58 和合悦楽 / 兌為沢(だいたく)
※ 兌とは悦ぶこと。兌は沼沢、少女、ロを表わし、この卦はそれが
二つ並んでいて、乙女が二人、楽しげに語らい笑う姿を示してい
る。そこには見る者をを思わず微笑ませろ和やかな雰囲気がある。
心たのしく和やかに暮らすことの重要さを説くのがこの卦である。
口は笑ったり語り合ったりして心を通わせるものでもあるが、ひ
とつ間違えば、口ぎたなくののしりあって不和を椙くものでもあ
る。人間関係の潤滑油としての口は、なによりも誠実な心に支え
られていなければならない。巧言令色は真の人間関係を作るもの
ではない。なお、学校関係の団体や寮に麗沢という名が多いのは、
この卦の大象伝から取ったものである。
※ 麗沢とは、二つの沼沢が互いにうるおし合うように、友人が互い
に助け合いながら学ぶこと(麗=連なる意)。
※ 大象伝とは、卦を説明する象伝の一つ。一爻(易の卦を構成する
基本記号。長い横棒(─)と真ん中が途切れた2つの短い横棒
(--)の2種類がある)を説明するものを小象、一卦を説明する
ものを大象という。
4.遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える
彼女が帰ってしまうと私は一人きりで、ひどく手持ちぶさたになった。ベッドには彼女の窪み
がまだ残っていた。何をする気にもなれず、テラスのデッキチェアに寝転んで本を読んで時間を
潰した。雨田画伯の本棚にあるのは古い書籍ばかりだった。今では手に入りそうにない珍しい小
説も少なからずあった。その昔にはけっこう人気があったのに、いつしか人々に忘れ去られ、も
うほとんど誰の手にもとられない作品だ。私はそんな古くさい小説を好んで読んだ。そして時間
に取り残されたような気持ちを、その会ったこともない老人と共有した。
日が暮れるとワインのボトルを開け(時折ワインを飲むことが当時の私にとっての唯一の贅沢
だった。もちろん高価な物ではないが)、古いLPレコードを聴いた。レコード・コレクション
のすべてはクラシック音楽で、その大半はオペラと室内楽だった。どれも大事に聴かれてきたら
しく、盤面には疵ひとつなかった。私は昼間は主にオペラを聴き、夜になると主にベートーヴェ
ンとシューベルトの弦楽四重奏曲を聴いた。
その年上の人妻と関係を結び、生身の女性の身体を定期的に抱くようになって、私はある種の
落ち着きを得られたように思う。成熟した女性の肌の柔らかな感触は、私の抱いていたもやもや
とした気分を少なからず鎖めてくれた。少なくとも彼女を抱いているあいだは、いろんな疑問や
懸案を一時的に棚上げしてしまうことができた。でも何を描けばいいのか、アイデアが浮かんで
こないという状況に変わりはなかった。私はときどきベッドの中で、裸の彼女を鉛筆で素描した。
その多くはポルノグラフィックなものだった。私の性器が彼女の中に入っているところとか、彼
女が私の性器を口にふくんでいるところとか。彼女もそんなスケッチを、顔を赤らめながらも喜
んで眺めていた。もしそんなところを写真に撮ったら、大半の女性は嫌がるだろうし、そういう
ことをする相手に嫌悪感や警戒心を抱いたりもするだろう。しかしそれが素描であれば、そして
うまく描けていれば、彼女たちはむしろ喜んでくれる。そこには生命の温かみがあるからだ。少
くとも機械的な冷ややかさばない。でもどれだけうまくそんなスケッチができたところで、私か
本当に描きたい絵の像はやはりひとかけらも浮かんでこなかった。
私が学生時代に描いていたような、いわゆる「抽象画」は現在の私の心にはほとんど訴えかけ
てこなかった。私はそのようなタイプの絵画にもう心を惹かれなかった。今の時点から振り返っ
てみれば、私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに「フォルムの追求」に過ぎなか
ったようだ。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられて
いた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手
が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時于に入れることができたのは、
比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当
たらない。そこにあるのは、良く言ってせいぜい「才気」に過ぎなかった。
私は三十六歳になっていた。そろそろ四十歳に手が届こうとしている。四十歳になるまでに、
