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カレーパンに閃く

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      何も知識の専門家だけを、「専門家だ、あの人は」と言う必要もありません。だけど、知識
                 の専門家はテレビに出てよくしゃべって、「すごいな」と思われる機会も多いでしょう。

                                                                                      吉本 隆明


                                     

                                              Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

 

 

 

【カレーパンは餡屋なり】

毎秋火曜日はパンの移動販売に大津からやってくる。いつものピザやお好み焼きのパンは飽きてしまったので、カレ
ーパンを選択。名前を忘れたが、二つに割ってオーブントーストすると美味しいと彼が教えてくれたので、いつも電
子レンジしか使わないわたしがオーブントースターで昼時にそれを頂く。丁寧にパンきりナイフで真っ二つに切り分
けたのはよいが、不慣れの上に目が悪いときて焼き過ぎ表面が焦げるしまったが、彼が言った通り大変美味しいに驚
き、なにやら頭で閃くものあり。そして天使がこう囁く「」カレーパンは餡屋なり!」と。それで、食後、ネットサ
ーフし構想を頭の中でまとめあげる。



それで、今月6日、二子玉川にある「iTSCOM STUDIO & HALL 二子玉川ライズ」で開催された「カレーパン博覧会」
大好評で予想以外のお客さんが殺到し、午前11時(~19時)開始からわずか30分で終了するという珍事が起き
るほどの盛況ぶり。へぇ~っ、そんなに日本では人気なんだ、知らなかったという世事の疎さを知る(その必要もな
いが)。このブログでも「世界初のあんこ専門事業:『餡屋』構想Ⅱ」(『気分転換のランチョンマット』2015.11.
16)もあり、パン生地とカレー餡を下図のごとくコーティングし揚げればできる。このとき、ひと工夫し、パン生地
を餡がはみ出さないほどに極力少なくし揚げ、放冷・凍結、そのまま加熱しかき混ぜ、ご飯や麺などに注ぎかければ
カレーライスができあがり、勿論、スープカレーとしても楽しめる。具材の裁断サイズが大きいと手づくりとなり、
生産性が低くなる。話は少し逸れたが、カレー種類が多いので、たこ焼きのように、一口サイズのカレーパンもあっ
ても好きなカレー餡のパンをブレンドしても面白いと思う。この事業素描に従い世界市場を概算すると売上高24兆
円/年、利益3兆7千万円となった。毎日でも食べたい?頭がクラクラするほどの金額になる。^^;?!

 

 
それにしてもこれほどまでにカレーパンがブームとは、日本人って不思議だな?!

 

【ちょっとだけ量子ドット工学講座1】

今回は、最新の量子ドット(あるいは)ナノサイズの半導体微粒子を使った太陽電池製造新規考案事例(京セラ)を
考察してみよう。従来の太陽電池の受光層は、主にバルク結晶と同じエネルギーバンド構造を有する半導体結晶のp
-n接合あるいはp-i-n接合構造だが、量子ドットを用いて、光電変換効率の向上や受光波長帯域の制御などで
より高性能の開発研究が行われている。その1つとして、量子ドット周囲を、量子ドット自身のバンドギャップより
も大きなバンドギャップの障壁層により囲むことで、理論的に電子のフォノン放出によるエネルギー緩和の起こりに
くくキャリアが消滅しにくい構造の研究がなされきたが、量子ドットを集積し量子ドット層を形成した場合、量子ド
ット内に生成したキャリアが、障壁層を含む量子ドット層内に存在する欠陥に結合消滅し、キャリアの密度が低下し、
電極まで到達できる電荷量の低下が起こり、光電変換効率を高められない。

この対策に、量子ドット層と接合層とが交互に積層し、この複数の量子ドット層は、バンドギャップが異なる量子ド
ット層を2層以上で構成し、この量子ドット層内に、量子ドット層の厚み方向に延伸する柱状のキャリア収集部を設
けることでキャリアの集電性に優れ、光電変換効率を高めることができるという構造が提案されている(下図)。


 
上図では、実施形態を部分的に示す断面模式図。ここでは量子ドット層1、3が2層構造のものを例示するが、これ
に限らず。量子ドット層1、3が3層以上も可能。ここで、2層の量子ドット層1、3が、バンドギャップが互いに
異なるとは――2層の量子ドット層1、3間で0.2ev以上の差があることを意味し、接合層5から量子ドット層
1、3の厚み方向に延伸する柱状のキャリア収集部7をもつ。

