A statesman cannot aflord to be a moralist.
Will(iam) Durant
※ statesman vs. politican
政治家は道徳家になっている余裕はない。
アメリカの哲学者・教育家
ウィリアム・デュラント
Dec. 8, 1861 - Mar. 18, 1947
【世界の朝食:今日はミヤンマー】
● もうすぐモヒンガーが世界展開する!
ミャンマーは東南アジア10ヶ国の中でインドネシアに次ぐイギリスとフランスを合わせた二番目の面積の多
民族国家。ミャンマーは農業国で、人口の約90%は農民。様々な農作物の中でも稲作が主に占める。昔から
山間部や平地などの至るところで米が作られ、いろんな形で食されてきた。(焼く、煮る、炒める、火にさら
す)ミャンマーにあるお菓子もその一つで、米を粉にして作った麺もその一つ。この麺は太さによって3種類
に呼び名が分かれる。一番太い順にうどんより少し細いナンジー、そうめんみたいなナンティ、そしてきしめ
んみたいなナンビャー。もしナンジーの麺で作ったサラダはナンジートウと呼ばれる。モヒンガ(下写真)と
して食べる麺はナンジーの麺は使わずナンティと呼ばれる麺が使う。これらの麺を鶏肉、魚、エビ、揚げ物、
野菜等で和えてサラダとして食べる。サラダとして食べる時はスープが付き、この形をモウンティレットと呼
ぶ。このようにサラダとスープという形で食べる。
ミヤンマーとの国名の前はビルマと呼称され、多数派民族であるビルマ族の食文化を「ビルマ料理」と呼ぶの
が定着しているが、その特徴は、スパイスの使用が比較的抑えられ、油を多用する点にある。米が主食に据え
られ、1、2種類の副菜を添えて大量の米を食べるのが基本的なビルマ族の食事スタイル。シャン米、もち米
も食べられているが、ミャンマーの食卓にはインディカ米が上ることが多い。都市部では朝食を外食で済ませ
ることも珍しくなく、屋台や軽食堂では米以外にモヒンガー、オンノ・カウスェーといった麺類、ナンに油条
といった中華系やインド系の軽食も食べられている。一方昼食と夕食には米が欠かせず、米と副菜を一緒に食
べるのが一般的なミャンマーの食卓のスタイルである。
副菜は、日本では便宜上カレーと称されることもある「ヒン」という煮込み料理が中心、ヒンは「おかず」「
副菜」の同義語としても使われる。タマネギ(トマトが加わる場合もある)をベースとして煮込み、具はブタ、
ウシ、ヒツジ、ニワトリの肉と内臓、魚介類、野菜であり、調味料は具に応じて使い分けられる。その種類は、
煮込み時間によって、(1)水気の多いシーレー・イェーレー、(2)水気が無くなるまで煮込んだシービャ
ン(スィービャン)に大別される。どちらも多量の油を使って青トウガラシを多用しない点が特徴。スパイス
の種類は限られる。食材の風味とエキスを含んだ油が美味とされ、具とともに油も食される。インド風のヒン
は「カラーヒン」と呼ばれ、スパイスの種類が多いのが特徴である。ミャンマー内での健康に対する関心の高
まりから油の使用を抑える傾向もあるが、なお多くの油が料理に使われる。
食材にはヒラマメ、インゲンマメ、ヒヨコマメなどの豆が頻繁に用いられ、他の東南アジアの国に比べて種類
と調理法が豊富。ヒンの調理において、油でスパイスを炒める点が他の東南アジア大陸部の国で食べられる「
カレー」の調理法と異なり、むしろ豆の使用頻度とカレーの調理法同様インド料理と共通するが、使われるス
パイスの種類はインド料理よりも少ない。ミャンマーでは豆腐もよく食べられ、ヒヨコマメから作られること
もあり、ターメリックで黄色く着色した豆腐、厚揚げのように調理された豆腐も料理に使われる。ローゼルを
「チンバウン」といい、その葉を炒め物(ジョー)やスープにする。様々な太さや形状のライスヌードルも使
われる。
ビルマ料理では料理に塩味付けに魚醤と塩辛が使われるが、その種類は3つに大別される。(1)塩辛のペー
ストであるンガピ、(2)魚を原型のまま加工したンガピガウン、(3)魚醤のンガピーイェーである。ンガ
ピを加工したンガピジョーという、ふりかけに似たそぼろ状の副食も作られる。この魚醤はビルマ族伝統の食
文化ではなく、モン族、ピュー族など9世紀以前に上ビルマに居住していた先住民族から取り入れた食文化だ
と考えられている。また、かつては魚醤の素材は淡水魚が主であったが、19世紀以降ビルマ族による下ビル
マの開発が進むにつれて海水魚による魚醤が作られるようになり、56年より本格的な海水魚の魚醤の生産が
国営の工場によって開始される。ニンニク、タマネギを炒める際に使用され油「スィー・ジェッ」は、広い用
途のある調味料として有名。甘味料としてサトウキビとパームヤシから作られる砂糖、タマリンドや柑橘類で
酸味を付けるが、この点は他の東南アジア諸国と共通する。
さて、モヒンガについて。モウンティという言葉が、コウンバン時代(18 -19世紀)に、この時代の演劇作家
「ウーポンシャ」が、彼の芝居の中に出てくる一つに「モウンティの汁のような丸い形」と書かれ、モウンテ
ィとモヒンガが同じだとしたら、モヒンガがこの時代に存在していたと推測されるという(モヒンガをモウン