なんとか画家として自分固有の作品世界を確保しなくてはならない。私はずっとそう感じていた。
四十歳という年齢は人にとってひとつの分水嶺なのだ。そこを越えたら、人はもう前と同じでは
いられない。それまでにまだあと四年ある。しかし四年なんてあっという問に過ぎてしまうだろ
う。そして私は生活のために肖像画を描き続けたことで、既にずいぶん人生の回り道をしてしま
った。なんとかもう一度皮、時間を自分の側につけなくてはならない。
その山中の家で暮らしているうちに、私はその家の持ち主である雨田典彦のことをより詳しく
知りたいと思うようになってきた。私はそれまで日本画に関心を抱いたことは一度もなかったか
ら、雨田典彦という名前を耳にしたことはあっても、そしてそれがたまたま私の友人の父親であ
っても、披がどういう人物で、これまでどんな絵を描いていたのか、ほとんど知らなかった。雨
田典彦は日本画壇における重鎮の一人ではあるが、世間的な名声とは無縁に、まったくと言って
いいくらい表舞台には出ないで、一人で静かに――というかかなり偏屈に――創作生活を送って
いる。私が彼に関して知っているのはせいぜいそれくらいのことだった。
しかし彼の残していったステレオ装置で、彼のレコードのコレクションを聴き、彼の書棚から
本を借りて読み、彼の眠っていたベッドで眠り、彼の台所で日々の料理を作り、彼の使っていた
スタジオに出入りしているうちに、私は次第に雨田典彦という人物に興味を抱くようになってき
た。好奇心、と言った方が近いかもしれない。かつてはモダニズム絵画を指向し、ウィーンまで
留学しながら、帰国後唐突に日本画に「回帰する」というその歩みにも少なからず興味をそそら
れた。詳しいことはよくわからないが、あくまで常識的に考えて、洋画を長く描き続けてきた人
間が日本画に転向するのは、決して容易いことではない。これまでに苦労して身につけてきた技
法を、いったんすべて投げ捨てる決意が必要とされる。そしてもう一度ゼロから出発しなおさな
くてはならない。にもかかわらず、雨田典彦はあえてその困難な道を選択したのだ。そこには何
か大きな理由があったはずだ。
ある日、絵画教室の仕事の前に、小田原市の図書館に寄って雨田典彦の画集を探してみた。地
元在住の画家ということもあるのだろう、図書館には三冊の立派な彼の画集があった。そのうち
の一冊には、彼が二十代の頃に描いた洋画も「参考資料」として掲載されていた。驚いたことに
彼が青年時代に描いていた一連の洋画には、私のかつての「抽象画」をどことなく思い出させる
ところがあった。スタイルが具体的に同じというのではないのだが(戦前の彼はキュービズムの
影響を色濃く受けていた)、そこに見受けられる「貪欲にフォルムそのものを追求する」という
姿勢には、私の姿勢と少なからず相通ずるところがあった。もちろん後日一流の画家になるだけ
あって、私の描いていた絵なんかよりはずっと底が深く、説得力もあった。テクニックにも驚嘆
すべきものがあった。おそらく当時は高い評価を受けていたはずだ。しかしそこには何かが欠け
ていた。
Hans Erni (Feb. 21, 1909 – Mar. 21, 2015)
私は図書館の机の間に座り、それらの作品を長いあいだ子細に眺めた。いったい何か足りない
のだろう? 私にはその何かをうまく特定することができなかった。しかし結局のところ、遠慮
なく言い切ってしまえば、それらはとくになくてもかまわない結なのだ。そのままどこかに永遠
に失われてしまっても、べつに誰も不便を感じないような絵なのだ。残酷な物言いかもしれない
が、それが真実だった。七十年以上の歳月を経た現在の時点から見ると、そのことがよくわかる。
それから私はページを繰って、日本画家に「転向」したあとの彼の絵を、時代を追って眺めて
いった。初期のいくぶんぎこちなさを残した、先行両家の手法を真似たような時代を経て彼は
徐々に、しかし確実に自分自身の日本画のスタイルを見出していった。私はその軌跡を順序立て
て辿ることができた。時折の試行錯誤はあったものの、そこに迷いはなかった。日本画の筆をと
ってからの彼の作品には、彼にしか描けない何かがあり、彼自身もそのことを自覚していた。そ
して彼はその「何か」の核心に向けて、自信に満ちた足取りでまっすぐ連んでいった。そこには
遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える洋画時代の「何かが欠けている」という印象
はもう見受けられなかった。彼は「転向」したというよりは、むしろ「昇華」したのだ。
雨田典彦は最初のうちは、普通の日本画家と同じように、現実にある風景や花を描いていたが、