量子ドット層1の上層側に透明導電膜に相当する導体層9とガラス基板10を設ける一方、量子ドット層3の下層側
には接合層5、支持体11を設けた構成を示している。この場合、ガラス基板10の上面側が光の入射面13a側と
なり、支持体11の下面側が光の出射面13b側となる。図1(a)では、キャリア収集部7と接合層5は一体化構
造を――キャリア収集部7と接合層5とは、異なる材料によって形成されていても良い――示している。なお、光の
入射面13a側のガラス基板10の表面や光の出射面13b側である支持体11の下面には、保護層や反射防止材な
どが設けられる場合がある。

1)実施形態によれば、量子ドット層1、3が2層以上に積層構造のため、量子ドット層1、3により異なるバンド
 ギャップをもつ光吸収層の形成が可能になり、吸収できる光の波長の範囲を広げることができる。
2)これに加え、積層量子ドット層1、3の各層に厚み方向に延伸させた柱状キャリア収集部7をもつことで、量子
 ドット層1、3内に生成したキャリアが、量子ドット層1、3内で消滅する前に、キャリア収集部7により効率良
 く捕獲できる。

 

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】 

  ● 目 次

   解題
   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

   楚
 姦臣の讒言にあって懐王にうとんじられ、もんもんたる憂国の情を「楚辞」に託してうたった大詩人屈原、かれの仕えた国
 が楚である。楚は当時まだ、"蛮夷の地"だった揚子江流域にあって、荊とも呼ばれた。悼王(在位・前四〇一年
 ~三ハー年)の時代、たまたま魏から亡命して来た呉起(『孫子』と並ぶ兵法の書『呉子』を著す)を登用して、
 内政の改革に乗り出した。しかし、この改革も、悼王の死を契機とする封建領主の巻き返しによって挫折し、呉
 起は。"車裂き"の刑に処せられる。こうして中央集権に失敗した楚は、以後も、広大な国土を持ちながら、国と
 してのまとまりにかけ、次第に領土を侵略され、ついに秦の統一を許したのである。

  「婦人の夫に仕うるゆえんは色なり。しかして妬ひはその情なり」
  「これに与うるは信なり。これを攻ひるは武なり」
  「君のために高く梁に屈するを鳴くを得しむるに意なきか」

 ● 資金調達法

 張儀は楚に遊説して金に困った。供の者が辛抱しきれなくなって、暇をくれといってきた。張儀は「貧乏暮しが
 つらいのなら、しばらく待て。楚王に会って何とかする」といって、かれを引きとめた。その頃、楚では、出府
 と鄭袖の二人が懐王に寵愛されていた。張儀は懐王に謁見した。が、王には張儀をとりたてる気はない。

 「王はわたしにご用がないようですから、北へ行って晋王に会おうかと思いますが」  
 「よかろう」
 「ついては晋の国に何かあなたのほしいものはありませんか」
 「わが国には黄金、玉、犀、象、何でもある。ほしいものなど何もない。」
 「女もいらぬとおっしゃるのですか」
 「というと……」
 「鄭や周の街でみかける女たちの化粧の美しさ、よそから来た者にはヽまるで天女が降り立ったように見えます」
 「なにぶんにも楚は辺鄙な国、中原諸国の美人には縁がない。ぜひ、そうい女を可愛がってみたいものだ」

 王は、その費用として珠玉を与えた。
 南后と鄭袖は、この話を聞いて気が気ではない。南后から張儀のもとに使者がたつ。

 「将軍は近く晋へ行かれるとのこと。ここに金千斤がごずいます。路用の足しにでもしてください」

 鄭袖も金五百斤を贈った。張儀は楚王にお別れの挨拶に伺った。

  「各国とも往来を厳重にしている今日、いつまたお会いできるかわかりません。つきましては、おれの盃を頂戴
    したいと存じます」
  「よかろう」

 王は、盃を賜った。頃あいをみて、張儀はうやうやしく、

 「二人だけでは寂しゅうございます。どなたかお気に入りの方に、お相手を願うわけにはまいりませんでしょう
  か」
 「それもそうだ」

 王は、南后と鄭抽の二人を呼んで、酌をさせた。
 張儀は、またもや、うやうやしく言上した。

 「申訳ないことをいたしました」
 「何ごとか」
 「わたしは全国を歩いて来ましたが、これほど美しい方にお目にかかったのは、はじめてです。そうとは知らず
  美人を求めてまいるなどと、たわけたことを申しました」 
 「よいよい、気にするな。わたしも実は天下にこの二人ほどの美人はおるまいと思っていたのだ」

 

 


