荘公八、九年、斉の無知の乱 / 鄭の荘公小覇の時代
※ 鄭は小覇・荘公の死後、宋・斉・蔡・衛等の連合軍と戦って敗れたうえ
内乱によってにわかに衰える。衛も内乱のためにふるわない。この間に
あってひとり強盛を諸っているのが斉であ。魯は斉と一戦を交えたもの
の、斉の強さに恐れをなし、魯の桓公は夫人文姜を(ぶんきょう)伴っ
て斉を親善訪問する。ところが斉の襄公は文姜と通じ、力の強い公子彭
生(ほうせい)に命じて、魯の桓公を車中に圧殺せしめ、その申し訳に
いっさいの罪を彭生に負わせてこれを殺す。弱気の魯はあえて抗議もな
しえず泣き寝入りする。魯の桓公十八年のことである。魯ではその子荘
公があとをついだ。かくて斉の襄公は、紀を滅ぼし、鄭の君・子甕(し
び)を殺し、魯・宋・陳・蔡の諸国を率いて衛を伐ち、斉の桓公に先ん
じて覇業を成しとげようとするが、その一歩手前で公孫無知の反乱にあ
って殺された。魯では荘公九年にあたる。
米国国防省 太陽光マイクログリッドレジリエンス向上
米ミシガン技術大学(Michigan Technological University: MTU)の研究者らは、太陽光発電をベースとし
たマイクログリッドが、レジリエンス(復元力)の向上に効果があるとの研究結果を発表した。米軍基
地や施設などに導入することで、電源の複数化により停電を防止でき、サイバー攻撃や自然災害に対す
る強靭性が増すという(日経テクノロジー 2017.05.15)。Pearce助教授らは、請負業者として全米ト
ップ20の事業者を調査し、さらにロッキード・マーティン(Lockheed Martin)、ベクテル(Bechtel)、
ゼネラル・エレクトリック(General Electric: GE)の3社については詳細な事例研究を行ったという。米
軍は既に再生可能エネルギーの計画を策定。2025年までに25%のエネルギーを再エネで賄う。しかし
マイクログリッド構築まで完了、またはその計画がある基地は、米国内の400カ所以上のうちわずか
27カ所に過ぎない(上図)。このため、基地の大半は長期にわたる停電に対して脆弱であると指摘され
ていた。同上研究グループは、再エネの導入は、出発点としては良いが、さらなる取り組みが必要。ほ
とんどの基地が電源のバックアップを(化石燃料ベースの)発電機に依存し、燃料供給の途絶に対して
も脆弱だ」と説明。
● 災害による損失は180億ドル、年間約100件のサイバー攻撃
従来、電力網に対する主な脅威は、竜巻、台風、吹雪といった自然災害によってもたらされてきた。そ
れらによる停電や米国内のインフラに対する損害は毎年、180億~330億ドルに上る。さらに、2013年に
シリコンバレーで発生した変電所への銃による攻撃や、ウクライナで2016年に発生したコンピューター
へのハッキング攻撃による停電など、電力網への攻撃は物理的なものとサイバー系のものの両方が起こ
り得る。シリコンバレーの銃撃は、影響が27日間続き、1億ドルもの損害を被る。米国防総省による
と、2012年に約200件のサイバー攻撃が米国の重要なインフラに対して行われ、そのうちの半分近くが電
力網を標的としていた。これらの経験をを踏まえ、太陽光マイクログリッド」を構築すれば、インフラ
の柔軟性を高め、電力網からの給電がストップした場合でも電力の供給が継続し、重要なインフラが機
能を維持できる。「太陽光発電システムのコストは下落しており、地理的にも長期間にわたって太陽光
という『燃料』を入手できる。太陽光発電がマイクログリッドの電源として最適だと話す(Pearce助教授)。
さらに、基地がエネルギー面で独立性を高めることが、地域経済を支えることになる。先端的な技術や
政策が重要な社会インフラやサービスとして社会に浸透する過程で、軍はその架け橋として重要だとも
指摘しているという。
May 8, 2017 Michigan Tech News
【RE100倶楽部:蓄電池篇】
カルフォルニア州 蓄電池を推進