やがて(おそらくそこには何かしらの動機があったはずだが)主に日本の古代の風景を描くよう
になった。平安時代や鎌倉時代に題材をとったものもあったが、彼がもっとも愛好したのは西暦
七世紀の初め頃、つまり聖徳太子の時代だった。そこにあった風景や、歴史上の出来事や、一般
の人々の営みを彼は大胆に、そして緻密に画面に再現していった。もちろんそんな風景を実際に
彼が目撃したわけではない。しかしおそらく心の目をもって、彼はありありとそれを観たのだ。
なぜそれが飛鳥時代だったのか、その理由まではわからない。しかしそれが彼の独自の世界とな
り、固有のスタイルになった。またそれと時を同じくして、彼の日本画のテクニックはまさに磨
き抜かれたものになっていった。
注意深く眺めていると、あるポイントからどうやら、彼は自分が描きたいと思うものをなんで
も自由に描けるようになったようだった。その頃からあとの彼の筆は、思いのままに自由関連に
画面の上を躍り、舞っているようだった。彼の絵の素晴らしいところはその空白にあった。逆説
的な言い方になるが、描かれていない部分にあった。彼はそこをあえて描かないことによって、
自分か描きたいものをはっきりと際だたせることができた。それはおそらく日本画というフォー
マットがもっとも得意とする部分であるのだろう。少なくとも私は洋画において、そのような大
胆な空白を目にしたことはなかった。それを見ていると、雨田典彦が日本画家に転向した意味が、
私にはなんとなく理解できるような気がした。私にわからなかったのは、いつどのように彼がそ
の大胆な「転向」を決心し、現実に実行したかだ。
巻末にあった彼の略歴を見てみた。彼は熊本の阿蘇に生まれた。父親は大地主で地方の有力者
であり、家はきわめて裕福だった。少年時代から彼の絵の才能は際だっており、若くして頭角を
現した。東京美術学校(後の東京芸術大学だ)を卒業したばかりの彼が、将来を嘱望されてウィ
ーンに留学したのは一九三六年末から三九年にかけてたった。そして三九年の初め、第二次大戦
が始まる前に、ブレーメン港を出る客船に乗って帰国していた。三六年から三九年といえば、ド
イツでヒットラーが政権を握っていた時代だ。オーストリアがドイツに併合された、いわゆる
「アンシュルス」(※ Anschluss)がおこなわれたのが一九三八年の三月だ。若き雨田典彦は、ち
ょうどその激動 の時代にウィーンに滞在していたことになる。そこで彼は様々な歴史的光景を
目撃したに違いなそこでいったい彼の身に何か起こったのだろう?
私は両集のひとつに収録されていた、「雨田典彦論」と題された長い論考を通読してみたが、
ウィーン時代の彼についてはほとんど何も知られていないということが判明しただけだった。日
本に戻ってきてからの日本両家としての彼の歩みについては、かなり具体的に詳細に論じられて
いるのだが、おそらくウィーン時代になされたとされる「転向」の動機や経緯については、漠然
としたあまり根拠のない憶測がなされているだけだった。ウィーンで彼がどんなことをしていた
のか、そして何か彼に大胆な「転向」を決意させたのか、そのあたりは謎のまま残されていた。
戦前生まれのキュービズムの影響を受け、戦後転向した「洋画家」のことが気になり、しばらく、日
本の画家だけでなくネット検索してみる。東郷青児、藤田嗣治などをサーフしていく。天才たちのオ
ンパレード。写真技術(Graphic Arts)と出会って筆を折った当時の記憶がフラシュバック。ピカソは
逆にキュビズムを創造し数多くの作品を描き続け多大な影響を与える、失敗したからといっても、遠
くから見ればおおかたのものごとは美しく見えるということもあしね。本筋から外れた、面白くなっ
ていきそうだ。
この項つづく
卒業式、 まだ見ぬ世界、この宇宙に飛び出す新しいロケットに乗り込んだ新米パイロットの操縦次
第で、天国地獄。「四月がやって来ると彼女も/川は満ちて雨で潤う頃/五月、彼女は居てくれるだ
ろう/再び私の腕の中で安らぐ・・・・・」、和合悦楽ってか?!しかし、八月になれば、別れが待って
いるかもしれないって、ここではそんな野暮なことは考えないことにしよう。この地球は公転/自転
し、ピカソは恋愛遊戯を繰り返しながら新しい絵画の宇宙を誕生させたのだから。
April come she will
When streams are ripe and swelled with rain;
May, she will stay,
Resting in my arms again ......
‘April Come She Will’ / Simon & Garfunkel