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帝國のロングマーチⅡ

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   日本人はウォール街でアメリカの会社を買い、ニューヨークで不動産を買っている。多分、
         マンハッタンを自分たちのものにしたいんだな。日本人と競り合っても勝てる見こみはな
         い。どうみても彼らはこちらをコケにするためだけに法外な金額を払っているとしか思え
         ない。
                                        ドナルド・トランプ 19 March, 2015

 

 

● 中国 地対空ミサイル配備の島に戦闘機を派遣 
    China deploys fighter jets to contested island in South China Sea 21 Feb 2016

 


● 折々の読書  『China 2049』16


                秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                 マイケル・ピルズベリー 著
                                 野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイ
ケル・ピルズベリーが、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めた
うえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌
を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の世界情勢、日中関係
そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となっ
ている。 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

  第3章 アプローチしたのは中国 


       東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                     毛主席への覚え書き(1969)より引用  

 

   わたしとイクレは、米中が具体的にどう協力していくかを検討した。イクレはキッ
  シンジャーに「正式な関係」(つまり、公的な同盟)は避け、一方的な「技術的性質」
  の支援にとどめることを提案した。例えば、中国との問に「ホットライン」を設けれ
  ば、ソ連が軍事行動に出た際に、早々と中国に警告することができる。「今後も中国
  の軍事力が主に爆弾投下による攻撃になることを考えると、数時間早い警告は、彼ら
  の脆弱さを著しく低減できるだろう」と、イクレとわたしは覚え書きに書いた,
  「ホットラインでソ連の攻撃を事前に警告できるようになれば、大きな支援になるだ
  ろう」

   わたしたちはまた、ソ連の攻撃を警告するためのハードウェアや技術を中国に売る
  ことを勧めた。さらには中国がソ連に爆弾投下する際の標的を絞るために、高解像度
  の衛星画像を提供することを提案した(注44)。
   キッシンジャーはわたしたちの提案に同意した。当時、彼が協力の具体的な内容を
  中国に伝えたことを知る人はほとんどいなかった。1973年H月に北京を訪れたキ
  ッシンジャーは、ソ連が攻撃してきた場合、アメリカは「装備や他のサービス」を提
  供できると中国の要人に語った。北京と爆撃基地との連絡線の改善を「何らかの形
  で」手助けできるし、中国が「ある腫のレーダー」を作るための技術も提供しよう、
  と彼は持ちかけた(注45)。つまり、密かに人民解放軍への支援を申し出たのだ。平
  時にも、ソ連が攻撃してきた時にも、アメリカは軍事資源を補給する用意がある、と。

   だが、驚いたことに、中国はこの七つ目のプレゼントに尻込みし、検討する時間を
  求めた(注46)。早期警告を含むアメリカの協力は「大きな技術支援になる]はずだ
  が米中の協力は、「誰にも察知されない」流儀で行われなければならないと、彼らは
  語った。キッシンジャーの提案は、戦国時代の冷酷で変わりやすい同盟そのままに、
  ソ連との戦争に中国を巻き込むための策略ではないか、と中国の指導者は疑ったのだ。

    中国には、ニクソンとキッシンジャーがどれほどのリスクを負ってこの提案をした
  のかがわからなかったのだろう。中国に関してキッシンジャーが最も頼りとする側近、
  ウィンストン・ロードは、キッシンジャーヘの覚え書きで、(幅広い層から反対され
  るのはもちろんのこと)憲法に違反する恐れがあり、ソ連を憤激させるだろうと、こ
  の方針に強く反対した。キッシンジャーはロードの反対を退けたが、ロード自身は
  中国との関係改善を強力に支持していた。

   米中関係は1970年代に最も改善されたが、それは男小平が力を強め、中国の対
  外的な顔になった時期だった。西洋人にとって郵は、理想的な中国の指導者だった。
  物腰が穏やかなおじいさんのようでありながら、改革精神に富むバランスのとれた指
  導者。要するに、西洋人が会いたいと思う人物だったのだ。
   だが、郵はおとなしい老人ではなかった。政治局内部の私的な集まりでは、西洋に
  比べて中国が遅々として進歩しないことへの怒りを側近や顧問にぷつけた。彼は、毛
  とその怪しげな「改革]のせいで、アメリカの覇権を覆すためのスタートが30年遅れ
  たと考えていた。