● 放電時間と容量で補助率を変動する新手法、需給バランスに活用
米国カリフォルニア州は2017~19年の3年間に5億6669万ドルの予算を投じ、コージェネレーション(熱
電併給)システム、風力、蓄電池、そして燃料電池などの導入を拡大する。この予算が組まれているの
は、セルフ・ジェネレーション・インセンティブ・プログラム(SPIG:自家発電補助金プログラム)で
2010年にカリフォルニア州の温室効果ガス排出の削減とグリッド(系統網)の安定化を促すために開始。
今回、蓄電池への予算が拡大され、総予算の79%の4億4819万ドルが蓄電池に充てられる。うち3億9081
万ドルは出力10kW以上の大型蓄電池、残りの5738万ドルは出力10kW未満の小規模・住宅用蓄電池に充て
られている。5月1日に予約申請の公募を開始した。実は、前回の公募ではプログラム開始と同時に蓄
電池用の予算枠が少数の施工業者・メーカーにより、非住宅蓄電池用に抑えられてしまう。その反省か
ら、今回はより多くの家庭や企業に蓄電池が広まように、制度上、いくつか改善している。まず今回は、
住宅用に予算が割り当てられ、1社の施工業者が申請できる件数にも上限をもうけた。さらに、補助金が
5段階(ステップ)に分かれており、予約申請の合計額が予算に達すると補助金が下がる(ステップダ
ウン)仕組み。具体的には、ステップ予算に達するたびに補助金額は0.05ドル/Wh下がるようになる。し
かし、もしプログラム開始10日以内に予算に達した場合、2倍の0.10ドル/Whで下がる。つまり、需要
が高ければ、補助金額の下がりかたに加速がつき、資金効率を高める狙い。
Apr 27, 2017
【RE100倶楽部:エネルギーゼロハウス篇】
● 「3電池+V2H」で電気と水を完全自給
TOKAIホールディングスは、太陽光とLPガス、雨水を利用し、電気と水を完全自給する実証住宅「OTSハ
ウス」を静岡県島田市に建設する。太陽光発電と蓄電池、燃料電池で電気を賄い、雨水の循環利用によ
り生活水を自給自足する。OTSハウスは「On the Spot」=「そこにいるだけで守られる家」を意味する。
4月27日に着工し、7月末に建物が完成して初期実証を開始。10月に竣工し公開する予定。同社のほかグ
ループ企業のTOKAI(静岡市)、TOKAIコミュニケーションズ(静岡市)、東海ガス(静岡県焼津市)、
TOKAIケーブルネットワーク(静岡県沼津市)が共同で取り組む。屋根上に設置する太陽電池に加え、
燃料電池コージェネレーション電併給)システム(「エネファーム」)、定置型蓄電池による「3電池」
連携システム(設置容量5.62kW、年間平均発電量15.4kWh/日)と、太陽光発電と電気自動車(「リーフ
」)の連動によるV2H(Vehicle to Home)システム(設置容量4.28kW、年間平均発電量11.7kWh/日)の
2系統を組み合わせる。商用電力を必要としない「電気の完全自給自足」を実現する。
● 電気・水道代ゼロ、年間14万円の経済メリット
また、雨水を貯留し、浄化システムによって生活用水に利用する。さらに、生活の中で排出される排水
も、一部を再浄化して生活用水として循環利用する。この生活用水の循環利用サイクルの確立により、
年間を通じて雨水のみで生活用水(1日約800~900リットル)を賄う、上下水道を必要としない「水の
完全自給自足」を実現する。電気・生活用水の完全自給自足の実現により、電気代と水道代がゼロにな
る。LPガスの使用量が増えるものの、その分を差し引いても、年間約14万円のコスト削減効果が期待で
きると試算している。さらに、同社グループの生活インフラサービスの利用に伴うポイント還元を合算
して年間約15万8000円の経済的メリットがある。
【環境浄化の切り札?! MIT大の汚染物質除去システム】
イオン選択的電気化学システムは、液相分離、特に浄水および環境浄化ならびに化学製品の製造に利用
されているである。また、レドックス材料は、優れたイオン選択性により、分離機能を提供する。この