● 折々の読書  『China 2049』19


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     

                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳    

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 


【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン

                趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く

                                                                     『兵法三十六計』第五計

  1989年4月、わたしはまた北京にいた。北京に来るのはこれでもう13回目だ。当時、わたしはアメリカで
 二つのポジションに就いていた。一つは上院のための調査員。もう一つは国防総省直属の地位で、中国に関する
 報告をまとめ、国防総省の総合評価局に報告するのが仕事だ。その報告書は直接、ディック・チェイニー国防長
 官のもとへ送られていた。わたしの地位は高くなり、1983年には郵小平と長く会談したことさえあった。当
 時のアメリカ大使、アーサー・フンメルを驚かせたのは、わたしが中国語で鄭に、ふたりが握手する姿を写真に
 収めさせてほしいと頼んだことだ。国防総省のために翻訳した、中国の軍嘔記事をまとめた本の宣伝に使うため
 だった(注1)。

  この1989年の訪中では、天安門広場で進行中の学生の示威行動がどのように報道されているかを調べるつ
 もりだった,学生たちは迅速な改革を求めており、それは順調に進んでいるはずだと、わたしたちは思い込んで
 いた、。中国の動向を追うアメリカの人々は、中国では民心化と資本心義化か着々と進んでいて、その流れが逆
 行することはあり得ないと考えていたのだ,
  4月22日、ピーター・トムセン代理大使から、数名の学生と一緒に車で広場へ行くことを許可された(注2)。
 わたし自身、1960年代には学生運動に参加したので、中国で民れ化を求めるデモがどのように実行されてい
 るかを見るのは有益だと思っていた。広場に向かう前、ピーターはわたしに、前任のウィンストン・ロード大使
 が退任する折に、次明大統領、ジョージ・H・W・ブッシュに送った、機密扱いの電報をにせてくれた,

  フォード政権時代に中国大使を務めたこともあるブッシュは、中国との間に建設的な関係を築くことに、ひと
 かたならぬ関心を寄せていた,実際、彼は中国に大いに期待していた,プッシュは1989年2月、大統領とし
 ての最初の外遊で、北京を訪れた、わたしの訪中の2ヵ月前だ..ブッシュは、出立前に両院のa同会議で演説
 し、「民主主義の風が新たな希望を創造し、自由市場のパワーが新たな力を解き放ちつつあります(注3)」と、
 中国に対すろ楽観的な期待を述べた。 
  ロードの電報は、北京での「信頼できる一筋からの情報に基づいて、米中が良好な関係にあることを褒めそや
 していた。だが具体的な内容はといえば、民主的な選挙が中国の村々で始まり、急速に広まりつつあるとか、真
 の自由市場経済を構築し、企業の国営を終わらせるための基盤が整ったとか、北京とモスクワの和解はあり得な
 いといった、聞き覚えのあるデマを繰り返しているだけだった。加えて、中国がリーダーシップをとるようにな
 っても、アメリカの国益にとって脅威とはならず、民主的な統治を求める天安門の学生たちもアメリカにとって
 脅威ではないと、ロードは記していた、

  ロードを弁護すると、それは、わたしも含め、中国を研究するアメリカ人に共通する見解だった。わたしから
 国防総省への報告にもそれは反映されていた,すでに広場には学生のデモ隊が集まっていたが、それでもわたし
 は、彼らの抗議はそれほど憂慮すべきものではなく、6月に学期が終われば学生たちは帰省するだろう、と決め
 込んでいた。ただひとり、大使館職員のラリー・ウォーツェル大佐だけが、学生たちはきわめて真剣だと考えて
 いたようだ。さらに肢は、騒動を治めるために軍が出動することまで予測していた。ウォーツェルはわたしと同
 じく、長年にわたって中国タカ派に多くの情報源を持っていた。つまり彼はタカ派の動向に注意を払っていたの
 だ。後にウォーツェルは、武力による鎮圧という予測は、タカ派の情報によるもので、あの事件はタカ派のほう
 がハト派より指導者の気持ちを理解していた稀な例だったと語った.、

  わたしたちの多くは、学生たちの行動は共産党内部の真の改革者を当惑させるのではないかと懸念していた。
  当時、米国のほとんどの人が信じ、その多くが今でも頑なに信じているのは、中国は改革への道を邁進してい
 るということだ。実のところわたしたちは、中国政府のトップクラスの数名が改革への道を急ぎすぎている、と
 さえ聞かされていた。その人々が数年のうちに収監、自宅軟禁、亡命、国外追放といった憂き目に遭うことにな
 ろうとは思いもしなかった。改革を巡って政局内部に異論があることは知っていたが、誰が何を望んでいるか、
 改革の敵がどれほど強いかという詳細は、わたしたちにはまったく見えていなかった。