   はアメリカと協力関係を結ぶことに熱心だったが、その主な理由を公表するつも
  りはなかった。ソ連の経済モデルをたどったのは誤りで、中国は今その代償を支払っ
  ていると、彼は見抜いていた,ずいぶん後にアメリカ情報当局が入手した中国の内部
  文書によると、当時、中国の指導者は、ソ連との同盟は崩壊しかけており、結局中国
  はそこからたいしたものは得られなかった、と考えていたようだ。郵はアメリカを相
  手に同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。中国がマラソンで前に出るには、アメリ
  カから知識とスキルを獲得するしかない。つまり、先頭を満足げに走るアメリカから
  エネルギーをこっそり抜き取り、それで遅れを取り戻して了フソンに勝とうと彼は考
  えていた。
 
   政治局内部では、は「韜光養晦(野心を隠し、力を蓄える)」の引用で知られて
  いた。鄭はまた、一見曖昧で無害な物語を通して敵にメッセージを送ることもあった。
  1975年12月に初めてジェラルド・フオード大統領と会談した折、彼は『三国志
  演義』からある物語を引用した。フォードにはわからなかったが、そこには重要な意
  味が込められていた,その物語は、先の章で述べた、中国史上、最も暴虐な君主の一
  人とされる曹操に関わるものだった。曹操は古代中国文学に見られる「覇」の典型と
  言えるだろう。
 
   ある場面で、鄭はフォードに、曹操はライバルの劉備を破り、覇者でありつづけた
  と語った。戦いの後、劉備は曹操に仕えることを申し出たが、曹操は劉備の忠誠心を
  疑った。は有名な曹操の言葉を引用した。
  「劉備は鷹のようであり、飢えたときはあなたのために働くが、腹が満たされると飛
  び去るだろう」
   明らかに、「鷹」とはソ連のことで、ソ連を取り込もうとするアメリカの試みは失
  敗する、ひとたび欲しいものを手に入れたら、ソ連は劉備のように自らの利益を追う
  だろう、と警告したのだった,アメリカ人が気づかなかったのは、同じことは中国に
  ついても言えたことだ。ひとたびアメリカが中国を対等な地位に引き上げれば、中国
  は同盟を解消し、「飛び去る」だろう。

   もっとも、郵は、曹操と劉備にまつわる最も有名な話は、あえて語ろうとしなかっ
  た。そんなことをすれば、中国の真の狙いを漏らすことになるだろうから。中国の強
  硬派はこうした古代の物語に込められた寓意を明かさなかったが、中国の戦略を読み
  解くには、どうしてもこの鍵がいるだろう。
   中国の戦略では、覇者を倒すために自分の真意を隠すことを重視するが、その象徴
  と言えるのが、先に述べた「鼎の軽重を問う」という言葉だ。もっとも、三国時代の
  別の物語は、ただ真意を隠すだけに終わらない、中国の野望を体現している。

    赤壁の戦いの数年前、劉備は曹操に招かれた。曹操を倒すことを企てていた劉備は                                         
  「目端の利く曹操に本心を見破られないようにした」。劉備が着くや、曹操は彼を李
  の本の下のテーブルに誘い、ふたりで座って、温めた果実酒を味わった,そうしてい
  る間に、空を厚い雲が覆い、嵐の気配がしてきた。曹操の家臣の一人が竜に似た雲の
  形を指さした。皆がその雲に注目した。曹操は劉備に、竜の進化を知っているかと尋
  ねた。

  「詳しくは存じません」と劉備は答えた。
  「竜はどんな大きさにもなることができ、栄光のうちに上昇することも、あるいは姿
  を消すこともできる」と瞥操は言った,
  「春の盛りの今を選んで、屯は変容しようとしている。自らの望みを悟り、医界を手
  中に収めようとする人のように。動物のなかの竜は、人間で言えば英雄だ。将軍よ、
  そなたはあらゆる川と湖を旅してきた。当代の英雄が誰であるかを知っているに違い
  ない。誰が英雄と呼ぶにふさわしいか、教えてほしい」
   劉備は当惑したふりをした。
  「わたしはどこにでもいる愚者にすぎません。どうしてそのようなことがわかりまし
  「そなたは彼らの顔を見上げていないかもしれないが、その名は聞いているはずだ」
  と曹操は答えた。
  劉備は尋ねた。
  「淮河の南の袁術、強い軍隊と豊かな資源に恵まれたこの男でしょうか」
  曲目操は笑った。
  「袁術など墓場で腐りかけている骸骨だ。わたしがさっさと片づけてやろう」
  「では、袁紹は?」と劉備が挙げた。
  「乱暴粁だが、臆病だ」
  「荊州の劉表はいかがでしょう」
  「うわべだけの評判倒れの男だ。やつではない」と曹操は答えた。
  劉備は尋ねた,
  「孫策は頑強な男で、南部全上を収めています。彼が英雄では?」
  「孫策は父孫堅の威光を笠にきている。あれも本物の英雄ではない」
  「益州の劉埠はいかがですか」
  「王族だが、番犬にすぎぬ」
  最後に、劉備は尋ねた。
  「張繍、張魯、韓遂や他の支配者はどうでしょう?」
  「やつらのようなつまらぬ人間は言うに及ばぬ」と曹操は切り返した。
  「他に、思い当たる人はいません」と劉陥は言った。
  「英雄とは胸中に高邁な理想を抱き、それを成し遂げる計画を持つ者だ。英雄はあら
    ゆるものに及ぶ構想を抱き、全世界がその情けにすがる」