ほどマサチューセッツ工科大学の研究グループは水から汚染物質を除去する新しい方法の開発したこと
を公表。それによれば、実用化に向けての課題が残る中、水から殺虫剤、化学汚染物質、農薬、医薬品
などの有機汚染物質を選択的に除去する電気化学的プロセス原理に基づくポテンシャルスタット法の応
用で、極微量(百万分の一濃度)の汚染物質の除去とその耐久性5百繰り返し)試験に成功する。
従来法では、水相プロセスの水分離は電流効率の低下や化学反応により電気化学プロセスの機能低下が
生じる。しかし、カソードとアノードの両方の酸化還元機能を伴う非対称ファラデー材料セルは、選択
的イオン結合に対して最大96%の電流効率で標的の有機還元剤の水分減少を抑制しイオン分離を円滑
進めることが可能になる。非対称セルには、フェロセン陽イオンと電子伝達特性が一致し陰イオン選択
性をもつ有機金属酸化還元陰極――コバルトポリマーは芳香族陽イオン吸着に特に有効――使用する。
この様に、二重機能化された非対称電気化学セルの優れた性能は。次世代の水相分離技術としてい期待
されている。この高効率で電気的に作動するシステムは、従来の高圧を必要とする分離膜システムや高
電圧で動作する電気化学システムと異なり、この新しいシステムは低電圧/低圧下で動作する特徴をも
ち、例えば、ソーラーパネルからの電力で動作可能なことが大きな魅力となる。
省エネでいて、汚染物質の除去や極低濃度の化学物質の測定あるいは有価物質の回収が可能となれば、
電気化学的分離工学のプラットフォームを大きく変える可能性がある。これは面白い。
♞ Platform may be used to explore avenues for quantum computing.
26 姿かたちはありありと覚えていながら
私はやってきたガールフレンドに、免色の家での夕食会のことを話した。もちろん秋川まりえ
のことや、テラスの三脚つき高性能双眼鏡や、騎士団長が密かに同伴したことは除いて。私か話
しだのは、出てきた食事のメニューだとか、家の間取りだとか、そこにどんな家具が置いてあっ
ただとか、そのような害のないことだけだ。我々はベッドの中にいて、どちらもまったくの裸だ
った。三十分ほどにわたる性的な営みをすませたあとのことだ。騎士団長がどこかから観察して
いるのではないかと、最初のうちはどうも落ち着かなかったけれど、途中からはそれも忘れてし
まった。見たければ見ればいい。
彼女は熱心なスポーツ・ファンが、長旅チームの昨日の試合の得点経過を事細かに知りたがる
ように、食卓に供された食事の詳細を知りたがった。私は思い出せるかぎり正確に、前菜からデ
ザートまで、ワインからコーヒーまで、内容を逐一丹念に描写した。食器も含めて。私はもとも
とそういう視覚的な記憶力に恵まれている。どんなものでもいったん集中して視野に収めれば、
ある程度時間が経過しても、細かいところまひとつひとつの料理の特徴を絵画的に再現すること
がでかなり詳しく具体的に思い出せる。だから日の前 にある物体を手早くスケッチするように、
できた。彼女はうっとりとした目つきで、そんな描写に耳を傾けていた。ときどき実際に唾を飲
み込んでいるようだった。
「素敵ね」と彼女は夢見るように言った。「私も一度でいいから、どこかでそういう立派な料理
をご馳走されたいな」
「でも正直言うと、出された料理の昧はほとんど覚えていないんだ」と私は言った。
「料理の昧のことはあまり覚えていない? でもおいしかったんでしょう?」
「おいしかったよ。とてもおいしかった。そういう記憶はある。でもそれがどんな昧だったかは
思い出せないし、言葉で具体的に説明することもできない」
「姿かたちはそれだけありありと覚えていながら?」
「うん、絵描きだから、料理の姿かたちをそのまま再現することはできる。それが仕事のような
ものだから。でもその中身までは説明できない。作家ならたぶん昧わいの内容まで表現できるん
だろうけど」