ティと呼んでいる地方がある)。また、米を粉にする道具や、それを水に漬けてこす道具のようなものが、近
年土の中から多量に発見され、米を作って食べていた時代から既に米で作ったお菓子やご飯の代わりになるモ
ウンティ、モヒンガ等があったのではないかと推測され、モヒンガの起源はおそらくピュー時代(1-9世紀)と
考えられている。
モヒンガの材料は色々な種類の豆、にんにく、タマネギ、とうがらし、香菜、ザパリン、バナナの茎等です。
この地方では魚抜きで作る。ミャンマーの南部ではモヒンガを作る時には先程の材料に、ナマズ、ヒレナマズ、
ニシニゴイダマシ、という魚を入れる。因みに、これらの魚が入っていないモヒンガは精進料理として食べる。
このように、モヒンガーは、ナマズなどの魚の出汁のスープに、お米から作られた麺が入った料理で、レスト
ランや屋台だけでなく、一般家庭でも食べられているミャンマーの国民食。お店のテーブルには、唐辛子、パ
クチー、ライムのようなカラマンシーのような柑橘系のトッピングがセットされていました。テーブルに座っ
てから、数分と待つことなく、モヒンガーとワンタンをカリカリに揚げたようなトッピングが一緒に出くくる。
【テスタがパナソニックと生産提携をする理由】
先月、米電気自動車(EV)大手の米テスラ・モーターズとパナソニックは、共同で太陽電池の生産を米国で
始める検討に入ったと発表。世界トップレベルの変換効率を持つパナソニックの「HIT太陽電池(結晶シリコ
ンと非晶質シリコンによるヘテロ接合型太陽電池)のセル製造技術を使い、17年に太陽電池の生産開始を予
定している。生産候補地は現在、米ニューヨーク州バッファローとなっている。テスラは、この夏、分散型太
陽光発電システム販売・施工において米国ナンバーワンの米ソーラーシティを26億米ドルで買収すると発表
したばかり。実は、そのソーラーシティは数年前から年間1GWの生産能力を持つ「ギガファクトリーと呼ばれる
太陽電池工場を、同じニューヨーク州バッファローに建設している。
ソーラーシティは、14年6月に米太陽電池ベンチャーであるシレボ社を2億米ドルで買収。同ベンチャーは、アプライ
ドマテリアズ(Applied Materials)の幹部によってカリフォルニア州シリコンバレーに設立された。結晶シリコ
ンと薄膜のハイブリッドの太陽電池セルの開発・生産を行う会社である。「トンネル接続型」という先端技術
を使用し、高効率化しつつ、製造工程を減らし低コストを達成。同社のトリックス (Triex)と呼ばれるセルテ
クノロジーの変換効率は22~23%で、世界トップレベル。既に、カリフォルニア州フレモントでパイロッ
ト生産と、中国で量産が行われていて、24%の変換効率を目標に掲げている。ちなみにフレモントの工場は、
破綻したソリンドラ社(Solyndra)が円筒型CIGS太陽電池を製造していた施設を利用。
テスラのイーロン・マスク氏の従兄弟によって設立されたソーラーシティは、太陽光発電のトータル・ソルー
ション・プロバイダーとして、住宅、商業・公共用の分散型太陽光発電システムの設計、販売、施工、ファイ
ナンス、そして運営・メインテナンス・監視など全ての工程を行う。2015年には住宅用太陽光発電市場の35
%、商業・産業・公共用市場の14%のシェアを占め、競合他社を大きく引き離した。14年といえば、米国
では中国メーカーによる太陽光パネルのダンピングとそれに伴う反ダンピング関税の適応などで、パネルの安
定的な調達に問題が生じた。ソーラーシティは、シレボ社を買収することにより、独自に生産することで、パ
ネルの確保と 競争力を高めるという戦略を掲げた。
実際、買収時に行った株主総会で、同社は、「シレボ社買収により太陽光パネルを)国内生産することで、海
外生産より競争力が高まり、(中国産パネルの購入をなくすことで)輸入税が避けられ、運送にかかるコスト
も大幅に削減できる」と発表。つまり、従来のパネルより高効率、低コストで、「導入コスト」が一番低く提
供できる。
ソーラーシティは、ニューヨーク州バファロー地域にシレボ社の技術を使用した太陽電池のギガファクトリー
工場を建設することで、7億5000万米ドルの補助金を同州から支給される。工場の建設には約3億5000万米ドル、
そして製造機械設備に約4億米ドル費やされるという。建設中の120万平方フィートの製造施設は、同州の所有
で、ソーラーシティがリースすることになるが、なんとその月々のリース料は「1米ドル」!。これら手厚い
待遇と引き換えにソーラーシティに求められた条件は、今後10年間に渡り、50億米ドルをキャピタル、運営、
サプライチェーンに費やし、バファローに1500、そしてニューヨーク州全体に5000人の雇用をもたらす。14
年、バッファロー地域のリバーベンドでは、大々的にソーラーシティのギガファクトリー工場の着工式が行わ
る。その際、同社は16年夏にはパネルの製造を開始すると発表。完成時には、1日1万枚のパネルを生産で
きるこの工場は、西半球で最大規模になると言われる。
● シレボ社の買収は失敗だった?
