● さらば、偉大なる学舎
台風が影響するなか強行し「曽根崎小学校 大阪北小学校 卒業生 同窓生 ありがとう会」の式典に向
かうが、予定時間より3時間遅れて出席することになる(式典は13:00〜16:00)。この日、台風11
号の通過に伴い、JR西日本の路線で運転を見合わせるなどした影響で、運休や遅れの出た電車は計
約1,400本にのぼり、最終的な影響人員は計約55万人に達している。蒸し暑く雨降る中の「ありがと
う会」には、4百名以上が参加。各学年写真撮影を行った。曾根崎小学校、大阪北小学校はこれでも
って歴史に幕を下ろす。残念ことは恩師に再会できなかったことで(存命であれば85歳以上にもなり、
台風の影響も参加いただけなかったのではと推察させていただいている)。式典の後、近くの喫茶店
「田園」の二階(当時は、エレベーター式の舞台でバンド演奏を楽しめたというから、当世の唯坪単
価主義などはほど遠い、貧しくともリッチな時代であった)で同窓生が集まり歓談し、午後6時過ぎ
には帰路に着く(帰りはの列車はすし詰め状態)。
オブジェ(写真下/左)や百周年記念碑などが(写真下/右)建立するエリア
大大阪の扇のかなめ 北の玄関梅田の里に
古きゆかりの曽根崎 梅咲き香る昔より
我等が町は栄えたり
曽根崎 曽根崎
われらは 此処にそだつ
大大阪の商工業の 栄え賑わう梅田の街よ
伝えゆかしき曽根崎 梅咲き香るふるさとよ
わが学び舎はそびえたり
曽根崎 曽根崎
われらは 此処に学ぶ。
『曾根崎小学校校歌』
北側校舎は高学年棟で南側校舎は講堂と中廊下型の教室。校舎と校舎の間に幅5メートル×25メー
トルのプール。左下は曽根崎幼稚園。
曽根崎2丁目にあった市立小学校の跡地。1874年に曽根崎小学校として開校した。近年になって周辺
のオフィス・繁華街化 が急速にすすみ、一時期は1,500人を超していた生徒数も次第に減少。周辺の
小学校との統合を繰り返し、大阪北小学校として開校したのは1989年のこと。しかし、生徒数の減少
は止まらず、結局2007年に扇町小学校と統合し、大阪北小学校は閉校。併設していた幼稚園と合わせ
た敷地面積は約6900平方メートル。 跡地利用については、一部にコミュニティ施設の建設を要望
する地元住民と、全体の施設建設を希望する商店街とが話し合い、大型施設内に交流施設を設置する
ことで決着。2014年3月、住友不動産が事業予定者に決定。地上52階建ての超高層複合ビル「曽根
崎 LinkCity」を建設する。
● 僕たちが12歳のころは
アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける日がのばる
朝の光りのその中で
冷たくなった私を見つけて
あのひとは
涙を流してくれるでしょうか
アカシアの雨に泣いてる
切ない胸はわかるまい
想い出のペンダント
白い真珠のこの肌で
淋し<今日も暖めてるのに
あのひとは
冷たい眼をして何処かへ消えた
アカシアの雨がやむとき
青空さして鳩がとぶ
むらさきのはねのいろ
それはベンチの片隅で
冷たくなった私の脱けがら
あのひとを
探して遥かに飛び立つ影よ
作詞/作曲 水木かおる/藤原秀行
『アカシヤの雨がやむとき』
1960年、この年は歴的的なことがらを体験していた。それを時系列に書き出してみよう。
1月1日 カメルーンがフランスから独立。「アフリカの年」での独立第一号/明星食品が「味付ラ
ーメン」を発売。
1月2日 ジョン・F・ケネディが大統領選に出馬表明。
1月19日 日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)調印。
1月27日 ソ連が対日覚書で新安保条約を非難し、外国軍隊が撤退しない限り、歯舞・色丹は引き渡
さないと通告。
2月13日 フランスがサハラ砂漠で初の原爆実験。第4の核保有国となる。
4月 タカラが「ダッコちゃん」発売(180円)。大ヒットする。
4月12日 日産自動車が「セドリック」を発売。2004年まで44年間生産された。
4月30日 ソニーが世界初のトランジスタテレビを発売。
5月3日 創価学会第三代会長に池田大作が就任
6月15日 改定安保条約批准阻止の全学連7000人が国会に突入。樺美智子死亡。
7月1日 呉羽化学工業が「クレラップ」を発売/大阪市営地下鉄御堂筋線の西田辺駅 - 我孫子駅
間が開業(1987年に中百舌鳥駅まで延長)。
7月15日 岸内閣総辞職。
8月1日 大湊田名部市がむつ市に改名。日本で最初のひらがなの市となる/森永製菓が日本初のイ
ンスタントコーヒーを発売。
8月25日 ローマオリンピック開幕。
9月10日 日本でカラーテレビの本放送開始。
12月20日 南ベトナム解放民族戦線結成。
12月27日 池田首相、所得倍増計画を発表。
またこの年の流行唄は、「三橋美智也「達者でな」/橋幸夫「潮来笠」/赤木圭一郎「霧笛が俺を呼
んでいる」/西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」/森山加代子「月影のナポリ」/坂本九「ステ
キなタイミング」/平尾昌晃「ミヨちゃん」/三橋美智也「達者でな」/橋幸夫「潮来笠」/赤木圭
一郎「霧笛が俺を呼んでいる」/西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」/森山加代子「月影のナポ
リ」/坂本九「ステキなタイミング」/平尾昌晃「ミヨちゃん」などがあり、流行語には、「声なき
声/低姿勢/所得倍増/私はウソは申しません/家付き・カー付き・ババ抜き」などがあった。
「アカシアの雨がやむとき」は、1960年4月に西田佐知子の歌唱により発表された楽曲名、及び1963
年に公開された日活制作の歌謡映画名。「アカシアの雨がやむとき」が支持された背景として、「日
米安保闘争」と意味づけし語られた(その中のひとりに賢兄だった故友岡和雄氏が含まれる)。梅田
新道−扇町周辺はデモの光景を目のあたりにし通学していた。1960年1月の「日本国と米国との間の
相互協力及び安全保障条約」調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた
若者たちが西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていく。
そのため、テレビ番組では当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡によ
る抗議デモ)の映像のバックで流れた。ところで、西田佐知子がこの「アカシアの雨がやむとき」を
レコーディングする際、なかなか上手く歌えず苦労していた時に、この曲の作詞者である水木かおる
から『この曲は、芹沢光治良の『巴里に死す』という小説をモチーフにして書いたものなの』と言わ
れ、パリの抒景をイメージし歌うようアドバイスを受けたという。
なお、今夜は敢えて――最大の武器は声だ。張りがあって、ハスキーさがプラスされた独自の声。世
界に二つとないようなヴァイオリンにも似た『名器』たる響きがある――「育ての親」のひとりであ
る鈴木淳のがこう評した、ちあきなおみの "アカシアの雨がやむとき" を聴くことに。