僖公二十七・八年:城濮(じょうぼく)の戦い / 晋の文公制覇の時代
※ 決 戦:【経】(二十八年)夏四月己巳(きし)、晋侯・斉の師・宋の師・秦の
師、楚人と城濮(じょうぼく)に戦う。楚の師敗績す。
※ 晋・楚、城濮に対時す 夏四月戊辰の日となった。晋は宋、斉、秦と連合して、
城原(衛の地、今の河南省陳留県境)に陣をとった。ひきいるは晋の文公、宋の
襄公、斉の大夫国帰父及び崔夭(さいよう)、秦の小子憖(しょうしぎん)(穆
公の子)。これに対する楚軍は酇(けい)山を背に陣をしいた。敵が山を背に必
死の構えを取ったのを見て、文公は攻撃をためらった。思いまどっているとき、
ふと賤民の歌うはやりの歌の中に、こんな一節があるのを耳にした。
"丘の畑に 草ぼうぼう
古い根を抜き 新しい種を播け"伝
(茂った草は晋軍の強盛を、古い根は楚への旧恩を意味し、昔の義理を捨てて、
新規なことをせよ、すなわち、楚と戦えという意を寓する)
しかし、文公はなお態度を決しかねた。子犯が進み出ていった。「攻撃です。こ
こで勝てば諸侯をおさえ、回折となることができます。まべたとえ敗れたところ
で、わが晋は山河にかこまれた要害の地、本国まで失う恐れはありません」
「だが、楚から受けた恩はどうしたものか」文公がいうと、こんどは欒(らん)子
が進み出た。「楚は淡水の北一帯の他姓(すなわち文公と同姓)の国々(鄭・衛・
四‥・随など)をすべて滅ぼしたではありませんか。このような恥辱を受けなが
ら、小さな恩にいつまでもこだわることはありません。ためらわず攻撃すべきで
す」その夜のこと、文公は夢を見た。――楚の成王と、とっ組みあって争うち、
文公は成王に組みしかれ、脳みそを食われた。目見めた文公は、この夢が凶兆で
はないかとおそれた。「いえ、それは吉兆です」子犯が文公の懸念を打ち消した。
「下になったとは、言葉をかえれば天をあおぐということ。わが方は天の助けを
得ることができます。一方、上になった楚は、自らの犯した罪のため、地に伏し
たのです。また、脳みそを良ったことは、吸った自分がそれだけ弱くなったこと
を意味します」
〈脳みそを良う〉 脳みそには、物体を軟かくする性質があると考えられていた。
猪の脳みそで皮を軟らかくするという記事が『周礼』に見える。
【ルームランニング記 Ⅸ】
● 一日3回は無理だ!
「宅トレレシピ」の一日3回繰り返しははやはり無理だと暫定的に2回に変更。その理由は時間のシ
ュアリングからと、負荷強化してから、心臓胸部が妙に不整脈を伴わないが重苦しいものが残ったた
め。これはピッチが速いためと判断(心拍ピーク150超で適正年齢を超えている)。斜度10%*
時速6キロメートルの最大負荷を短くし、平坦歩行時間を長くし1回の歩数を2千5百キープするこ
とに変更。
Q:坂道を走るのは苦手だが、上がり坂、下り坂の上手い走り方は?
A:上り無理せず足を置いていくだけ。下りは腕を少し下げて前傾する。
宅トレ中は42型の大型テレビで録画再生映像を見ながら行うのが普通。トレッキング。登山の番組
だけでなくいろいろ。特に「おとなの基礎英語」は欠かさず録画し再生。歌姫サラ・オレインもさる
ことながら、ニューヨークとロンドンを舞台に物語が展開。世界中から人々が集まる二大都市で、さ
まざまな人々の英語を聞きながら旅先で役立つ英会話フレーズを学ぶのだがストーリー展開がとても
いい。さらにゲストのモデル、女優として活躍する田丸麻紀の感性がいい。勿論、彼女だけでなく、
彼女たちは素敵だ。今週のキーフレーズは "Would you care for some hot chocolate?"