「変なの」と彼女は言った。「じやあ、私とこんなことをしていても、あとで細かく絵には描け
ても、その感覚を言葉で再現することはできないということ?」
私は彼女の質問を頭の中でいったん整理してみた。「つまり性的な快感について、というこ
と?」
「そう」
「そうだな。たぶんそうだと思う。でもセックスと食事を比較していえば、性的な快感を説明す
るよりは、料理の味を説明する方がよりむずかしいような気がするな」
「つまりそれは」と彼女は初冬の夕暮れの冷ややかさを感じさせる声で言った。「私の提供する
性的な快感よりは、免色さんの出す料理のお味の方が、より繊細で奥深いということかしら?」
「いや、そういうわけじゃない」と私は慌てて説明を加えた。「それは違う。ぼくが言っている
のは、中身の質的な比較じゃなくて、ただ説明の難易度の問題だよ。テクニカルな意味で」
「まあ、いいけど」と彼女は言った。「私があなたに与えるものだって、なかなか悪くないでし
ょう? テクニカルな意味で」
「もちろん」と私は言った。「もちろん素晴らしいよ。テクニカルな意味でも、他のどんな意味
でも、絵にも描けないくらい素晴らしい」
正直なところ、彼女が私に与えてくれる肉体的快感は、まったく文句のつけようのないものだ
った。私はこれまで何人かの女性と――自慢できるほど多くの数ではないにしても―――性的な
経験を持った。しかし彼女の性的器官は、私が知っているどのそれよりも繊細で変化に富んでい
た。それがリサイクルされずに何年も放置されていたというのはまさに憂うべきことだ。私がそ
う言うと、彼女はまんざらでもない顔をした。
「嘘じゃなくて?」
「嘘じゃなくて」 「英国軍が四台入っているという、伝説の彼のガレージ」
「いや、見なかったな」と私は言った。「なにしろ広い敷地だから、ガレージまでは目につかな
かったよ」
「ふうん」と彼女は言った。「ジャガーのEタイプが本当にあるかどうかも訊かなかったの?」
「ああ、訊かなかったよ。思いつきもしなかったな。だってぼくはそれほど車には興味がないか
らさ」
「トヨタ・カローラの中古のワゴンで文句ないのね?」
「なにひとつ」
「私だったら、Eタイプにちょっと触らせてもらうと思うんだけどな。あれはほんとに美しい車
だから。子供の頃にオードリー・ヘップバーンとピーター・オトウールのでている映画を観て、
それ以来ずっとあの車に憧れていたの。映画の中でピーター・オトゥールがぴかぴかのEタイプ
に乗っていたの。あれは何色だったかな? たぶん黄色だったと思うんだけど」
少女時代に目にしたそのスポーツカーに彼女が思いをはせている一方で、私の脳裏にはあのス
バル・フォレスターの姿が浮かび上がってきた。宮城県の海岸沿いの小さな町、その町はずれの
ファミリー・レストランの駐車場に駐められていた白いスバルだ。私の観点からすれば、とくに
美しい車とは言いがたい。ごく当たり前の小型SUV、実用のために作られたずんぐりとした機
械だ。それに思わず手を触れてみたくなるというような人はかなり少ないだろう。ジャガーEタ
イプとは違う。
「で、あなたは温室やらジムやらも、見せてもらわなかったわけ?」と彼女は私に尋ねた。彼女
は免色の家の話をしているのだ。
「ああ、温室も、ジムも、ランドリー室も、メイド用の個室も、台所も、六畳くらいあるウォー
クイン・クローゼットも、ビリヤード台のあるゲーム室も、実際には見せてもらわなかったよ。
案内はされなかったからさ」
免色にはどうしてもその夜、私に話さなくてはならない大事な案件があった。きっとのんびり
家の案内をするどころではなかったのだろう。
「ほんとに六畳くらいのウォークイン・クローゼットとか、ビリヤード台のあるゲーム室とかが
あるの?」
「知らないよ。ただのぼくの想像だ。実際にあっても不思議はなさそうだったけど」
「書斎以外の部屋はぜんぜん見せてもらわなかったわけ?」
「うん、とくにインテリア・デザインに興味かおるわけじやないからね。見せてもらったのは玄
関と居間と書斎と食堂だけだ」