今年に入り、工場は、ほぼ完成したものの、ソーラーシティの財務状況が悪化したことで、生産開始は17年
に延期された。さらに、バッファローに期待された新規雇用数も1500から500人へと下げられた。生産開始の
遅れ、さらにテスラのパナソニックの選択に、「シレボ社のテクノロジーは難しすぎたのか、それともコスト
が高すぎるのか」と、ソーラーシティによるシレボ社の買収失敗説を語るメディアが増えている。ただ、10
月末にマスク氏が「ソーラールーフ・タイル」を発表したことから考えると、シレボ社のテクノロジーはこの
新製品に使われ、新築、または屋根の葺き替えを必要とする「新しい屋根」市場に搭載され、パナソニック製
のパネルは「既築の屋根」に搭載されるという使い分けになりそうだ。住宅用の2つの異なる市場にそれぞれ
に合ったテクノロジーで開拓する戦略なのかもしれないと言われている。
【三成の旗印入りお守り:石田地蔵尊残る宗安寺で提供】
戦国武将・石田三成の念持仏がある彦根市本町一の宗安寺(竹内眞道住職)は、三成の旗印大一犬万大吉」を
印刷したお守りの提供を始めた。宗安寺は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで井伊直政が佐和山城跡の
山麓に入った際、高崎(群馬県高崎市)から移築されて、それまでの安国寺から改名されたのが始まり。慶長
8年に現在の地に移されている。関ケ原の戦い後に佐和山城が焼失し、山麓にあった瑞星マも被害にあったと
され、同寺に残されていた 地蔵菩薩像や千体佛が宗安寺の末寺だった称名院(錦町)に移され、その後、宗
安寺で保管されるようになった。地蔵菩薩像は 石田地蔵尊とも呼ばれ、 千体俤と共に三成が大切にしていた。
宗安寺では、「一人が万民のために、万民がI一人のために・・・」の大一大万大吉の思いを広めるためにお
守りを作成。縦9センチ×横5センチの大きさで、三成が豊臣秀吉と出会ったきっかけにもなった百獣の茶」
などにちなんで緑色を基調にし、表に大一大万大吉、裏に宗安寺と記されている。
宗安寺で1個800円で販売。夢京橋あかり館ではお守り袋が500円で売られており、それを宗安寺に持参
して、300円で願い事を書く紙とお札を受け取って袋の中に入れる方法もある。その際の縦覧料は無料。問
い合わせは宗安寺(0749-22-0801。(出典:しが彦根新聞 2016.11.05)
ところで、宗安寺に三成が関ヶ原の戦いの前に拝んでいたという千体仏、三成の念持仏として存在することが
「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」(テレビ朝日 2015.06.01 )で紹介された折り、宗安寺住職竹内眞道
に千体仏について「石田三成公は阿弥陀様の救いを求めていたことがひしひしと伝わりますし、時に多くの命
にご加護が行き渡ることを祈っていたのかもしれないですね」と答えている。千体仏と石田地蔵尊は、もとは
戦国時代の武将は 身代わり地蔵――危険な目に遭ったときにお地蔵さんが現れ身代わりになる――この世で
最後とする究極の美の力として耐えうるお地蔵様と崇めたものだが、これを三成が母の菩提を弔うために佐和
山の山麓に建てた瑞岳寺に安置した。また宗安寺には、淀殿が拝んた阿弥陀如来立像が井伊家の家臣所藤内に
より運ばれ安置され、さらには、大坂夏の陣のおり木村重成重成を討ち取った彦根藩士が手厚く葬った首塚も
もある。
それにしても偶然とはいえ、小学生の朝のラジオ体操の場所であった大阪の太融寺には淀君の墓が納められ、
賤ヶ岳の戦いでは、豊臣秀吉方として高山右近の部隊として参戦し、宗安寺の墓で両親が眠っているいるとは
不思議な縁を感じざるをえない。明日は、墓参り方々お守り買って帰ることにしよう。『銃士は国王のために
国王は銃士のために』(One for All, All for One.:アレクサンドル・デュマ「三銃士」)、あるいは、『ひとり
ひとりはみんなのために、みんなはひとりひとりのために』(Each foe All and All for Each:フリードリヒ・ヴ
ィルヘルム・ライファイゼ「信用組合論」第2版序文)、そして、今夜の『皆のために、皆は一人のために
「大一大万大吉」』(石田三成)である。