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』
38.あれではとてもイルカにはなれない
免色は淡いグリーンのカーディガンを着ていた。カーディガンの下にはクリーム色のシャツを
着ていた。そしてグレーのウールのズボンをはいていた。どれもみんな清潔でしわひとつなく、
クリーニングからさっき戻ってきたばかりのもののように見えた。しかしどれも新品ではなく、
程よく着古されている。でもそのぷん余計に清潔そうに見えた。そして豊かな髪はいつものよう
に純白に輝いていた。夏でも冬でも、晴れた日でも曇った日でも、時節や天候にはかかわりなく、
彼の髪は常に白く輝いているのだろう。その輝き方の傾向が少しずつ変化するだけだ。
免色は車から降りるとドアを閉め、顔を上げて曇り空を眺め、天候についてひとしきり何かを
考え(何かを考えているように私の目には映った)、それから心を定め、ゆっくりと歩いて玄関
にやってきた。そしてドアベルを押した。まるで詩人が大事なところに置く特別な言葉を選ぶと
きのように、慎重に時間をかけて。どう見てもそれはただの古いドアベルに過ぎないのだけれど。
私はドアを開け、彼を居間に過した。彼はにこやかに二人の女性に向かって挨拶をした。秋川笙
子は立ち上がって彼を迎えた。まりえはソファに座ったまま、髪を指先にからめていた。免色の
方をほとんど見もしなかった。私は全員を椅子に座らせた。お茶はいらないかと、私は免色に尋
ねた。おかまいなく、と免色は言った。首を何度か横に振り、手まで振った。
「どうです、お仕事は捗(はかど)っていますか?」と免色は私に尋ねた。
まずまず捗っている、と私は答えた。
「どう、絵のモデルになるのも疲れるでしょう?」と免色はまりえに尋ねた。免色がきちんと正
面から目を合わせてまりえに話しかけたのは、私に思い出せる限りではそれが初めてだった。免
色が緊張していることはその声の響きからわずかに察せられたが、今日の彼はまりえを目の前に
しても、顔を赤くしたり青くしたりするようなことはなかった。表情もほとんど普段と変わらな
かった。感情をうまく制御することができるようになったのだ。たぶんそのためのなんらかの自
己訓練が行われたのだろう。
まりえはその質問には答えなかった。意味のわからない呟きのようなものを、小さく口にした
だけだった。彼女の両手の指は、膝の上でしっかり組み合わされていた。
「でも日曜日の朝にここに来ることを楽しみにしているんですよ」と秋川笙子が沈黙を埋めるた
めに口を添えた。
「絵のモデルをするというのはなかなか大変なことなんです」と私もその試みに及ばずながら協
力した。「まりえさんはずいぶんがんばってくれていると思います」
「私もしばらくここでモデルをつとめましたが、絵のモデルになるというのはなんだか奇妙なも
のです。ときどき魂をかすめ取られているような気がしたものです」、そう言って免色は笑った。
「そうではない」とまりえはほとんど囁くように言った。
私と免色と秋川笙子は、ほとんど一斉にまりえの顔を見た。
秋川笙子はうっかり間違ったものを口に入れて、それを噛んでしまった人のような顔をしてい
た。免色の顔には純粋な好奇心が浮かんでいた。私はどこまでも中立的な傍観者だった。
「それはどういうこと?」と免色は尋ねた。
まりえは抑揚のない声で言った。「かすめ取られてはいない。わたしはなにかを差し出し、わ
たしはなにかを受け取る」
免色は静かな声で、感心したように言った。「君の言うとおりだ。言い方が単純に過ぎたみたいだ。もち
ろんそこには交流がなくちやいけない。芸術行為というのは決して一方的なものではないから」
まりえは黙っていた。何時間も身じろぎもせずに水辺に立って、ただ水面を睨んでいる孤独な
ゴイサギのように、その少女はテーブルの上のティーポットをまっすぐ見つめていた。白い無地
の陶器でできたどこにでもあるティーポットだ。かなり古くはあるが(雨田典彦が使っていたも
のだ)、あくまで実用的に作られたもので、しげしげ眺めたくなるような特別な趣はそこにはな
い。縁も僅かにかけている。ただそのときの彼女には、集中して見つめるべき何かが必要だった
のだ。
夜烏
部屋に沈黙が降りた。何も書かれていない真白な広告看板を思わせる沈黙だった。
芸術行為、と私は思った。その言葉には周囲の沈黙を呼び込んでしまう響きが典わっているみ
たいだ。まるで空気が真空を埋めるみたいに。いや、この場合はむしろ真空が空気を埋めるとい
うべきか。
「もしうちにお越しになるのでしたら」とその沈黙の中で免色がおずおずと、秋川笙子に向かっ