「例の〈青髭公の関かずの部屋〉の目星をつけたりもしなかったの?」
「そこまでの余裕はなかった。『ところで免色さん、かの有名な〈青髭公の関かすの部屋〉はと
こでしょうか』って、本人に尋ねるわけにもいかないしね」
彼女はつまらなそうに舌打ちをして首を何度か振った。「ほんとに男の入って、そういうとこ
ろがだめなのよね。好奇心ってものがないのかしら? もし私だったら、隅から隅まで凪めるよ
うに見せてもらっちやうけどな」
「男と女とでは、きっとそもそもの好奇心の領域が違っているんだよ」
「みたいね」と彼女はあきらめたように言った。「でもまあいいわ。免色さんの家の内部につい
て、たくさんの新しい情報が入っただけでもよしとしなくちや」
私はだんだん心配になってきた。「情報を溜め込かのはともかく、それをあまりよそで言いふ
らされると、ぼくとしてはちょっと困るんだ。そのいわゆるジャングル通信で……」
「大丈夫よ。あなたがいちいちそんな心配をすることはないんだから」と彼女は明るく言った。
それから彼女はそっと私の手を取り、自分のクリトリスヘと導いた。そのようにして私たちの
好奇心の領域は再び大幅に重なり入口うことになった。教室に出かけるまでにはまだしばらく間
があった。そのときスタジオに置いた鈴が小さく鳴ったような気がしたが、たぶん耳の錯覚だろ
う。
彼女が三時前に、赤いミニを運転して帰ってしまったあと、私はスタジオに入り、棚の上の鈴
を手にとって点検してみた。鈴には見たところ何の変化も見受けられなかった。それはただ静か
にそこに置かれているだけだった。あたりを見回しても騎士団長の姿はなかった。
それから私はキャンバスの前に行ってスツールに腰を下ろし、白いスバル・フオレスターの男
の、描きかけの肖像画を眺めた。これから進んでいくべき方向を見定めようと思って。でもそこ
で私はひとつ、思いも寄らぬ発見をすることになった。その絵は既に完成していたのだ。
言うまでもなくその絵はまだ制作の途上にあった。そこに示されたいくつかのアイデアが、こ
れからひとつひとつ具象化されていくことになっていた。現在そこに描かれているのは、私のこ
しらえた三色の絵の具だけで造形された、男の顔のおおまかな原型に過ぎない。木炭で描いた下
絵の上に、それらの色が荒々しく塗りたくられている。もちろん私の目は、その画面に「白いス
バル・フオレスターの男」のあるべき姿かたちを浮かび上がらせることができる。そこにはいわ
ば潜在的に、騙し絵のように、彼の顔が描き込まれている。しかし私以外の人の目にはその姿は
まだ見えていない。その絵は今のところ、ただの下地に過ぎない。やがて来たるべきものの示唆
と暗示に留まっている。ところがその男は――私が過去の記憶から起こして描こうとしていたそ
の人物は――そこに提示されている今の自分の暗黙の姿に、既に充足しているようだった。ある
いは、その自分の姿をこれ以上明らかにしてもらいたくないと強く求めているようだった。
これ以上なにも触るな、と男は画面の奥から私に語りかけていた。あるいは命じていた。この
まま何ひとつ加えるんじやない。
その絵は未完成なままで完成していた。その男は、不完全な形象のままでそこに完全に実在し
ていた。矛盾した語法だが、それ以外に形容のしようがない。そしてその男の隠された像は画面
の中から、作者である私に向かって、強い思念のようなものを送り届けようとしていた。それは
私に何かを理解させようと努めていた。でもそれがどんなことなのか、私にはまだわからない。
この男は生命を持っているのだ、と私は実感した。実際に生きて動いているのだ。
私はまだ絵の具が乾いていないその絵をイーゼルから下ろし、絵の具がつかないように裏向き
にして、スタジオの壁に立てかけた。その絵をそれ以上目にしていることに、私はだんだん耐え
られなくなってきた。そこには何か不吉なものが――おそらく私が知るべきではないものが含ま
れているように思えた。
その絵の周辺からは、漁港の町の空気が漂ってきた。その空気には潮の匂いと、魚の鱗の匂い