  劉備が尋ねた。

  「それはいったい誰なのでしょう」
  曹操は劉備を指さし、それから自分を指さして言った。
  「この匯界で英雄たる者は、そなたとわたしだけだI
  劉備は息をのみ、箸を床に落とした,ちょうどそのとき、雲間から雷鳴が轟いた。
  箸をとろうと身を屈めていた劉備は叫んだ。
  「驚いた!すぐ近くに落ちたようだ」
  曹操は驚いた,
  「なんと!そなたは雷が怖いのか」
  いったいどこに雷ごときを恐れる英雄がいるだろう。こうして劉備は「覇」に挑戦
  しようとする野心を隠すのに成功した。
  まもなく、劉備はふたりの親密な仲間にこの経験を詳しく話し、自分の目的は「曹
  操に自分はまったく単純で、いかなる野心もないと信じ込ませることだったが、不
  意に英雄のひとりとして指さされ、当惑した。いささか疑われたかと思ったのだ。
  運のいいことに、雷鳴が轟き、必要な口実を与えてくれた」と言った。
  「実にあなたは聡明だ」と仲間は言った。
  その後は歴史が語る通りだ。まもなく劉備は曹操から独立し、国の支配を巡って長
  く曹操と戦った(注47)。 
 
   中国との新たな関係にのぼせあがり、ニクソンとフォード政権は、中国の喫緊の政
  治課題にあれもこれもと進んで支援していった。こうしたプレゼントのすべて(そし
  て、それに続くさらに多くのプレゼント)は、少なくとも30年間、アメリカの一般市
  民には秘密にされていた。アメリカは、中国が民衆の第一の敵と見なすダライニフマ
  に対するCIAの秘密支援を打ち切っただけでなく、台湾への肩入れの象徴だった、
  海軍による台湾海峡の定期的なパトロールも中止した(注48)。そして、自ら進んで、
  中国の力を強めていった。

     1975年、まだランド研究所にいたとき、わたしはソ連を牽制するために中国と
  軍事的なつながりを持つことを擁護する記事を、外交専門誌、フォーリン・ポリシ
  ーに寄稿した。当時は、かつて外交官で、後にまた外交官になるリチャード・ホルブ
  ルックが、同誌の編集者を務めていた。彼はその記事を強く支持し、わたしの見解を
  「大型爆弾」と呼んだ。それを彼が他の編集者に伝えたのがきっかけで、わたしの長
  い記事、「北京のための銃?」がニューズウィークに掲載された。他のメディアもわ
  たしの提案を取り上げたが、ソ連の報道機関は、その主張だけでなく、わたし個人も
  攻撃した(注49)。そもそも、そのアイデアをわたしに吹き込んだのは、国連にいた
  中国の軍の高官だった。わたしは1973年から、中国軍部の強硬派と接触するよう
  になり(彼らとの対話は、その後40年にわたって続く)、覇権国の扱いにまつわる戦
  国時代から伝わる教えを字んだが、当時のわたしは、覇権国とはソ連のことだと思い
  込んでいた.