て切り出した。「私の車に一緒に乗っていらっしやいませんか? そのあとまたここまでお送り
します。後ろのシートは狭いですが、うちまではけっこう入り組んだ狭い道なものですから、一
台の車で行った方が何かと楽だと思います」
「ええ、もちろんそれでけっこうです」と秋川笙子は迷うことなく返答した。「免色さんの車に
乗せていただきます」
まりえはまだ白いティーポットを眺めて、何かをじっと考えていた。でも彼女が心の中で何を
思い、考えているのか、もちろん私にはわからなかった。彼らが昼食をどうするのか、それもわ
からなかった。でも如才のない免色のことだ。私かいちいち気をもむまでもなく、それくらいの
ことは考えているだろう。
ジャガーの助手席には秋川笙子が座り、まりえは後部席に身を落ち着けた。大人二人が前で子
供は後ろ。とくに協議があったわけではなく、自然にそういう席の配置になった。その車が静々
と坂道を降りて視界から消えていくのを、私は玄関のドアの前に立って見送った。そのあと家の
中に戻り、紅茶の茶碗とポットを台所に運んで洗った。
Der Rosenkavalier
それから私はリヒアルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』をターンテーブルに載せ、ソファに
横になってその音楽を聴いた。とくにやることがないときに、そうやって『薔薇の騎士』を聴く
ことが私の習慣になっていた。免色が植え付けていった習慣だ。その音楽には彼が言ったように
確かに一種の中毒性があった。途切れもなく続く連綿とした情緒。どこまでも色彩的な楽器の響
き。「たとえ一本の箒だって、私はそれを音楽で克明に描くことができる」と豪語したのはリヒ
アルト・シュトラウスたった。あるいはそれは笥ではなかったかもしれない。しかしいずれにせ
よ彼の音楽には絵画的な要素が色濃くあった。私が目指す絵画とは方向性の異なるものではあっ
たけれど。
しばらくあとで目を聞いたとき、そこには騎士団長がいた。彼はいつもの飛鳥時代の衣裳を身
につけて、剣を腰にさげ、私の向かい側の椅子に腰を下ろしていた。革張りの安楽椅子の上に、
その体長六十センチほどの男はちょこんと腰掛けていた。
「久しぶりですね」と私は言った。私の声はどこかべつのところから無理に引っ張ってこられた
声のように聞こえた。「お元気ですか?」
「前にも言ったが、イデアには時間の観念はあらない」と騎士団長はよくとおる声で言った。
「したがって久しぶりという感覚もあらない」
「ただの習慣的発言です。気にしないでください」
「習慣というのもよくわからん」
たしかに彼の言うとおりだろう。時間のないところに習慣は生まれない。私は立ち上がってプ
レーヤーのところに行って針を上げ、レコードをボックスにしまった。
「そのとおりだ」と騎士団長は私の心を読んで言った。「時間が両方向に自由に進んでいる世界
では、習慣などというものは生まれっこあらない」
私は前から気になっていたことを尋ねてみた。「イデアにはエネルギー源みたいなものは必要
とされないのですか?」
「そいつがむずかしいところだ」と騎士団長はいかにもむずかしそうな顔をして言った。「どの
ような成り立ちのものであれ、ものが生まれ、そして存在し続けるためには、なんらかのエネル
ギーが必要とされる。それが宇宙の一般的な原則である」
「つまりイデアにもエネルギー源はなくてはならない、ということですか。一般的な原則に従っ
て?」
「そのとおり。宇宙の原則に例外はあらない。しかるにイデアの優位な点は、もともと姿かたち
を持っておらないことだ。イデアは他者に認識されることによって初めてイデアとして成立し、
それなりの形状を身につけもする。その形状はもちろん便宜的な借り物にすぎないわけだが」
「つまり他者による認識のないところにイデアは存在し得ない」
騎士団長は右手の人差し指を空中にあげ、片目をつぶった。「そこから諸君はどのように類推
をおこなうかね?」
私は類推をおこなった。少し時間はかかったが、騎士団長は我慢強く待っていた。
「ぼくが思うに」と私は言った。「イデアは他者の認識そのものをエネルギー源として存在して
いる」
「そのとおり」と騎士団長は言った。そして何度か肯いた。「なかなかわかりがよろしい。イデ
アは他者による認識なしに存在し得ないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在
するものであるのだ」
「じやあもしぼくが『騎士団長は存在しない』と思ってしまえば、あなたはもう存在しないわけ
だ。