と、漁船のディーゼル・エンジンの匂いが入り混じっていた。海鳥の群れが鋭い声で鳴きながら、
強い風の中をゆっくり旋回していた。おそらくは生まれてからゴルフなんてしたこともないであ
ろう中年男がかぶっている黒いゴルフ・キャップ。浅黒く日焼けした顔、こわばった首筋、白髪
の混じった短い髪。使い込まれた革のジャンパー。ファミリー・レストランに響くナイフとフオ
ークの音――世界中すべてのファミリー・レストランで聞こえるあの無個性な音。そして駐車場
にひっそりと駐められた白いスバル・フォレスター。リアバンパーに貼られたカジキマグロのス
テッカー。
「私を打って」と交わっている最中に女は私に言った。彼女の両手の爪は私の背中にしっかりた
てられていた。きつい汗の臭いがした。私は言われたとおり彼女の顔を平手で叩いた。
「そういうんじやなくて、いいからもっと真剣に叩いて」と女は激しく首を振りながら言った。
「もっともっと力を入れて、思い切り打って。あとが残ってもかまわないから。鼻血が出るくら
い強く」
私は女を叩きたいとは思わなかった。私の中にはもともとそういう暴力的な傾向はない。ほと
んどまったくない。でも彼女は真剣に殴打されることを真剣に求めていた。彼女が必要としてい
るのは本物の痛みだった。私は仕方なくもう少しだけ力を入れて女を叩いた。あとが赤く残るく
らい強く。私が女を強く叩くと、そのたびに彼女の肉が私のペニスを激しく強く締め上げた。ま
るで飢えた生き物が目の前の餌に食らいつくかのように。
「ねえ、私の首を少し絞めてくれない」と少しあとで女は私の耳に囁いた。「これを使って」
その囁きはとこか別の空間から聞こえてくるみたいに私には感じられた。そして女は枕の下か
らバスローブの白い紐を取り出した。きっと前もって用意しておいたのだろう。
私はそれを断った。いくらなんでもそんなことは私にはできない。危険すぎる。下手をすれば
相手は死んでしまうかもしれない。
「真似だけでいいから」と彼女は喘ぐように懇願した。「真剣に絞めなくてもいいから、そうす
る真似だけでいいのよ。首にこれを巻き付けて、ほんのちょっと力を入れてくれるだけでいい」
私にはそれを断ることができない。
ファミリー・レストランに響く無個性な食器の音。
私は首を振って、そのときの記憶をどこかに押しやるうとした。私にとっては思い出したくな
い出来事だった。できれば永遠に捨て去ってしまいたい記憶だ。でもそのバスローブの紐の感触
は、まだ私の両手にはっきりと残っていた。彼女の首の手応えも。どうしてもそれを忘れること
ができない。
そしてこの男は知っていたのだ。私が前の夜どこで何をしていたかを。私かそこで何を思って
いたかを。
この絵をどうすればいいのだろう。このまま裏返しにして、スタジオの隅に置いておけばいい
のだろうか? たとえ裏返しになっていても、それは私を落ち着かない気持ちにさせた。もしほ
かに置き場所があるとすれば、それはあの屋根裏しかない。雨田典彦が『騎士団長殺し』を隠し
ておいたのと同じ場所だ。そこはおそらく人が心を隠してしまうための場所なのだ。
私の頭の中で、さっき自分が口にしていた言葉が繰り返されていた。
うん、絵描きだから、料理の姿かたちをそのまま再現することはできる。でもその中身までは
説明できない。
うまく説明のつかない様々なものたちが、この家の中で私をじわじわと捉えようとしていた。
屋根裏で見つかった雨田典彦の絵画『騎士団長殺し』、雑木林に口を開けた石室に残されていた
奇妙な鈴、騎士団長の姿を借りて私の前に現れるイデア、そして白いスバル・フォレスターの中
年男。またそれに加えて、谷間の向かい側に往む不思議な白髪の人物。免色はどうやらこの私を、
彼の頭の中にある何かしらの計画の中に引き込もうとしているようだった。
私のまわりで渦の流れが徐々に勢いを増しているようだった。そして私はもうあとに引き返す
ことができなくなっていた。もう遅すぎる。そしてその渦はとこまでも無音だった。その異様な
までの静けさが私を怯えさせた。
この項つづく