれる況や善人をや」と言っています。
この「罪人」というのも、おそらく当時は「悪」と結びついていたのでしょうね。
町田――自分のなかのカルマに気づいた人と、実際に非を犯した人。二重の意味があったと思
もうひとつ、法然思想から現代に継ぎたいのは[死」についての思想です。法然は死近代に生
きるわれわれは、生物学的な個体生命だけが命であると考えていますね。脳いますね。当時は
人殺しや盗みが横行していた時代ですから、そういった非を犯した人も少なくなかった。しか
し、罪人であっても本当に心底から恨悔して、つまり自分の「悪」に気づいて、「南無阿弥陀
仏」とさえ称えれば、阿弥陀さんは捨てませんよ、と。そういうメッセージもあったはずです。
仏教における死
松岡――もうひとつ、法然思想から現代に継ぎたいのは「死」ついての思想です。法然は死を
いかに扱ったのか。あるいは、これから再統合される仏教のなかでどう扱えばいいのか。仏教
における死、日本人と死はどうなっているのかを考えたい。
法然の時代には「類の死」を「個の死」によって乗り超えたり、いちいち「類の死」を問題
にせずに、個の念仏から往生という死の対比がつくられた。そして、3・11という未曽有の
大災害で、日本人はふたたび「類の死」と[個の死」を同時につきつけられた。やはり「悟り
の仏教」に対して「救いの仏教」というものが必要とされるのでしょう。
町田――近代に生きるわれわれは、生物学的な個体生命だけが命であると考えています。脳死
の問題はその典聖で、かなりプラグマティックな生命の理解しかしていない。そうすると、先
端医療が発達してきたら、長生きさせるために何をしてもいいということになってしまう。し
かし、仏教はそうではありません。仏教はつねに永遠を見ているわけだから、人間の生死には
関係ない。法然さんが本当にしつこく口癖のように使う言葉に「生死を離る」とうものがあり
ます。人間が生きるとか死ぬとかはあまり問題ではない。さきほども言ったようにトイレで死
んでもいい、人通りで死んでもいい、みんな永遠の命に還っていくのだ、という感覚をもって
いた。
ギリシャ語のビオスとゾーエという言葉を使って説明すると、さらにわかりやすい。ビオス
は個体生命です。お数珠でいえば一粒一粒がピオスで、つないでいる糸がゾーエです。近代で
はこのビオスしか見なくなっているから、この粒が死んだら終わりだということになってしま
う。けれどもゾーエを見てていたら、一粒が二十で死んでもいい、百歳で死んでもいい、なぜ
ならみんなが同じところに還るのだから、と思えてくる。宇宙生命的な空間に戻っていくわけ
です。仏教にはそういう安心感がある。これをもっと科学的に論じられたらいいと思いますね。
松岡――「メメント・モリ」のような言葉もありますが、西洋では死は敗北や敗走とされます
ね。だから、死生観が生と死においてつながっていない。切れている。仏教のいいところは、
生もつながっているし死もつながっているところです。弘法大師が「秘蔵宝鏡」に残した言葉
に、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わり
に冥し」というものがあります。生と死は数珠のようにつながっている、と。ここが仏教の
重要なところです。この死生観がまさに教いです。
町田――私がよく言うことですが、西洋における理想的な人間は聖人です。道徳的にまった
く傷がなく、独身で、神に近いような高いところで崇め奉られる人のことです。ところが、
東洋の理想的人間像は[十牛図」に出てくるような痴聖人です。「やまいだれ」の付いた「
痴]です。教養があるかどうか、修行したかどうかもわからない、それでいて安心立命の世
界に生きているような普通のおじちゃん、おばちゃん。ここでもやはりゾーエ的な生命を直
観している。
松岡――手ぶらのすごさみたいなところがありますね。
町田――そうです。この「痴」があるかないかは大きなちがいで、これもわれわれが強く発
信していかなければいけない。
私は「十牛図」の英語版をつねに持ち歩いていて、イスラム圈でもよく見せるんです。あな
たたちは「アッラーは偉大なり」と言い続けて、ずっとコーランを読んでいる。だけど失礼
ですが、アッラーというのは「十牛図」における牛ではないのですか、あなたたちは牛を追
いかけているだけでしょう、と。しかし、牛は第六図までで消えてしまう。第七図の「忘牛
存人」ではもう人間の主体性だけで、第八図の「人牛倶忘」になると、牛も人もいない「空
」の世界になっている。第九図の「返本還源」では、梅の枝が描いてあるだけです。ここま
できて宗教を論じてくれないと、説得力をもたない。うちの牛がいちばん大きくて、色艶が
いいと言っているけれど、それは本来、第六図で消えてしようべきものです。
松岡――それがきょうの結論かな。討談のい目頭では、日本の文化の阻個は「追放と復活」
にあって、福島原発の事故がその折り返し点になるというた発言がありました。「十牛図」
を見てみると、第六図で白黒を一回入れて、さらに先に行く。ここには見過ごすことのでき
ない東洋的な共通点がある。ところが西欧というのは、このダイコトミー(二者択一)、そ
の白黒のところで終わってしまうんですね。
町田――おっしやるとおりです。俺はすばらしい牛を手に入れたというところで終わる。ま
さにアメリカンドリームの世界です。ところが、本当の人生、本当の宗教が始まるのは、牛
が消えてしまってからですよ。そして、それを語れるのが東洋であり仏教です。しかも、中
国は当面、拝金主義から抜け出せないでいるから、過去からの精神遺産としての東洋の知恵