「理論的には」と騎士団長は言った。「しかしそれはあくまで理論上のことである。現実にはそ
れは現実的ではあらない。なぜならば、人が何かを考えるのをやめようと思って、考えるのをや
めることは、ほとんど不可能だからだ。何かを考えるのをやめようと考えるのも考えのひとつで
あって、その考えを持っている限り、その何かもまた考えられているからだ。何かを考えるのを
やめるためには、それをやめようと考えること自体をやめなくてはならない」
私は言った。「つまり、何かの拍子に記憶喪失にでもかからない限り、あるいはどこまでも自
然に完全にイデアに対する興味を失ってしまわない限り、人はイデアからは逃げることができな
い」
Sleeping with Half a Brain Scientific American
「イルカにはそれができる」と騎士団長は言った。
「イルカ?」
「イルカは左右の脳を別々に眠らせることができるんだ。知らなかったか?」
「知りませんでしたね」
「そんなわけでイルカはイデアというものに関心を持たない。だからイルカは進化を途中で止め
てしまったのだよ。我々もそれなりに努力はしたのだが、残念ながらイルカとは有益な関係を結
ぶことができなかった。なかなか有望な種族だったのだがな。なにしろ人間が本格的に登場して
くるまでは、哺乳類の中では、体重比でもっとも大きな脳を持つ動物であったから」
「しかし人間とは有益な関係を結ぶことができた?」
「人間はイルカとは違って、ひと続きの脳しか持っておらんからね。いったんぽこっとイデアが
生じると、それをうまく振り落とすことができないのだ。そのようにしてイデアは人間からエネ
ルギーを受け取り、その存在を維持し続けることができたのだ」
「寄生体みたいに」と私は言った。
「そいつは人聞きが悪いぞ」騎士団長は教師が生徒を叱責するときのように指を左右に振った。
「エネルギーを受け取るといっても、それほどたくさんの量をいただくわけではあらない。ほん
のひとかけら――普通の人間はほとんど気づかないくらいだ。それによって人が健康を損なった
日常生活に支障をきたしたりすることもあらない」
「でもあなたは、イデアにはモラルみたいなものはないと言いました。イデアというのはどこま
でも中立的な観念であり、それを良くするのも悪くするのも、人間次第である、と。だとすれば、
イデアは人間に良いことをするかもしれないけれど、逆に良くないことをする場合だってある。
そうですね?」
「Ε=mc2という概念は本来中立であるはずなのに、それは結果的に原子爆弾を生み出すことに
なった。そしてそれは広島と長崎に実際に投下された。諸君が言いたいのはたとえばそういう
ことかね?」
私は肯いた。
「それについては私も胸を痛めておるよ(言うまでもなくこれは言葉のあやだ。イデアには肉体
もない、したがって胸もあらないからな)。しかしな、諸君、この宇宙においては、すべてが、
caveat emptor なのだ」
「はあ?」
「caveat emptoro カウェアト・エンプトル。ラテン語で『買い手責任』のことである。人の手に
渡ったものがどのように使用されるか、それは売り手が関与することではあらないのだ。たとえ
ば洋服屋の店先に並んでいる衣服が、誰に着られるか選よことができるかね?」
「なんだか都合の良い理屈みたいに聞こえますが」
「Ε=mc2は原子爆弾を生み出したが、一方で良きものも数多く生み出しておるよ」
「たとえばどんな?」
騎士団長はそれについて少し考えていたが、適当な例がすぐには思いつけなかったらしく、口
を閉ざしたまま、両手の手のひらで顔をごしごしとこすった。あるいはそういう論議に、それ以
上意味を見いだせなかったのかもしれない。
「ところでスタジオに置いてあった鈴の行方を知りませんか?」と私はふと思い出して尋ねてみ
た。
「鈴?」と騎士団長は顔を上げて言った。「鈴ってなんだね?」
「あなたがあの穴の底でずっと鳴らしていた古い鈴ですよ。スタジオの棚の上に置いておいたん
だけど、このあいだ気がついたらなくなっていました」
騎士団長はしっかりと首を横に振った。「ああ、あの鈴か。知らんな。ここのところ、鈴には
さわったこともあらないよ」
「じやあ、いったい誰が持って行ったんだろう?」
「さあ、あたしにはとんとわかりかねる」
「誰かが鈴を持ち出して、どこかで鳴らしているようです」
「ふうむ。それはあたしの問題ではあらない。あの鈴はもうあたしにとって必要なきものになっ
ておる。だいいちそもそも、あれはあたしの持ち物というわけではあらないのだ。むしろ場に共
有されるものだ。いずれにせよ、消えるからにはたぶん消えるなりの理由があったのだろう。そ