  この楽観に水を差すような事実はほとんどなかったが、注意深く見ていれば、確かにそれは存在した。1週間
 前に少し驚かされたことがあった。北京の人民大会堂で胡耀邦の追悼式が行われているさなか、5万人の学生が、
 胡を譜えてデモ行進を行ったのだ,胡は共産党の前総書記で、公には、その「移り気な」性格ゆえに郵小平に退
 けられたと説明されていた(注4)。学生たちと約100万人のデモ参加者はその後、天安門広場に集結し、7
 週間にわたって、演説や報道の自由を訴え、腐敗政治を批判し、より開かれた政府を求めた。彼らは「独立宣言」
 のコピーをかざし、ビルの3階の高さがある「民主主義の女神」を建てた。さらには、ソ連のリーダー、ミハイ
 ル・ゴルバチョフの訪中前夜に、共産党幹部との対話を求めてハンガーストライキを始めた。ゴルバチョフがモ
 スクワに帰るまでに、天安門広場のデモ隊のことは世界に知れ渡り、中国共産党中央政治局にとっては、政局を
 撹乱しかねない大規模で厄介な存在になった。

  アメリカ側は小平を真の改革者と見ていたので、中国の学生がその非公式な抗議行動において、鄭小平では
 なく胡耀邦を讃える讃えるのを不思議に思った。自分たちが胡耀邦を、そして鄭小平をずっと誤解していたとは、
 夢にも思わなかった。

  しかし、わたしの心の奥底には言葉にならない疑問が漂っており、ゆえにデモ隊をこの目で見たいと思ったの
 だろう。ピーター・トムセンとわたしは、ボンネットにアメリカ国旗をはためかせた黒いキャデラックで広場に
 向かった。Tシャツを着た髪の長い数百人の学生たちのほうへ歩いていく時、遮る人は誰もいなかった,わたし
 たちが話しかけた学生は、ハンガーストライキをするとは言わず、共産党をあからさまに非難することもなかっ
 た。わたしは1968年にコロンビア大学でベトナム戦争に反対する「ストライキ委員会」にいた頃のことを思
 い出しながら、パイロット用サングラスをかけ、ひっきりなしに煙草を吸っている男性と、示威行動について語
 り合った。



  その男性の名前は劉暁波、当時は北京師範大学の教師で、抗議行動に参加するために、前日、ニューヨークか
 ら空路で戻ったばかりだった(注5)。コロンビア大学で客員研究者として教壇になっていた彼は、歴史の一部
 になることを望んでいた。20年後、彼は実際に歴史に名を刻むことになる。度々投獄された末に、2008年
 には「零八憲章」を起草した容疑で逮捕された。しかし、2010年にはノーベル平和賞を受賞した。彼の近著
 は、中国の過剰なナショナリズムと軍部の強硬派を真正面から批判している。1989年当時、中国でも西側諸
 国でも、中国政府のタカ派は優勢ではなく、学生に対して武力は決して行使されないという見方が主流だった。

  5月、小平は戒厳令を発令し、北京に25万人の兵士を集結させた。そしてデモ隊が解散を拒むと、戦車と
 兵士を出動させた。おそらくは、武器を持たない数千人の学生たちが街路で死に、多くは殺傷力の高い「開花弾」
 で撃ち殺された,広場を囲むすべての建物が機銃掃射された。兵士はデモ隊の人々を蹴ったり梶棒で殴ったりし、
 戦車が彼らの足や背中を踏み潰しながら進んだ。向かってくる何台もの戦車の前に立ちはだかるひとりの男の写
 真が、虐殺の象徴となった。彼は一群の人々に引き戻され――その後の消息はわかっていない。


開発独裁課程にある政権中枢は、民主化要求を武断拒絶・弾圧に至ることはわたし(たち)はすでに見通していたこ
とはこのブログで掲載してきたが、そこに、ロシアマルクス主義の脆弱性であることも当然折り込み済み。双方が合
意形成(≒政治的妥協)できずに終わることもあるていど想定していた。

                                             この項つづく


注1   Pillsbury, Chinese Views of Furture Warhare. が握手している写真が2ページ目に掲載されている その上.にあるのは
    わたしが写した。著名な強行派で5冊の本の著者である彭光謙将軍の写真だ。
注2  上院委員会の職員兼国防省の顧問としてわたしは1982年以来7年たってピーターの報告に頼ってきた。82年に初めて
   会った時、彼は、北京のアメリカ大使館の分析官のトップだった。
注3 George H.W.Bush.Address on Adnlinistration Goals before a Joint Session of congress, February 9, 1989,以下のサイ
         トで入手可能。http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=16660.
注4   James Mann, About Foce,158.
注5   劉暁波は天安門の人虐殺を生き延び、約20年後の2010年、零八憲章と呼ばれる民主化運動を導いた功績により、ノー
         ベル平和賞を受賞した。

                    

      


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