   1976年初め、共和党の大統領候補の座をフォードと争っていた前カリフォルニ
  ア州知事、ロナルド・レーガンがその記嘔を読んだ(ホルブルックの命を受けて、わ
  たしはその記事をレーガンに送っていた),レーガンから、ソ連を牽制するために中
  国と緊密に連携するという案に賛成するという趣旨の、手書きの手紙が届いた。しか
  し彼はまた、中国には気をつけろと警告し、アメリカが台湾との民主的な同盟を放棄
  することを懸念していた。わたしはパシフィック・パリセーズのレーガンの自宅を訪
  ねた。レーガンは、「現在、64歳、無職だ」とおどけて見せた。そして、これからも
  中国に関する記事を送ってほしい。演説に使うかもしれないから、とわたしを励まし
  た。


長々と著者が引用するのはなぜか?それは自国の成り立ちの心象の投影に他ならないエキゾ
チシズムなのだろと邪推?する。中国文化に慣れ親しんできた日本人なら「レッド・クリフ」
を引用しなくても中国の政権中枢が考えていることは容易に察ししている。わたしがキッシ
ンジャーなら独立自尊を重んじるベトナム共産党と早期に和平締結し、水面下で戦後復興を
約束し、中国共産党政権に手をさしのべないことをニクソンに促し、「一国社会主義」同士
の中ソ対立を傍観し、周辺アジア国家の独立自尊を目指す政権を支える(非包囲戦略下で)。
それが成功すればすればどうなるのか?厳寒をウオッカを飲んでやり過ごすしかないロシア(旧ソ連
)はやがて戦車部隊を南進させ一時的な戦闘事態に陥ることは避けられられず(内ゲバ)、
台湾の国民党や非漢民族の蜂起、二度目の朝鮮動乱が起きるだろうが、ロシアも多方面展開
する余裕はないため南朝鮮(韓国政権)による統一が成功するかもしれない。また、いった
んは南進したロシア軍部隊は毛沢東の中国部隊との持久戦に入り泥沼化する。あるいは偶発
的局所的ななロシア側からの核兵器使用も起こりうるかもしれない。ただし、米国の植民地
主義の反動勢力を排除しつ国連機能の崩壊を避け、困難な軍事的支援あるいは局所的介入を
行うことの至難さに耐えうるかどうか? それは誰にも解らぬが、中国内部での動乱が長引
けば住民の生命財産は失われ、現在とは全く異なった事態となっていると夢想した。

                                  この項つづく

注44. Kissingcr-Zhou Mcmcon,Novcmbcr 10,1973,in Burr,KI’ss油gerTrαylscrφΓs. 171-72.
     Zhou-Kissinger Memcon, Novembcr 13,1973,DigitaI NationaI Security Archives Online,
     Documcnt 283. Menlorandum,Frcd Iklè to Hcnrv Kissingcr, National Archives,RG 59,
            Policy Planning Staff (S/P),Director’s Files (Winston Lord)1969-1977,Lot 77D112、 Entry 
            5027, Box 370, Secretary Kissinger’s Visit to Peking, October 1973, S/PC, Mr.Lord,vol.
            11,Collcgc Park, MD.
注45.  Goh,Constructing the US Rapprochement with China, 242, 以下も参照。Kissinger-Zhou Me-
            mcon, November 10, 1973,in Burr,Kissnger Transcripts,171-72.
注46. Zhou-Kissinger Memcon. November 14. 1973,National Securitv Archivc onlinc, Documcnt
            284.
注47. Luo Guanzhong. Romance of the Three Kingdoms, chapter 21: "In a Plum Garden, Cao Cao 
            Discusses heries," trans, C, H, Brewitt-Taylor (Beijing: Foreign Languages Press, 1995), 以下
     のサ入手可能。http://kongming.net/novel/events/liubei-and-caocao-sPeak-of-heroes.Pphp.
注48. 台湾海峡におけるアメリカと中国の脅威についてさらに詳しい情報は次を参照,Michael    
            Pillsbury,“China and Taiwan - the American Debate,” RUSI Journal 154, no. 2(April 2009)
            :82-88.
注49.  “Guns for Peking,”Nlslμe4,September 8, 1975; Reagan gave a Prcss confcrcncc on May 28,
            1976 .ロサンゼルス・タイムズ紙によると「レーガンは、アメリカから中国本土への武器輸出は、
            ソ連に関する両国に共通する利益を考えると自然な展開だ、と言った」。Kenneith Reich,
            “Reagan Tells of Rurnors Administration Plans to RcnounccTaiwan Aftcr Elcction,”Los
             Angele Times,



● 積み上げられた汚染土 竜巻に直撃されたら ?

不安を煽るつもりはないが、それを考えると夜も寝られませんね ?! 

                                                               

                                                                  

 


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