のうちにどこかでひょいと出てくるかもしれん。持っておるといい」
「場に共有されるもの?」と私は言った。「あの穴のことを言っているのですか?」
騎士団長はその問いには答えなかった。「ところで、諸君は秋川笙子とまりえが帰ってくるの
をここで持っておるのだろうが、まだしばらく時間はかかるぜ。暗くならないうちは、まず戻っ
てこないだろう」
「免色さんには何か、彼なりの思惑みたいなものがあるのでしょうか?」と私は最後に尋ねてみ
た。
「ああ、免色くんにはいつも何かしら思惑がある。必ずしっかり布石を打つ。布石を打たずして
は勤けない。それは生来の病のようなものだ。左右の脳を常時めいっぱい使って生きておる。あ
れではとてもイルカにはなれない」
騎士団長の姿は徐々にその輪郭を失い、風のない真冬の朝の蒸気のように薄らいで拡散し、や
がて消えてしまった。私の正面には空っぽの古い安楽椅子があるだけだった。そこに残された不
在はあまりにも深いものだったので、彼がついさっきまで本当に目の前に座っていたのかどうか、
確信が持てなくなった。私はただ空白と向かい合っていたのかもしれない。自分自身の声と語り
合っていただけかもしれない。
騎士団長の予言したとおり、免色のジャガーはなかなか姿を見せなかった。秋川家の二人の美
しい女性たちは免色の家で長い時間を過ごしているようだった。私はテラスに出て、谷間の向か
い側にあるその白い屋敷を眺めた。しかしそこには誰の姿も見えなかった。私は持っている時間
をつぷすために、台所に行って料理の下ごしらえをした。出汁をつくり野菜を葬で、冷凍できる
ものを冷凍した。しかし思いつける限りのことをすべてやっても、それでもまだ時間があまった。
私は居間に戻って、リヒアルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』の続きを聴き、ソファに横にな
って本を読んだ。
秋川笙子は免色に対して好意と興味を持っている。そのことはたぶん間違いないだろう。免色
を見る彼女の目は、私を見るときの目とはまるで輝きが違っている。ごく公正に言って、免色は
魅力的な中年の男だ。ハンサムで金持ちで独身だ。身なりも良いし、物腰も柔らかで、大きな山
の上の屋敷に住み、英国車を四台所有している。世の中の多くの女性は彼に興味を抱くに違いな
い(世の中の多くの女性は私にとりたてて興味は抱かないだろう、というのと同じくらいの確率
で)。しかし秋川まりえは免色に対して少なからず警戒心を抱いている――間違いなく。まりえ
はとても勘の鋭い少女だ。免色が何かしらの意図を心に抱いて行動していることを、あるいは本
能的に察知しているのかもしれない。だからこそ彼女は免色とのあいだに、意識的に一定の距離
を置いている。少なくとも私の目にはそのように映る。
ものごとはこれからどう展開していくのだろう? それを見届けてみたいという自然な好奇心
と、そこにはあまり喜ばしい結果は生まれないのではないかという漠然とした危惧が、私の中で
せめぎあっていた。河口でぶつかりあい、押し合いをする満ち潮と川の流れのように。
免色のジャガーが再び坂道を上ってきたのは、五時半を少しまわった頃たった。騎士団長が予
告したように、そのときにはあたりはもうすっかり暗くなっていた。
長らく登場のなかった騎士団長が再び顕れる展開となり、イゼア論をベースに圧巻の会話が交わされ
圧倒される。「第一級の作品」という言葉が頭を過ぎった。次回は「第39章 特定の目的を持って
作られた、偽装された容れ物」へ移る。
この項つづく
● 今夜の短評:森友学園・加計学園
森友学園と加計学園の問題が大きく取り上げられているが、何が問題かすっきりした答えはない。こ
れに、豊洲移転問題が絡めば、モヤモヤは晴れることはない。ただ豊洲は地下水汚染問題を解決すれ
ば、その他の問題は、運用の中で解決(改善費用など)し、築地の再開発は「構想設計」「ロードマ
ップ」へと移るから小池知事の手腕次第ということでケリがつく。従って、前者の2つは何だという
ことになるのだが、2つに共通していることは、新自由主義と開発独裁をミックスした中国の特区構
想をぱっくった「構造改革特区」という法律とその運用にある。このブログでも批判しているように、
地方創生構想を含めた地方分権推進の貧相な政策にあると考える。いや、そもそも、わたし(たち)
は構造改革主派ではないのだが、特定の縁故閥、縁故資本が跋扈し、汚職と格差増長させた中国の失
敗を学習、特区構想を廃止し、不透明で恣意的な「論功行賞的な介入」を是正し、中央政府は法治主
義に徹すべきであると考える。