を語れるのは日本だけだと思います。
松岡――法然も激しい批判にさらされたうえに法難を受けますが、まるで平気でしたよね。
普通だったらそこでギブアップと言いたくなるところを、それも受け入れなきやならないも
のだと言ってのける。いわけ「十牛図」でいうところの七、ハ、九をやってしまうのでしょ
うね。
町田――そして最後は痴聖人になって死ぬ。そこもまた法然さんのすごいところです。
あとがき
この本は、私がNHKの特別番組「日本最大の国宝絵巻 法然上人絵伝」にナピゲーター役
として出演した機縁から生まれた。番組制作中に3・11東日本人雲災がおこり、その後も
福島第一原発の事故が激しく乱打されていた。この本はそうした異様な余波の中から立ち上
がったのだが、そうであればこそ、私にとっても関係者にとっても、地震-津波-原発-被
災-法然-喪失-念仏-死者-家族-阿弥陀仏―鎮魂-浄土-南無阿弥陀仏」は、事の当初
から分かちがたくつながっていたのである。
法然を考えることについては、私が「選択本願念仏集」を追い読みしているときから始まっ
ていた。そこには驚くべき編集術が駆使されていた。レトリカルなのではない。多少アクロ
バティックではあるが、信仰の根拠を求めるための構造的編集が徹してなされていた。専修
念仏を正当化するための辻褄合わせの編集でもない。まるで「思想のミラーニューロン」を
複合的に活用したかのような編集力なのだ。しかし、なぜ法然がそのような複合編集に長け
たのかということをさぐるには、いろいろ当たってみなければならないことがあった。
第一部ではその推理の一端を示しておいた。たいへんな読書家であった法然が、長きにわ
たった浄土三部経の学習から抜け出して善導や水観の言葉に出会い、これらを合わせ鏡にし
つつ「弥陀の本願」による六字名号の決定に及んでいったプロセスを編集部のインタヴュー
に応じながらできるだけわかりやすく書いておいた。
第二部はテレビ番組でもとりあげた土人絵伝のハイライトを、実写の風景をまじえて紙上
で案内した。法然の意外な生涯がざっと追えるようにもなっている。第三部ではこの本が生
まれた原点に立ち返るために、それには最もふさわしいと思えた町田宗鳳さんにお願いして、
「3・11から法然へ」という逆旅を先導してもらうことにした。私は町田ファンなのだ。
たいへん刺激的で示唆に富むものになったと思う。
法然を知ることや、法然を媒介にして日本仏教やその背後のアジア仏教のさまざまな突起
と深淵を覗きこむことは、現在の日本人が本気で立ち向かうべき大切な宿題になっている。
その宿題を解くことは、いまや決して容易なものではないだろうが、こういうときこそ、
法然の相互作用型の編集力が大いなるヒントになるにちがいない。
この本も、むろんそういう「編集の産物」である。もともとの番祖プロデューサーだった
河邑厚徳さん、そのときのディレクターの高橋才也さん、NHK出版の原田親さん、とりわ
けこの本の「選択本願]作業を一手に引き受けてくれた粕谷昭人さんに感謝したい。
この『法然の編集力』は「松岡正剛の編集力」とし読み進めてきたが、第三部の町田宗鳳との対
談は圧倒される。すさまじい読書量と実践量だ。特に町田宗鳳の経歴から湧き出す言の葉の数々
に、そのパワー・思想的フィールドが加わることで重みと深みが逓増してい行くかのようである。
さて、末尾の松岡正剛の、現在の日本人が本気で立ち向かうべき大切な「宿題」にわたし(たち)
がどのように応えるのかという課題が残された。
この項了
【最新ナノ電子工学 2016】
● 高効率ペロブスカイト型太陽電池製造コスト大幅逓減
スイスの大学 Ecole Polytechnique Federale de Lausanne(EPFL)の研究者は、変換効率20.2%と
高いペロブスカイト太陽電池をこれまでより大幅に低い製造コストで作製する技術を開発。ベー
スとなったのは、酸化チタンと色素などから成る従来の色素増感型太陽電池だ。ぺロブスカイト型では、
“色素”の代わりにペロブスカイト材料を用い、正孔輸送材料としてのヨウ素溶液の代わりに、
Spiro-OMeTAD などの特殊材料を用いたものが多い。実はこの正孔輸送材料が大きな課題だっ
た。ここで利用するぺロブスカイト材料は鉛と有機材料から構成、安価だった一方で、正孔輸送L
材料は1グラムあたりでおよそ4万円弱するなど非常に高価。今回、EPFLは既存より1/5と
比較的安価な材料「FDT;非対称フルオレン - チオフェン」を使用し、変換効率20.2%を実
現したという。後は堅牢性・寿命性・安定性・安全性が課題のみとなるはず。
2,2'-(9,9-Dihexyl-9H-fluorene-2,7-diyl)dithiophene
Cheaper solar cells with 20.2% efficiency
※Saliba M, Orlandi S, Matsui T, Aghazada S, Cavazzini M, Correa-Baena J-P, Gao P, Scopelliti R, Mos-
coni E, Dahmen KH, De Angelis F, Abate A, Hagfeldt A, Pozzi G, Graetzel M, Nazeeruddin MK. A mol-
ecularly engineered hole-transporting material for efficient perovskite solar cells.Nature Energy 15017, 18
January 2016. DOI: 10.1038/NENERGY.2015.17